21 失うこと
出せる限りの速さで、地面を蹴り、駆ける。これまでにない短距離から、荒々しい怒声と足で地を打つ音が聞こえる。ダメだと弱気になる部分を叱咤して、駆け続けた。身体の奥から、心臓の音がうるさいくらいに響いてくる。
突然、脇の路地から飛び出してきた男に体当たりをくらわされ、バランスを失い、愁は地面に転倒した。倒れながら取り出した刃を右手の指に挟み、倒れた直後に左手で地面を押して起き上がりながら、狙いを定めて小さく振りかぶる。
予想外の方向から闇を裂いた銃弾がその右手を弾き、まるで見当違いの場所に鋭い刃が突き刺さった。次を取り出す前に、固い拳で側頭部を殴られ、肩を蹴られた。低い視界に、自分の周囲にある幾本もの足が映ったと思うと、ぐんと普段よりも高い位置に視線が上がる。
「手間かけさせやがって、このガキ!」
愁の胸倉を掴んでいる若い男が、そう悪態をつきながら反対の手で、頬を殴りつけた。強い衝撃が走り、鈍い痛みとともに口内にできた傷口から血が滲む。腹いせのように彼が殴る度、血が広がり、痛みが、疲弊しきってぼやけた思考を貫く。
ようやく相手が手を緩め、力の抜けた身体が地面にくずおれた。俯き、荒く呼吸をしながら血を地面に垂らしている愁の側に、どこからか現れた小さな猫が駆け寄り、不安げにその顔を覗き込む。透き通った緑色の瞳に、赤い線の伝った苦しげな顔が映りこんだ。が、「おい、なんだこいつ」という声と共に、猫の視界を灰色のコンクリートと見知らぬ人間の足だけが占めた。後ろ足一本を掴まれ宙吊りになったクロが必死の抵抗を試みるが、効果は得られない。
「知るか。好きにしろよ」
はっと顔を上げた愁の耳朶を、いらいらのこもった言葉が打った。
「ねこ……」
「あ?」
「……その、猫……逃がし……」
最後まで待ってもらえず、先程自分を殴った男に頭を蹴られ、アスファルトに倒れた。男は愁の髪を乱暴に掴み引き上げ、虚ろな瞳に向かって怒鳴る。
「てめえ、自分の立場っつうもんが分かってんのか?先にぶっ殺してやろうか、あぁ?」
「早まんなよ、ここで殺すわけにはいかねえだろが」
クロを掴んだ男がそう言い、彼は振り上げかけた拳をしぶしぶ下ろす。クロがぽいと放り投げられ、道の先で着地した。
それを目にし、少しだけ安堵した途端、強い衝撃が腹にめり込んだ。一瞬後には、それは耐え難い痛みとなり、体内を駆ける。
「がはっ……ぁ……」
肺の酸素を吐き出し、片手で、蹴り上げられた部分を押さえ、目を見開いて蹲ったまま必死でその痛みに耐える。意識が消え入りそうになり、痺れが手足に行き渡る。
「こんぐらいじゃ死なねえだろ、なあ」
引きつった笑みを浮かべ、男がそれを見下ろす。哀れみとは異なる、満足感のようなものを秘めた、弱者を見下ろす者の目。だが今の愁には、それを見上げる事ができない。
突然右腕を掴まれ、先の手袋が引っ張られて外された。
「間違いねえ、おい」
明らかに生身のものとは異なる、金属でできた腕。それを掴んだまま、彼は周囲に合図をした。
「マジでやんのかよ」
「えげつねぇなぁ」
同年代ほどの若者たちがそんなことを言いながら集まってくるが、言葉とは裏腹にどこか楽しんでいる風がある。
いささかサイズが大きすぎるコートの袖が肩まで上げられたが、愁は他人事のようにそれを眺めているだけで、抵抗はしなかった。そうしようとする気すら、すでに起こらない。
だが、緩慢に視線を上げ、それを眼前にとらえたとき、思わず力を入れそこから離れようと試みた。そんな反射も間に合わず、数人に抑えられたまま、数発分の銃声がとどろく。
口径の大きめな銃の動きが止まり、銃口から白煙が糸のように細く立ち上る。
腕の付け根の隙間に、いくつかの鉛玉がめり込んでいる。表面を破壊し、中のケーブルを引きちぎり、向こう側に抜けることはなく、腕の中に収まった銃弾。
浅い呼吸を繰り返しながら、愁は右腕を見下ろした。汗が一筋頬をつたって流れ落ちる。
撃たれた。もちろん痛みなどないが、そんなのは問題じゃない。撃たれたのだ、自分の身体が。自分の腕が。あるはずのない痛みが、頭の中に響く。
自分にかかっている影が揺らめき、愁はゆっくり瞬きをして、銃を握っているのとは別の、始めに自分を殴った人間を見上げた。と同時に、その彼が手を振り下ろした。
肩口にナイフの刃が深く突き刺さり、それを離そうと身をよじったが周囲の人間に抑えられ身動きが取れない。左手で刃を掴もうとするが、逆にねじ上げられ、痛みが電流のように走る。開いた口からうめき声を漏らし、どうすることもできず、愁は自分の腕がもぎ取られるのを見ていた。てこの原理で、それは目の前で身体から外れ、腕であることをやめた。ただの機械の塊が、アスファルトの上に転がった。
「あ……ああ……」
周囲の手が離れ、膝をついたまま左手を地面に押し当て、自分の腕だったものを見つめた。周りから、笑い声が聞こえる。
人を傷つける為の物だ、好きではない。だが、それは同時に間違いなく自分の腕だったのだ。左と同じ、意思に従って動く、自分の身体。四肢の一つ。それが今はもう、なんの役にも立たない塊に成り果てている。
かつてあったものが失われる、出来て当たり前のことが出来なくなる、喪失感。押しつぶされそうな不安と、一生それを引き摺らなければならないことへの絶望感。手足を失って、初めて知った感覚。二度と触れたくなかったもの。それに、昔と同じ様に支配される。
転がったそれは、今までと同じ様に、僅かな光を鈍く反射していた。 |