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ツギハギ
作:ふあ



15-2 亡失のユメ


 重たい瞼を開けると、見慣れない白い天井だけが見えた。体が重い。頭もぼやける。仕方なく、横たわったまま、少しずつ記憶を取り戻す。
 ああ、行かなきゃ。
 身体はまだ動きたがらないが、行かなくてはならない。のろのろと半身を起こし、天井と同じ様に白い壁を見つめた。心なしか視界が狭い気がするが、疲れているから、気のせいだろう。
 ベッドの枠を握り締め、向きを変えると、冷たい床に素足を下ろした。そのまま床に下りようとしたとき、どういうわけだか派手な音を立てて転倒した。左腕に刺さっていた注射針が抜け、その先にある器具が共に倒れる。
 身体を貫くような痛みが走り、呻くと同時にかすんだ思考が少しだけはっきりした。
 足、なくなったんだっけ。
 見下ろした先、見慣れない水色の薄い生地の膝から下は空っぽだ。立ち上がろうと、再び枠に手を伸ばしたが、いつまでたっても何かに触れた感触はない。不思議に思って視線を向けたが、そこにあるべきはずの右腕は、肩口から見当たらない。足が千切れるのは見た。しかし、腕はどうだったか。
 異常なほど、驚きは少なかった。それは、まだユメの中にいるような感覚に助けられたからだろう。痛みはある。が、今いる場所が現実だという実感はまだ沸いてこない。もう一度目が覚めればちゃんと元に戻っているような、そんな気がして。
 壁に立てかけてあった松葉杖でなんとか立ち上がった。視線の先にある窓の外はうす暗く、自分が鏡のように映る。右腕を失い、顔の半分にガーゼや包帯を巻き、一本の棒に寄りかかってなんとか立っているその姿を、愁は無感動に眺めた。やがて、ふっとそれから目を離し、行くべき場所へと歩き始めた。
 外はまだ暗いが、空気はさほど冷たくない。いや、もし冷たかったとしても、それをはっきり認識する余裕はない。動く度に横腹から激痛が走るが、止まっていても腕と足と顔が痛みを訴え続けるから、そのことからは気を反らす。まだユメの中を彷徨っているような非現実な感覚が麻酔の代わりになってくれるので、なんとかそれも可能だった。
 記憶の端にある病院だったので、その場所もうろ覚えだが分かる。自分が今向かっている場所が、そこからさほど遠くない事も。
 朝を控えた暗い道に、すれ違う者はいなかった。何も考えずに、残りの距離も分からずに、ただひたすら前に進む。今はもう、それしか残っていない。
 とても、歩きにくい。何度も倒れ、それと同じ回数だけ起き上がって、不器用に歩く。何のためにこんなことをしているのかは分からないが、ただ、たどり着けば、目が覚める。ここから抜け出せる。全部ユメだったと言える。一方通行のつもりだから、何度転んでも、気にはならなかった。
 ようやく、暗い空気を朝の光が侵食し始めた頃、愁の裸足は、茶色く冷たい地面の上に立っていた。開けたその場所のあちこちには、側の倉庫が崩れて落ちてきたコンクリートが突き刺さり、荒れた地面は捲れ上がり、大きな窪みが出来ている。
 愁はその中央に立ち、全てを狭い視界に入れた後、一気に力を抜いてその場に膝をついた。
 乾ききった心に、傷口からの痛みなど、届きはしない。身じろぎ一つせず、虚ろな瞳で少し向こうの地面を見つめた。だが、その瞳には何も映らない。黒く乾いた、ただのガラス玉のような瞳。心を映す鏡。そこにもかろうじて時が流れている事を示すように、ゆるく上った薄い朝日が闇に紛れていたその姿を浮かび上がらせ、非情に現実へと引っ張り出す。
 やっぱり、ユメじゃなかった。
 自分は身体のあちこちを失い、そして、彼女は死んだ。代わりになって、死んだ。
 ここに戻ってくれば、まだ夢はいるような気がした。いつものように笑って、全部嘘なんだよって、言ってくれる気がした。
 それが、ただの自分の願望にすぎなかったのだと、無意識に現実から逃れる術だったんだと、そう分析する力は最早残っていない。
 悲しくはない。苦しくも、辛くもない。なにも無い。進む気も、逃げる気もない。
 自分を責めることも、悲しむ事も、もちろん立ち上がることなんてできず、ただ止まったような時だけが過ぎていった。
 どれぐらいそうしていたのか、ふいに、小さな音が聞こえていることに気が付いた。寂しげで、頼りなげで。いや、音じゃない、声だ。静まりかえったこの場でも聞き取るのが困難なほど、それは弱りきり、霞んでいる。今にも消えてしまいそうな声。
 少し離れた瓦礫の中、はっきりとはしないが、そこから聞こえている気がする。あまりにも孤独で、それでいて誰かを呼んでいる。それに引き寄せられるように、愁はその方向へ向かった。土の上を欠けた手足ではって進み、側へたどり着いたときには、その声は消えてしまっていた。
 瓦礫の中へ腕を差し込み、その手が固い塊の中で柔らかく温かいものに触れた。片手に収まるほど小さなそれを、そっと隙間から外へと引き出し、地面の上へ置く。
 小さな小さな、黒い子猫だった。あちこちの皮膚が焼け爛れ、特にそれがひどい片耳は折れ曲がってしまっている。もう鳴くこともできず、苦しそうに息をしている。
 先日の戦闘に巻き込まれたのだということは明らかだった。その間に仲間とはぐれたか、もしくは初めから一匹だったのか。崩れた瓦礫の中に埋もれて出られなくなっていたのだろう。理由もなく傷付いたまま、たった一匹で、ずっとああやって鳴いていたのだろうか。来るかも分からない誰かを待って、鳴き続けていたのだろうか。何も知らないまま、何の関係も無い戦いに巻き込まれ、誰にも助けられずに、ずっと一匹で。
 猫の乾いた毛皮に水滴が落ち、その黒みが増した。それでも動けない小さな身体と、横たえられている土の上に、何滴も何滴も、雫は降ってくる。
 愁の目から、涙が溢れた。こみ上げるそれを拭おうともせず、肩を震わせてぼろぼろと泣き続ける。抑えきれない嗚咽が漏れ、左目から零れる涙が、猫の毛皮を濡らしていく。
 自分達の戦いで、また命が消えようとしている。もう誰も死なせたくないと、もうそんなのは嫌だと、あのときあれだけ強く思ったのに、今も目の前で小さな命が消えようとしている。手を伸ばせば触れられるのに、助ける事ができない。何一つできない。ただ死んでいくのを見ていることしか出来ない。
「ごめん、ごめんな……」
震える声で、謝った。何も出来ない事に対して。何の罪も無い、その小さな命に対して。
 今までつまっていたものが、全て溢れ出した。ぎりぎりまでこらえていたものが流れ出し、愁は静かに泣き続けた。
 そっと左手でその身体に触れ、かろうじて無事な皮膚を撫でる。その温かさが、いっそう悲しみを助長した。
 しかし、その微かな温もりは、すぐに消えようとはしなかった。弱々しく細い呼吸の中、猫は必死でその命を一秒でも長く引きとめようとしている。
 この猫は、生きようとしているんだ。
 当たり前のことに、ようやく気付いた。こんなにぼろぼろになっても、死にそうになっても、それでも一生懸命、生きようとしている。こうして息をしているほうが苦しいだろうに、今が一番痛くて辛いだろうに、すぐ側に迫る死に抗い、呼吸をしている。
 生きている。この猫はまだ、生きている。
 泣いている場合ではない事を知り、その眼から最後の一滴が落ちると、愁は決心した。
 空っぽの右袖の中に、左手でそっと持ち上げたその小さな身体を入れた。真ん中、肘の部分に持ってきて、袖口を口でくわえる。袋状になったその中、子猫は小さく息づいている。
 もう一度はって松葉杖までたどり着くと、もう使うつもりのなかったそれで、立ち上がった。刺すような朝日に背を向け、強く歯を食いしばり、地面を踏みしめる。
 まだ通りに人は殆どいなかったが、すれ違った者は少なくとも一度は、包帯だらけの少年を振り返った。だが、自ら声をかけるに至る者はおらず、愁も彼らを気に止めはしない。どこにこの猫を連れて行ったらいいんだろう。そこまでは分からないので、一度もとの場所に戻るため、歩く。今度は転ぶ事は許されない。進む際の衝撃も、最低限のものにしなければならない。慎重に、だができるだけ早く。
 今にも倒れてしまいそうだったが、袖の中にいる猫の重みを実感すると、何も気にせず進む事ができた。なんとしてでも、この命だけは、見捨てたくない。
 最後の角までやってきたとき、そこから人影が飛び出してきた。そしてすぐ側で立ち止まると、驚いた顔でじっと愁の方を見て呟く。
「……愁、どうして……」
途端、足の力が抜け、愁はその場に倒れこみ膝をついた。慌てて、高梨がそのまま前のめりに倒れそうな身体を支える。
「なにしてたんだ。どこに行ってた」
袖を口で咥えたまま、血の気のない顔で高梨を見上げる。
「土だらけじゃないか。ほら、傷口から血も……。まさか、あそこまで行ってたのか」
あそこ、というのは曖昧だが、彼の言いたいことはよく分かったので、小さく頷いた。呆れたような困惑したような表情で、
「どうして、そんな……」
と、彼が言いかけたとき、
「この馬鹿野郎!」
という大声が振ってきた。振り向いた高梨が、片手で愁を支え、咄嗟に背中にかばう。
「やめろよ!今殴ったりしたら……」
「うるせえ!」
相手の声を遮って、四万が肩で息をしながら立っていた。走ってここまで来たからなのか。ただ感情が荒くなっているからだけではないだろう。
「勝手に抜け出しやがって!お前これ以上血流したら死んじまうんだぞ!」
「落ち着け、四万」
怒鳴りつける四万を、彼の後ろからやってきた明日香がなだめた。彼女の方を振り返り、「わかってる」と頷くその眼を見て、四万はなんとか落ち着こうと、握り締めた拳をようやくほどいた。
「もういい、話は後だ。とにかく戻るぞ」
そう言って片手を愁の左手に差し出したが、予想に反してその手は伸ばされず、そこでやっと、四万は反対側の右袖に意識を向けた。肘の辺りが、やけに重たげに垂れ下がっている。その視線に気付いた愁がその中に左手を差し入れ、ようやく口を離した。
 袖の中から取り出され、コンクリートの上に置かれたものを見たとき、全員思わず言葉を失った。ぼろぼろの黒い子猫は、まだ微かに息をしている。
「この猫、拾ってきたのか。あそこで」
始めに明日香が口を開き、愁は黙って小さく頷いた。
「なにやってんだよ!」
四万が、再び声を荒げる。
「さんざん人に心配かけて、あげくに猫なんか拾ってきやがって!お前今自分がどういう状況なのか分かってんのか!」
「ごめんなさい……」
ポツリと呟いたその左袖を乱暴につかみ、
「ほら、さっさと行くぞ」
無理矢理引っ張り、引き上げようとした。しかし愁は、座り込んだまま少しも動こうとしない。「おい!」と四万が怒鳴りつけると、疲れきってはいるが、その瞳で真っ直ぐに見上げた。
「お願いします、この猫、病院に連れていってあげてください」
突然の言葉に、意味が分からないといった顔で、四万が手を離した。その左手を地に着き、彼らを見上げる。
「このままだと、もうすぐ死んじゃうんです。でもまだ、この猫、一生懸命生きてるんです。だから……」
「愁、死にそうなのは自分も同じなんだよ。分かってる?」
穏やかだが責めているみたいな声で、諭すように高梨が告げた。唇を噛み締め、愁はうつむいて猫を見下ろす。しかしその小さな身体を目にすると、諦め切れなかった。
「僕のことなんか、ここで見捨ててもらって構いません。だけど、この猫だけは……」
 ここでこの命を見捨てるほうが、よっぽど辛い。それなら死んだほうがいいと本気で思った。しかし、彼らが見捨てられるような人間でないこともよく知っている。だからこれは、汚い脅迫だとしか映らないだろう。そう解釈されても仕方がない。もし引き換えに、ここで死ぬまでへたばってろと言われればそうするが、しかし、その思いをを知らせる術は、口で言うしかない。だから四万に怒鳴られても、俯いてその言葉を身体に染み込ませるようにじっと聞いていた。卑怯な奴だと嫌われるのは泣きたいほど悲しいが、それよりもこの猫に死んでほしくなかった。
 ふと、四万を制して明日香が同じ様に正面に地面に膝をつく。俯けていた顔を僅かに上げると、彼女の瞳が愁の瞳を覗き込んだ。愁も、目を逸らさないよう、じっと同じ様に見つめ返す。ふ、と明日香は張り詰めていた力を抜いた。
「分かった。この猫は私がどうにかする」
その台詞に、四万も高梨も、愁までもが驚きを顔にする。
「だからあんたは、ちゃんと他の言う事聞いて大人しくしときな」
優しげな声で、明日香がはっきりとそう告げた。
 一瞬だけ表情に安堵を示した後微かに口を動かしたが、そのまま愁は瞼を閉じ、猫の横に倒れこんだ。












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