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野良怪談百物語

クモノイト

作者: 木下秋

 俺は焦っていた。すっ――ごくな。先輩との、“飲み”の約束があったからだ。


 時間は二十時、駅前の噴水広場で。その約束をしたのは、昨日の夜。


 もちろん覚えていた。忘れるわけなんかないさ! 三年くらい前からよくしてもらってる、大事な先輩との約束だ。ただ、日も暮れかけた頃、俺は前日もサークルの友人たちと“飲み”があったもんで、急に眠気に襲われた。十五分くらい寝るかぁーってな感じで、目を瞑った。そしたら……この有り様だよ! 俺は左腕に巻いたG-SHOCKを見る。……『19:55』。ヤバイ……オコラレルッ‼︎


 俺は超速で服を着替え、サッと顔を洗うと、髪を整えた。……でも、あえて寝癖を全て直しはしなかった。「急いで来たので……」っつう、演出の為だ。ここだけの話な。


 玄関に向かい、靴を履こうとする。――するとそこで、俺は妙な感覚を覚えた。


(……またかッ!)


 顔に、ツッ……と何かが引っかかる感覚。俺は「んあぁ……!」とか言いながら、宙に浮きあがった納豆のねばねばをまとめるように、右手をぐるぐる回した。


 ――最近、なぜか妙に“蜘蛛の糸”が顔に引っかかる。俺の肩の辺りに常に住み着いてンじゃねぇか、ってくらいに。確かに俺の住んでる所はボロアパートで、部屋は散らかり放題なのだが、部屋でだけでなく、街中を歩いていたり、大学に居たってそうなのだ。顔に、ツッ……と。それは間違いなく、小学生ガキの頃の夏、父とカブトムシを獲りに山の中へ入って行った時――木の間を通り抜ける時に、顔に引っかかったあの“蜘蛛の糸”と、同じ感覚なのだ。おれはこの感覚をここ最近、三日に一回くらいのペースで感じていた。今日に至っては、二日連続だ……!


(ハッ……それどころじゃねェ……!)


 俺はまたG-SHOCKを見た。……『19:58』。


 (とりあえず、電話!)俺はポケットからスマホを取り出しながら、玄関の扉を開けた。



     *



「……先輩を待たすなんて、オメェ偉くなったもんだな」


 ビールの泡を口髭に付けたまま、先輩は言った。座った目でジロリとめ付けられて、俺は小さくなる。


「……だから、スミマセンってェー……。ホラ、寝癖も直さないで、急いで来たんスから……」


 俺はわざわざ直さないできた頭頂部の寝癖を、てのひらでチョコチョコ触りながら言った。「ふん、どうだか」と、小さく言いながら、先輩はグビリと中生を飲む。


 一見“その筋の人”的な風貌ふうぼうの先輩だが、こう見えてこの人、実は優しい。今も怒っているように見えるが、“実はそんなに……”なのだ。ただ、持って生まれた強面コワモテと、その大きな体格に圧倒されて、大抵の人は――付き合いの長い俺ですら、ビビってしまう。……まぁ先輩の方はというと、その事がずっと“悩み”だったようなのだが……。


 ――ちなみにここは俺と先輩の地元の、駅前の大衆居酒屋の個室だ。今から三年くらい前、俺と先輩はこの居酒屋で出会った。お互いバイトとしてだ。俺はその頃大学一年生で、先輩は三年生だった。俺は仕事だけでなく、いろんなことを先輩から学んだ。麻雀とか、パチンコとか……スロットとか…………。……まぁそんなようなことをだ。先輩は大学を卒業すると、なんともあっさり、簡単に就職した。今もこの風貌のくせして、普通に毎日新橋に通ってサラリーマンやってるだなんて、なんだか笑えてくる。……なんてことはもちろん先輩には言えないケド。しかし、つまりそのくらい、学生の時は色々な意味で、メチャクチャな人だったのだ。……ちなみに、法に触れるようなことはしていないですよ、と、彼の名誉の為に一応言っておく。


「ところでお前よぉ。最近コッチの方はどうだ」


 先輩は右手に持ったジョッキを離さぬまま、左手の小指を掲げた。……説明する必要もないと思うが、“女”って意味だ。


 俺はニヤけながら言った。


「いやぁー……それが全然でして……」


「嘘こけ、テメェー」


 先輩がガハハ、と豪快に笑う。


「美咲チャン、どうした」


「……フラレました」


 俺は平静を装って言ったつもりだったのだが、自分の顔が強張るのを感じた。


 先輩は大して驚かない様子で「おぉ、マジか」と返してくる。


「どうして。なんかあったんか? ……付き合って、二年とかになるんじゃなかったのか」


 美咲とは大学のサークルの同級生で、先輩の言う通り、二年前から付き合っていた彼女だ。しかし少し前に、彼女とは……色々あって別れたのだ。


「いやァ……。色々あって」


「ふぅーん……」


 先輩は深追いもせず、ジョッキの底に溜まった最後の一口を、一息に飲み干した。



     *



 その後俺と先輩は、近況報告やバイト時代の話などを交え、よく飲み、よく笑った。


 三時間以上が過ぎて、そろそろ話すことも無くなってきたな、というところで、個室に数秒の沈黙が流れた。……俺はおしゃべりな性格上それに耐えきれず、頭の中で引っ掻き回して話題を探した。


「あっ、そういや最近、“蜘蛛の糸”が顔に引っかかるんですよ」


「“蜘蛛の糸”ォ?」


 先輩が聞き返してくる。


 俺は最近何故か顔によく引っかかる、“蜘蛛の糸”の話を先輩に話した。家でも外でも、顔にそれがツッ……と引っかかること、今日家を出る前にもそれがあったことなどをだ。


 簡単な話題提供、話のキッカケとして話しはじめたつもりだったのだが、先輩はそれを真面目な顔で聞いていた。


 全て話し終えると、先輩は唐突に聞いてきた。


「なぁ、美咲チャンとはなんで別れた」


 俺はあまりに突然だったので、「えっ」としか言えなかった。


「……まさか死んでなんかいないよな」


 陽気な居酒屋の店内にあまりに似合わないその一言に、俺はゾッとした。



     *



 最初に言っておくと、美咲は死んでなんかいない。別れた後でも、大学の授業などで見かけるんだから、それは間違いない。


 ――ただ、美咲は以前のようにサークルには顔を出さなくなった。……俺のせいだ。


 俺は美咲と付き合い出してから一年後くらいから、浮気をしていた。二股をかけていたんだ。それも、同じサークル内の女の子、苑子そのこと。


 しかも苑子は、美咲の仲のいい友達だった。


 きっかけは、ある日のサークルの飲み会。その日はたまたま美咲がバイトで来れなくて、仲間たちとたらふく酒を飲んだ後、記憶を無くした。――そして朝起きたら俺はベッドに寝ていて、隣には苑子が寝ていた。


 苑子に「好きだ」と言われて、俺は美咲がいるから無理だと言った。だが、苑子は引かなかった。「“二番目”でいい」と言われたんだ。「付き合ってくれなければ、“このこと”を美咲に話す」とも。


 ――俺は美咲が好きだった。これは事実だ! だから、苑子に“そのこと”を話されてしまうのは、避けたかった。そして――俺は正直なことを言うと、苑子も嫌いではなかった。苑子には、美咲以上の魅力がある“トコロ”も、あったんだ。


 ――こうして二股をかけ、二人と同時に付き合って、一年が過ぎた。苑子の方は美咲に気を使って、クリスマスや俺の誕生日といった記念日には美咲と過ごすことを許してくれたから、バレることはなかった。だが三週間ほど前、ついにその時が来た。同じ学校の美咲の友達が、俺が苑子と会っているところを街で見つけ、美咲に言ってしまったんだ。


 苑子と会っていた日から二日後、地獄の修羅場三者面談が俺の部屋で行われた。結果は……酷い有様だった。美咲は泣き叫び、俺は必死にそれをなだめた。


 しかし、俺はだんだんとその泣き叫ぶ美咲が“うっとおしいな”と感じていた。もちろん罪悪感はあったが、そんなに泣かれたってもうどうしようもないことだろうと。


 俺は、もう美咲ではなく、苑子のことが好きになっていたんだ。俺はそのことを美咲に告げ、別れた。


 美咲は俺の部屋を出るとき、最期にその泣き腫らした真っ赤な目で俺を睨んだ。俺は、目をそらすこともできずに、ただその場で固まってしまった――。



     *



 全てを話し終えると、それまで黙ってウンウン頷き聞いていた先輩は、


「最低だな」


 と言った。俺はまたもや小さくなる。


「はい……」


 先輩は深く息を吐き、腕を組む。


「本当に悪いことをしたな、とは思っています……反省してます……」


 絞り出すようにして、そう言った。


「おめェがここでそんなこと言ったって、美咲チャンは許してくれねぇだろうな」


「……はい」


 その時、不意に顔に、ツッ……という感覚が走った。


 俺はビクリと肩を震わし、右手を払った。


 先輩の顔が視界に入る。すると先輩は、俺の右肩の辺りの空間を、ジッと睨んでいた。


 全身に鳥肌が立った。――そんな。まさか……。


「先輩……。何が見えてるんスか」


 先輩は視線を動かさない。


 俺の顔をまたもやツッ……と何かが撫でる。すると、今回は今までと様子が違った。


 今まで一本だったのが、今回は何本もの糸だったのだ。それは顔のあちこちを撫でた。さらに首まで伸び、絡んだ。


 俺は思い出した。美咲とベッドの上で重なり合った時、俺の顔の上にかかってくすぐったかった彼女の髪の毛の感覚を――。


「……先輩……。どうにかなりませんか……?」


 俺の声は、泣き声のように震えていた。


 先輩は視線を俺の顔に戻す。


「……まぁ、“ソノコ”と別れて、美咲チャンにキチンと謝罪するってこったな」


 先輩は鞄から鍵の付いた束を出し、ジャラジャラ鳴らした。その中には――先輩の愛する大型バイクの鍵がある。


「行くか」


「……はい」


 俺は手元にあったおしぼりを取り、顔を拭いてから先輩と共に個室を出た。


 もっと恐ろしいことは、これから始まるんじゃねぇか……。そんな気がした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今作に限らずですが、ダブルクォーテーションマークを多用しすぎではないですか? もともと、英文の引用符ですし、別に必要なさそうなところや、ルビで棒点を付けた方がいいような所がかなり有るような…
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