6-3 永訣の記憶
暗い夜の住宅街を、愁は一人で歩く。設置されている街灯が、その影を大きく引き伸ばし、地面に浮かび上がらせた。明かりの漏れる近くの民家から、ときおり子供の笑い声が響いてくるが、もはやそれは意識の内に入って来ない。
苦しい。息が出来ないわけではないが、胸の奥を強く握られているような息苦しさがまとわりついている。今日一日ずっと隠し通してきたつもりだが、上手くいっていただろうか。いや、ばれていただろうな。なかなか隠し通せる苦しさじゃない。気持ちが悪い。
うつむいて足を引きずりながら、通りかかった公園へ足を踏み入れる。隅の方の、水飲み兼手洗い場に片手をついて、頭を垂れた。
朝から何も入れていなかった胃からは、胃液しか出てこなかった。焼けつくように喉が痛み、頭ではそれを止めようとするのだが、身体が言う事を聞いてくれない。腹を押さえて、自分の中のものを全て搾り出すかのように吐き続ける。
ようやくそれが治まり、口の中に残っていたものを洗い流すと、水が詰まって咳が出た。止まらない。苦しくて、必死で空気を吸い込むが、すぐに喉で絡んで押し出されてしまう。身体を折って、幾度も咳き込む。あまりにそれが激しすぎて目から涙が零れ落ち、開きっぱなしになっていた口から垂れた唾液と共に、排水溝へ落ちていった。
今自分は、悲しんでいるのだろうか、それとも怒っているのだろうか。
生きている限り、自分のしたことを背負わなければならないのは、自業自得だと信じている。だが、それに何時までも押しつぶされる自分が、たまらなく惨めで情けない。そして、そんなあまりにも無価値な自分に気付き、堪えられなくなる。
死ねば、楽になるのかとも思った。存在自体を消してしまえば、許されるのかとも。
だが、それは出来なかった。こんなくだらない命一つで、全てを清算しようということが、すでに間違いなのだ。許されるわけが無い。そもそも、この臆病な自分に、死を選び実行する勇気があるのだろうか。
ならばせめて、前を向く事ができれば。この、ろくに目も耳も塞げない継ぎ接ぎだらけの身体で、前に進む事ができればと思ったし、周囲もそれを望んだ。
だが、それができないから、今ここでこうしている。苦しくて苦しくて。ちゃんとこの足で立つことができているのかも、分からない。
仕方ないと分かっていても、醜い姿を見透かされ、否定されるのが怖くて、前も見ずに背を向ける。逃げてはいけないと、ちゃんと受け入れなければならないと分かっているのに、鮮明に自分のしたことが映し出されると、必死で逃げる。もう傷つけるのも、傷つくのも嫌で、不器用に目を閉じて、耳を塞ぎ、世界を遮断して、逃げる。
こんな自分が、許されるわけが無い。認めてもらえるわけが無い。
「ちくしょう……」
かすれた、弱々しい声が、喉の奥から漏れ出た。
苦しくて、悲しくて辛くて腹が立って、わけが分からなかった。
頭の中はいっぱいなのに、それでいて、何もないかのようにからっぽで、
「ちくしょう!」
声を上げて、右手を振り上げた。水飲み場の硬い石を叩き潰す為に、それを力任せに振り下ろしかけたとき、
「にゃあ」
と、足元で小さな声がし、手を止めて虚ろな目で見下ろした。首に青いリボンを巻いた小さな黒猫が、惨めで情けない飼い主を、澄んだ緑色の瞳で見上げていた。
「クロ……」
その名を小さな声で呟き、自分がしようとしていたことに気付いて、だらりとその手を下げた。夕方に雨の止んだばかりの、ぬかるんだ地面に膝をつく。
さっきまでが嘘のように、心の中は冷え切っていた。いつものように、クロがその身を摺り寄せていることに気付き、小さな身体を見下ろす。どうして、クロは離れようとしないんだろう。
こんな自分に寄り添うその小さな命が、堪らなく愛しく、こんな自分が飼い主である事が、堪らなく哀しかった。
「ごめん、ごめんな」
膝に頭をこすりつけるのを、そっと右手で撫でた。
冷たい右手は、なんの温もりも届けてはくれなかった。 |