20-1 信じる果てに
意外にも、想像していたよりは平気そうだ。かつての同僚と戦う羽目になって、余程落ち込んでいるだろうと思いきや、話し方に特にそんな気は見られない。黙っていると、どこか必要以上に遠くを見ているようだが、きっとそれは憔悴の兆しだろうと思う。仕方のないことだ。足下から様子を伺いながら、志田はそう結論付けた。それが正しいのか間違っているのか、知る術は今はまだない。
一人と二匹は、暗い住宅地を疾走する。耳を澄まさずとも、後ろから迫る複数の足音は響いてくる。反応を見る限り、政府の人間ではない。
逃げ切れるなんて思っていない。ただ、何もしないでいるのに耐えられないから、逃げているだけ。前を見据える愁の頬を、疲れからでも暑さからでもない汗が一滴伝った。
世の中に不満があるなんていえば格好はつくが、ただ適応しようという努力を怠ってどこにも向けようのない不満をぶちかましたがっている若者。いわゆる不良少年、ちんぴら。一人一人は別に大したことはないし、「フリークス」だといっても末端すぎて、対策部は相手にしていない。
だが、数が集まれば話は別だ。極端な例で言うと、一対百で一が勝てるか。昔の中国の武将にはそんなことが可能だった人もいるみたいだが、これもまた別問題。無理だ。少なくとも愁には。
この辺りは、彼らの縄張りだったようで、角を曲がろうとするたび、それらしき人物の姿が視界に映り、仕方なく方向転換を繰り返している。正規の機関ほど統率力はないとしても、時間と比例して人数は増えていくだろう。
いつもどおり、まこうとしたが、遅すぎたようだ。曲がっても進んでも敵の姿は目に入る。
「四面楚歌」と足元で不吉な言葉を呟くのが聞こえたが、反応する余裕がない。ようやく誰もいない角を曲がり、足音をやり過ごして息をついた。
「行ったみたいだぞ」
向こうを覗きながら猫が言い、愁は辺りを見渡した。なんとか逃げる事しか考えていなかったのでよくは分からなかったが、どこかで見たことのある風景。住宅地の景色なんてどこも似た様なものだが、それでも見覚えがある。側でクロが小さく鳴いた。
突然、遠くから自分を呼ぶ声がして、愁とついでに志田もびくりと反応し、思わず硬直する。そして恐る恐る振り向くのも同時だった。
向こうの街灯の下にたたずんでいる影が、呼んだらしい。逆光で顔はよく見えないが、愁とあまり変わらない背格好をしている。その様子と、ついさっき耳にした声とを照らし合わせて、愁はたった一つだけ思いついた名前を呟いた。
「祐輔……」
そうだ、ここは水野家のご近所だ。彼の家とは少し離れていたから全く分からなかったが。敵ではなかったことを知り、安堵して少し力を抜いた。
「何してんだよ。……こんな夜中に」
問いかけると、
「愁こそ、こんなとこに何しに来たんだよ」
そう祐輔が返した、敵意のない声が、妙に懐かしい。
気を使ってか、口を開かずただ黙って愁を見上げる志田を見下ろし軽く頷くと、愁は祐輔の立つ方へゆっくり歩き出した。
「もう日付変わってんだぜ。……いくら俺でも入れてやんねえからな」
彼にしては元気がないが、特に気に止めはしなかった。眠いからだろう、ぐらいにしか思わなかった。
「入れてくれなんて言ってないよ」
「なら、帰れよ」
俯き気味だった顔を僅かに上げ、祐輔は短く告げる。「本当に……」と続けようとする彼に、歩きながら愁は不思議そうな顔をした。
「何で、こんなとこに来たんだよ……」
そう言った途端、愁の右方向に位置する民家の庭から、開いたままの門を突っ切って、人型の影が飛び出してきた。
頭と背を強く塀に打ちつけた衝撃で、一瞬息が止まった。足が、地面についていない。目の前にいるのは、知らない人間。
飛び出してきたままの勢いで、男は愁の首を右手で掴み、向かいの壁に叩きつけた。そのまま力任せに右手で気道と頸動脈を圧迫し続ける。男の指が、細い首に食い込み、締め付ける。
何が起きたのか分からず、反応が遅れてしまった。油断大敵の重要性なんて、よく知ってるはずなのに。自分の首を絞める手を引き剥がそうと、愁は必死で相手の腕を掴んだ。しかし、脳に酸素がまわらなくなり、思うように力が入ってくれない。生身の左手はおろか、それよりはるかに強いはずの右手でさえ、男の腕をかする程度にしか動いてくれない。
「が……あ……」
急速に周囲の音が遠ざかり、頭を強く締め付けられるような感覚。手足が痺れを訴え、動く事を拒否する。
なんとか視線だけを動かして、相手の肩越しにその姿をとらえた。側にいる見慣れない男が何か話しているが、彼の耳には入っていないようで、目もくれていない。
祐輔は、普段滅多に見せない怯えた表情のまま、目を見開いてこちらを凝視していた。そしてその顔が、彼らの間にあったであろう取引の全てを教えてくれた。
そっか。恐いもんな。
納得した途端、薄れいく意識が限界を告げ、何もない恐ろしく真っ暗な景色が全てを支配していく。だらりと、かろうじて相手の腕にかけていた右手が身体の横に垂れ下がった。抵抗する術を失った愁の黒い空っぽの瞳には、ただ自分を殺さんとする者だけが映った。
突然、シャアッと言う声と共に、黒い塊がその視界を横切り、それに噛み付かれた男が短く声をあげた。青い首輪と青い瞳の黒猫を右腕にぶら下げ、彼は思わず腕の力を抜く。同時に、殆ど残っていない力を総動員して、宙に浮いた両足を曲げると、愁は思い切り相手の腹を蹴りつけた。首もとの手が離れ、支えを失った身体はそのままコンクリートの地面に墜落し、すぐには動けない身体を抱えて地面に蹲った彼の側へ、不安そうに鳴きながら青いリボンをした小さな黒猫が寄り添った。
懸命に酸素を取り入れるが、なかなか思うように身体が動いてくれない。地面を見つめ、手をついたまま、背を大きく上下させてただ呼吸をする。鼓動の音が身体の奥底から響く。頭が割れるように痛い。
逃げろという意思に従い、なんとか首を曲げて視線を横に向けると、男に振り払われた志田が、猫らしく見事に着地するところだった。その向こうにいるまた別の誰かが構えている物を霞んだ思考で認識し、立ち上がる決心を固め、足に力を入れる。このままじゃ射殺は免れない。
よろけながらも立ち上がり、痺れた左足で地面を蹴ってふらつく右足を踏み出した。「止まれ!」という、いつか自分が彼らに言ったような言葉が聞こえた瞬間、右足首に衝撃が走り、前のめりに倒れかける。両手を伸ばして地面を掴むと、前方へ跳びながら前転の要領で転がった。倒れていたら横腹にめり込んでいたであろう銃弾が、腹と地面の間を駆けてその先の壁に激突する。
止まらずに数歩駆け、僅かについた勢いで飛び上がり、塀の上に手をつく。足元で鉛玉が爆ぜたときには、塀の上に身体を浮き上がらせ、彼は一瞬だけ振り返った。
畏怖と驚愕で大きく目を見開いた祐輔と目が合った瞬間、愁の姿は塀の向こうに消えた。 |