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野球ものシリーズ

君に届けるこの一球

作者:足軽三郎
 その瞬間は未だに覚えている。


 延長十回裏、アウトは二つ。こちらが守り、相手が攻めだ。あと一つアウトを取れば、攻守交代。何とかそこまで漕ぎ着かなければ、次は無い。


「水上、落ち着けよ。球はまだ走ってるからな」


「分かってる」


 キャッチャーの土浦に頷く。この一年間、俺の球を捕り続けてきたお前の言葉だ。信じるよ。もう一度頷く。そう、今がサヨナラのピンチだとしてもさ。俺とお前なら切り抜けられる。


 ランナーは一塁、三塁。ポテンヒットで、先頭打者を出したのがまずかった。バントで進められ、そこからまさかの三盗だ。次打者は打ち取ったのはいい。でも、そこから四球はいただけないだろ。


「ここさえ抑えればいい。俺達の打順は一番からだ。一点取れば逃げ切れる」


 小声で囁きながら、俺はベンチの方を見た。声援を送ってくれるメンバーの中に、小柄な人影が見えた。そうだよ、あいつを甲子園に連れていく。そう約束したんだからな。


 目を一度合わせた後、土浦は大きく両手を挙げた。「締まっていこうぜー!」とナインに声を張り上げてから、ホームに戻る。タイムは終わった。観客の声援、そして両校のブラスバンドの演奏が、夏の陽射しを貫いて俺の耳に届く。
 プレッシャーが無いと言えば嘘になる。だが、それに泣き言いうほどやわじゃない。


 プレートを踏む。セットポジションで構える。百二十は優に越える球数を投げ、体は悲鳴をあげかけていた。
 けれど、これまでに繰り返してきた練習通り、俺の体は白球を18.44メートル離れたホームベースへと投げ込んだ。


 その瞬間は良く覚えている。変化球を使う余裕は無くなっていたから、球種はストレートだった。球威は十分、だけど外角を狙って投げたのに、ボール二個内側に入った。


 相手の右打者が、思いきりバットを振り抜く。捉えられたと思った瞬間には、俺の速球は弾き返されていた。左中間を切り裂く打球を見送る絶望感に襲われながら、ただ見送ることしか出来なかった。


 観客がどよめく。絵に描いたようなサヨナラ劇だ。勝ったチームの応援校は最高潮のボルテージで以て、負けたチームの応援校は悲鳴をあげて、このドラマチックな瞬間を認識する。


 打たれた。負けた。サヨナラ?


 膝から崩れ落ちた。気力がこそぎ落とされ、目の前が暗くなった。くそ、なんで、どうしてという思いがグルグル回る。だけど、うずくまってはいられない。
 あえぎながら立ち上がる。視界の片隅でベンチを捉えると、君が見えた。顔をくしゃくしゃに歪め、口許を華奢な両手で覆っていた。


 その日、俺達の甲子園への夢はあと一歩のところで断たれた。掴みかけた埼玉県代表の座はするりと逃げて、涙の後には虚脱感しか残らなかったな。



******



「おーい、水上。七回からリリーフ行けるか?」


「ええ。というか、俺しかいないんですよね」


 ベンチから立ち上がり、俺はぽりぽりと右頬を掻いた。使い慣れたグラブを左手に、スパイクを土に噛ませる。まだうちのチームが攻撃しているけど、準備(アップ)はしておかないとな。


「うむ。お前がうちの大黒柱だからな」


「単なる戦力不足でしょう。ま、いいです。回またぎだってやりますから」


 軽口を叩きつつ、投球練習を始める。長年投手やってると、こういう動作も習慣になる。軽いキャッチボールで体を目覚めさせてやる。キャッチャーを座らせてからは、七分程度の力で投げ込む。指から離れた白球は、伸びのいいストレート。その後は、持ち球の変化球を一球ずつだ。


「裕司さん、調子いいですね」


「いや、いつも通りだろ。と、そろそろ出番かな」


「そうすね、悲しいけど」


「これもいつも通りなんだよな」


 うん、うちあんまり強くないからな。特に打順が下位打線だと、手も足も出ないんだよ。相手も所詮独立リーグの投手とはいえ、うちは同レベルかそれ以下って訳だ。俺も他人のこと言えた立場じゃないけどね。


「スットライーク、バッターアウト!」


 審判の声が響く。観客も疎らな野外球場だからか、やたらと通りがいい。いい加減慣れたけど、最初は戸惑ったもんだ。NPB――日本プロ野球の試合とは、何もかも違うんだなと。


 攻守交替、試合は終盤七回へ。よし、俺の出番だな。抑えに繋ぐ為のセットアッパーが、ここ最近の俺の役目だ。





 空を仰ぐ。抜けるような青空の下、マウンドへと歩く。土の匂いが鼻をくすぐる。右手に握ったロージンバッグは、パフと軽い音と共に微かに白煙を立てた。気持ちに火がはいる。


 キャッチャーのサインは、外角低めへのカーブ。うん、妥当だな。定石通り。いきなりインサイドは危険だし。


「っし、行くか」


 小さく呟き、俺は構える。いいさ、別にここがドームのマウンドじゃなくたって。俺は投手で、バッターに向かって投げるって点は変わらないんだからな。


 回の初めだからランナーはいない。余計な緊張もない。体の回転軸を意識して、テイクバック。マウンドから見下ろす風景は、投手にとってはいつも同じだ。俺の球に食いつこうとするバッター、俺の球を捕球しようとするキャッチャー、その背後に立つ審判の三人だ。球場の看板や観客は添え物に過ぎないんだよ。


 だから俺は今日も投げる。


「ふっ」


 短く息を吐き出す。オーバースローで右腕をしならせる。下半身で生まれた動力、そいつを肩、肘、そして指先へ。リリースされたボールは、カーブ独特の浮かんでから落ちるような軌道を描いた。バッターは見送り、そのまま外に構えたキャッチャーのミットに納まる。


 どうだ。


「ットラーイク!」


 晴天を突いて、審判のコールが響く。ああ、今日も野球をやってるなあと、俺は思うんだ。例えこれがマニアックな独立リーグだとしてもさ。




 水上裕司、二十九歳。職業、プロ野球選手、一応な。所属チームは、武蔵ゴールドイーグルス――独立リーグの一つ、ルートインBCリーグの中のチームだ。ポジション、投手。それが今の俺の社会における立ち位置さ。元NPBの選手が、復活を賭けてしがみついている......端から見るとそんな感じ。



******



 用具係がいるNPBとは違い、独立リーグにはそんな贅沢な要員はいない。試合が終わって挨拶すれば、後は自分達でお片付けだ。疲れた体に鞭打って、バットをまとめたりグラウンドにトンボをかけたりするってこと。


「はー、何とか勝ったのはいいけどさ。うちの抑え、誰か他にいないのか? 今日も結局、俺が最後まで投げたんだぞ」


「や、しょうがないっしょ、ユージさん。田村の奴、故障してるんですから。ユージさんしかロングリリーフ出来ないんだし」


「毎試合、三回投げさせるとか殺す気かね......俺もう二十九歳だぞ」


 愚痴とも冗談ともつかない、だけど割りと本音を俺は答えた。正直もう一人か二人、うちのチームは中継ぎが欲しいよな。レベルを問わなければ、一応いることはいるんだけど。
 そんなことを思いながら、俺達はトンボをかける。試合後のグラウンドが、一歩ごとにならされていく。


「ユージさんは今年のトライアウト受験するんですよね」


 不意に聞かれた。俺は軽く頷き、トンボを握り直す。


「うん。そのつもりだ。肘も直ってきてるしな」


「そうですか。確かにユージさんならいけるかも。何たってうちの中継ぎエースですしね」


「今、防御率いくつでしたっけ? 2点切ってましたよね」


「たまに150キロ近く出てるし、エグいっすよ。本当に味方で良かったと思いますもん」


 俺の返答に皆が反応してくれた。いや、誉めてくれるのは嬉しいし、トライアウトも受けるんだけど――ちょっと不安があるのも事実だ。けれど止めとこう、今考えても仕方がない。


「ありがと、でも今はシーズン中だ。そっち優先で考えようぜ」


 締め括る。ベンチ近くまで戻り、丁寧にその辺りもならしておく。全てを終えてから、俺はトンボを所定の位置に置いた。立ち去りかけたその時だ。ふと気配を感じ、俺は顔を上げた。ベンチのちょうど真上も観客席になっているんだが、そこに誰かがいた。


 黄とオレンジが混じった陽射しが、まず目に入った。もうこんな時間かと思う。けどそれ以上に、視線はその人物の顔に吸い寄せられた。


「あの、こんなところから声をかけてすみません。水上裕司さん......ですよね。大宮南高校の野球部で投手されていた」


 とくん、と一つ心臓が跳ねた。下はロングスカートに、上はカジュアルなデニムのジャケット姿の女性が一人。
 長い黒髪が微風に揺れている。それを整えた華奢な手にも、その横から覗く色白の顔にも見覚えがあった。記憶が鮮やかに巻き戻る。甲子園を夢見て、日々厳しい練習をこなしてきたあの頃へ。サヨナラ負けを喫したあの最後の試合へ。


二舟(にふね)さん?」


 それでも半信半疑だったから、呆けたような声しか出なかった。


「良かった、覚えていてくれたんだ。久しぶり、水上さん」


 女性――二舟祥子は柔らかい笑みを浮かべて、答えてくれた。あの頃と変わらない声だなと、脈絡も無く思ってしまった。






 思いもよらない再会なんて、俺の人生には無縁だと思っていた。だけど、こうして実際に起こると不思議な気分だ。現実感が無いという感覚の裏で、いや、そんなもんだってという感覚もある。


「十一年ぶり、かな。二舟さんと会うのは」


「そうなるね。高校卒業から会ってなかったから。やだ、もうそんな昔になるんだ」


「見事なまでのアラサーだよな、二人とも」


 わざとおどけながら、俺はコーヒーを啜る。ファミレスの安っぽいコーヒーでも、気持ちを落ち着ける手助けくらいにはなるだろう。突然の再会による動揺の後、俺は何を話したものかと考えていた。


 二舟祥子さん......俺にとっては、高校時代に野球部でマネージャーをしていた二舟さんだ。
 球場で見た時は、あの頃と変わらないなと思った。だけどこうして間近で顔を合わせると、やっぱり変わった部分はある。例えばそれは、上品な薄化粧だったり、目元に浮かぶ僅かな疲労感だったりだ。


 十一年という月日は軽くないと思った時、二舟さんが口を開いた。


「ごめんなさい、突然訪ねてきて迷惑でした?」


「いや、それはない。ただ、びっくりしただけだよ。前触れも何も無かったからね。というより、わざと?」


「わざとって?」


「言い直すよ。うちのチームの試合を見ていて、たまたま俺を見つけたのか。それとも俺がいることを知った上で、試合を見にきたのか。どちらなのかなと思って」


 と言いつつも、もし前者だったらびっくりだけどな。独立リーグの試合を見に来るファンなんて、余程の野球ファンか――いや、野球マニアか、あるいは物好きかだから。


「水上さんがいることを知ってたから、だよ」


 ビンゴとも言えないな。そりゃ普通に考えたらそうだろう。俺はコーヒーカップを置いて、わざとおどけた声を出す。


「それはどうも。旧友の顔を見たい気分ってやつですか。こんな顔でよければ、いくらでもどうぞ」


「......そうかもしれない」


「え、そうなの?」


 二舟さんはポツリと呟く。俺の間の抜けた返事に、彼女は生真面目に頷いた。客とウェイトレスの応答をBGMにして、二舟さんは語り始める。


「この前ね、水上さんは来なかったけど、野球部の同窓会があったの。三ヶ月くらい前にね」


「ああ、言われてみればそんな気もするな。俺は遠征の都合で行けなかったけど。そうか、楽しかった?」


「うん。十年以上経つのに、皆と会ったら普通に話せて。とても楽しかったよ。皆も私のこと覚えていてくれたし」


「普通覚えていると思う。二舟さんがマネージャーやってくれなかったら、うちの野球部は成り立たなかったし」


 これは本音だ。二舟祥子はマネージャーとして優秀だったと思う。用具の点検や対外試合の調整などは、地味で根気のいる仕事だ。でも、それを二舟さんは淡々とこなしていた。時には「元気ないよ、皆!」と俺達を励ましながら。


「やだ、そんなことないよ。私はマネージャーとしての役割を果たしただけだし」


 首をかしげながら、二舟さんは小さく笑う。俺の心がズキンと痛んだ。最後の試合のサヨナラ負けが、また首をもたげた。
 叶えてあげたかった、でも出来なかったんだよな。微かな痛みをコーヒーの苦味で打ち消した。目だけで促すと、二舟さんはまた口を開いた。


「今何してるのとか、結婚したかとかどこにでもあるような事話してたの。その内に自然と皆、水上さん......水上君の事を話してた」


「......そっか」


「うん。やっぱり水上は凄いよな。俺達の中で、プロ野球選手になったのはあいつだけだ。あいつと一緒の野球部だったと言ったら、会社でびっくりされた。皆そう言って、懐かしそうに話してたよ。特に土浦君がね」


「土浦は俺とバッテリー組んでたからね。大学では敵味方に分かれたけど」


「そうそう、結局俺はあいつの球を一回も打てなかったってね。半分本気で悔しそうにしていたよ」


 バッターとしても、土浦――土浦大樹はいいバッターだったと思う。二舟さんに話した通り、大学のリーグ戦で三回ほど対戦した。いずれも打ち取ったけど、ギリギリだった記憶がある。


「そっか。いいな、男の子って。そうやって対戦する機会があるもんね。青春て感じ」


「そうかな。でも二舟さんはマネージャーを嫌々やっていた訳じゃないだろう」


「うん、楽しんでやってたよ。でも、やっぱり野球自体をやってはいなかったから。ちょっと違うかな。一番近くで見ていた観客、みたいな?」


「物理的にはそうだね」


 すっかり温くなったドリンクを啜りながら、俺と二舟さんは言葉を交わした。胸の中の思い出と、現在(いま)の表情を重ねてみると、やはり時の流れを感じざるを得ない。十一年か。短くは無いな。けれども、昔好きだった女の子を忘れる程には、長くもないらしい。




 自然と、互いの近況を語り合う流れになった。窓の外は少しずつ暗くなっているけど、まだ夕暮れ時じゃない。高校卒業からこれまで何をしてきたか。それは相手に語りながらも、自分自身に向き合う作業だ。


「多分、俺のことは何となく聞いているんじゃないかなと思うんだけど」


「うん。時々新聞や雑誌で見かけてたし」


 まあ、そうだろうな。六大学の一つにスポーツ推薦で入学、二回生からエースピッチャーだったから。ちょっと野球に興味ある人間なら、一度や二度は俺の事を聞いたことはあるだろう。だから、多分その先も。


「試合で投げてるところも見た?」


「時々ね。あ、水上君、ほんとにプロ野球の選手なんだなあって。嬉しいっていうのと不思議だなあっていう......そんな気持ちで」


「七年間だったけどね。いや、まだ終わらせないつもりだけど」


 中継ぎ向きの速球派右腕投手として、俺はドラフトに引っ掛かった。獲得したチームは、首都圏を本拠とするセ・リーグのチームだ。ドラフト四位。高くもなく低くもない、ごく普通の期待度。


「あ、だからまだ投げ続けてるんだよね。そっか、今日も三つ三振取っていたし」


「ああ、肘はもう治っているから。多分、全盛期に近い球投げられると思うよ」


 七年間の通算成績は、十勝八敗四十二ホールド。登板試合数は百二十二試合。たったこれだけしか投げていない。でも、俺の肘は六年目の終わりに悲鳴をあげた。


「辛かった、よね」


 二舟さんの呟きは余りに短かったけど、それが何を指しているかは明白だ。


「そりゃ辛かったよ。一旦契約解除されて、育成選手として再契約。プロ野球選手としては、瀬戸際に追い込まれたから」


 俺はそっと右肘を触る。もう少し回復が早ければ――いや、止めよう。まだ投げられるだけでも感謝しないと。


「でも、一年しか猶予くれないなんて。ちょっと薄情じゃないかと思うよ」


「チーム事情によるからね。ちょうど監督も替わって、新しい血を入れたかったみたいだし」


「そういう事情もあるんだ。プロ野球って厳しいんだね」


「はは、そうだなあ。でもさ、今はこうやって独立リーグで投げられるからね。昔に比べたら、受け皿は増えたよ」


「でも、満足はしてないんでしょ?」


「そりゃまあ。だから今年のトライアウトは受けるよ。それが今の最大の目標なんだ」


 コーヒーを飲み干しながら、俺は答える。トライアウトが狭き門なのは分かっているけど、それしかないんじゃしょうがない。やっぱりセミプロの領域を出ない独立リーグよりは、NPBでプレイしたいさ。やりがい的な意味でも、収入的な意味でもね。


「頑張ってね、としか言えないけど。ううん、違うかな。もう水上君は充分頑張ってるもんね」


「頑張りが足りないかもしれないんですが、元マネージャー?」


「そんなことないでしょ。いつも陰でランニングやシャドーピッチングしてたもの。私、知ってたんだよ」


「......ばれてたか」


 どうやら、うちのマネージャーには隠し事は出来ないらしい。何でもお見通しと軽口を叩きながら、逆に聞いてみることにした。


「二舟さんはどうだったの、高校卒業してから」


「ん、割と普通に大学進学して、就職したまでは良かったんだけど」


 声のトーンが低くなった。ジャケットの襟を正しながら、二舟さんは俺に向き直る。ファミレスの窓に軽く視線を流しながら、口を開いた。


「結婚して失敗してバツイチになった、そう言ったらどう思う?」


「ヘビーだね、人生ってやつは――と素直に思うよ」


 それ以外の答なんか無いだろ。途端に、沈黙が俺達二人の間に落ちる。



******



 "人生ままならないなあ"


 フローリングの床に寝転びながら、俺はふとそんなことを考える。見慣れた俺の部屋の天井に重ねるのは、二舟祥子の顔だった。彼女がバツイチを告白した時、お互いに微妙な顔になっていたと思う。


 聞けば、どこにでもあると言えばどこにでもある話だった。
 社会人三年目に知り合った元旦那は同い年、一年交際してからプロポーズを受けた。ここまではドラマみたいに順調。恋という名の試合(ゲーム)は、波乱なく愛という結末にたどり着くかのように思えたんだけど。


「出張が多かったから、帰りが不規則でも疑わなかったの。お定まりのパターンね。独身気分が抜けきらなかった彼は、軽い気持ちで他の女の子に手を出した」


「女の方も、既婚者との秘密の恋っていう手軽な火遊びに乗ってしまったってことかな。確かによく聞く話だけれど」


「そうね。だけど、いざ自分が当事者になると、たまったものじゃないなあって。離婚届に判を押しながら、しみじみそう思ったなあ」


 俺にそう語りながら、二舟さんは小さく笑っていたことを思い出す。胸が痛んだ。「上手くいかないね」と呟いた顔は、どこかに痛みを含んでいて。やっぱり胸が痛んだ。


 短い結婚生活は二年と半分。手切れ金をもらい、さっさと実家に戻ったらしい。不幸中の幸いか、子供はまだいなかったと彼女は語った。


「残酷なこと聞いていい? 子供がいたら、こんな事態にならなかったと思う?」


「ほんとど真ん中のストレートな質問だよ、水上君。でも打ち返すね。そうね、どうだろう。かもしれないし、そうでないかもしれないとしか言えないかな。浮気する人って、理屈じゃないらしいから」


「理屈じゃないらしい」


「そう、理屈じゃないらしい」


 俺が反復した言葉を、更に二舟さんはなぞった。主な会話はそこで終わりだった。これ以上の会話は、十一年会わなかった元同級生には長すぎた。それでも俺は、心のどこかでこの再会を喜んでいた。うん、それは確かだ。


 体を起こす。一人用のソファにもたれかかりながら、スマホをいじる。通信用アプリには、未読メッセージが一件。IDだけで送り主は分かる。二舟祥子さんからだ。


「別れ際に連絡先だけ交換して、それでおしまいってまた随分さっぱりしてたよなー」


 独りごちながら、立ち上がる。コーヒーでも飲むかと湯を沸かしながら、メッセージを開いた。そういえば、高校時代には連絡先すら知らなかったな。十一年越しにしちゃ、進歩したって言えるのかもしれない。


 《今日は久しぶりに会えて、楽しかったです。色々あったし正直今も迷ってるけど、水上君に話せてよかった。ありがとう》


 絵文字も何もない簡潔な文面だ。さて、水上裕司、お前はどんな返事をする。今回はボールは向こうから投げられたんだぞ。


 《こちらも会えて楽しかった。もしよければ、また試合見に来てください。じゃ、おやすみなさい》


 無難に外角に逃げるスライダーってとこか。送信した時、ちょうどお湯が沸いた。ピーというケトルの音は、もしかしたら試合開始の合図だったのかもしれないね。



******



「もうすぐだね、トライアウト」


「うん。次の日曜日に、静岡県草薙総合運動場にある野球場で」


 二舟さんは俺の返答に深く頷いた。秋も深まったせいか、その装いはシックだ。ボルドーのタートルネックは、流石に高校生の頃では似合わなかっただろう。
 対する俺も、無難に薄手のタートルネックにジャケットだ。あまり服に興味は無いが、女性と会うのに野暮過ぎる格好はしたくない。


 つまり、今は。


「何人くらい受験するの?」


「例年なら六十人から七十人かな。そのうち契約まで至るのは、数人程度だね」


「狭き門ね、本当に」


 一応デート中、なのだろう。会話には色っぽさは微塵も無いけれど。再会をきっかけに、俺の方から勇気を出して声をかけた。流石に高校生の頃の片想いを引きずってはいないけど、親しみを感じているから。それに同病相憐れむ的な感情もあるから。


「そうだなあ、中々難しいよ。最近は秋の風物詩になってるから、一回くらいテレビで見たことあるでしょ」


 俺の声は上ずってはいないだろうか。少しの不安とそれ以上の嬉しさを感じつつ、俺は問う。


「うん、ある。ああ、皆本当に野球が好きなんだなって、見ていて思った」


「生粋の野球馬鹿しか、トライアウト受けてまで野球にしがみつかないからね。一回プロ野球のスポットライト浴びたら、どうしてもそこに戻りたくなる」


 中にはNPB未経験者が受けるケースもあるが、大半はNPBから解雇された選手がほとんどだ。だから、これは嘘じゃないと思う。


 二舟さんは沈黙している。どう答えたものか、戸惑っているのだろう。都内のカフェで座る俺達は、一体どんな二人に見えるのだろうか。ふと気になった。


 もし、高校生の頃に二舟さんと二人でいられたなら。
 俺はどんな言葉をかけられたのだろうか。考えても仕方がない問いが、浮かんで消える。いや、デートなんか望むべくも無かったな。俺達を繋いでいたのは、野球だけだったから。


「あの試合覚えてる? 俺達の最後の試合」


 だから、俺はふと尋ねたのだろう。


「え、うん、もちろん。劇的なサヨナラ負け――あ、ごめん」


「いや、いいよ。実際そうだったし。あそこで抑えていたらって、何回も考えた。それに」


「それに?」


「二舟さんを甲子園に連れていってあげられたな、ってね」


「ふふ、ありがと。その言葉だけで十分だよ」


 微笑を一つ、二舟さんは唇の端にたたえる。その笑みに背中を押されるように、俺は聞いてみた。


「あのさ、もしよかったらトライアウト見にこないか。何が見られるって訳じゃないけど、それでも――」


「ん、それでもの後が気になるかも」


「二舟さんに届けたいものがあるんだ、トライアウトの時に」


「今じゃダメなものなんだよね? いいよ、水上君がそう言うなら。きっと大事な事なんだろうから」


「用事があるなら、全然断ってくれていいんだ。ただ、何だ。まあ、もし来てくれたらその時渡すから」


「分かりました。予定確認してから、ちゃんとお返事します」


 瞬間、俺と二舟さんの目が合った。とくん、と心臓が一つ小さく跳ねる。「ありがとう」という返事が上ずらないようにしながら、俺は伝票を手に取った。






 トライアウトの日はあっという間にやってきた。高く澄んだ青空の下、カキンというノックの音や選手の声が響く。けれど、選手が着ているユニフォームはバラバラだ。まさに寄せ集め達の試練の場、生き残りをかけた戦いだ。


 十一月中旬、場所は静岡県草薙総合運動場。それが今年のトライアウトの日時。俺が今いるここが、まさにその現場ってわけ。和やかな空気の下には、どれほどの想いが詰まっているのか。
 観客席を見ると、何組か家族連れがいる。小さな子供が声援を送っている姿は、微笑ましいけど、でもちょっと切ないな。


「水上君はトライアウト初めてかい?」


「あ、はい」


 反射的に返事をした。声の主はキャッチボールの相手だ。日に焼けた顔を綻ばせながら、彼は言う。名前は知っている。俺より五歳程上の選手だ。数年前に対戦したこともある。懐かしいと思うと同時に、こんな場所で再会かとも思う。


「独特の雰囲気だろ。ユニフォームはバラバラ、観客もほとんどいない。だけど、緊張感だけはあってさ」


「そうですね」


 パシン。相手の投げたボールを、俺はキャッチした。硬球の縫い目に指をかけ、軽く投げ返す。パシン。相手も綺麗に捕る。


「俺は今年が三回目だ。一昨年、去年と受けて声がかからなかった」


「そうだったんですか」


 パシン。またボールが往復する。


「ああ。今年でね、最後にしようと思う。家族もいるしな、ほら、あそこ」


 ボールを返しながら、俺はスタンドに目をやった。ああ、なるほど。さっき見た子供――男の子が手を振っている。小学校の低学年くらいか。その横に座っている女性は、彼の奥さんなのだろう。


 一体どんな思いで、このトライアウトを見に来ているのか。寒々とした地方の球場だ。マスコミや観客は多少いるけど、うらびれた印象は拭えない。ここは言うなれば、野球界の裏口入学の場所だから。


「家族にもこれ以上はな、迷惑かけられないから。だから、もしかしたら、今日が俺が野球出来る最後の日なんだ」


「......はい」


「や、悪いな。トライアウト前にこんな話をして。もし対戦することになったら、その時は全力で投げてくれよ」


 相手は決まり悪そうに笑う。胸の中のもやもやを振り払い、俺もまた笑う。笑いながら、ボールを投げる。
 俺だって同じだ。いつ野球を止めなきゃいけないのか、それに怯える日もある。


 だから、悔いのないように。


「よろしくお願いします」


 ピシッと指先まで力を伝え、リリースした。ピッチング仕様の投げ方だから、さっきより伸びがいい。相手のグローブに綺麗に収まる。どうだい、これくらいは投げられるんだぜ。


「いい球投げるね」


「どうも」


 キャッチボールを終え、短く言葉を交わす。練習が終わったのだ。シートノックをしていた選手も、打撃練習をしていた選手も、皆一度グラウンドから引き上げる。その中に混じってベンチに戻りかけた時、ふと視線を上げた。


 見上げた先には、俺をほっとさせる人がいた。心がふわりと躍る。戦い前の最後の休息のように、俺はキャップを取って挨拶する。


「あ、おはよう」


「おはよう、水上君」


「来てくれてたんだ」


「うん、ついさっき着いてね」


 ジーンズと薄手のショートコート姿の二舟さんが、柔らかな表情を浮かべている。グラウンドと観客席、フェンス越しの短い会話だ。ああ、でもさ。何だか嬉しいな。


「元マネージャーさんが来てくれたんだ、みっともない真似出来ないな」


「またまた、こんなアラサーの勝利の女神なんていないでしょ。女子高生ならともかく」


「歳には関係ない魅力ってのもあるんじゃないの? ま、見ててよ。いいところ見せられるようにするからさ」


 一度手を振り、俺はベンチに引っ込む。二舟さんの言葉と表情を胸にしまいこむ。切り換えろ。いよいよ始まるのだから。


 錆の浮いたベンチに座りながら、自分の心を身体とリンクさせる。自分の身体を心と一体化させる。
 脈拍は正常だろうかと己に問う。心臓の鳴る音が、やけに耳に響く。周りには、他の選手達もいる。皆、一様に神妙な顔だ。多分、似たような気分なのだろうな。


 今日が野球をする最後の日になるかもしれない。野球を諦めなくてはならないかもしれない。


 その覚悟を抱いて、その恐怖を抱いて、それでも諦めきれないから――ここにいるんだ。


「お待たせしました。それではこれからトライアウトを開始します」


 仕切り役の係員が告げた。球場にサイレンが鳴る。どよめきのような、ざわめきのような、そんな気配がグラウンドに広がっていく。始まったんだな、俺達の野球が。





 トライアウトのルールは簡単だ。原則として、シート打撃方式で行われる。守備陣がそれぞれのポジションにつき、投手は1人につき打者3人と対戦する。ランナーはいない状態からなので、正真正銘の一対一だ。試合と違うのは、全員が全員初顔合わせの急造チームという部分。


 自分の出番が回ってくるまで、俺はルールを頭の中で繰り返していた。他にすることもない。目の前では、先に投げている投手がいる。グラウンドに立ち、最後になるかもしれない球を投げている。


「あ」


 思わず声を上げた。打たれたのだ。真芯で捉えられたらしく、ボールは高々と右中間へ伸びていく。


「打った、大きい!?」


「入る......いや、駄目だな」


 他の選手の言う通り、打球はフェンス間際で失速した。回り込むように走ったセンターが、その打球をキャッチする。ナイスキャッチ。俺は心の中で拍手する。


 打たれた投手としては痛恨だろうな。ホームランにならなかっただけで、失投には違いないし。打者は悔しそうだけど、アピール出来たのは打者の方だろう。さて、これであの投手の出番は終わりか。よし。


「次、水上裕司選手。投手交代です。打者三人に投げたら終わりですから」


「はい」


 係員に答えつつ、俺は立ち上がった。キャップを気持ち目深にかぶりつつ、一歩一歩グラウンドを踏みしめる。薄暗いベンチ裏から、光射すグラウンドへ。視界が明るく満たされた。球場のざわめきが俺を包む。瞬間、ぞわりと背筋が鳴る。グラウンドに満ちた緊張感に、そして自分の中から沸き上がる喜びに。


 交代する投手からボールを受けとる。項垂れてるな。ああ、気持ちは分かるよ。
 同情にもならない同情を一秒で消した。マウンドに上がる。一段高いポジションから、見慣れた風景が広がっていた。いいね。こうでなくちゃいけない。
 ひゅるりと秋の風が舞う。十一月だ。かなり寒いはずなのに、全く冷たさを感じない。それどころか、燠火のような熱が腹の底から伝わってくる。風を熱が押し返す。


 ふぅ、と大きく息を吐いた。ああ、そうだ。マウンドからの風景は、こうでなくちゃいけないんだよな。
 試合の中心に、投手ってのはいる。俺が投げないと試合が始まらないんだ。数球だけ投球練習するだけでも、俺は楽しい。こんなトライアウトでさえ、心の底から野球が楽しい。


「プレイボール!」


 審判の声が上がる。初対戦の打者が、初バッテリーを組む捕手が、俺の18.44メートル先にいる。心臓の高鳴りは収まり、代わりにそくそくとした闘志が俺を支配する。周りの雑音も聞こえない。


 いつものように、セットポジションからテイクバック。そして捕手の構えるミット目掛けて――俺は思いきり第一球を投じた。外角低めぎりぎり、小細工無しのストレートだ。打てるもんなら打ってみろ、けれどそれは簡単じゃないぜ。ほら、手も出やしない。


 ズドンとボールがミットに収まる。一瞬遅れて、審判のコールが響いた。


「ットライーク!」


 観客席もどよめいているようだ。そうだろうな、中々トライアウトでこんな球は見られないだろう。球速147キロ、しかも初速と終速の差が少ないから、実際はもっと速く感じるだろうさ。


 キャッチャーから返された球を取りながら、俺は再び構える。まだだ、まだ投げ足りない。もっと勝負させてくれ。俺には届けなきゃいけない人がいるんだ。


 変化球はチェンジアップと、スライダー、そしてカーブ。滅多に使わないフォークも含めれば、全部で四種類だ。プロに入ってから、これらの精度を上げてきた。


「ットライーク! バッターアウッ!」


 大きなカーブを空振りし、バッターが三振に倒れる。よし、幸先がいい。後二人、たったの二人だ。肩をぐるりと回しながら、俺は考える。ただ考える投げる機械になる。


 俺は何のために投げるのか。考える。そしてその時には、投げている。チェンジアップだ、うん、当てたか。ファウルだ。ダメダメ、それじゃ前に飛ばないよ。


 皆で甲子園に行けたらいいね。確か君はそう言ってたね。あの試合の前日、皆で用具を片付けながら。土浦が大きく頷きながら、皆に発破かけてたっけな。思い出がすぅと視界を横切って、そして秋の陽射しに溶けていく。


 また投げる。スライダー、それも手元で小さく曲がるタイプの。ぎりぎり見極められて、ボール。相手も必死か。うん、でも悪くない。キャッチャーからの返球を取りながら、俺は観客席をちらっと見た。二舟さんの姿が見えた。


 俺達のマネージャーを甲子園に連れていってやろう。土浦の提案に、皆賛成したよな。可愛い女子マネの前で、いいとこ見せたいってのもあっただろう。今まで三年間頑張ってきた裏で、マネージャーのアシストがあったと分かっていたからでもあっただろう。


 十一年前の女子マネと、観客席の女性が重なる。重ならないようでいて、それは重なる。甲子園には連れていってあげられなかった。密かに憧れていたあの子が見せた涙は、今も俺の心を濡らしている。記憶の淵から時おり零れ、その度に唇を噛む。


 投げる。投げる機械となった俺が投げる。縦に大きく落ちるカーブ、バッターはついてこれない。よっし、空振った。そして次に投げたストレートは、内角高めの吊り球だ。甘く入れば、長打コースだ。けれど、甘くしなければいい。


 二人目も三振に切って落とす。いい感じだ。観客席が沸いている。二者連続の三振だ。調子は上々、結果も上々だよ。ストレート主体に投げてみたが、変化球もたまに混ぜる。打者は全部でたったの三人のみだ。つまり、残すはあと一人。


******


 "よりによってか"


 ロージンバッグを手に取りながら、俺は最後の打者を迎える。奇しくもと言うか、当然の帰結と言うべきか。相手は俺とキャッチボールをした選手だ。
 今日でトライアウトは三回目。受からなかったら、野球は辞めると言っていた。観客席には応援している家族がいる。


 "捨てちまえよ、そんな感傷は"


 言い出したらキリが無い。誰だって事情がある。俺だってそうだ。肘が治っていたのに、新しい血への入れ替えの為に追われた。砂を噛む思いで、独立リーグで投げてきた。観客席には昔の片想いの――そして今もか――相手がいて、俺の投球を見ている。応援してくれているんだ。


 ぶつけあおうか。お互いの全力を。


 最初の一球は、ここまで見せていない変化球を。この打者が最後だ、手の内は全部使う。ボールを人指し指と中指で挟みこみ、縦に切るように。ほら、スピードは出ないよな。けど、そのボール......落ちるぜ。


「ボール!」


 いいね。良く見極めた。結局、フォークはホームベースを叩くように落下した。手を出さなかったのは正解だよ。だけど、これで迷いが生じただろ。落ちる球は、俺の持ち球のリストに無かっただろうからな。


 構える。集中力が高まっているのか、音が俺の世界から消える。今度はカーブだ。そう、いつものように落ちるように曲がって――振ってくる、掠められた、いや、ファウルか。バットから生じた音は鈍く、打球は一塁側ファウルゾーンへと転がった。警戒心が高まる。


 "今の一球は待っても良かった球だ。だが、迷い無く振ってきた"


 自分が打てるスポットなら、積極的に手を出してくるタイプか。相手のヒッティングゾーンの情報は無い。手探り状態だ。うん、だけどいいね。こういうピリピリした状況は。


 カウントは1―1。投手も打者も特に有利も不利も無い。三球目に俺が選んだ球種は、チェンジアップ。ストレートと同じ投げ方で放られる、低速の自然落下する変化球。というか、はっきり言ってフェイントかます為のボールだ。


 遅い。100キロ程度しか、多分出ていない。狙われていたら完全に打ち頃。だが、ストレートに山を張り、打つ気満々なら。


「ットライーク!」


 空振りも取れるって訳だ。返球を捕球しながら、息を吐く。ちょっと緊張したな。正直ギャンブルだったから。だが、賭けに勝ったのは俺の方だ。


 カウントは2―1。フォーク、カーブ、そしてチェンジアップと変化球だけで攻めている。四球続けて変化球か。あるいはストレートか。打者の読みも絞り切れないだろう。俺の中では決まっているけどね。


 不意に、風景があの夏と被る。甲子園まであと一歩だったのに、サヨナラを打たれたあの試合だ。勝ったら二舟さんに届けたい物があったのに、届けられなかったあの試合だ。


 いいさ。やろう。俺の野球をやろう。二舟さんの野球をやろう。この十一年の集大成の野球をやろう。そう決めて、構えた。
 セットポジションからテイクバック、そして投げるのは――駆け引きの無い渾身のストレート。外角一杯。あのサヨナラヒットを打たれた時と同じ、力一杯のストレートだ。


 打てるか。


 反応するか。バットが回る。いいスイング、けれど、それじゃ無理だ。あの夏みたいにボール二つ、中に入った訳じゃない。


 ガッと鈍い音がした。打球はふらふらと力無く上がる。青い空に浮かんだ白球は、そう高くない放物線を描いた。数歩前に出て、俺は丁寧にキャッチする。バッターアウトのコールが響いた。観客席がワッと沸いた。


 ピッチャーフライだ。きっちりと抑えてみせたぜ。肩の力を抜いて、俺はその場で一礼した。全力を尽くして、俺は自分のベストピッチを見せることが出来た。そう、心から言えたからね。






 全ての選手の出番が終わり、トライアウトは終わった。満足そうな顔を見せる選手も、悲痛な顔を見せる選手もいる。祭りの後というか、何か呆けたような弾けたような空気がある。独特の空気だ。その空気を突っ切る。ユニフォーム姿のまま、俺は球場の裏手に出る。


 風が冷たい。赤蜻蛉が数匹、その秋の冷たい風に舞っている。ああ、晩秋だなと思いながら、辺りを見回した。いるだろうか。ああ、いた。薄手のコート姿を見つけたと思ったら、向こうから声をかけてくれた。


「お疲れ様、水上君。凄かったね、全然打たれなかった」


「そうだな、うん。良かった、全力を尽くせたから。結果は分からないけど、とにかくやったよ」


 駆け寄ってきた二舟さんに、俺は笑顔を見せられた。ああ、いいな。こういう顔で会えること、ただそれだけなのに。それがこんなにも嬉しいなんて。そうだな、今なら渡せるな。あの時約束していたんだから。


 ポケットに手を突っ込み、俺はボールを掴み出す。土に汚れた白球は、けして綺麗じゃあない。だけど、これだ。これでいいんだ。


「これ、受け取ってくれるかな」


 ポツリと、俺の唇から言葉が漏れた。ちょっと躊躇った後、二舟さんは両手を差し出す。その華奢な手に、俺は柔らかくボールを乗せた。二舟さんの手が、ふわりとボールを包み込む。


 良かった。受け取ってくれた。渡せたんだな。俺は届けられたんだな。


「水上君、これ......いいの?」


「うん。あの、俺さ。ずっと後悔していたんだ。覚えてるだろ、あの県決勝の試合。もしあの試合に勝って、皆で甲子園に行くことが決まっていたら。俺、二舟さんにあげたい物があったんだ」


 今更な感じもするけど。


 時間は巻き戻りはしないけど。


 けれども、どうしても伝えたくて。


「最後に投げたボール、二舟さんにあげたくて。俺達の野球部を見守ってくれていたから、そのお礼にと。だけど、サヨナラ負けしちゃったからさ。それが出来なかった。ずっとそれが心の片隅に残っていた。大学行っても、プロで投げてもな」


「――うん」


「だから、あれだよ。こんなしょぼいトライアウトでのボールだけどさ。俺、どうしても二舟さんに渡したくて。十一年前の宿題を渡したくて。だから、来て欲しいって呼んだんだ。迷惑だったかもしれないけど」


「――うん」


「今日、ありがとう。高校時代も、ありがとう。俺、それをどうしても伝えたくて。それだけは何としても伝えたくてさ」


「――う、ん」


 不器用なんだろうな。俺も、二舟さんも。球場の片隅で、大人二人、お互い二十九歳が顔を突き合わせて、一体何を話しているのか。


 だけど、いいじゃないか。そんな瞬間があってもいいじゃないか。あの日と今を繋ぐボール、それを渡せたのだから。ちょっとくらいのセンチメンタルとロマンスくらい、野球の神様も許してくれるさ。


 だから俺は。


 涙ぐむ二舟さんの華奢な手を、渡したボールごと両手で包んで。


「大好きでした。そして今も、貴女のことが」


 君に告白出来たんだ。

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