5-4 群青の夜空まで
どうやら、九ミリ弾程度ならこの手は弾いてくれるらしい。相手が引き金を引くと同時に、左手で右腕の部品をスライドさせて、中から引き出したナイフをその銃に向けて投げつけた。逆上がりの要領で、一回転してしまわないように鉄骨の上に立つと、崩れていない橋の方へ飛び退き、少し距離を置いて対峙する。
「……片手で支えられるわけだ」
男の目が、少年の焼け焦げた白い手袋を示した。金属でできた義手が、淡い月明かりを反射する。
「銃でも出てくるかもよ」
しかしそんなものは入っていないし、使い方すらよく知らない。
愁はゆっくりその手を開いて握り締めた。
男は、使い物にならなくなった銃からナイフを引き抜き、そして特に構えることもなく、足を踏み出す。瞬時に速度を増し、流れるような動きでナイフを突き出した。
相手の手を右手で握り締め、刃先を顔から逸らし、愁は左手拳を鳩尾へ滑り込ませた。男は反射的に身体の向きを変え、白い手袋をした手が、その脇腹をかすめる。自分の腕を握っている手を逆に掴み、その軽い身体ごと投げ飛ばした。
宙に浮いたまま地面に両手をついて、一度天地が逆転した。体勢を立て直して身を起こそうとしたが、強烈な蹴りがそれを許してはくれず、愁はなんとかそれを避けて男の背後へ転がり込み、立ち上がりながらその背骨を狙って蹴り返す。
男がそれを避けきれずによろけたところを、間髪いれずに右手を蹴りつける。その手からナイフが飛び出し、橋の手すりにぶつかって高い音を立てた。そのまま流れに乗って殴りつけようとしたが、その右手は僅かに動いた相手の身体の横を通り過ぎ、反対にすれ違った拳で肩口を殴り飛ばされた。堪え切れなかった自分のうめき声を聞きながら、後ろに数歩下がって間合いを取る。
相手も同じ様に向かい合うと思っていたが、ふいに彼は身を翻して駆け出した。反応が遅れてしまったが、すぐにその後を追う。その背中は、すぐに木々の中へ吸い込まれていった。
このまま、街まで降りられてしまったらまずい。同じ様に山の斜面を駆け下りながら、愁は刃を数本握り締めた。繁る葉の隙間からこぼれる月光で、なんとか相手の影は認識できる。突き出す枝に姿勢を低くし、地を這う根を飛び越しながら、一気に三本を投擲した。
だがその直線状に障害物が存在しない状況などはなく、途中の木に遮られ、相手まで届かない。数度試したが、結果は全て同じに終わる。
地面に横たわる岩に、男がすれ違いざまに触れていった。途端にそれは小さな幾つもの塊となって崩れ、その中に突っ込む羽目になる。しかし、スピードは落とさない。
やがて、木々の切れ目が見えてきた。まだ民家の存在するところまでは下ってはおらず、短い草の生えるだだっ広い草原が先にある。それを通り過ぎて下ってしまえば、ただではすまないだろう。なんとかしてここで食い止めなければならない。
愁が斜面を蹴って男の上を跳び越し、その前に立ち塞がると、彼は進路を左方向へと変更した。その先には、倉庫だと思われる、大きな箱の形をしたコンクリートの塊が存在しており、巨大な黒い影を草の上に投げかけている。
そのすぐ横を、二つの影が疾走する。と、前を行く一つが立ち止まり、灰色の壁に片手を押し当てた。
ひたすら追いつくことにだけ意識を向けていた愁は、立ち止まって身構えた。彼の手から走る一本の亀裂が、すぐ右手の壁を駆け抜けていく。だがそれは、大分頑丈に作られているようで、その一撃で崩れ去りはしなかった。
安堵する間もなく、二撃目が放たれた。
先ほどと同じ軌道を辿る衝撃が、コンクリートをさらに深くえぐっていく。それの通った後の壁が、大きな音を立てて崩れ、瓦礫の塊が草地へ突き刺さる。
第一に左側へ逃げる事を考えたが、この壁はかなり高い。とても間に合わないだろう。強く歯を噛み締めて、愁は右手で思いきり、側の亀裂を殴りつけた。
瓦礫の落下した衝撃で地面の土が舞い上がり、辺りに充満する。薄い霧のように視界を遮る砂埃に目を細め、男は壁から手を離した。そこから先のコンクリートは、彼の視認できる範囲では残っていない。数秒前の轟音が嘘のように、周囲には静寂が満ちていた。風のない大気は、一度舞い上がった砂塵をなかなか拭い去ろうとはしない。
ようやく薄まってきた砂の霧の中から、鋭い刃が空気を裂き、男に向けて飛来する。その三本の内二本が、彼の左腕と脇腹をかすめ、パッと空中に赤いまだらを作ったが、右腕を狙った最後の一本はなんとか避けることに成功した。が、次の瞬間には、砂塵から飛び出してきた少年がその身体を渾身の力で殴り倒し、草の上へ倒れたその背中に自身の片膝を押し付け、両手を後ろへねじ上げた。
張り詰めた空気の中で、双方の荒い呼吸がまだ収まり切らない頃、男がくぐもった声で尋ねた。
「何故……」
愁は背後をちらりと見やる。長いコンクリートの壁は、その途中までが完全に崩れてしまっているが、そこから先には一本のひびが入っているだけで、なんとか大地に立っている。視線を下方へ戻し、落ち着いた声で答えた。
「その能力だと、金属を破壊する事はできない」
「知っていたのか」
「いや」
真っ直ぐにその言葉を否定する。そこまで詳しく彼の能力は知らなかった。
「さっき橋を壊したとき、鉄骨だけは崩れずに残っていた」
「ああ。……だが、それ以外は落ちていっただろう」
「力を放射状に張りめぐらせれば、何本かは鉄骨を避けていく。後は、もろくなったコンクリートが自重で落下しただけだ」
分子結合の弱まった基盤が、自らの重さに耐え切れず、無傷な金属だけを残して崩れ去った。彼の力が放射状に伸びていたせいで、何本かは鉄の部分を避けて破壊作業を行っていたのだ。しかし、その力がたった一方向に働いているだけなら、それさえ遮ればその先が壊される事はない。咄嗟に、金属で出来ている自分の腕で、力の直線を妨害した。それだけのことだ。
「捨て身だったんだな」
そう、全てはただの推測に過ぎなかった。しかし、これしか思いつかなかったのだから仕方がない。
どこか可笑しさを滲ませながら呟く男に、今度は愁が問いかける。
「答えろ。お前達の目的はなんだ」
「……目的、か」
少し間を空けた後、ようやく彼は口を開く。
「あるといえばあるし、無いといえば無い」
「そんな事を聞いているんじゃない」
わけのわからない言葉に、愁は冷たい声と共に手首をねじ上げる手に力を込めた。その痛みからか、男は少し顔をしかめる。
が、愁の方へ向けた虚ろな瞳には、まだ言葉を重ねる余裕の影が映る。
「意味の無いことなんて、たくさんあるだろう……」
そして「意味無く人を殺しているのか」と聞き返されるより早く、彼は瞼を閉じ始めた。
自ら意識を手放した男を見下ろし、愁はため息をつきながら立ち上がる。器用な人間は、自分の意思で気絶できると聞いた事があるが、彼もその類なのだろうか。
一応、一般人に被害を及ばさないという最低限のことは完遂したが、どうしようもない虚無感だけが残った。それは何故かと考える前に、無線機を手に握る。
頬に何かが触れるのを感じ、空を見上げた。いつの間にか月や星は雲に覆われ、小粒の雨が草地に注がれだしていた。
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