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ツギハギ
作:ふあ



19 Who am I ?


 どこかはよく思い出せないが、見覚えのある風景。その中にあるビルの裏手の壁に背中を預け、ようやく一人と二匹は一息ついた。
「流石にここまでくれば、すぐには追いつけないだろう」
そう足元で猫が言った。その側で、クロが激しく耳の裏を後足で掻きながら青いリボンを揺らしている。立ったまま大きく呼吸をする愁には、志田の言葉は殆ど耳に入ってこなかった。
 仲間の、あんな目を見たのは始めてだった。いや、仕事中はほぼ全員があのような目をしている。空っぽで無感情だが、それでいて強い殺気を孕んでいる、敵を見るときの眼。きっと自分もしているはずの瞳。ただ、それを彼らから直接向けられたことは未だかつて無かった。今まで見られなかったものが、今になって突きつけられる、それが意味していることが、嫌でも重く染み込んできた。
 だが、今更どうしようもない。これ以上、逃げること以外にどうしたらいいのかは分からない。
「どうする。少し休むか」
「……いえ、もっと離れたほうがいいですね。一定の距離を置いて潜んでいるはずだから、よっぽど遠くに行かないと安全だとはいえない」
「そうか。そうは言っても、だいぶ疲れているみたいだぞ」
「クロが」
「いや、きみのことだ。そういえば、前に怪我していたみたいだが、あれはどうなったんだ」
一瞬きょとんとしたが、すぐに少しだけ笑う。
「ちゃんと治ったし、これだけで疲れるほど弱くないですよ」
「じゃあ、気のせいなのか」
「気のせい気のせい」
そういう表情をしていたのだろうが、身体自体はまだ平気だ。だから笑ってその言葉を否定すると、細い道の先に目をやり、早足で進み始めた。
「戦え、なかったな」
「次はちゃんとやります」
そう、向こうも本気なのだからこっちも全力でいかなければならない。できるできないの問題ではないのだ。冷気にあてられた様に、すっと心が冷えていく。
「志田さん」
呟くと、「なんだ」と猫が足元で返事をした。
「さっき、僕はどんな眼をしていましたか」
「眼?」
軽く首を傾げて、さっきというのが何時いつのことか考えていたが、やがて迷いながら見上げた。
「なんというか、鋭い……けど空虚な、よく分からない感じだった。ただ、今とは違う」
猫の碧眼がじっと自分の瞳を覗き込んでいるのを振り返り、愁は足を止めた。
 出会った時と変わらない、穏やかな瞳だったが、それでも志田は疑問に思う。いつも、愁はちょっと笑っているような優しげな表情をしている。だが、敏感な猫の感覚では、それを見ていると何故だか少しだけ哀しくなってくる。どこか寂しげで、黒い瞳には更に濃い翳りが霞んでいる。無意識的なものだろうし、ただ黙ってじっと眺めていると感じるほどのものだから、周囲の人間は気付けないのかもしれないが。
「なら、よかった」
よかったという割に嬉しそうではないが、安堵したように愁はそう言った。
「実を言うと、きみもよく分からないがな」
「え?」
「今みたいないつもの顔と、今日の昼に笑っていたときのものと、先程のように戦うときの目と。あと、ただ空を眺めているときのきみと。いつもどこか違う。一体どれが本当の愁なんだ」
まるで別人のようになってしまう、似て非なる瞳の変化を志田は問いかけた。一体いつ、片岡愁という人間として存在しているのかが、彼には分からない。
 「ああ」と言葉にならない声を漏らして、納得したように愁は小さく頷いた。
「わしには分からん」
「安心してくださいよ」
そして、幼い子供じみた顔で笑う。
「僕にもよく分からないから」
「なんだそれは」
呆れた声を出し、猫は長い尾をゆるやかに振りながら、再びコートの細い背中について歩き出した。
「本当のって言っても、全部僕であることには間違いない」
「それはそうだが。……まあ、そうだな」
「でしょ」
「じゃあ言い方を変えよう」
猫の咳払いという珍しいものが聞こえ、足元を跳ねるようにしてクロがついてくる。両側をビルに挟まれた路地裏は長い。
「一番素直なときっていうのはどれだ」
「すなお?いつでも自分に正直に生きてますよ」
「おい、さっきと言ってることが矛盾してるぞ」
「嘘だから」
「嘘つくタイミングか、これは」
状況に似合わず可笑しそうに笑う愁を、真面目になれとでも言いたげに、志田は上目遣いに見上げた。やっと一息ついて笑うのを止めると、愁は黒猫を見下ろした。
「でも、普段は割と素直になってるつもりですけど」
「矛盾してないか」
「本心と矛盾してるのはだいたい仕事のときぐらい。でもねえ、戦いたくないって言っても、ずっとじってしてても不安になってきたりするから、本心もあるのかもしれないし。嫌だなあ、こんな生き物」
軽い調子でふざけているようにも見える。ますます猫の目が疑わしげなものになっていくのに気付き、ようやく愁は真面目に答えることにした。
「嘘も多いですよ、ほんと。取りたくもない態度とったりするし。でも、普段はつかないようにしてるし、笑ってるのは嘘じゃないですよ。誰かと話すのは嫌いじゃない。これは嘘じゃない」
「なんかよく分からなくなってきた」と呟いて、黙って話を聞いている猫をもう一度見下ろした。
「まあ言ってみれば、本心だけの本当の僕なんていないのかもしれないし、これもひっくるめて全部僕だ。……これでいいじゃないですか」
納得したようなそうでないような微妙な表情で、猫は返事をした。結局答えにはなっていないが。
「こういう話好きですね」
「どういう話だ」
「心理的っていうか形がないっていうか。混乱するような」
「そういうのは嫌いか」
「嫌いじゃないけど」
「……心配になるからだろうな、きみといると」
「どういう意味ですか」
気の抜けた、あまりにも普通すぎる声と表情で、愁は振り向いた。地面より少し上で揺れるコートの裾に触れる位置関係で、青いリボンの小さな黒猫が同じ様に首を曲げる。
「きみがそんなだからだ」
「そんなって、何かしましたか」
「こどもっぽい」
「そんな扱いしないでくださいよ。ていうか、それほどじゃないと思う」
「クロくんとの間柄や……考え方がな」
「僕は昔から動物好きだし。考え方っていっても、普通じゃないですか」
「なんとなくな。なんだ、きみの兄には名前を言って欲しいだったか」
「これ、そんなこどもっぽいかな」
「なあクロ」と、言葉にならない同意を求めると、ようやく名前を呼ばれて嬉しそうにクロは鳴いた。
「五割が見た目だがな」
「どうしようもないですよ、それ」
「身長は伸びないのか」
「……僕が知りたい」
直球ストレートの答えのない質問。猫から見ても、平均未満の低身長はばれていたらしい。
「まあ、総合して心配になるわけだ」
どこか寂しそうだから、という大もとの理由は言わなかった。ただの感覚であるだけなのに、必要以上に気に病ませる事を言うほど、彼は愚かではなかった。
「なんだかんだ言っても、かつては人の親だったしな」
「猫じゃなくて」
「おい」
続けたい台詞のその先は知っているので、笑いながらかがんで軽くその額を右手で撫でた。感触は感じられなくとも、その毛皮が柔らかく温かなことはよく分かる。猫の眉間に寄せられた皺を軽く伸ばすと、手を離した。
「怒ると、皺が増えますよ」
「構わん。元の体よりは大分少ない」
そう言いながら、がりがりと後足で耳の後ろを掻くのも、時が立つごとに猫じみて上手くなっていっている。雲の切れ目から僅かに差し込む月光に照らされて、二匹の黒い毛は濡れているように微かに光っている。
 すぐに前進を再開し、何気ない独り言のように、正面を向いたまま愁が呟いた。
「志田さんだったらなぁ」
「なにがだ」
退屈な猫はすぐに返事をした。
「いや、志田さんみたいな親だったらって思っただけ」
そう言って、驚いたような顔と目を合わせた。両親がどんな人間なのかなんてまるで知らないが、きっと彼のような人間ではないだろう。逆に言えば、志田が我が子を捨てるような人間だったとも思えない。青い目が数度瞬く。
「いきなり何を言うのかと思えば。……よく平気でそんなことが言えるな」
「不謹慎ですかね」
「そういう意味ではないが。よく恥らいなく面と向かって言えるなってことだ」
「恥ずかしい?なんで」
「なんでと言われても答えにくいが……。何故だかこっちが照れてしまう」
特に照れているようなそぶりはないが、自分で言うからにはそうなのだろう。気のせいか、少し喜んでいるようにも見える。
 そういえば、この猫。いや、人が笑っているのはあまり見たことがないな、と愁は思った。どうしても人より表情が乏しくなってしまう為、気付いていないだけなのかもしれないが。
「猫が親だったらきみも困るだろう。いや、わしは猫じゃないぞ」
「知ってるって。この際、姿が猫でも犬でもいいですよ」
「いいわけあるか。やっぱり人間の方がいいだろう」
「志田さん人間じゃないんですか」
「人間だ。わしが言ってるのは外見の話で、中身は一個人としての人間だぞ」
「なら十分ですよ」
何が十分なんだと、いつになく勢い込んで喋るのを見下ろして愁は笑った。自分はただ思ったことを言っただけだし、それに真面目に取り合ってくれるのが嬉しかった。冷え切った心を裏返して笑った。












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