2 one night of winter
身を切られるように寒い、冬の暗い夜。空には上弦の月と数えるほどの星が輝いているが、行く手を照らしてくれるほどの光にはならず、暗い道を一定の間隔を置いて並ぶ街灯が浮かび上がる。すれ違う者は一人もいない。歩道と平行に並ぶ道路でも、ときどき思い出したように自動車が疾走していく程度だ。冷え切った空気の向こうに、意味もなく赤と青に切り替わる信号が見える。動くものはその明かりと自分の長く伸びた影しかなく、全てが死んでしまったかのように静かだ。仕事でなければ、愁だってこんな夜中に出歩いたりはしない。
OC犯罪対策部は普段は事務ばかりしているが、あくまでも、直接的な犯罪対策、外に出て活動するのが正しい姿だ。事務ばかりというのは犯罪が少ないという証拠で、つまりはいいことなのだが、本当はそのためにつくられた部署ではない。OCによる犯罪、もしくは警察の手に余る凶悪犯罪の対策が目的なのだが、あまり派手な活動は出来ないので、部署外の人にはその目的を忘れられていたりする。
寒い。外気に触れる頬がぴりぴりする。こんなに寒いのに、吐く息が白く空中に溶け込んでいくのを見ると、自分の体の温かさが実感できる。
「最低気温何度だっけ……」
街中の巨大スクリーンでは、今年一番の寒さだと天気予報士が言っていた。予想最低気温の数字の前に横棒がついていたのを思い出し、ついでに、今年一番の寒さだと断言していたのも記憶からよみがえり、溜め息をつく。
ガードレールの横を、明らかに違反速度で去っていった車を眺めながら、寒さで強張った左手を閉じたり開いたりして動かす。こんな薄い手袋なんて気休めにもならない。肝心なときに指が動きませんでしたじゃ、話にならない。
左手をぎゅっと握り締め、くるりと愁は振り返った。頭上から真っ直ぐ振り下ろされたバットに手を伸ばし、右側へはたく。軌道を反れたそれがコンクリートを叩き、金属特有の澄んだ音が響き渡った。驚愕に引きつった相手の顔を確認する。間違いない、こいつだ。
「待て!」
金属バットから手を離し、路地裏へ駆けて行く男を追う。単純な足の速さで大差をつけられるとは思えないが、狭い路地裏は入り組んでいて、見失ってから再び見つけるのは面倒だった。残念ながら、この辺りの土地勘はない。
猫の子一匹いない狭い路地裏を、相手は右へ左へと疾走して撒こうとしている。流石通り魔、逃げ足は速い。しかしその距離も少しずつ縮まっていく。
もう一息だというところで、男は右へと急カーブを切った。すぐさま進行方向を変え、右の細道へと足を踏み入れる。と、何かが視界の大半を占めて飛んできた。
咄嗟に首を傾ける。握りこぶしより一回りほど大きな石が、髪をかすめてそのまま背後の壁に叩きつけられた。石がいくつもの小さな塊に分かれて地面に落下する。
手を使わずに物を動かせるというポルターガイスト現象のような、OCに最も多い能力だ。情報部によると、彼は犯行後の逃走時にその能力を使って、今まで逃げ延びてきたらしい。夜中に一人で歩いていた市民が、彼によって三人ほど殺害されている。あるときには、狙われていた被害者は助かったが警官一人が大腿骨骨折の重症を負わされた。証言によると、工事現場にのトラックに積まれていた鉄骨が急に弾け飛んだらしい。厄介な能力だ。
基本的に一人で行動する愁は自分がおとりになるしかなく、犯人の確認も一人でやるしかなかった。しかも証言やら何やらから特定された外見の特徴は極めて曖昧だったのだが、それでも暗がりで見たその姿格好は、見事にそれと一致している。今となっては、犯人であるかどうかなんて疑いようもない。
一息つく間もなく、再び空いた距離を愁は駆ける。疲れたのかそれとも無駄だと思ったのか、男の走る速度はさっきよりも落ちていた。向こうで振り返るのが見えるが、表情はよく分からない。
自分の前にある影が僅かに濃くなるのに気付き、愁は急ブレーキをかけて数歩下がる。さっきまで自分の影があった場所に、砕けた植木鉢と少量の土が散らばった。
思わず舌打ちをして上を見上げると、右手にある建物の屋上の縁に何かが並んでいるのが見える。春や夏には花々があそこで光合成をしていたのだろうが、植物の枯れ果てた寒い冬には、ただの危険物にしかならない。子供の力でも落とす事が出来そうだが、こんな狭い路地裏では、わざわざ苦情を言う者もいなかったのだろう。月の光を受けて、植木鉢やプランターが整然と並んでいる。
このままでは、逃げられる。しかし、闇雲に追っても追いつくまでに頭を割られる危険性は限りなく大きい。かといって引くことなんか出来ない。ここなら、ぎりぎり射程距離内だ。
短く息を吸って、愁は右足で地面を蹴った。落下する鉢の下をくぐり、ほんの少し縮まった相手との距離を目で計りながら右手をコートの内側へ滑らせると同時に、背後で固いものが砕ける音がする。
すぐに引き抜いた右手こぶしの指の間で、三本の鋭利な刃物が月光を反射する。中指の長さほどの刃。細長い菱形状で、先は刃物らしく恐ろしいほど尖っている。それを三本とも一気に投げた直後、足を一歩引く。鼻先をかすめて、土の詰まったプランターが鈍い音を立てて地面に激突し、中身をぶちまけた。
闇を裂いたそれらの一つは男の足元に突き刺さり、それにバランスを崩した身体の脇腹部分の生地を、別の一つが壁に縫いとめた。最後の一つは肩をかすめて、服を固いコンクリートの壁につなげる。うっすらと血がにじんだ。
注意がこちらから外れているうちに、地面を埋めた土や破片を踏みしめて、愁は早足で彼の方へ向かう。そして、長く白い息を吐いて抵抗する事を諦めたような男に、ゆっくり近付く。
すると突然、男は視線を上げて愁の方を向いた。地面に突き刺さったままの刃が抜け、コンクリートに食い込んでいたのと反対側の切っ先を向けて、真っ直ぐ愁の首元へ飛ぶ。空気の裂ける音が聞こえてきそうだった。
しかし、その刃が血を被る事はなかった。ただ彼が正面にかざした右手のひらに突き刺さり、白い手袋をしている手がそれを握りしめる。一滴の血も、地面に落ちる事も手袋に染み出る事もなく。
は、と思わず気の抜けた声を出した男に、右手にある刃を握り直して刃先を男の方へ向け、その目を見据えながら愁は口を開いた。
「お前は、フリークスか?」
瞬きを繰り返して、男は少年の右手と、その手が握りしめている刃を眺めてやっと声を出した。
「まさか……、君もOCなのか?」
「そんな事は関係ない」
淡々と、冷たい声が空気を震わせる。男は、先程より近づけられた刃に目を細めて、
「フリークス……。いや、そんなものは知らない」
そう言ったその額に、冷たい刃の腹があてられる。この冬の空気よりも冷たく、愁の声は響く。
「とぼけるな。さっさと答えろ」
「……名前ぐらいは聞いたことがある。だが、それとは何の関係もない」
搾り出すようにそれだけを言った男の目を、愁は見下ろす。
まずフリークスが、通り魔なんていう中途半端で馬鹿げた事をやる筈がない。もしそんな事業があったとしても、彼らなら、警官が入ってきたから諦めるなんて事はしない。殺す対象が増えたというだけだろう。
それに、まず目が違う。何を思って人殺しなんかしたのかは知らないが、突発的なものだろう。一般人とは呼べないかもしれないが、まだフリークスの奴らとは明らかに異なった、常人の雰囲気を保っている。
そう最終結論を下したとき、愁の後ろから小さな影が躍り出た。首に細い青色のリボンを結んだ、小さな黒猫に男が意識を向けた瞬間、愁の左手の拳が思いっきりそのこめかみを殴りつけた。
やっぱり人を殴る感触というのは、いいものではない。改めてそう思いながら、彼が完全に意識を失ったのを確認し、愁は大きく息を吐いた。相変わらず、白い空気が立ち上って消えていく。警察ではない彼には逮捕権がなく、近くの警官が到着するまでに逃げられては意味がないのでこうしておくことしか手がないのだ。同年代の平均よりも全体的に身体が小さくできているので、大の大人を運ぶ事なんて当然出来やしない。同業者には連行したりする者もいるそうだが、見た目からなめられ易い愁は、それまでに逃走を企てられる事が多く、逆に非常に厄介だ。往生際のいい奴が、こんな事をするわけはないのだから仕方ないのかもしれないが、ただの二度手間にしかならない。
不思議そうに、失神した人間を見上げるクロの横に片膝をついて、男を壁に縫いとめている刃を引き抜いた。
その刃が夜空を映し、隅に月が覗いた。暗い夜は、まだ明けそうになかった。
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