33. 意義ある救世主
また、朝がやってきた。
赤く染まっていく東の空を視線の端でとらえた哀は、深いため息をつく。
胸裏とは関係なく陽射しを浴びて明るくなっていく町並みは、彼女にとって疎ましいものにしか見えなかった。
昨夜、この部屋に逃げ込んでから、疲れきった頭であれこれ思い巡らせた。
自分が手にした『結論』は、彼を苦しめているのだろうか。
彼の心の闇が消える時、自分の心にも火が灯るのだろうか、と。
しかし、考えれば考えるほど深みに嵌っていく。
ただ、時間だけが過ぎていた。
大きく伸びをして時計をみると、針は6時を指している。
あと1時間もすれば、博士が呼びに来るだろう。
でも、あんなコナンの様子を見た後で、同居人たちにいつもと変わらない態度で接するには無理があった。
そこで哀は、朝食だと呼びにきた博士にドア越しで断りをいれ、2人の探偵たちと博士が出掛けた頃を見計らって
リビングへ行き、ひとりきりのブランチを取った。
静かな空間と心を落ち着かせるコーヒーの苦味が、今の彼女にはちょうど良かった。
食事をしていても、ふと浮かんでくるのは昨晩の苦悩の色が滲んだ彼の顔。
あの顔をさせているのは、自分なのだ。
逃れられない罪悪感。
それでも、前へ進もうと哀に思わせてくれたのも彼だった。
夕方、コナンだけが先に帰宅した。
昨日のことが頭から離れず、重要な作戦を考えなければならない現段階では自分は役に立たないと自ら判断した
からだ。
夕食も取らずに早々に自室に引き上げていた。
そして6時を廻った頃、平次が帰ってきた。
その時、早めのお風呂に入っていた哀は、湯上りに平次と出くわした。
「ただいま。」
「・・・おかえりなさい。」
昨日の話のせいか、哀は少しぎこちない挨拶の後、居たたまれない表情を見せていた。
「大丈夫なんか?」
ソファーにドカっと腰を下ろすや否や、彼女の体調を気遣う平次。
「ええ。」
答えた哀の様子から、彼は昨日とは違う憂いを感じた。
「なんかあったんか?」
彼女は平次の問いには答えず、昨日のことを確認する。
「昨日、工藤君に話してくれたのよね?」
その言葉から平次は自らの思惑の成功を察したが、予想以上の早い結果に驚く。
「そうやけど・・・、あんたがそれを知ってるってことは、あの後工藤と話したんか?」
「ええ。昨日の夜中に、偶然ね。」
昨日、平次と話した段階でもコナンはかなり滅入っていた。
あの状態で彼と話したのであれば、それは哀にも少なからずダメージを与えたであろう。
また、哀が自分を責めているのではないかと平次は心配になったが、そこには触れない方がいいと判断して
そのまま会話を続ける。
「あいつ、何か言うてたか?」
「もう少し考えさせて欲しいって。それだけよ。」
そう言って目を伏せた哀に、平次は遠まわしのフォローを入れた。
「そうか。まぁ、後は工藤が決めることやからな。俺らは信じて待つしかないやろ。」
平次の言葉に哀は何の反応も示さない。
ただ、結局『コナンを信じて待つ』こと以外できないとお互いに感じていた。
「あ、そうや。」
突然、平次は何かを思い出したような比較的軽い口調で声を上げる。
しかし、次に聞こえた台詞はその調子には全く見合わない重いものだった。
「決まったで、作戦実行の日。」
その言葉に、哀の心臓が大きく波うつ。
「いつ?」
尋ねた彼女の声は震えていた。
「5日後の日曜や。」
いよいよ、最後にして最大の戦いが始まる。
恐怖から哀は戦慄を覚えたが、それ以上にこの戦いに勝たなければ、自分達の未来はないのだと自身に
言い聞かせた。
そして、やらなければならないことを思い出す。
「ちょっと待ってて。」
平次に言い残してリビングから出て行った哀は、数分後あるものを手に戻ってきた。
「これ、あなたの幼馴染の分。」
彼女から平次に手渡されたのは、オレンジ色の携帯電話だった。
「和葉の分か?」
「ええ。工藤君は、あなたに大阪へ帰るように言ってるけど、彼にも今回の計画にもあなたは必要だわ。
私も・・・悔しいけど、あなたが来てから救われた。まさに救世主だったわね。」
そこで哀は一旦言葉を切ると、突然平次が現れたあの夜の事を思い出しながら微笑んだ。
彼女の表情に、彼もまた少し報われた気がした。
「このままあなたが計画に加わることになれば、彼女にも蘭さんと同じように危険な目に遭わせてしまう
可能性がでてくるわ。だから、これを渡してあげて。あなたの携帯電話で、彼女の居場所が確認できる
ようにするから。今晩にでも博士に頼んでおくわ。」
自分自身のことで精一杯なはずの哀が、そんなことまで考えてくれていたことに平次は驚き、それが彼女を
さらに追い詰めていたのではないかと思うと心苦しくなる。
「・・・すまんな。」
「謝らなければならないのは、私のほうよ。巻き込んでしまって、ごめんなさい。勝手だってわかってるけど、
あなたの力が必要なのよ。私にできることは、こんな事くらいだから。」
平次に頼らざるを得ない自分の非力さへの怒りと、巻き込んでしまった彼への罪の意識。
それらを抱え、彼に心から申し訳ないと思っていても、哀は『コナンを無事に連れ戻す』ことを最優先して
しまう。
そして、それが今の彼女を突き動かしていた。
「それで?実行までに、一度大阪へ帰るんでしょ?」
哀は、明日以降の平次の予定を確認するために尋ねた。
「そうなんやけど、その前に和葉をこっちに呼び寄せようと思うてんねや。」
平次の意外な計画に、哀は彼の大切な幼馴染の身を案じる。
「そんなことして大丈夫なの?」
彼女の心中を察してか、平次はことの次第を詳しく説明し始めた。
「今日、遅なったんはそれをジョディ先生達と相談してたからなんや。体調の悪い姉ちゃんを1人で大阪に
行かすんは無理があるし、毛利のおっさんも説得せなあかんやろ?和葉がおったほうが、うまく事を
進められると思うんや。」
「でも、あなたの幼馴染の安全は確保できるの?」
「ああ。それは、もう先生達に頼んであるから大丈夫や。今すぐ、奴らが攻めてくる可能性は低い言うてた
から、このタイミングを逃す手はないやろ。和葉を危険な目に遭わすようなことは、絶対にせえへんから
心配しなや。」
平次の真剣な表情が、哀に彼がどれほど和葉を大切に思っているかを伝えてくる。
「ほんで、おっさんに姉ちゃんを預からしてもらうことを了解してもろたら、2人を連れて大阪に帰ろうと
思うてんねん。俺のオトンにも事情を説明せなあかんし。で、実行までに東京に戻ってくるわ。その方が
工藤も安心するやろ?」
確かに今、蘭一人を大阪に行かせることは危険である以上に不可能に近い状態だ。
平次と和葉が付き添ってくれれば、これほど安心なことはない。
そして、それはきっとコナンも同じであろう。
「そうね。」
哀は、全てを熟慮し行動してくれている平次に心の中で感謝した。
彼女の同意に満足しソファーから立ち上がって大きく伸びをした平次は、独り言のように呟いた。
「さて、和葉に連絡せなな。」
ところ変わって、大阪。
和葉は、いつも通りの学校生活を送っていた。
今日は終業式だったため、2週間ほど会えない友人たちと別れを惜しんで、夕方まで喫茶店で世間話に
花を咲かせた。
でも、たったひとつ、いつもと違うこと。
それは、平次がそばにいないこと。
突然、『東京に行ってくる』と言われ『いってらっしゃい』と送り出したのは、もう1週間近く前のことだった。
いつもなら彼女もついて行くのだが、一緒に行こうと誘われなかったことと、事件ではないからすぐに戻って
くると彼が言っていたこと、さらに学校があるという3つの理由から同行を断念していた。
以来、電話もなければメールすら届かない。
彼の不在は日を追うごとに和葉の心を悩ませていく。
それでも、終業式までには帰ってくるだろうと言い聞かせて過ごしてきた。
しかし、結局彼は帰ってこなかった。
一体、何をしに東京へ行ったのだろうか。
事件でもないのに、終業式さえも出席しないとはどういうことなのか。
事件以外で平次がこんなに自分のそばを離れたことなど、今までに一度もない。
それが、どうしようもなく和葉を不安にさせていた。
「へーじ・・・。」
先程まで友人達と賑やかに過ごしていたのが嘘のように静まり返った時間と共に、薄暗くなっていく自室で
彼女の声が虚しく響く。
呼びかけた声に彼の返事はない。
それが、どうしようもなく悲しかった。
そんな時、突然鳴り響いた音。
平次専用の着信音。
和葉は慌てて携帯を取り出し、通話ボタンを押す。
『久しぶりやな。』
聞こえてきたいつもと変わらない彼の声に、和葉は安心感と怒りが同時発生した。
「久しぶりやあらへんわ!あんた、どこにいてんの?」
『東京や!そう言うたやろ?』
「そやけど、あんた今日終業式やってんで。事件でもないんに出席せんと、何してんの?」
『あ・・・今日、終業式やったんか。すっかり忘れとったわ。こっちにおると、時間の感覚がめちゃくちゃやな。』
「忘れてたって・・・。」
和葉は、呆れて声も出ない。
だが、すぐにそれにも気付かないほどの出来事があったのではないかと思い直す。
「平次、何してんの?事件なん?」
2度目の同じ質問に、平次の声のトーンが少しだけ下がった。
『あぁ、ちょっとな。』
「何なん?何があったん?」
はっきりしない平次の雰囲気に、和葉は言いようもない胸騒ぎを感じる。
「ちょっと平次、ほんまにな・・・。」
『和葉、ちょっと頼みがあんねんけど。』
苛立ちをみせる彼女の言葉を遮って、平次は言葉を挟んだ。
彼が改まって和葉に頼みごとをすることは、そう頻繁にあることではない。
いつもと違うことが、なおさら和葉を不安にさせる。
「なに?」
『明日、朝一で東京に来てくれへんか?学校休みやろ?』
それは、意外な申し出だった。
今回、平次が学校を休んでまで東京へ行き、連絡が1週間近く取れなかったとことには、なにか理由がある
はずだ。
それについて曖昧な態度をとり続ける割には、自分を呼び寄せるとはどういうことなのだろう。
思いを巡らせてみるも、和葉には全くわからない。
唯一、今の自分にできることは、彼の望みを叶えることだけだ。
「それはかまへんけど、なんで?」
『毛利の姉ちゃんが、体調を崩したらしくてな・・・』
そこまで平次が言った途端に、和葉の声が割り込んでくる。
「ほんま?!蘭ちゃん、大丈夫なん?」
『あぁ、大丈夫らしいねんけど、一応様子見て欲しいんや。』
彼の言葉に安心し、その依頼を快諾しようとした時、彼女の脳裏に疑問がぽつぽつと浮かんでくる。
「でも、なんであたし?毛利のおっちゃんや、園子ちゃんもいてるやん。」
『そうなんやけどな、お前も心配やろ?』
「それはそうやけど・・・。」
平次は、電話の奥で苦笑いを浮かべていた。
さすが女の勘というか、平次と長年幼馴染をやってきているだけのことはある。
僅かな違和感を論理的にではなく、感覚的に察知しているのだろう。
「平次、何かあったんやね?」
3回目の和葉の言葉に、平次はこれ以上ごまかすのは無理と判断し、答えを先延ばしにするという方法をとる。
『まぁ、詳しいことは和葉がこっち来てから話すわ。』
その言葉に、和葉は自分の不安が間違っていないであろうことを悟った。
(限界や・・・。)
この不安を抱えて一晩過ごすことなどできない。
そう思った和葉は、思いついた名案を彼に提示する。
「あたし、今から東京へ行くわ!」
『なんやて?!』
思いも寄らない提案に、平次の声が飛び跳ねる。
「やって、行かな話してくれへんのやろ?だから、今から行くねん。」
『そやけど、お前・・・。』
「ええやん。蘭ちゃんのことも心配やもん。それに様子見て欲しい言うたの、平次やん。今からやったら
最終にも間に合うし。」
『ちょお、待て!和葉!』
「ほな、時間ないから切るな。東京駅まで迎えよろしゅう。」
一方的に電話を切られた平次は、唖然としながら携帯電話のディスプレイに表示される『通話切断』の文字を
眺めていた。
「ほんま・・・しゃあないなー。」
彼はため息をつきながらも、数日振りに和葉に会えることにどこか嬉しさを覚えてしまう。
そして、彼女が来るまでの時間を利用して準備を整えるため、リダイヤルから目当ての電話番号を選択し
通話ボタンを押した。
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