10-1 窮猫やはり犬に怯え、黒鉛は折れる
時刻は、もうすぐ日付が変わってしまうというような真夜中なのに、その茶色と白の毛皮をしたコーギー犬は、千切れんばかりに尻尾を振って喜んでくれた。
「よしよし。シロ」
「勝手に名前付けんなって。イブだよ」
しゃがんだ膝に、短い前足を乗せてくる犬を撫でながら、愁は祐輔を見上げた。
「イブなんてよく考えたね」
「俺じゃなくて姉ちゃんがつけたんだよ。なに考えてんだか」
電気の消えた家の玄関前で、二人は声を潜める。無論、家人を起こさないためだ。
鼻をひくつかせてイブは愛想よく寄っていくだけなのに、怯えたクロはたじたじと後ずさってしまう。
「クロが喰われる」
「喰わねえって」
祐輔が、先に立ってこっちこっちと手招きした。敷地を囲む塀に沿い、足音を忍ばせて玄関口と別の面にある窓までまわってくると、そこから部屋の中に入り、再び祐輔は合図をした。今まで何度かしたことがあるので、要領は分かっている。靴を芝生の上に落として、愁は窓枠に手をかけて、唯一電気のついているその部屋へ上がった。
水野家では、長男である祐輔以外の人間は立派に早寝早起きをこなしているらしい。一人だけ、その遺伝を受け付けなかった夜型人間は、十時になると、もう寝ようかという雰囲気が立ち込める家の中で、他の家族からの苦情を避けるため、なかなか息を潜めるようにしなければならないようだ。
「悪い、俺まだ宿題終わってないからさ。そこらへんのでも適当に読んでてくれや」
机に向かって言う祐輔に、愁は床に座ったまま適当な返事をした。いつか見たような鞄が近くで横倒しになっており、教科書やノートらしきものが氾濫している。それをちゃんと立て直すと、手元にクロが寄ってきた。鞄の下敷きになっていた漫画に鼻を近づけて口に入れようとするので、その身体を抱えて自分の横に座らせると、特に執着は無かったらしく、クロはそこで大人しく後足で耳の後ろを掻いている。
見たことのあるような無いような表紙のそれをパラパラとめくり、愁は、はたと手を止めた。まじまじとそれを眺め、口を開く。
「ねえ祐輔」
「なんだよ」
「これ、似てない?」
両手で掲げて、振り向いた祐輔にそれを見せた。水道の修理だと偽って盗聴器を仕掛けに来た悪役の中年男性が載っているコマだ。
「あれ、小学校のとき理科の先生だった……名前がでない」
「だろ、似てるよな。何かあだ名あったろ、あだ名」
「常にあだ名だったよな、あの先生」
「俺、本名聞いたことねえもん」
「確か横文字だった気がする……。り、リリー……だったっけ」
「あ、そうかリリーか」
そうかそうかと、祐輔は何度も頷く。
「だけどさ、何でそんな名前だったか覚えてるか」
「理科だから」
「そんなだった。誰かがさ、『あいつなんか青酸カリで死んじまえ』っつったからだと思ってた。カリのリで」
「そんなひどいこと言ってたっけ」
「子供は残酷だからな。よく叩かれてたし。教科書で」
「あれは痛かった」
薄っぺらい教科書でも角は信じられないほど痛い。あの頃、身をもって知った。
「そういえば最近思い出したんだけどさ、あいつどこ行ったんだよ」
急に、思い出したように祐輔が問いかけた。
「あいつってリリーのこと」
「ちがうちがう。坂口龍二とかいうやついただろ」
「ああ、サカタツのこと」
「そう呼ばれてた、俺はよく知らないけど。そいつさ、どっか中学受けてたのか」
「さあ、どうだろ」
「なんだよそれ」
祐輔は期待はずれのような顔をし、愁は横にいるクロの尻尾を片手でいじる。
「だってお前ら仲良かったじゃんか」
「だったけどさ、僕は知らない」
「会ってないんか」
ここ数年間を通して、どこかで会ったかどうかをしばらく思い出す。
「だいぶ前に一回だけ」
「そんだけかよ」
「その時も『お前とはやっぱ世界が違うんだよ』とか言っててさ、なんだよそれって言ったのにどっかいっちゃって、それからずっと見てない」
いい加減飽きたのか、クロが痛くも無い猫パンチを仕掛けだした。
そっかと頷き、すぐには返す言葉を見つけられなかった祐輔は、
「そういうやつもいるさ」
とだけ返して背を向けた。 |