8-2 網
電気の消えている薄暗い部屋に足を踏み入れる。閉まりかけたドアの隙間を縫って、黒い影が入り込んできた。男は反射的に、足元に滑り込んできたその影に銃口を向ける。
「猫は殺さないでくださいよ」
幾分尖った声で愁が言い、見知らぬ人間に怯えたクロが、その側へ駆け寄っていった。首に巻いた青いリボンと、緑色の瞳が、ほの暗い中でやけに映える。猫がそのまま走っていったことといい、この部屋では土足が基本らしい。
隣の部屋にあるベッドの隅に浅く腰掛け、愁は部屋にある一脚だけの椅子を示したが、警戒を怠らない男に断られた。
そういえば、何故自分は敬語を使っているのだろうと今更ながらに思う。そんな必要は全く無いはずだし、むしろおかしい気がする。が、昔から、年上には敬語を使えと言われ続けているので、今だけ変えるのも面倒だった。なのでこのままにしておく。
「で、何の用ですか」
横にクロが飛び乗り、壁にもたれた男を愁と一緒に見上げる。
「さっきも言ったように、単独である程度調査したのだが、君は年齢の割に優秀なようだな」
「別に普通ですよ」
謙遜したつもりはないし、普通以下かもしれないと、言ってから思った。取り返しの付かない失敗をしたことだってある。が、男はその言葉を黙殺して続けた。
「この一連の行動は、全て俺が勝手にやっていることで、組織は関係ない。しかし、返答しだいでは、組織ぐるみの活動に変貌するだろう」
「……ということは、もし僕が断ったら、そっちの組織自体を敵にまわす事になるんですか」
「そういうことになる」
通り魔ぐらいには負けないが、日本最大級の犯罪集団を一人で相手にして、生き延びられる自信はなかった。不分明な話に愁は訝しげな顔をし、男はそれを面白そうに眺める。
「君の実力なら、十分フリークスの中でも上に並べるだろうにな」
少しの間、愁は頭の中でその言葉を反芻し、意味をはっきりと理解した。しかし、すぐには言葉が出てこなかった。
それは、断る事による恐怖なんてものじゃなく、ただ純粋な怒りが邪魔したからだった。自分は、その程度のやつだとみなされていたのか。そして、そんな馬鹿馬鹿しい事を聞くために、この男はここまでやって来たのか。
愁にしては珍しく、相手に怒鳴りたくなったのだが、なんとかそれを押さえ込む。ここでやけを起こしても、何のプラスにもならない。むしろそれで自己を見失いでもしたら、よっぽど厄介な事になるだろう。
冷静でいろと自分に命じて、押し殺した声で、
「そっち側につくぐらいなら、死んだほうがましだ」
そう答えてから、ふと、空気が停滞し続けているのに気付いた。いつの間にか膝にもたれて、呑気に眠りこけているクロをゆっくり離し、窓を開ける為に立ち上がる。
「それに、僕より強い人なんて部内にもいっぱい……」
「他に金属義肢の人間がいるか」
窓の鍵に伸ばしかけた手を止め、男の方へ首を向ける。こちらの反応を楽しんでいるような目と視線が合い、再び前を向きながら何気ない風を装って口を開く。
「なんでそんなこと」
「なら、その手袋を外してみろ」
窓を開けた、自分の腕を見下ろした。構わずに、再び元の位置に腰を下ろし、上目遣いに男を見上げる。
一瞬、ハッタリかとも思った。政府が世間から直隠しにするようなことだ。いくらなんでも、そんな情報までが流出しているとは思えない。一人だけそんな人間がいることぐらい知られていたかもしれないが、個人の断定までは容易に出来ないはずだ。だから、ただ鎌をかけているだけなのではないか。そう願ったが、そんな結果には終わってくれなかった。
「この前、その腕を見せた相手がいただろう。彼が教えてくれたんだ。今はもういないがな」
「どうやって」
「今の時代、無線機も大分小型化している。それを今まで幾人かに持たせて、変わったやつがいたら報告しろと言っていただけだ」
「……偶然網にかかっただけか」
「その情報から個人を特定するのは、難しい事ではなかったしな」
「それはどうも」
あいにく、部内の誰かと間違われた事は一度もない。部内だけでなく本部全体からでも、愁の、子どもの範疇から脱出しきれない外見は浮き気味だ。
運が悪かったと思うしかない。しかし、ずっと継続していたのならば、何時かはこうなっていただろう。ふと、ある男の顔を思い出した。もうこの世にはいない人間の。
「金属義肢は、禁止するにはもったいない技術だろう」
「……思いません」
「人をそれ以上に強くするものだぞ」
意外だ、と言いたげな調子で男が言った。
「こんなの、ただ凶器が繋がってるただの人間だ」
「だが、嫌いではないのだろう。それならとっくに普通義肢に代えているはずだ」
愁は言葉に詰まって、口を閉じた。
自分を再び地に立たせてくれたものだが、好きではない。手足の代わりをするだけなら別に普通のものでもいいのだから、やはりこれはただの凶器だ。それに、こうなった経緯なんかを考えると、余計好きにはなれない。しかし、その理由を男に話す気にもならなかった。
返事をしない愁を、肯定したのだと受け取ったのか、男は冷たい笑みを浮かべる。
「人以上の力を持った人間は、目障りだ。管理するか排除するか。どちらか選ばせてやろう」
「それなら、僕に選択権は無い」
負けずに愁も睨み返す。
「聞くだけ無駄だ」
ここで、男が殺しにかかってくる可能性も考えたが、それは杞憂に終わった。彼は可笑しそうに声を上げて笑い出し、愁はただ黙って、それがおさまるのを待つ。
「そうか、それが今の君の返答か。なら仕方が無い」
そして、そのまま去ろうというそぶりを見せながら、忘れずに付け足す。
「このことを、他言しようなんて思わないほうがいい」
やはり言われた。予想はしていたが。
「君の義肢を、直接的に管理しているものがいるだろう。もしそいつがいなくなれば、君はいくらか大人しくはなるだろうな」
相手に気付かれずに、愁は奥歯を噛み締めた。
そして男は背を向け、最後に一度だけ振り向き、
「その意思を貫き続けるのなら、近々、君の居場所はなくなるだろう」
そんなことを告げた。
部屋に、一人と一匹以外の気配が完全に消えてなくなった頃、ようやく愁は大きく息を吐いた。緊張していた心身から力が抜ける。
完璧にやられた。おまけに人質まで宣告されて。
かかりつけの医師の事まで知っているとは思えないが、彼らの組織全体の力を使えば、それを知ることは不可能ではないかもしれない。関係の無い人間を殺す事に、爪の先ほども躊躇しない集団だ。それはよく知っている。
心配そうに普通義肢を勧めた医師を思い出し、愁は口元に手を当てた。暑くもないのに、汗が一筋だけ頬を伝って滑り落ちる。
駄目だ。絶対、誰かに言うわけにはいかない。これ以上、自分のせいで誰かが死ぬなんてことがあったら自分自身生きていけないし、なによりも、南先生に死んでほしくない。
愁の居場所とは、いったいどこのことを示していたのだろう。最も適当なのは犯罪対策部のことだが、愁自身がよっぽど問題になるような事をしない限り、向こうから断ち切られる事もないはずだ。
とりあえず今分かるのは、これは誰にも言ってはいけない話だということ。誰かを頼るわけにはいかないということ。 |