7 花びらの舞う先
春の夜風に巻き上げられた桜の花びらが、窓の外を軽やかに舞って、暗闇へ消えていく。幾枚も幾枚も、部屋にこもっている人間をからかうかのように、楽しげに宙を漂っている。
たとえゴミ箱をひっくり返しても、やる気という単語は欠片も出てきそうの無い気だるさに、OC犯罪対策部二班は包まれていた。部長を除く全員が珍しく集合しているが、言葉を発しようとする者は一人もおらず、奇妙な静けさが立ち込めている。このまま零時まで指示がなければ、待機命令は解かれるようになっているが、それはつまり、何があっても零時前には帰れないと言う事。今はまだ八時半。何もないのに越したことはないが、それでもあと三時間半はこの状態が続く。
しかし誰も、帰りたいなんて言葉は呟きもしない。言えば叶うわけでもないし、イライラを特につのらせている人間の耳にでも入れば、暴動の引き金にもなりかねない。そして全員が最も恐れているのは、その後の制裁だ。それを防ぐ為には、出来る限り平穏にこの時を過ごすしかない。三日前からこんな状況が続いているので、疲れて喋らないというのもあるが。
椅子に逆向きに座り床の一点を見つめ続ける、生ける屍から脱出し、愁は机の一番下の引き出しを開けた。二度ほど、椅子から転げ落ちるまで寝ていたので、特に眠くは無い。
「あれ、どっか行くのか」
「ちょっと猫に餌あげてきます」
「そうか。じゃあ僕も行こうかな」
そう行って高梨は席を立つと背を伸ばし、四万がだるそうな声を出す。
「机に猫缶入れてるやつって、珍しいよな」
「そうですか」
「てゆーかさ、お前だけだろ」
「非常食にはなりますよ」
「ないない」
椅子に座って、天井を見上げたまま、四万は全否定しながら片手を振った。その後ろで、同じ姿勢で上を向いていた班員が、にやにやしながら口を開く。
「んなこと言ってもよ、お前ここで虫飼ってんだろ」
「はあ?何言ってんだ」
「この前机の上にいるん見たぞ。あれ、飼ってんじゃねえのか」
「あること無いこと言ってんじゃねえよ」
四万が座り直して、後ろを振り向く。ここにいたら、不必要な事態に巻き込まれるといち早く察知した高梨が、
「ほら、早く出よう」
と愁の背中を押した。
「クーロー。おーい、クロ」
駐車場でしばらくくろくろ言っていると、数分後に植え込みの中から、身体中に花びらや葉をつけたクロが姿を現した。アスファルトに飛び降り、ぶるぶると身体を震わせてそれらを落とそうとしている。
「小さいな、クロって。何歳ぐらい」
「はっきりとは分からないけど、三歳ぐらいらしいですよ」
高梨が植え込みに腰を下ろし、愁はその場にしゃがみこんでクロの背についた花びらを払った。猫は綺麗好きだと聞いたが、今も、手を舐めて顔を洗っている。
「ところで、缶切り持ってきてたっけ」
「……あ」
左手に猫缶を持って、何もない右手を閉じて開き、
「忘れた」
ぽつりと呟いた。
「いったん戻る?僕は持ってないけど、愁は引き出しに入れてたよな」
「高梨さん」
両手を合わせて、いつになく真剣な顔で見上げた。
「これからすることは、見なかったことにしてくれませんか」
「え、何が」
返答を待たず、愁は服の右袖を引き上げ、義手からナイフを取り出すと手早くそれを使って缶を開け、再びナイフを戻し、何事もなかったかのように袖を下ろした。
「はい、ここまで」
「……知らなかったな。そんなものが入ってるなんて」
「まだ誰にも言ったことないんですよ」
いつもの、気の抜けた顔で笑った。それを見て、高梨は苦笑する。
「分かったよ。でも、それは隠しておいたほうがいいな。特に上の方には」
ただでさえ、金属義肢はウケが悪いのに、こんな凶器が仕込まれているなんて知れたら面倒な事になるのは容易に想像できた。法律をおいて愁が許可をもらえたのは、その当時の彼は今よりも子供で、それ以上に実力があったからだ。もし、もう少し年齢が上で、弱かったら当たり前に許可なんてもらえなかったはずだ。だから、面倒ごとの種がこれ以上問題を起こすわけにはいかない。
「愁ってさ、意外と危険な橋渡ってるよな」
「適当なだけですよ。実際危険な橋で落ちかけたし」
「どこで」
「いや、なんでもない」
そう言って首を横に振ったとき、植え込みの向こうから人の談笑する声と、幾つかの足音が聞こえた。葉の隙間から、何人かが右から左へ歩いていくのが見える。
「こんな時間になんかあるんですかね」
「どうだろう。花見でも行くのかな」
「夜にですか」
わざわざ桜を見に行くという考えの無い愁は、驚いた顔で瞬きをした
「夜に行って、楽しいんですかね」
「夜桜ってね。昼と違った綺麗さがあるから。それに、大人はなかなか昼には行けないだろ」
「ああ、そうですね」
そういえばこの時期、いつも帰りに前を通りかかる公園で、なにやら大騒ぎをしている人たちがいるが、あれは花見だったのか。今まで特に気にした事は無かったのだが。
「でも夜になったら、結構補導されるんですよね。警察に」
「夜桜なんて思いつかないわけだ」
「帰ってるだけなのに、声かけられるんですよ。きみ、こんな時間に何してるのかなって」
そう言って、不満げな顔をする。
「対策部だって言ってもなかなか信じてくれないし。そのまま派出所まで連行されるんですけど、なんど振り切って逃げようと思った事か」
「余計騒ぎになるだけだもんな」
高梨には、最早縁の無い話だが、愁にとっては結構大きな問題になっている。今日の零時に外に出て、何ごともなく帰れるだろうか。
強い風が吹き、植え込みの向こうを通りかかった人たちが歓声を上げるのが聞こえた。歩道に植えられている桜の木が、惜しげもなくその花びらを宙へ放つ。
舞い込んできた花びらを捕まえようと、クロが前足を伸ばして小さく鳴いた。高梨と愁が藍色の夜空を見上げると、星の代わりに幾つもの花びらが映えていた。すぐに視界を流れていったそれらは、風の行く先を示すかのように、夜空を流れて音もなく闇に溶けていった。 |