18-2 Can you ……?
何故か殺すとか憎むだとか、最初に話題を振ったのは自分だが、予想以上に物騒な話になってしまった。あまりよい傾向ではない。だから、少し方向を変えることにした。
「なら、もしもの話だ。もし、きみの兄が許してくれれば、きみはどうする」
「どうするって」
「例えば、そうだな。また軽口を言えるようになりたいだとか」
「そういうこと」と呟いて、しばらく悩んだ後、にっと恥ずかしそうに笑った。
「また、名前呼んでくれるだけでいい」
「名前?」
「片岡愁っていう言葉じゃなくて、ちっちゃかったときみたいに、愁って兄弟として呼んでくれれば」
「そんなのでいいのか」
「僕はそれでじゅうぶ……」
突然、はっと足を止めて口を閉じた。塀の切れ目、曲がり角の手前で、そこから先に行こうとはせず、即座に塀に背をつける。
「なんだ、どうし……」
人差し指を立て、同じ様に立ち止まった猫に「静かに」と合図すると、角を左へ曲がった向こうを眼で示した。身をできる限り伏せて塀の上から猫がそっと覗くと、左へ折れて少し行った所に一つの人影が見えた。背を向けているので顔はよく分からないが、背格好からして男だ。顔がよく見えないほど離れているとはいえ、このまま知らんふりをして直進すれば必ず見つかる。
愁は人より視覚も聴覚も半分しかない分、空気を感じ取ることには長けている。だからなんとかこの気配に気付けたのだが、一体どう対処すればいいのか、分からなかった。
どうする、戻るか?相手がただの一般人である可能性もあるが、接近しないに越した事はない。どちらにしても、こんな夜の何も無い道で立ち止まっている人間自体普通ではなさそうだし、進めないのなら戻るしかない。
首を一度横に振ってその意を示すと、足音を忍ばせて一歩後ずさった。さいわい、後ろからの気配は無い。前を向いたまま一歩ずつ地面を踏みしめて後退する。落ち着け、と自分に言い聞かせた。まだ見つかってはいない、大丈夫だ、と。
どのみちいつかは見つかるのだ。そう割り切れるほどに追い詰められてはおらず、なんとか相手の気配を探りながら、左手を壁に添えてその場から離れる。いっそ何も考えずに脚力と持久力に持ち越してしまえなどという向こう見ずな気持ちをたしなめ、神経を張り詰める。
幾らかそこから離れ、ようやく後ろを確認するべく振り返った。誰もいない暗い夜道が、街灯の中にぼんやりと浮かび上がっている。
一度だけ安堵の息をついた。と同時に、
「愁!走れ!」
志田が大声をあげ、先程まで微風程度にしか感じていなかった気配が、急速に膨れ上がり突如として迫ってきた。言われたとおりに走れるほど、距離は残っていなかった。
全力に近いだろうと思われる速度で現れた彼が、襟首を掴もうと伸ばした手を、なんとか体を左へ傾けて避けた。襟元とその指先が擦れて微かな音が生まれる。
左足に体重をかけたまま右足で蹴ろうとしたが、避けられた。そのまま一回転して再び同じほうを向きながら、相手の左拳を右手で受け止める。
左利きかなどと、どうでもいいことを一瞬考え、握力に任せて骨が折れない程度に相手の手を強く握り、反対の手でがら空きの鳩尾を狙ったが、やはり向こうの判断も早い。僅かに身をそらされ、その手は空を切った。前方に体重移動をして前のめりになった前頭部を蹴られそうになり、ぱっと右手を離して地面へ飛び込んだ。相手の片足をくぐって一度地面を転がり、振り向く。なんとか間合いを取ろうとするが、なかなか許してくれない。
左利きだからなんかじゃない。それにはすぐに気付いた。相手はこちらの右側へ常に回りこもうとしている。何故か。それは、愁が右方向からの攻撃に気付きにくいという事を知っているからだ。始めのときも、殴りかかってくればいいようなものを、掴んで捕まえようとした。どうして。それは人違いという可能性をゼロにするためだ。間違いようは無いだろうし、確信していたとしても、もしものことを考えておかなければならない。
フリークスなんかがそんな面倒な事をするとは思えない。総じて、彼は政府側の人間だ。しかし今晩は曇っていて特に暗い。それに今は、相手が誰かなんて確認する余裕も無い。
ほんの少し広めに間が開いたとき、愁は駆け出した。もちろん足音も迫ってくる。
「撒くのか」
「ここから離れるだけです」
塀の上でついてくる猫が訊ねた。その前を、クロが疾走する。
相手は自分のことを知っているようだが、自分も向こうのことを少しは知っている。大抵、目標確認の後は、合図をして応援を呼ぶ。複数で一人を追う場合、そのほうが遥かに確実だからだ。それ故に見つかってから同じ場所に停滞するわけにはいかない。上手く包囲されてからでは遅すぎるのだ。
流石にバテる様子は無いが、こう走り続けているわけにも行かない。一人が二人になったら面倒だ。不自然にならない程度に速度を緩め、迫る足音に集中して距離を測る。
今だ、と足を地面に押し付け逆方向に蹴りだしながら、止まりきれない相手を強く殴りつけた。
「つっ……」
苦しそうな声を漏らしながらも、受身を取って仰向けに倒れこんだ相手が体勢を立て直す前に、次は昏倒させる為に握った左手を振り上げる。
しかしそのチャンスが過ぎていくに従って手の力は抜けていき、ほんの微かな月明かりと遠くの街灯が放つ光を頼りに、相手の顔を見下ろしながら愁は目を見開いた。が、その表情もすぐに崩れ、泣き出しそうな、悔しげな顔で、固く結んでいた口を僅かに開き、今にも潰れて消え入りそうな声を押し出す。
「しまさ……」
最後まで言い切らないうちに、胸の辺りを思い切り蹴り飛ばされた。油断しきっていた身体がアスファルトに倒れ、瞬時に両手を地に着いて顔を上げる。
相手が宙に放ったと思える砂塵が、視界を悪くしていた。
はっとしてその場から飛びのいた途端、彼はそれを吹き付けた。ごうと耳慣れない音を立てて空気が焼け、短い炎が砂を焼き尽くしながら紅蓮の尾を引く。
視界を鮮やかに染める炎が消えたとき、その先にはただ漆黒の夜道が続いているだけだった。
『できるわけねーだろが!』
無線機を通じてヘッドホンから聞こえる、威勢のいいその声に、高梨は少し安堵した。
『敵を見るときの目ってあるだろ。俺もまだそれならいけそうだったんだ。だけどよ、いきなり泣きそうになって名前呼ぼうとすんだぜ。そんで俺はどうしたと思う。蹴っ飛ばしたんだよ、そのうえ火までかけたんだ!あとちょっとタイミングがずれてたら、俺は、あいつを、殺し……』
「四万、もういいよ。取り合えず、落ち着け」
『……ああ、悪い』
トーンを落とした声が返ってきた。それに、冷静さを保った声で返す。
「とにかく、生きていることは分かったんだ。引き続き対象者と並行して捜索を行うことになってる。犯行予告によると、そいつがこの付近にいることは間違いない」
「ふざけやがって」と小声で四万が毒づくのを黙殺した。彼の意見は最もだが、今はそれを言っていてはきりがない。
「今、渡部たちがそっちに向かってる。合流するまでそこで待っててくれ」
彼が承諾するのを聞いて、通信を切った。
通信の中継点である五階建てのビルの屋上には、巨大な暗闇が横たわっている。今日は際立って闇が濃く、懐中電灯は主要な光源にはなっているが、とてもそれらを拭い去る事はできない。
四万がこうも怒るのも無理はない。対象者を追えばいいだけの話だし、愁が行方をくらましたのも、至極当然の事だ。それなのに、体裁というものはよっぽど崇高なもののようで、こんな無意味な状況が出来上がってしまった。本当に馬鹿みたいな話だ。しかし、それが命令なのだから従うしかない。
自分はその場にいるわけではないが、四万の側、現場にいる方はよっぽど辛く危険だろう。それでもやらなければならないのだ。ただひたすら、言われた事を。例えそれが間違っていると思っても、上の人間が正しいと判断すれば、暗黙の内にそれは真実だとみなされる。それに下の人間はくっついていくしかないのだ。どんな命令であっても、言われたとおりに自ら手を汚して、自分を殺して生きていくしかない。
ちょっと休憩などと言って、通りの自販機まで出て行った仲間を、高梨は屋上から眺めたが、見る限り、特に疲弊している様子はない。これからが本番なのだし、今からバテられては困るのだが。
彼が、路地裏から飛び出した、多分猫であろう小動物に驚いて跳び退るのに苦笑して、コードの絡まる機械へと指を伸ばした。 |