20-2 信じる果てに
見知らぬ家の庭を突っ切り、再び塀を乗り越えて通路に下りたとき、ようやく愁は息をついた。それでも足は止めずに、ひたすら前を見つめて早足で進み続ける。
「知り合いだったのか」
「ともだち、です。小学校からの……」
振り向かずに愁は答え、その横顔を塀の上から志田は眺めた。後ろを、とことこクロがついてくる。
眼前に現れる人間全てが敵にまわる状況で、愁は彼に近づいた。その根底にあったのが信頼であるならば、それは先程見事に裏切られたのだ。だが、こんなとき、何と言葉をかけたらいいのか分からず、猫はただ黙って同じ速度で進む。
「……彼も、脅されていたのだろう」
ようやくそうフォローを入れ、そんな分かりきったことしか言えない自分が情けなかった。「大丈夫か」なんてこと、聞けるわけがない。
しかし、愁は顔をあげ、その心の底を読み取ったかのように、
「僕なら、大丈夫ですよ」
そう言って予想通りに笑った。
その目は笑っているがどこか空っぽで、とても大丈夫そうには見えないが、本人がそう言っているのだから否定するわけにもいかない。その表情が見たくないから、言わなかったのに。
そして僅か数分後には、再び複数の足音から逃げていた。最早逃げ切れないというのは暗黙の了解であったが、言葉にすれば確実に実現してしまいそうで、志田も愁もそんなことは言わない。
どうして逃げてるんだろう。
走りながら、愁は幾度目かの自問をした。答えはとっくに分かりきっている。自分に、止まって捕まる勇気がないからだ。ここで全てを諦めれば、半端な自分を自分が許せなくなる。死んでも死に切れない。それが恐くて、逃げるしかないのだ。最果ては同じでも、逃げて逃げたその先の、仕方のない結果ならば、きっとそう思うこともない。例えそこで死ぬのだとしても。死にたいとは思わない。しかし、自分には生きる理由もない。僅かに死の恐怖の方が勝っているから、逃げているだけだ。
こんなこと、志田やシオンに言えるわけがなかった。危険を承知で手を伸ばしてくれた彼らに、何故そんなことが言えるだろうか。
だから、人気のない通路で遠ざかる足音を聞きながら、愁は代わりに別のことを呟いた。
「どこに、逃げたらいいんだろう」
辺りの気配を感じ取っていた猫が振り向く。
「逃げる当てはないって言ったのは、きみだろう」
「……そうですね」
虚無をたたえた黒い左目は、その先に「逃げ場」でもあるかのように、遠くを見つめていた。そして彼をその場に繋ぎ止めようとするかのように、クロがその足に頭をこすり付ける。
「大丈夫だ、きっとどこかに抜け道がある」
勇気付けるように、しっかりした声で猫が告げ、その諦めない言葉は、愁にありがたさと罪悪感を与える。
そして、見下ろすその微かな笑顔は、志田に少しの安堵をもたらした。もしも本当に崩れてしまう直前ならば、もう笑うこともできないだろうし、少年の過去の話を聞けば、そう簡単に折れることもなさそうだ。まだ大丈夫だと、猫は判断した。
「なら、わしは向こうの様子を見てこよう」
猫が怪しまれる事はない。そう提案した志田に愁が頷くと、猫は身を翻してあっという間に闇の中へ溶け込んでいった。ちらちらと揺れる尾が、やがて見えなくなった。 |