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ツギハギ
作:ふあ



22-2 命の義務


 その唯一の望みでさえ、簡単には叶えてくれないみたいだ。微かに床を打つ音が、頭をつけているコンクリートを通して響く。ドアの下の穴に嵌まった鉄格子の隙間を、するりと抜けて、黒い塊が中に飛び込んできた。愁は額に乗せた腕の下から、薄く目を開けてそれを眺めていたが、その黒い生き物が一目散に飛びかかってきて、頬に柔らかい毛皮を押し付けたとき、やっと声を出した。
「クロ……」
そうだよと答えるように甘えた声を出して、猫は小さな身体を摺り寄せる。いつものように触れようとしない愁の指先を、濡れた鼻でつつき、頬をざらついた温かい舌で舐めた。クロの後ろからゆっくり歩いてきた黒猫が、その隣に背を伸ばして姿勢よく座った。
「クロ君が、きみのあとを見失わないように追いかけていてな、この辺りまではすぐに来られた。後はまあ、猫の嗅覚も馬鹿にできないな」
横から、鼻をひくつかせてそう言う彼の名を、愁はようやくかすれた声で呟いた。一度頷くと、志田は碧眼を数度瞬かせ、
「愁、行こう。逃げるんだ」
力強く、そう宣言した。
 しかし予想通りの言葉を聞きながら、愁は黙ったまま腕の下から狭い天井を見やって、目もあわせない。怪訝そうに猫が口を開こうとしたとき、
「どうして……」
と、小さな声が漏れた。
「どうしてって。どういう意味だ」
全く想定外の言葉に、志田は混乱する。ついさっきまで一緒に必死で逃げていたのに、どうしてしまったのだろう。
「ここまで、きて……どうして……」
「おい、しっかりしろ。何があったんだ」
不安になり、そう声をかけると、顔を隠していた腕をどけて床につき、彼は緩慢に起き上がった。その様子を眺め、志田は思わず絶句した。
 身体の向こう側だったので今まで分からなかったが、少年の右腕は失くなっていて、本来なら腕を肘まで覆っているはずの黒い袖の中には何もない。左右非対称のアンバランスな状態で座り込んでいる、見える限りの肌のあちこちは内出血のせいで青黒い。それとともに滲んだ血が皮膚に筋を作っていて、痛々しい事に顔も例外ではなかった。頭から流れた血が、額から瞼をかけて頬を伝っている。
「大丈夫、か」
「……大丈夫って、信じてくれますか」
痣だらけの顔を僅かに上げた、その眼を見て、更に言葉を失くした。何もない、真っ黒なガラス玉の様な瞳。輝きとは無縁の、なにか本当に大事なものを失ってしまった、空っぽな眼。
「ひどすぎる……。どうして、愁が、こんなことに……」
ぼろぼろになった少年の目を見ていることが出来ず、彼は俯いた。再び見上げると、愁はいつものように、微かに笑ったような優しげな表情をしていた。それでも、いつもとは程遠い。こんな空虚な眼、見たことがない。
「……理不尽だ。こんな不条理、あっていいわけがない」
そう言って、猫は小さく頭を振った。
 一体どうして、彼はこんな目に合わされているんだろう。好んで犯罪者の立場に立ったわけじゃないのに。ただ生きる為に、自分の居場所を護る為に人と少し違う身体になっただけなのに。その居場所からも追われて、挙句の果てに殺される寸前まで追い込まれてしまった。
 周りから見れば、彼も大勢の中の一人にしか過ぎない。不都合な者を一人ぐらい消す事なんて、よくあるのかもしれない。
 だが、志田は愁が死ぬのも、心を失うのも嫌だった。大勢の中の一人であっても、同じ人間はこの世に一人だっていない。そう簡単に、消されていいはずがない。
「尚更、ここから逃げるんだ。こんなところにいたら、すぐに駄目になってしまう。殺されるかもしれない」
説得するように、揺らぎもしない瞳を覗き込んだ。自分の青い瞳が映り込む。
「無理、ですよ……。腕も、とられて。かたっぽしかないのに」
「それぐらい、取り戻してきてやる」
「でも……」
「諦めるな!ここで死んでどうするんだ」
最早、愁に生きる気がないということは、うすうす感づいていた。死の方向へ逃げようとしている。その目が、はっきりそう言っている。
「最初から諦めて、仕方がなかったといって自分を正当化するつもりか。死ねると思ったのか。きみは逃げてるんだぞ、生き残る努力を怠って。死ねば、何もかもなかったことに出来ると思ってるのか」
厳しいと自分でも思う。しかし、ここで彼に合意するのは、一番望まない答えだった。
「……そうだったら、ずっとよかったんですけどね」
穏やかな顔のままの、抑揚のない声。
「死んで、なかったことに出来るなら。全部、許されれば。……でも、それじゃあ、吊り合わない。僕の命ぐらいじゃ、足りない。ただの逃げにしかならない」
無感情なその声に、悲しみはない。なにもない。
「だから、生きようと思って。死ぬ気で戦って、殺して、生き延びて。でも結局、何もなかった……。堂々巡りして、一人の場所に、帰ってきた」
愁の左手に、クロが身を寄せたが、今となってはそれを撫でる気も彼には起こらない。
 ああ、それは悲しいな。と、志田は思った。この状況を、辛いとか苦しいだとか、一度だって言わなかった裏側が、やっとはっきりした。
 少し前まで同じ場所にいた元同僚と戦って、苦しくないはずがないのだ。信じていた友人に裏切られて、辛くないはずがない。全てが自分の敵になって、悲しくないはずがない。だが、それら全てを押し殺して、彼は笑っていた。
 自分は嘘つきだと、愁は言った。弱音を隠し続けていた彼が、ようやく示した救難信号。だから、あの笑顔が苦しさの裏返しだということは、知っていた。それでも、認めたくなくて、認めてもどうする事もできないから、自分の無力さを知りたくないから、気付かないようにしていたのだ。その笑顔の意味を知っていたのに、ちゃっかり言われたとおりに安堵してほっておいた自分が情けない。それこそが、ひとりぼっちの彼の思惑だったのに。彼より三倍以上も生きているはずなのに、自分の無力さを直視できず、結局はこうなるまで助けてやれなかった。しかし、これ以上自分に何ができただろうかと考えても、何も思い浮かばない。
「愁……」
無力さを噛み締めながら、名前を呼んで見上げた。黒い、虚ろな瞳が僅かに動いて、猫のいる方向を見下ろす。しかし猫は、そこに映っている自分の姿が、彼には見えていないことを知った。かつて、自ら死ぬ気で助けたクロでさえ、その眼は見ていない。
 悲しくなりながら、食いしばっていた顎を少し開け、猫は彼の左手の皮膚に噛み付いた。
 愁は痛そうに顔をしかめ、針のような歯が食い込んだ手から、うっすらと血が滲み、流れる。驚いたようにクロが鳴いた。
「痛いか」
口を離し、猫はその瞳を覗き込んだ。愁は小さく頷く。
「……死ぬのは、もっと痛いんだぞ。比べられない程」
「一回なら、我慢できる」
「そんな思いをして死んで、何があると思う。……何もない。痛いことも苦しい事も。その逆も、もちろん二度とない」
声として届いても、言葉としては届いていないかもしれない。それでも、志田は諭すように語りかけた。
「痛みがあるということは、まだきみはちゃんと生きてるんだ。そんな場所に逃げようとするな」
「……もう、それでもいい」
「よくない!自分で可能性を捨てることなんか、許さない」
「どうして、死ぬことぐらい、自分で決めちゃ駄目なんですか」
 捨てられることも、大切な人を死なせてしまうことも、手足を失うことも、戦うことも、殺すことも、望んでやったことは一度だってなかった。ただ、真っ暗な一本道を進むように、目を反らしながらも、ひたすら通り抜けてきた。歩くのを拒否する事は許されず、かといって道を選ぶ権利を与えられた事も、一度もない。それなのに、自分だけが持っているたった一つの命ですら、自分で終わりを決めることは許されないという。
「もういいんですよ。僕には、何もない」
瞳は空っぽのまま。そして、もちろんそんなことはないのだが、志田には愁が泣いている様に見えた。
「何もないなんて、理屈じゃないんだ。今生きてるんだから、最後まで諦めたら駄目なんだ」
 一度死を宣告された彼だからこそ、生きることの大切さは身をもって知っている。もうすぐ死ぬといわれた後、それまでで最も愛おしく、名残惜しく思ったこの世界。いつか別れを告げなければならないからこそ、精一杯生きる事は、命に与えられた義務なのだ。幸せも、苦しみも、生きているからこそ感じられる、かけがえのないもの。愁に、その気持ちを理解しろとは言わない。けれども、自分からわざわざ別れを言うことはないのだ。そんな悲しいこと、する必要は無い。
「ここから逃げても、また、誰かと戦わないといけない。殺すかもしれない。……嫌なんです、本当に。辛くて……辛くて、たまらない……。それなのに、何も、残らない」
「それでも、生きるんだ。死んでこそ、なにひとつないんだから」
自分の言う事は、彼にとってひどく残酷なことだろう。しかし、そう言わなければならないのだ。
「どっちも空っぽなら、もう、何も起こらないほうがいい」
苦しい事が多すぎた。そしてそれを、見えないところに隠しすぎた。こらえすぎて、今になっても涙が出ない。泣けたらどんなに楽だろう。だが、見えないはずの涙が、猫には見えた。
「……本当に、きみには何もないのか」
それを止めてやりたいが、触れられないからどうしようもない。志田はそう問いかけた。
「きみが死んだら、わしは悲しむ事になる。それ以上に悲しむ者も、いるんじゃないのか」
愁は目を伏せたまま、答えない。
「クロくんはどうなる。捨てるのか」
僅かにそのガラス玉の様な眼が揺らぎ、寂しげに身を寄せる小さな猫が、そこに映った。
「そんなこと……」
「その悲しさは、きみが一番よく知ってるだろう」
ぎゅっと、片方しかない手を握り締める。
 答えられずに、いやいやをするみたいに愁は小さく首を左右に振った。微かに口の端が震えたが、言葉は出なかった。
 クロは、そんな主人の冷えた身体にぴったりくっつき、少しでも自分の体温を分け与える。彼に伝えられる言葉はない。言葉はないから、ただ寄り添い、側にいる温かさだけを伝えた。どんな言葉よりも温かく確実な、生きているものだけが持つ温もり。
 愁は瞼を閉じた。真っ暗な世界で、その温かさだけが感じられる。小さいが、ちょっとやそっとじゃ消えない灯り。唯一、確かにそこにあると断言できるもの。しばらくした後、ゆっくり目を開けた。
「僕は絶対、捨てたりなんかしません」
静かに、青い瞳にそう告げる。短いが、重すぎる意味を含んだ言葉が、空気に溶けていった。
「本当だな。今度は嘘じゃ、ないな」
志田はその意味を訊ねる事はせず、ただそれが確かなものなのか問う。それに対し、返事をせず、愁は笑った。今まで何度も見せたのと変わりない笑顔で。
 再び愁が瞼を閉じたので、猫はその膝に頭を持たせかけた。伝えるべき事は伝えたし、ついさっき、自分の望むほうへ彼は応じてくれた。これで十分だ。
 だが、本当にこれでよかったのだろうか。救う事ができたのだろうか。志田は黙ったままで自分に問いかける。彼の一生拭い去れない過去を持ち出し、その性格も承知した上で、否定するわけがないと確信していながら飼い猫の行く末を問い詰めた。卑怯で、脅迫じみていた。虚偽の溢れる残酷な世界に無理矢理引っ張り出して、はたしてこの子を救えたといえるのだろうか。現にその瞳に光はなく、空っぽのままだ。クロをつなぎ目に、無理矢理危なっかしく引き上げただけに過ぎない。
 だが、だからといって死ぬことは許せない。なにがあっても、この心情は曲げられない。いや、曲げてはならない。
 そんな使命感とも義務感ともつかないものを支えにしながら、志田も同じ様に視界を閉ざした。












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