15-1 亡失のユメ
右腕の傷は思っていたよりも深く、なかなか出血は止まらない。動かすのに支障のない程度に強く包帯を巻きながら、痛みに顔をしかめる愁を、夢は見下ろした。二十歳を迎え、成長は止まってしまったが、彼女の方がいくらか身長は高い。
「よし、応急処置終わり。用意ができしだい決行していいって言ってたけど、大丈夫」
「大丈夫です」
頷いて、愁は行く先に顔を向けた。その眼は普段の仕事のときよりも大分鋭く、ぎゅっと口を引き結んではるか先をを睨みつけている。きっと抑えようとしているのだろうが、彼が普段よりも深く頻度の高い呼吸をしていることに、彼女は気が付いた。
「ほんとに?」
そう言って顔を覗き込む夢を、訝しげな顔で愁は振り返る。
「なんなら、私が代わってあげようか」
「え?」
「だって、こんな怪我してたら上手くいくものもいかないでしょ」
「駄目ですよ。これは僕の担当なんだから」
しっかりした目で見上げるが、その奥底に潜む不安を見抜いて夢は笑う。今の愁とは対照的な、子供のような無邪気な笑顔で。
「忘れてるかもしんないけどさあ、愁より私の方が強いんだよ」
「そんなこと言っても……」
「自信あるの」
率直に聞かれ、愁は返事に詰まった。硬直している、誰も下手に手出しが出来ない状況に対し、ふいをついてそれを崩すという作戦ともいえない作戦。動くのが危険だから誰も動けないのだ。それを無視して突っ走って無事でいられる自信は、正直なところ無かった。
「だめじゃん」と、夢はこの場に似合わない明るい表情で笑う。
「だいじょーぶ。少なくともあんたよりは、ね」
「でも……」
「じゃ、援護よろしく」
彼女は愁の肩を軽くたたき、両側を倉庫に挟まれた狭い道を進み始めた。引き止めないとという思いで、咄嗟にその手を掴もうと愁は手を伸ばした。しかし、その距離は既に開きすぎていて、その手はあと少しというところで宙を掴む。走っていって引き止めることが、できなかった。
日の落ちかけた夕暮れ、幾つも連なる倉庫は、夕日に照らされて赤みを帯びている。あちらこちらに人が潜んでいるとは思えないほど、周囲は静かだった。その倉庫群に囲まれた、土がむき出しになっている、だだっ広い何も無い円形の空地へ、夢は一人で歩いて行く。隠しても隠し切れない長い影が、ちらちらと躍った。
彼女の足取りは一見軽いが、警戒は全く怠っていない。自分の微かな足音意外の音がしないかと、神経を研ぎ澄ましている。
夢の耳元で、虫の羽音がした。
横へ跳躍した途端、その小さな羽虫がそれぞれ爆発して弾けた。と、それを引き金にして周りの空気中を漂っていた虫たちが弾けだし、その周囲を張っていた仲間が近くにいるであろう敵を確信して、行動を始める。張り詰め、緊迫していた空気が、文字通り音を立てて崩壊した。
当然、最も居場所を確実に示している夢へと、その小さな虫たちは集まり始めた。一匹一匹の威力は小さくとも、それが何十匹単位になれば非常に危険だ。しかし、相手は虫だ。どれだけいるか分からないし、場所の特定も根こそぎ倒す事も難しい。その中に飛び込む危険性は誰もが承知していた。だから、誰も近づけなかったのだ。
それを操っている人間をはやく捕らえなければ、夢がやられるのは時間の問題だ。おおまかな場所が分かった今、周りの者は必死でそれを見つけようと奮闘している。
相手は、獲物を視認できる場所にいる。必ず、この付近にいるはず。
愁は必死に、彼女のいる開けた空地へと走った。と、その途中の倉庫によって出来た影の中に、見知らぬ人影を見つける。その後姿には、全く見覚えが無い。
迷わず、上着の中の刃を左手で引き抜くと、すぐに感づき、逃走を図ろうとする相手に投げつけた。
手首が炎症を起こしても練習してきた技術だ。今まで行った幾つもの仕事の中でも、外した回数は片手の指で収まるほどしかない。
だが、焦りの為か、強い相手へ対する畏怖の為か、それは僅かに相手をそれて固い倉庫の壁に突き刺さった。外すような距離でもなかったのに。
しまったと思った瞬間、羽虫の大群が視界を埋めた。地面を蹴ってとにかくその場所から離れ、爆風によって思っていたよりも遠くの地面にぶつかった。立ち上がったときには、すでに相手の姿はその場にはなくなっていた。
「大丈夫か」
と、側を駆けてきた仲間が声をかけてくる。
「だいじょうぶ……」
そう返事をして、ふと、彼の肩越しの風景が視界に入る。途端、愁は大きく目を見開いた。
一人目の獲物と認められ、逃げ場を失った夢が、開けた地面の上にいる。その身体の傷は致命傷には至らないようだが、すでに彼女は血まみれだった。そして、もっと恐ろしいのは、そろそろ止めをさすつもりなのか、黒い一つの塊と化した小さな虫の大群が、その近くにあることだった。
愁は彼の側をすり抜け、その方向へと駆け出した。
「おい!そっちは……」
止めようとしているのが聞こえたが、聞こえないふりをする。彼の言いたいことが正しいのはよく分かっている。今彼女のところにたどり着いても、出来ることなど何もない。だが、一瞬だが、見知らぬ影が向こう側の倉庫の闇に見えた。そこに向かうには、その開けた場所を通るより、倉庫の合間を縫っていったほうが安全で確実だが、そうしていたらきっと間に合わない。
だけど、自分が本当に向かいたいのは、敵の方ではない。夢のところまででもたどり着けば、何とかなると思った。冷静さを欠く、あってはならない感情的な行動だとは分かっている。だがそれでも、自分の代わりに死を覚悟した夢が死ぬのは嫌だった。とにかく、血だらけで今にも倒れそうな彼女を、あそこから離さないとならない。
死なないで、死なないでくれと、緊張と恐ろしさの為に心臓が激しく鳴る。全力で走っているからなんかじゃない。鼓動は激しいのに、心はひやりとしていた。
ようやく林立する倉庫の壁から抜けて、一歩踏み出した。
敵の判断は、想像以上に早い。虫の塊が砕け、大半が空中に広がる。
しかし、それは視界には入ってこなかった。最早、走る事しか考えられないその頭では、そちらに注意を向けることも出来ない。
耳元で、羽音がする。身体の右側、耳のすぐ側。右腕に、小さいものがたくさんまとわりつく感触。視界の右端に、細かいものが集まって出来た、黒い影が映った。
一斉に爆発が起き、前に進んでいたはずの身体が左側へ飛ばされ、地面に叩きつけられると、そのまま転がって止まった。何が起きたのかよく分からない。
ただ、自分の右側が、妙に濡れている。ぬるりとした液体が、身体の表面を伝っていくのだけが分かる。
そんなことより、走らないと。
うつ伏せになり、起き上がろうと地面に両手をついた。そのときようやく目にした自分の右腕はぼろぼろで、あちこちに穴が開き、ところどころの肉がこそげ落ちて減っていて、残っている皮の方が少ない。体重を支えようと力を入れると、とめどなく血が溢れ出す。
それでも立ち上がることは出来た。しかし、まだ向こうにいる夢はさっきよりも身体を赤く染め、地面に倒れていた。一瞬絶望感が心を占めたが、なんとか彼女は立ち上がろうとしている。生きている。
もう一度、愁は駆け出した。
「愁、駄目だ!戻れ!」
誰かが後ろで怒鳴るが、最早それは音であって、言葉として認識することは出来なかった。頭の中は白くて空っぽで、ただ、今日最後の太陽が投げかけてくる日差しが目に付き刺さり、単純な眩しさを感じただけだった。
あと、もう少し。
残り数歩のところで、右足の違和感にようやく気が付いた。膝を、何かに締め付けられているような。
途端、愁の右膝に張り付いていた虫たちが、破裂した。
身体が大きく前に傾く。踏み出したはずの右足が土を踏みしめる感触はなく、その勢いのまま地面に倒れた。顔から垂れた血と、地面の土が、口の中で混じる。
ぜえぜえと必死に呼吸をし、限界を訴える声に必死で聞こえないふりをして、さっきと同じ様に両腕を土の上にに突き立てる。と、無理をしすぎてもろくなった右腕があり得ない方向に折れ、再び地面にぶつかった。最早つっかえ棒にもならない腕を、なんとかもう一度立てる。
だが、身体は立たなかった。首を曲げて腹の下から足の方を覗く。
膝が僅かに土から離れ、そこから滴る血が、地面の窪みにたまっていた。その切り口から先には、何も無い。
なんとか顔だけを上げると、ようやく立ち上がった夢の真っ赤な背中が見えた。が、そこに黒い塊がしがみつき、それを隠す。同時に、愁の心も恐怖で多い尽くされる。
「やめろ、やめてくれ……」
喉の奥から搾り出すように、見えない相手に訴えた。しかし、そんな言葉も虚しく、彼女にしがみつくその数は増えていく
「やめろぉーっ!」
どうしようもなく、叫ぶ事しかできなかった。喉から血が出そうなほど、叫んだ。
腕が再び二つに折れ、身体全体が大きく右側に傾きだす。赤色を増やした夢も、ゆっくりと地面に倒れていった。彼女の背中に出来た大きな穴から、赤いものが零れ落ちるのを視界に入れたとき、愁も地面に身体を預けた。すでに、意識はなかった。 |