やさしくしてよ、イブだから
ハロウィンが終われば、街のディスプレイはとたんに冬の色に変わる。いたずら好きの魔女が、あちこちで魔法の杖を振ったみたいに。
靴下をぶら下げたもみの木のツリー、赤い実と緑の葉が鮮やかな柊のリース。通りには色とりどりのイルミネーションが瞬き、大人も子供も指折り数え、待ちわびるホリデイ・シーズン。
しかしここ、“かさくら書店”の書店員たちにとっては、怒濤の季節の幕開けだ。
「どいて、どいて!」
「そこ、カレンダーのハンガーに引っかかってる!」
狭い通路をなんとかすり抜け、皆で運び入れた大きなツリー。きらめく星やボール、リンゴやステッキのオーナメントと一緒に、おすすめ本のポップがあちこちからぶら下がっている。遠くから仕上がりを見つめる店員が苦笑いした。
「これじゃ、季節外れの七夕飾りだろ。お前ら、願かけすぎ」
児童書のコーナーには、白ひげの聖人がにこやかに微笑む表紙がいっぱい。映画化された「怪盗プカリとまぼろしの黒いいなずま」は新刊台にどどんと2列積み上がっている。天井に揺れる人気キャラのぬいぐるみも、赤い衣装に身を包み無邪気に笑みをふりまいて。
ジングルベル、ジングルベル。
売場を急ぐ赤いエプロンの書店員には、トナカイもいなければ橇もない。
ジングルベル、ジングルベル。
願わくば、季節物の在庫がひとつでも少なくなりますように。
「まずは今日1冊目、っと」
12月1日、“かさくら書店”の休憩室。
書店員の小磯律子は、読み終わった絵本を閉じてため息をついた。急な配置換えで児童書コーナーの担当になって早2ヶ月。
『律子さん、児童書は読むのに時間もかからないから、新刊が入ったらなるべく読んでおいて。お客さまに聞かれたときに読んでるのといないのでは全然違うから』
以前からこの児童書担当だった中泉悠人は、こともなげにそう言うけれど、この季節に入荷する商品の多いこと。その上、トナカイだ、ケーキだ、やれプレゼントだと、同じような題材の物ばかり。それでもスマホ片手に読んだ本の記録を済ませると、律子は次の本へと手を伸ばす。向かいの席で昼食を摂っていた美術書担当の結城瀬奈は苦笑した。
「まっじめだねえ、律子」
「真面目なのは悠人くんだってば」
「まあ、彼は『お姑さん』だからね」
悠人は、律子や瀬奈と同期の書店員だ。
3年前就職の面接会場で、律子の隣に座ったのが悠人だった。長めのもさっとした髪、背が高いのに猫背気味で気弱そうな風貌。着慣れていないスーツの膝の上で、両手をぐっと白くなるほど握りしめていた。あまりの緊張ぶりに、彼が順番で呼ばれたとき思わず『リラックス!』と小声で声援を送ってしまったほどだ。
その声援が功を奏したか、悠人はめでたく就職し児童書コーナーの担当になった。聞けば自分から志願したのだという。見るからに活字中毒の彼は、当然文庫本や単行本担当を希望すると思っていただけに、児童書とは意外だった。一方の律子は、文庫本担当を希望したが空きがなく、家庭実用書、新書と1年ごとに担当が変わるはめになった。さらにこの秋産休に入る女性に代わり、急遽児童書に配置換えとなったのである。
『とにかく悠人くんはすごいわよ。上の反対を押し切って、絵本売場の床にタイルカーペットを敷いちゃったのも彼なの。子供のけがも防げるし、落ちた本も破損しにくいって』
2年先輩の前任者は、申し送りの最中に悠人を手放しで褒めた。
あまり感情を露わにしない彼だが、初めから志願していただけあって、児童書に関わる仕事が好きなのだろう。このコーナーは彼ひとりで十分なのでは、と思わせるほどの働きぶりだ。情報に長けていて、話題の本はいち早く入荷し、新刊台の配列も折に触れて変える。もちろん入荷する本はほとんど読んで、自分のPCで記録をつけ整理していた。普段はあまり愛想のいいほうではない彼だが、客への物腰は柔らかだ。子供には膝を折って目線を合わせ、やさしく話しかけている。あるとき、それを指摘すると、
「子供と接するときは、恥を捨ててるんだ」
ほんのり頬を染め、ぷい、と横を向いたのがおかしかった。
律子への仕事の指示もきめ細やかで、なぜそうするのか、どうしてだめなのか、理由まできちんと説明する。
『律子さん、子供は思わぬところを触ったりするからね。平積みのスリップ落ちや折れ、汚れは定期的にチェック。但しお母さんたちに見つかると嫌みになるんで、あくまでもさりげなく、タイミングを見計らって』
『律子さん、“両手でひけちゃうピアノえほんスーパーDX”ね、子供が好きでよくいじるからすぐに見本の電池が切れるんだ。ボタン電池とミニドライバーは常備しておくといい。ただし使用済みのボタン電池は子供が誤飲しないように、外したら即ジッパー付きの袋に入れて。転がったら絶対に見つかるまで探すこと』
『律子さん、今日唐沢書店の営業さんが来るから、時間があったら一緒に話を聞いてくれる? 来月新刊が出る、さわむらたえ先生のフェアを考えてるんだ。唐沢から出てる本、リストアップしておくと話が早く済むと思うよ』
この悠人の『律子さん』を聞くと、律子は背筋がしゃきんと伸びた。のっぽの悠人と小柄な律子が並ぶと、ゆうに30cmの身長差がある。彼の指導の丁寧さに、律子はときどき、
(私を子供だと思ってるんじゃないでしょうね?)
と本気で疑ってしまう。同期の瀬奈は、そんなふたりを隣の美術書コーナーからいつもおもしろそうに観察していた。彼女に言わせると、悠人の礼節を保った呼びかけと指導ぶりが『姑が嫁を躾けてる』ようだという。それで瀬奈は悠人を『律子のお姑さん』と呼ぶのだ。
「そういえば、今度の『読み聞かせ会』、律子が読むの?」
児童書コーナーでは3ヶ月に1度『読み聞かせ会』がある。大抵その時期に見合った売れ筋の新作を、担当店員が読む。今月はホリデイ・イベントとして12月22日に行われる予定になっていた。
「まさか! 12月はプレゼント商戦で大事な時期だし、とにかく一度悠人くんのを見てから、って頼み込んで、パスさせてもらったんだ」
正直読み聞かせなんて、できる気がしない。図書館などでやっているのを見たことがあるが、子供たちは途中で意味不明の質問をしたり、寝転んだり、泣き出したり。一緒について来ているお母様方の視線も怖い。新米の律子には荷が重すぎた。
「そっか、律子はまだ悠人くんの読み聞かせ見たことないんだっけ」
「うん、そうだけど、瀬奈はあるの?」
「まあ、ずっと児童書のお隣で働いてるからね」
「ふうん。悠人くんの読み聞かせって、どう?」
しかし聞かれた瀬奈はそれに答えず、ふふん、と意味深に微笑む。
「ま、せいぜい『お姑さん』のテクを盗むのね。がんばって『律子さん』?」
残業が終わるともう8時。『俺はもう少し読む本があるから』という悠人を残して、律子は先に上がらせてもらった。
悠人はいつも律子より先に出勤し、あとに帰る。『お姑さん』に対して『嫁』がこれではいけない、と児童書担当になったばかりのころは気合いを入れて早く来て、帰りも彼を待っていた。しかし数日で悠人本人からストップがかかった。
『あのね、俺がここまでやってるのは、ある意味趣味だから。付き合ってると身体壊すよ? 女性なんだし早く帰らないと危ないでしょう』
渡りに船、と、彼の言うとおり無理はやめた。
それにしても悠人はいつ寝ているのだろう。へたをすると、店に泊まっているのではないかと思う。
本の配列替えや在庫処理、シュリンクがけなどを片付けると、彼は一旦食料を調達に外へ出る。帰ってくると、何冊も本を抱えて控え室に入った。児童書はもちろん他の本もよく読んでいて、読み終わると自分のPCを開いて何か入力している。彼のことだ、おそらく夥しい数の本の情報を管理しているに違いない。
あの面接の時の、緊張していた初々しい姿はもうここにはない。『リラックス』などと声をかけ励ましていた自分が恥ずかしい。今では到底届かない彼の背中を追って走っている。
くたくたの身体を引き摺って笠倉駅で電車を待った。借りている部屋へはここから3駅。パンプスの爪先を上下に動かして足の疲れを取りつつ、スマホでツイッターをチェックするのがささやかな楽しみだ。
律子のツイッター上の名前は「リスコッティ」。アカウントは@Risu-coTだ。
何のことはない、律子をローマ字でRitsukoとし、“k”を“c”に、“t”を大文字にして後ろに持って来ただけ。アイコンは自作の、どんぐりの代わりにビスコッティを囓るリスの絵である。小柄でポニーテールをくるんと垂らした律子は、学生時代からリスに似ていると言われ、何となく親近感がある。いつも通勤に使っている黒いシックなトートバッグにも、ビーズがきらめく赤いリスとドングリのチャームが付いていた。
ツイッターは同期の瀬奈やリアルな友達とのやりとりにも使っているが、本や出版社の情報収集にも欠かせない。
重宝しているのは『ブックボックス』という、読書した本の管理をするシステムだ。
本を読み終えると、そのタイトルをブックボックスで探して登録する。そこにその本の感想を書き込むと、自動的にツイッターのタイムラインにも報告されるのだ。ブックボックスで同じ本を読んだ者同士の交流も出来るし、うまくいけば同じ読書傾向のツイッター仲間にも会える、というわけだ。
律子は最近そのブックボックスが縁で、『馬刀葉椎 @MatebaShii』という男性と知り合った。好きな小説の傾向が似ているのだ。
「リスコッティ @Risu-coT
@MatebaShii “川岸の向こうから”、よかったですね。主人公の育った環境を考えると特にラストがぐっときます」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
@Risu-coT 石を投げる姿がどことなく父に似てるっていう件は泣けましたね。同じ作者の“キスをしてもひとり”って短編集もおすすめです。表題作が“川岸の向こうから”のスピンオフで、主人公の妹の話なんですよ」
馬刀葉椎のツイートはそのほとんどが、ブックボックスの読書記録関係と、『ツイノベ』で占められていた。
ツイノベとはツイッター・ノベルの略で、#twnovel というタグを付けてツイート上に書く140字の小説だ。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 冬なら冬らしく。アラスカの氷山が織りなす青と白を、グラスに閉じ込めウイスキーを煽りたい。僕の与太話に君は笑って『私はココアの湯気をオーロラにして、マグカップで飲み干したい』立ち昇る白い吐息は、ふたりを包む空想の翼。つきあいのいい君と、僕は凍てつく冬空に遊ぶ」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 木枯らしの吹く頃、母の田舎から届く七味唐辛子。庭の小さな蜜柑を祖母がもぎ、粉にした皮を混ぜる手作りだ。その香りの清々しいこと。『この七味を入れた蕎麦を食べないと年は越せない』。差し出した七味に君は鼻を近づけて『ほんと、いい香り』。君の中に息づく僕の小さな故郷」
彼のツイノベにはいつも、ほのかな恋愛模様が織り交ぜてある。出会いの少ない律子にとって、創作とはいえ男性の恋心はなかなかに興味深かった。どこまでが真実かはわからないが、彼のほのかに甘い140字小説は律子の癒しになっている。そして今日12月1日、馬刀葉椎のツイートに、うれしい知らせがあった。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
アドヴェント・カレンダーのように。僕は今日から毎日ついのべを作って行こうと思う。毎日ひとつ、イブのその日まで」
アドヴェント・カレンダー。
24日分の窓の付いたカレンダーや、小さなプレゼントを入れてぶらさがっている24の靴下。1日1つずつ開けて楽しみ、イブまでの日を数えてゆくものだ。
(ツイノベでアドヴェント・カレンダー。おもしろそう)
わくわくしながらスマホを握りしめ、ホームに滑り込んでくる電車に乗った。
家に帰り夕食や入浴を済ませ、スマホをチェックしてみると、アドヴェント小説の1作目が届けられていた。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 1.近所の図書館も冬支度。児童コーナーの天井に揺れる手作りのトナカイや橇。足を向けてみれば、子供たちは赤と緑の絨毯の上で楽しげに絵本を読んでいる。ジングルベル、ジングルベル。頭の中に鈴の音を響かせて、僕はディケンズを手に取った。ねえ、君の思い出の本を教えて」
とくん、と胸が鳴った。
『ねえ、君の思い出の本を教えて』
直接言われたわけでもないのに、間近で囁かれたような。
絵本や子供たちからの連想で、児童書の中にいる自分がオーバーラップしたのかもしれない。
(思い出の本、か……)
この季節、自分なら何を選ぶだろう。
『律子さん、自分なりにおすすめ本をリストアップしておくといいよ。年齢別、季節別、とか。特に年かさのお客様は、店員に判断を委ねてくることがあるから、いざというときにきっと役に立つ』
悠人にそう言われて、例のブックボックスに『12月』『幼稚園年少』などとタグをつけ、管理はしている。しかし所詮は、ありきたりなラインナップだ。売れる本と思い入れのある本は違う。今売り出している楽しくにぎやかなだけのシリーズは、自分には馴染みがないせいか、正直なところあまり心には残らないような気がする。
(ディケンズか……守銭奴のスクルージが仕事仲間のマーレーの亡霊に会って、3人の精霊に導かれて改心するお話、だったっけ?)
あまりに有名なイブの物語の定番。昔読んだ気もするが、だいたいのあらすじしか覚えていない。
(自分が読んだ古い物語もリストアップしてみようかな)
律子は、絵本や少年文庫、まだ実家にあるだろう思い出の本を調べ始めた。
「律子さん、どうかした?」
最近休憩時間も陳列棚や在庫を確認している律子に、悠人が声をかける。
「あ、個人的なことなの。子供のころ、このシーズンに読んだ本って何だろうなって」
背表紙を指で追いながら、遠い記憶を呼び覚ます。小さいころ母の膝にかじりつき、何度も『読んで』とせがんだ絵本。こんなに児童書に囲まれていながら、日々の業務をこなすのが精一杯で、あのころの高揚感を忘れていた。
頁をめくれば、そこは銀世界。
しんしんと降る雪の中、走ってくる橇の鈴の音。トナカイの息遣い。雪を踏みしめる長靴の音、どさっと置かれた重いプレゼントの袋。
イエス様の生まれた夜、ぴかぴかと光るベツレヘムの星。馬小屋の藁の匂い。3人の賢者のあたたかな眼差し。
その温度、音、匂い、質感さえも、子供に届ける言葉と挿画。
頁を捲りながら、改めて絵本の素晴らしさを噛みしめる。
「それが、律子さんが読んでた本?」
律子が開いている本をのぞき見た。脇にも何冊か重ねてある。最近の本からすると地味だが、あたたかみのある表紙。
「うん。でも私が定番だと思ってた本が、結構置いてなかったりするのね。自分で在庫管理してるくせに、改めて本の回転は早いなあって思っちゃった。翻訳物だと、改訂と一緒に翻訳家も変わることもあるでしょ。あれ抵抗あるよねえ。何度も読んだ本って文章も一字一句覚えてるから、別な人の文章だとかなり違和感があって」
「そうだよね。リズムで覚えていたりするもんね。ああ、これ、俺も好きだった」
律子の思い出の本を手にとった悠人は、いつになく和やかな表情をしていた。
「記録するだけなら、ここにない古いものは図書館で探すといいよ。この近くの笠倉図書館は児童書の在庫が結構充実してる。奥にしまい込まれてるけど、頼めば出してくれるから」
「……悠人くん、あれだけここで本を読んでるのに、図書館の古い本まで読んでるの?」
背の高い彼の顔を見上げると、何をいまさら、という目で見られた。
「そりゃあ読むよ。俺の給料じゃ買い取れる本なんてたかが知れてるし、読んでる本の関連で読みたくなる古い本もある」
この男の頭の中には、一体どれだけの本が積み込まれているのだろう。幼児期のころからの本がすべてデータ化された、近未来的な巨大図書館を想像する。
「図書館の児童コーナーも、最近はいろいろ工夫してておもしろいよ。図書館の人が選ぶこの時期のラインナップやディスプレイも参考になる。今だと子供たちが作ったオーナメントを飾ったツリーがあったり、天井からトナカイのバルーンアートがぶらさがってたり」
(図書館の児童コーナーか)
律子の脳裏に馬刀葉椎のツイノベが甦る。
『児童コーナーの天井に揺れる手作りのトナカイや橇』
『子供たちは赤と緑の絨毯の上で楽しげに絵本を読んでいる』
実は律子自身は児童コーナーにはあまり行ったことがない。学生のころに入ろうとしたとき、小さい子とその母親ばかりで気後れしてしまったのだ。
「児童コーナーって大人ひとりだと入りにくくない?」
「そう? 誰が入ってもいいんだし、俺は気にしないけど」
きっと彼なら、じっくりフロアを隅々まで眺めて回るのだろう。目に浮かぶようだ。ふと、就職して以来の疑問が、律子の口をついて出た。
「悠人くんは、どうして児童書担当を選んだの?」
突然大きな質問をぶつけられ、悠人は面食らったように目を瞬かせた。
「……いきなりだなあ」
「だって、ほんとに意外だったんだもん。悠人くんって、絵本が好きなタイプに見えなかったから」
正直な告白に苦笑しながら、それでも律儀に説明しようとするのが悠人らしい。
「俺は本が好きで、手当たり次第いろんなものを読んできた。でも、あるとき子供に絵本を読んであげる機会があって、気付いたんだ。読んであげるのもいいもんだな、って。読んだ言葉が、自分の中を1回巡って、子供に伝わる。自分もその音や話の面白さを楽しみ、それがまた子供を楽しませる。二重の喜びになるんだ」
彼の長い指が動き、心の宇宙を形取るように弧を描く。
「それにね、文章を書いたときなんかに思うんだけど、自分の言葉の根幹はやっぱり児童書にあるんだよ。さっきの翻訳の話じゃないけど、子供のころ繰り返し読んだ本って、言葉のリズムとか言い回しが、身体に染みついてるでしょう。今使ってる話し言葉も、読んでる本の嗜好も、辿れば子供のころ出会った本とつながっている。自分の言葉のルーツになっていると思ったら、子供のための本がまったく違ったものに見えて。すごく愛おしくて、たまらなくなった」
——愛おしくて、たまらない。
悠人の口から紡がれるには、あまりに甘く熱っぽい言葉。それなのに相変わらず表情の分かりにくい彼の顔をまじまじと見つめた。
朝に夜に、大好きな本の仕事に没頭している彼。
恋に落ちたら、その情熱をどれだけ相手に傾けるのだろう。ロミオのように、高い塀ものりこえてしまうんだろうか。はたまた茨で閉ざされた城に、眠っている姫を起こしに行くのだろうか。
なぜかロマンティックな想像をしてしまったが、考えてみれば悠人の浮いた噂は今まで聞いたことがなかった。
「まあ、とにかく。この時期は忙しいけど、それだけ子供たちにたくさんの本が届けられるわけで」
さすがに照れくさかったのか、悠人が頭を掻きながらぼそっと呟く。
「楽しみながらがんばりましょう、律子さん」
楽しみながら。
そうだ。
私たちは子供に言葉を届ける、大きな橇をひいているんだ。
——そうだよ、この季節を楽しもう。
久しぶりに前向きな気持ちが湧いてくる。これも、この時期特有の魔法なのかも知れない。
以来、律子は仕事に精を出しながら、探し当てた思い出の本の数々を『ブックボックス』に書き込んでいった。
ツイッターでは馬刀葉椎のアドヴェント小説も順調に続いている。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 4.僕の家には煙突もないのに。どうして信じていたんだろう、枕元の贈り物が橇に乗ってやってきたと。望みどおりのプレゼントが届いたとはしゃぐ僕に、母は「手紙で頼んでおいたのよ」と得意気に微笑んで。愛しい君はもう知っているのだろうか。北の国に住む白髭の聖人の連絡先を」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 5.中2のイブ。家まで来てくれたあの娘のプレゼントは、もみの木柄のマグカップ。「大事にするね」って言ったのに。見つかった兄貴にからかわれ、もみ合ううちに手が滑って。一度も使わぬうちカップは粉々。彼女にはとても言えなくて。僕の恋の橇は鈴を鳴らして闇夜に消えた」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 6.高校生の僕は、母校の幼稚園から頼まれ教会の聖歌隊のボランティア。彼女がいるのにイベントに駆り出されたイブ、帰ろうと自分の自転車を見れば、カゴに赤いリボンの包みが。中にはカードと手編みのマフラー。恥ずかしがり屋の聖ニコラス。僕はマフラーに顔を埋め笑顔を隠した」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 7.大学1年、初めて予約したイブのディナー。プレゼントには有名ブランドの指輪を選んだ。テーブルにキャンドル、グラスにはシャンパン。でも渡した指輪は彼女の指には大き過ぎて。指からころんと転がって、周囲の客から失笑が漏れる。僕と彼女の顔はトナカイの鼻より赤かった」
思わず微笑んでしまうものもあれば、胸が痛むエピソードも。今回のツイノベは、主人公の姿を年代毎に追っているせいか、よりリアルに感じられる。
(もしかして、今回は実話なのかな。教会の聖歌隊って、幼稚園がキリスト教系だったのかも)
ツイノベを追いながら想像する。
いくつかの恋を経て大人になっていく彼の姿を。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 8.指輪の彼女と別れた翌年のイブ。僕はボランティアで母校の幼稚園に行き、読み聞かせをすることになった。いつも小説を借りる図書館に、初めて絵本を探しに行く。赤や緑、ぴかぴかの表紙が飾られた児童コーナー。でも結局心ひかれるのは、昔読んでもらった古い絵本だった」
(あ、彼女と別れちゃったのか)
大学時代の彼の失恋に同情しながらも、読み聞かせ、古い絵本という共通項に嬉しくなる。つい彼に話しかけてしまった。
「リスコッティ @Risu-coT
@MatebaShii アドヴェントのツイノベ、楽しく拝見しています。私もブックボックスで #思い出の本 というタグを作って整理を始めたんですよ。やっぱり子供のころ読んだ本って、見てるだけで幸せになります」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
@Risu-coT ありがとうございます。 #思い出の本 のタグ、見てきましたよ。僕も「ねむれないもみのき」や「とびきりのおきゃくさま」は大好きでした」
「リスコッティ @Risu-coT
@MatebaShii わあ、こちらこそありがとうございます! 子供のころ好きだった本が一緒だから、小説の趣味も合うのかもしれませんね! 話は変わりますが、実は私、仕事の関係でそのうち読み聞かせもやらなきゃならないんです。実際に読み聞かせをなさったのなら、何かコツってありますか?」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
@Risu-coT 僕も教員ではないので、経験談というか持論になりますが、やはり子供の視点になって楽しむことじゃないでしょうか。あまり参考にならなくてごめんなさい」
(うーん。なるほど)
律子は唸りながらお礼のツイートを返した。
次の日からの馬刀葉椎のツイノベは、読み聞かせに使った絵本のあらすじを追っていた。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 9.僕が選んだのは『もみのき と こじか』。イブの夜、男の子に起こった奇跡の物語だ。その本との出会いはは20年前。イブに熱を出し『お楽しみ会も行けなかった』と愚図る僕に、母が読んでくれたのだ。穏やかな声になだめられ、『僕にも奇跡を』と願いながら眠りについた夜」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 10.『もみのき と こじか』の主人公も男の子。イブの夜、足の悪い母親の代わりに野菜を取りに行き、傷ついた若いもみの木に出会う。腹ぺこの子鹿にかじられたのだ。男の子はもみの木に添え木を当て、星の飾りをつけてあげた。さらに子鹿にも、なけなしの野菜を分け与えたのだ」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 11.男の子は家に帰り『ごめんなさい、野菜はこれだけしかないの』と一部始終を打ち明けた。両親は息子がやさしく正直に育ったことを誇りに思った。『いいことをしたね。きっと神様はお前のしたことをご覧になっているよ』ご馳走は少なくなったけれど、幸せなイブの晩だった」
主人公の男の子は、それから毎年イブの晩にはもみの木に星を、子鹿に野菜をプレゼントするようになった。しかし、とある年のイブに熱を出し、男の子はもみの木と鹿にプレゼントを届けられなくなってしまう。男の子が泣いていると、奇跡が起こる。
もみの木はツリーに、鹿はトナカイとなり、白髭の聖者を連れて男の子の部屋にやってきたのだ。男の子は聖者にプレゼントをもらい、さらに用意していた星と野菜をもみの木と鹿にプレゼントすることができた。お礼に、お母さんの弾くオルガンを弾いてもらって歌を歌う。
そしてもみの木と鹿が帰った後、男の子の両親が言うのだ。
『ほらね、神様はちゃんとお前のしたことをご覧になっていただろう』
と。
(ああ、これはきっと、子供のころと大人になってからとでは、受け止め方が違う本かもしれない)
たくさんの絵本を読むようになった律子が、最近よく思うことだ。
たぶん子供は単純に、もみの木がツリーになったり、子鹿がトナカイになったり、プレゼントをもらったり、というくだりを喜ぶ。だが大人は、もみの木を囓った子鹿を罰せずに餌までやった子供の優しさを尊いと思うだろう。そして親が子を思う気持ちに寄り添い共感する。
『二重の喜びになるんだ』
悠人の言葉が甦る。
子供に読んであげながら、おしまいの頁を閉じたとき大人も満足した吐息を漏らす。親子の幸せな記憶。そういう本はきっと、また読み継がれていく。
(『もみのき と こじか』か……明日探してみよう)
律子はあたたかな気持ちで眠りについた。
翌朝、駅前で朝食を買い、早々に店に向かう。
着くなり控え室でサンドイッチを食べながら、検索をかけ『もみのき と こじか』を探した。
「おはよう。早いね、律子さん」
そう言いながらすでに書店のエプロンを身につけている悠人が入って来た。
「あ、悠人くん、おはよ」
「何か探してる?」
後ろから検索画面を覗き込む。
「『もみのき と こじか』っていう本なんだけど」
「……それなら、通路側の棚の一番下の段」
「あ、ありがとう」
即座に答えられる悠人に感心しながら、サンドイッチを食べ終え、手を洗って棚に向かった。『もみのき と こじか』を持って帰ってくると、今度は悠人がエプロンを外してコンビニのおにぎりを食べていた。ひと仕事終えての朝食らしい。
「また昔読んだ本の探しもの?」
悠人は片手でPCの画面をスクロールながら律子に話しかける。
「いえ、ちょっと、この本で読み聞かせをしたっていう話を聞いて、勉強しとこうかなあ、と」
「読み聞かせが、今からそんなに心配?」
気遣ってくれる悠人に後ろめたさを感じる。本当は単に馬刀葉椎が読んだ本が気になるだけだったのだが、そうも言えない。
「まあね」
と少し憂鬱そうにしてみせると、悠人は彼らしく論理的に律子を励ましてくれる。
「大丈夫だよ。俺みたいな声の悪い威圧感のある男が何とかやってるんだから。律子さんみたいに声が良く通るかわいらしい女性の方が、ずっと子供受けすると思うよ」
かわいらしい。思わぬ褒め言葉に赤面したが、悠人は相変わらずPC画面を見たまま表情は変わらない。
「あ、そういえば、今度の読み聞かせで悠人くんが使う本、教えて? 私も読んでおかないと」
使う本は当然この季節に売りたい新刊のはず。しかし読み聞かせまで2週間を切った今も、律子には知らされていない。どんな本なのだろうと気になっていた。
「……教えない」
「は?」
聞き間違いかと思った。
「律子さんは、読み聞かせ当日まで何も知らないほうがいい」
何を言っているのだろう。いつも新刊は読んでおくようにと言っているくせに。
冗談なのかと彼の顔を見つめると、思いの外真摯な眼差しが返ってくる。
「僕の読み聞かせを見るの、初めてでしょう? これからは律子さんも読む側になるから、できれば子供の気持ちになって参加して欲しいんだ。もちろんいろいろ手伝ってはもらうけど、律子さん自身も純粋に聞く楽しさを味わってくれたらいいな、って思ってる」
いつも飄々としている彼の、ひとかたならぬ熱意が伝わってくる。
悠人は仕事熱心ではあるが、あくまでも裏方に徹し目立つことを嫌う。たくさんの子供たちや保護者の前に立つような仕事を、好むような性格ではなかった。そんな彼が自分の読み聞かせを客として楽しめ、と律子に言う。
それだけ悠人が、読み聞かせという仕事に誇りを持っているのだと知る。
『やはり子供の視点になって楽しむことじゃないでしょうか』
あの馬刀葉椎のツイートが頭をよぎる。
——子供に還ろう。悠人くんがそう望むなら。
「……わかった。楽しみにしてる」
そう言って微笑むと、悠人も深く頷いた。
一方、馬刀葉椎のツイノベも進み、ちょうど大学生の彼が母校の幼稚園で読み聞かせをするところを綴っていた。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 20.本来僕の声は掠れて聞き取りにくい。でも腹に力を入れ、ゆっくりと読んだ。子供がもみの木や鹿を気遣う気持ち。もみの木や鹿が子供を慕う気持ち。そして親の我が子への思い。大人になった今だからわかる心をこめて。僕を懸命に見上げる小さな瞳たちの眩しかったこと。」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 21.男の子が母親のオルガンに合わせてお礼の歌を歌うシーン。本についていた楽譜を、僕は前もって先生に渡しておいた。先生の弾くオルガンに合わせ、僕は懸命にその歌を歌う。ところが途中から、子供たちも大きな声で歌い出した。先生が園児たちに歌詞を教えておいてくれたのだ。」
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 22.一緒に歌を歌いながら、僕は胸がいっぱいになる。絵本は、読んであげている大人まで幸せにする。僕は図らずも初めてそれを知ったのだ。まとまらないゼミのレポート、破れた恋、見えない将来。頭を悩ませていたことがちっぽけに思えたイブのこと。僕はずっと忘れない」
22日の朝、更新されていたそのツイノベを読み、不覚にも涙があふれた。
悠人に聞かされたことや、自分が子供の本と向き合っている今が、馬刀葉椎の文章と重なったのだ。
絵本が伝えるあたたかい言葉。耳障りのよい、やわらかな音。
大人の声は子供へ、子供の笑顔は大人へ。幸せの糸は連なってゆく。
『読んであげている大人まで幸せに』
その言葉を噛みしめる。
奇しくも今日は、読み聞かせ会の日。
律子は気持ちも新たに通勤電車に乗り込んだ。
読み聞かせ会は午後3時からの予定になっている。昨日律子たちは遅くまで絵本コーナーを改装し、こどもたちが座るスペースを作った。悠人が本を置くための机やスタンドも本のポスターやリースで飾り付けてある。読む聞かせで使う本は、悠人がこっそり大量発注していた。気に入ってもらった客が手に取りやすいよう、ラックにたくさん積んでおく。悠人の様子は一見いつもと変わらないように見えたが、やはり気を張っているのか、いつもより頻繁に本の背表紙を揃えたり、在庫を確認したりしている。
いよいよ本番の3時近く、悠人が準備のために控え室に消えた。律子もボンボンのついた赤い帽子をかぶり、からんからんとハンドベルを鳴らしてふれまわる。
「3時から読み聞かせが始まります。どうぞ絵本コーナーにお集まりください!」
用意した椅子に、少しずつ子供が座ってゆく。土曜だけあって母親だけでなく父親の姿もちらほら見える。
3時5分前。会場が埋まったころ、悠人が大型のトートバッグを手に会場に現れた。
ブラックジーンズに深いグリーンのタートルネックのセーター、その上に着る赤い仕事用エプロンのふちには、白いふわふわのフェイクファーが付いている。律子が昨日縫い付けておいたものだ。頭にはトナカイの角がついたカチューシャが乗っていた。背が高く無造作な髪型の彼に、トナカイの角はなかなかよく似合う。
悠人は大股に歩いてきて読み聞かせ用のスタンドが置いてある台の脇に立った。
正面を向くと、にっこり笑った。
「皆さーん、こんにちは!」
(わ……)
いつも無表情で控えめな彼が、弾けるような笑みを浮かべ、堂々と子供たちを見回している。カチューシャで前髪を上げているせいか切れ長の目がよく見え、普段よりも爽やかで凛々しく映る。あの就職の面接のとき、緊張して固くなっていた彼とは別人のようだ。
「それでは、はじめますよー」
のっぽの彼がその長い腕を大きく振ると、何人かの子供たちが『はーい』と返事をする。後ろで立っている若い母親が、抱いている赤ちゃんの手を取って振り返した。悠人はぺこりと礼をすると、本を読み聞かせ用のスタンドに乗せた。辺りをぐるりと見渡し、すうっと息を吸う。
「『トナカイのかわりに』。作、さわむらたえ」
よく響く清々しい声が、辺りの空気を震わせる。
これがいつも『律子さん』と諭すように話す彼の声だろうか。
「いよいよ今夜は待ちに待ったイブ。たくさんの子どもたちの願いをかなえようと、白いおひげの聖者は橇にどっさり荷物をのせています。本や、おもちゃや、ぬいぐるみ……たくさん、たくさん積みました。橇をひくのは、立派な角をもつたくましいトナカイ。白い息を上げて天空を蹴り、橇は家々の上を滑っていきます。でも、聖者がえんとつから子供たちの部屋にプレゼントを置いているあいだ、待っているトナカイは浮かぬ顔。右の前足をゆっくり上げたり下げたりしています」
次の頁を捲ると、トナカイのしょんぼりとした顔が描かれている。とたんに悠人は弱々しい声を出す。
「『こまったなあ。さっき流れ星が当たった足が、ずきずきと痛んできたぞ。せっかくのイブに、けがをするなんて。最後まで子供たちの家を回ることができるかしら。こまったなあ』。すると子供の家の飼い犬であるジャックが、わんわん、と吠えました。『僕が代わりになりましょう。どうぞトナカイさんは休んでて』」
はりきった犬が橇の引き綱を咥えている絵があった。白い大きなトナカイは後ろから心配そうに覗き込んでいる。
「『お気持ちはありがとう、でもきっと、君では橇は動かない』トナカイはすまなそうに言いました。無理もありません。ジャックの身体はトナカイの半分もないのです。するとジャックは『じゃあ、僕ともだちを呼んでくる!』と元気に駆けていきました。呼んできたのはジャックよりひと回り小さい猫のモモです」
子供たちから『ええーっ』『だめじゃーん』という声が漏れる。予想どおりの反応なのだろう、悠人は微笑みながら頁を捲った。
「トナカイは首を振ります。『悪いけれど、猫さんといっしょでも、きっと力が足りないよ』『じゃあ、オイラも友達を連れてくる!』猫のモモが連れてきたのはニワトリのコッコでした。『トナカイさんの一大事! 私にまかせて! コケコケコ!』コッコは大きな声でひと鳴きすると、羽根をばたばたさせて橇を引っ張りましたが、びくともしません。でもコッコもあきらめませんでした。『じゃあ、私もお友達を呼んでみる!』コッコは庭を歩き回ると、枯葉のたまった辺りを、つんつん、とつっ突きました」
そう言いながら、悠人は律子を手招きする。何事かとすぐにそばに駆けて行くと、手の先で頭をつん、つん、とつつかれた。
(ああ、ニワトリの真似をしてるんだ!)
律子は察して、大げさに『痛い! いたた』と頭を押さえる。子供たちも真似をして母親やともだちを突いて笑い出した。そのタイミングで、悠人は本を捲る。
「『誰だね! わしの甲羅を叩くのは!』。枯れ葉の影からのっそり首を出したのはハコガメのハロルドでした。はじめは怒っていたハロルドも、わけを聞いて、がぜん張り切ります。『トナカイの代わりに橇を? よかろう! わしもまだ老いぼれてはおらんぞ!』 しかしハロルドが一緒に引っ張っても橇はまだ動きません。犬のジャックが悲しげに吠えました。『もうだめだ、誰もいない!』みんながためいきをついた、そのときです。「いや、まだいるかもしれんぞ」ハコガメのハロルドは、のそのそと歩いて行きました。凍った池のほとりに着くと、そのじょうぶな4本の足で、土をどんどん、どんどんと踏みならします。さあ、みんなも一緒に!」
悠人は靴で床を踏み鳴らす。子供たちもそれを真似て足をばたばたさせ床を鳴らした。
「『うるさーい! 誰だよ、こんな寒い夜に俺を起こすやつは!』出てきたのは冬眠していたカエルのカールでした」
「えーっ、カエルなのー?」
子供たちからげらげらと笑い声が起こる。
「ハコガメのハロルドは『君の力を貸してくれ』と頼みました。カールは気のいいカエルですから、すぐに橇引きに加わります。『よいしょ、それっ!』ぴょんぴょん力の限り跳ねてみせましたが、やっぱり……橇は動きません」
悠人が悲しげにそう言うと、子供たちはそれぞれに自分の思いを口にする。
「もっと大きな動物を連れてくればいいよ!」
「冬眠してるクマを起こすとか!」
悠人はひとつひとつの言葉を聞きながら、再び物語に戻る。
「『こまったなあ』。みんなが考え込んでいると、カエルのカールがいいました。『待って、俺に考えがある』。カールは大きく息を吸い込むと、両の頬をふくらませます。そうです、カールは大きな声で鳴き始めました。けろけろ、けろけろ。その声は夜の澄んだ空気をふるわせて、あたりいったいに響きわたりました。するとどうでしょう。枯葉の下から、ぎざぎざした緑の葉っぱがむくり、またむくり、と起き上がってきたではありませんか!」
律子は悠人の語りに魅了され、子供たちと一緒に彼が次の頁を開けるのを固唾を飲んで見守った。
「やがてその葉っぱからまっすぐな茎が伸びてきて、太陽みたいな黄色い花がぱあっと顔を覗かせました」
さっと新しい頁が開かれる。あたたかみのある黄色をたっぷりと使って、お馴染みの花が描かれていた。子供たちから歓声が上がる。
「タンポポ!」
「タンポポだ!」
「そう、タンポポだね」
悠人もにこにこと子供たちを見回した。
「『おお、さむい。カールの声がしたから、春だと思って起きて来たのに!』タンポポのタミーは、ぶるぶると花を震わせています。おやおや、そうしているうち、黄色い花はだんだんに真っ白な綿毛になっていきました。『ふう、これで少しはあったかい。ところでカール、どうして私を呼んだのかしら?』」
「そうだよ、タンポポなんて力がないよ!」
子供たちがわいわいと騒ぐ。悠人は長い人差し指を唇に当て、『しーっ』と子供たちを静めた。さらに声を小さくして子供たちを惹きつける。
「カールはタンポポのタミーに答えました。『聖者の橇を引くトナカイが、足を痛めてしまってね。このままじゃ、子供たちへの贈り物がイブのうちに届かない。タミー、どうか君の力をかしてくれ』。最後ののぞみをかけて、みんながじっとタミーを見つめます。考え込んでいたタミーは急に『そうよ!』と叫びました。『お願い、カール。あなたの自慢の大きな声で、私の仲間を起こしてちょうだい!』」
子供たちが『えーっ』と騒ぐ中、悠人が大きく声を張り上げる。
「カエルのカールは、冷たい冬の空気は大の苦手です。でもトナカイのために、みんなのために、大きく、大きく、息を吸いこみました。頬を風船のようにぱんぱんにふくらませ、大きな声で鳴き始めます。けろけろ、けろけろ、げこげこ、けろけろ。『僕たちも手伝おう!』犬のジャックも、猫のモモも、ニワトリのコッコも、ハコガメのハロルドも、カエルの鳴き真似をしてカールを応援しました。さあ、みんなも助けてあげてね。いくよ!」
悠人がカエルの鳴き真似をしてみせる。彼は手のひらをひらひらさせて律子を煽った。
(え? 私も?)
目で訴えると、悠人は鳴き真似をしながら、こくこくと何度も頷く。
(ようし!)
律子も恥を捨てて、けろけろ、げこげこと大きな声を張り上げる。やがて戸惑っていた子供たちも、少しずつその声に続いた。
けろけろ、けろけろ、げこげこ、けろけろ。
絵本コーナーがカエルの鳴き声でいっぱいになったところで、悠人が次の頁をさっと開く。
「ぽん! ぽん! ぽん! カエルの声を聞きつけて、庭には黄色のタンポポが次々に咲いてゆきます。そして口々に『おお、さむい!』と叫ぶなり、白い綿毛になっていくのでした。みんな綿毛になったころ、すかさずタンポポのタミーが号令をかけます。『さあ、みんな、私のあとについてきて!』……するとどうでしょう。風もないのにタンポポの綿毛がいっせいに飛び始めたではありませんか。綿毛はふわりふわり、橇の下のほうへと集まっていきます。プレゼントを乗せた聖者の橇は、まるで白い綿雲の上に乗ったよう」
律子と子供たちは身を乗り出して続きを待つ。絶妙のタイミングで開かれた頁には、白い綿毛の雲に乗った橇と、それを喜び勇んでひいている犬、猫、ニワトリ、ハコガメ、カエルのうれしそうな絵が描かれていた。
「橇をひいてみた動物たちは顔を見合わせて叫びました。『すごいぞ、すごいぞ! あんなに重かった橇が羽根の様に軽い!』 戻ってきた白ひげの聖人は橇のひき手が代わっていることに気付き、わけを聞きました。『なるほど、トナカイの代わりに、みんなが助けてくれるというのじゃな。そうかそうか、ありがとう。それでは私のトナカイが傷をいやしているあいだ、みんなでプレゼントを配ってくるとしよう。行ってくるよ、ホゥホゥホゥ!』 橇は鈴の音を響かせながら滑り出します」
そこで次の頁を開くと、左には楽しげに橇をひく動物たちと聖者の姿、右の頁には歌の楽譜が書かれていた。
(楽譜?……まさか)
悠人はすかさずトートバッグから何かを取り出し、絵本の後ろにおく。そっと覗き込んだ律子は、見慣れたその形に目を見張った。
(『両手でひけちゃうピアノ絵本スーパーDX』だ!)
ボタン電池は他ならぬ律子が昨日替えたばかりだ。悠人は肩を狭くして長い腕を折り曲げ、そのあまりに小さいおもちゃのピアノを弾き始めた。
「さあたいへんだよ、イブなのに、トナカイさんがけがをした! でも犬の僕がいれば安心! 鼻がきくから道はおまかせ! トナカイのかわりに!」
(……きれいな声!)
ピアノも弾きこなしているが、驚いたのはその歌だった。いつも話すときは少し掠れて声量も少ないのに、伸びのいい艶やかな声で、マイクも使わなくてもよく響く。そこまで歌ったところで、悠人は本のタイトル『トナカイのかわりに』を指差した。
「さあ、みんなも『トナカイのかわりに』のところを歌ってね!」
ずい、と悠人からタンバリンが差し出され、慌てて受け取る。
「じゃあいくよ!」
悠人が目配せする。何とかついていかなければと、歌に合わせてタンバリンを叩く。
「猫のオイラにゃ力は無いけど、りっぱなひげとこの目があるのさ! どんなおうちもすぐに探すよ! 暗い夜道もオイラにおまかせ! トナカイのかわりに!」
ニワトリ、ハコガメ、カエルと歌は進み、最後はタンポポだ。
「土に根をはるタンポポだけど、綿毛になればお空も飛べる! 高いお山や海も越え、あなたの家に幸せ届ける! トナカイのかわりに! 力を合わせて幸せ届ける! トナカイのかわりに!」
歌を終えた悠人は、再び朗読に戻る。微笑みを浮かべたまま、息も切らさず、朗々とラストを読み上げる。
「こうしてプレゼントは、無事子供たち全員に届けられました。休んでいたトナカイも元気になり、聖者と一緒に北のふるさとに帰って行ったのです。この本を読んでいるみなさんも、イブにプレゼントが届いたら、赤いリボンの端っこや、おもちゃを入れた袋を、よーく探してごらんなさい。もしタンポポの綿毛がついていたなら、動物たちがトナカイの代わりに届けてくれたものかもしれませんよ」
子供たちが喜んでプレゼントを開けている頁。その足下に落ちている赤いリボンに、確かに綿毛がついている。悠人の長い指がそれを指し示し、場内を見回した。皆が見たようだと確認したところで、絵本をゆっくり、閉じていく。ぱたん、と音がして、子供や大人たちからも、はあ、と息が漏れた。
「おしまい」
子供たちとお母さんたちから、大きな拍手と歓声が起こる。
「ありがとうございました」
悠人はぺこりと頭を下げた。トナカイの角がぶん、と振れて落ちそうになる。彼はカチューシャを直しながら、にっこり微笑んだ。その晴れ晴れとした笑顔に、魅了される。
——この人、すごい。
ただただ感激して、彼の顔を見つめる。悠人は熱演で紅潮した顔のまま律子と視線を合わせると、こくん、と頷いた。
——すっごく、すっごく楽しかった!
律子も子供のように何度も頷く。あまりに興奮して言うべき台詞を忘れてしまった。代わりに、悠人が話し始める。
「皆様、今の読み聞かせで使った本は、『となかいのかわりに』というさわむらたえ先生のご本です。こちらのワゴンにございますので、ご興味のある方は、どうぞお手にとってご覧ください。歌の楽譜もついていますので、イブの夜に皆さんで一緒に歌って楽しむこともできますよ!」
すぐにワゴンに人だかりができる。我に返った律子も案内を始めた。
「お買い求めですか、ありがとうございます! 中央レジまででお願い致します!」
イブまで2日しかないが、ありがたいことに多くの客が本を手にとってくれた。間近で見てみると、鮮やかで大胆に見えた絵のタッチは、動物の柔らかい毛並みやかわいらしい目もていねいに描かれていて、その愛らしさに思わず微笑んでしまう。本を持った客が次々とレジに向かう姿に、律子と悠人は代わる代わる頭を下げた。
「あの」
列の最後に並んで声をかけてきたのは、子供を胸に抱き、大きなマザーズバッグを下げた若い女性だった。首も座るか座らないかくらいの小さい赤ん坊が、抱っこひもの中でもぞもぞと動いている。母親はミルクティ色の艶やかな長い髪を垂らしており、ミニのキュロットにレーシーなタイツ、編み上げのアンクルブーツが、きれいな脚の線を引き立たせている。
(お洒落なママだなあ)
律子が感心していると、彼女はかわいらしい顔を綻ばせて悠人を見た。
「読み聞かせって初めて参加したんですけど、楽しかったー! 私も一緒にノリノリで歌っちゃった! この子もお歌が気に入ったのかご機嫌で!」
無邪気に話しかける姿が微笑ましい。悠人は照れくさそうに頭を下げた。
「この本、下さい! すみませんが抱っこしてて手が届かないので、1冊取っていただけますか?」
「ありがとうございます! あ、レジまでご案内します!」
律子が案内しようとしたとき、かつかつと駆けてくるブーツの音がした。
「ああ、智! 見つけた!」
「真也!」
真也、と彼女が呼んだのはウェイブのかかった黒髪をビーズの付いた黒いシュシュでひとつに結んだ男性だ。しなやかな身体に沿う黒いシャツ、カーゴパンツにごついミリタリーブーツ、腰にはスタッズのついたシザーバッグを付けている。耳元に垂らした後れ毛や大きめのピアスも色っぽいハンサムが、さっとマザーズバッグを持つと、顔を緩めて指先で赤ん坊の頬をつついた。
「んー、幸也、いい子にしてたか?」
(うわー、すてきなパパ!)
幸せそうな様子に思わず律子も笑顔になった。
「今、読み聞かせが終わったばっかりなの。すっごくよかったのに、残念だったね」
「ごめん、店が混んでてなかなか休憩入れなくて。30分だけって里奈ちゃんに頼んで抜けてきたんだけど、間に合わなかったか。智、この本買うの?」
彼女が手にした絵本を、受け取って表紙を眺める。
「うん! あのね、動物たちが歌うとこがあってね、そこがとっても楽しいの! 楽譜も付いてるから、真也も歌えるよ?」
「歌うの? 俺が?」
彼は目を丸くしている。
「だってしばらく真也の歌聴いてないんだもん。ギターもずっと放りっぱなしじゃない。久しぶりに聴きたいなあ。幸也だってパパの歌聴きたいよね? ねーっ」
あやされた赤ん坊はご機嫌で笑っている。母親は『ほらー』と言って夫を肘で突いた。色男も妻と息子にかかっては形無しだ。
「わかったよ、善処する。イブの余興はこれで決まったな!」
彼はおどけた様子で律子と悠人に目配せする。彼の妻はくすくす笑いながら悠人と律子に向き直った。
「おかげさまで、この子の初めてのイブはとっても楽しくなりそう! お忙しいでしょうけど、おふたりも、いいイブを! ありがとう!」
自分のことを言われるとは思っていなかったのか、悠人がはっとしたように目を見開く。3人の親子は手を振りながらレジに向かって去って行った。
(悠人くんが読んだ物語が、こうしてそれぞれの家に帰って行くんだ)
今日読み聞かせを聞いた子供たちは、家に帰ってその話をするのだろうか。この本を買った大人たちは、子供たちに同じように歌って聞かせるのだろうか。
願わくばこの本が、ひとりでも多くの子供たちの心に残っていきますように。律子は悠人を見上げた。
「お疲れ様! 悠人くんのおかげで、きっとすてきなイブになるね」
「へっ? あ、ああ! あの親子がか!」
慌てて頷くとトナカイの角が外れそうになる。面倒臭くなったのか、悠人はむしるようにそれを外すと、髪をくしゃくしゃとかき乱した。
「外しちゃうの? よく似合ってたのに」
「え」
「あーあ、髪、ぐしゃぐしゃ。直したげる」
律子は背伸びをして乱れた髪に手を伸ばす。
「悠人くん、少し屈んで。届かない」
「え、あ、悪い」
反射的に膝を折った悠人の髪に触れる。整髪料も付けていない彼の髪は柔らかく、シャンプーだけの素直な匂いがする。優しく指で梳くと、悠人はくすぐったいのか肩を竦めた。
律子の冷たい指先に、あたたかな地肌が心地よい。
もっと触れていたい。
俯いている彼の薄い耳介の形や、意外としっかりした肩の線を視線で辿る。それだけで、体温が上がってくる。
——ああ、どうして気がつかなかったんだろう。
『律子さん』
自分を呼ぶその声も。
本を愛し、修道士のように子供の本にその身を尽くす姿も。
『愛おしくて、たまらない』
彼が言ったその言葉が、彼の髪を撫でる自分の指からあふれ出すよう。
叶うなら、私にも。
その同じ言葉を。
「……!」
律子は自分の気持ちに驚いて、慌てて彼の髪から手を離した。
「ん? ありがとう」
悠人は頭を上げると、くすぐったそうに自分のうなじを撫でる。そんな仕草ひとつにもときめいて。
——好き、なんだ、悠人くんが。
また仕事に戻る彼の後ろ姿を、律子は胸に手を当てただじっと見送った。
『律子さん』
翌朝、12月23日午前6時。律子は悠人に呼ばれる夢を見て目を覚ました。
(重症だ)
夕べはよく眠れなかった。今までまったく意識していなかったのに、恋心を自覚してしまうと彼のことばかり考えている。今日も仕事は相当忙しいはずなのに、体力がもつだろうか。他ならぬ彼に迷惑をかけては元も子もない。いよいよイブを明日に控え、児童書コーナーも最後の追い込みだ。しっかりと朝ごはんを食べて職場に向かった。
しかし。
「おはよう、律子さん」
悠人の顔を見ると、ぽうっとしてしまう自分がいて。慌てて店のPCを開き、書籍注文の状況を確認した。在庫を確認すると、年内にもう少し入れておきたい書籍がもう残りわずかなことに気付く。慌てて発注をかけようとしたが、こんな時に限って、店のPCが動かなくなった。
「どうした?」
すかさず悠人が声をかける。どきっとしたが、浮ついている場合ではない。
「三瀬書房に発注をかけたいんだけど、PCが固まっちゃって」
「ああ、じゃあ、俺個人のPC使って。三瀬書房のアドレス入ってるから。ほら、ここ」
悠人は自分のノート型のPCを開くと、ロックを解除し律子に渡した。
「俺、新刊の箱開けて並べちゃうから、悪いけど、発注頼む」
「はい」
彼の後ろ姿を見送って、PCに向かう。やはり彼らしくデスクトップのアイコンも少なく整然としていた。
(ええっと、『三瀬書房 堀田様、追加注文をお願い致します』と)
彼のPCだと思うと、手が震えて上手く打てない。『追加』と打とうとして、『つい』の所でスペースキーを押してしまった。
「あっ」
誤変換されてしまい、慌てて修正しようと画面を見たが。
「あれっ?」
律子は目を疑った。『つい』で変換した彼のPCの第1候補は。
『#twnovel 』
(ツイノベのタグ?)
何かの間違いかと思って、もう一度『つい』でスペースキーを押してみる。やはり『#twnovel 』に変換された。間違いない。
(ということは、彼がツイッターのアカウントを持っていて、ツイノベを書いている、ということ?)
つい興奮してしばらく手が止まってしまった。
(まずい! 追加注文だってば!)
我に返り慌てて三瀬書房にメールを打つ。しかしあきらめきれない律子はきょろきょろと辺りを確認する。彼のアプリケーションからツイッターを探し出した。
(ごめんなさい!)
ツイッターの青い鳥のアイコンをぽちっと押したが。
(あら)
どうやらログアウトしているらしい。アカウントが分からなければ彼のツイートは見られない。
(まあ、私に貸すくらいなんだから、そうだよね。読みたかったな、悠人くんのツイノベ)
用意周到な彼にため息をつきながら、PCを閉じた。
「昨日はお疲れ。どうだった、悠人くんの読み聞かせ」
昼休み、一緒になった瀬奈が弁当を持ってにやにやと近づいてきた。
「いやー、何というかね……すごかった、確かに。何か別人みたいだったよ」
賞賛する律子に、瀬奈の口の端はますます上がる。
「ふふーん。惚れ直した?」
「うん……って、えっ、やだ、そんな!」
「素直だねえ、律子は」
したり顔で頷く瀬奈の顔が見られずに、テーブルに突っ伏した。
「うー」
「好きなんでしょ」
瀬奈は追求の手を緩めない。
「うー。何を根拠に」
「見てりゃわかるよ。ここんとこあんたたち、いい雰囲気だったもん」
「仕事のパートナーとしてってことでしょ? 私だって自分の気持ち、昨日気がついたばっかりなんだから」
「ええ、遅っ。悠人くん、かわいそうに」
「はあ? 悠人くんは私のことなんて全然眼中にないよ」
同じ部署担当になって2ヶ月。彼は親切ではあるが、いつも『律子さん』と呼んで一定の距離から近づこうとはしない。律子に少しでも気があるなら、とっくの昔に口説いてきてもいいはずだ。
「律子、それ、マジで言ってる?」
「大マジですけど。大体悠人くんのこと、私の『お姑さん』って呼んでたのは瀬奈じゃん!」
「……それはそうだけど、そういう意味じゃなくて」
「もう、いいよ。この話はおしまい! こんな忙しい時期にこじれて、仕事場で気まずくなるのやだ」
そう言って律子は逃げを打つ。
恋心を自覚したばかりで、悠人が自分をどう思っているかまで考えていなかった。仕事の上ではあまりいいところがない自分。『お姑さん』である彼がどう評価しているかなんて、火を見るより明らかだ。普通に考えて、そんな自分を彼が選ぶとは思えない。ついつい後ろ向きになり煮詰まった律子は、ポケットからスマホを取り出した。ツイッターを開いてみるが、馬刀葉椎の新しいツイノベはまだない。
「あ、そうだ。ねえ、瀬奈。悠人くんってツイッターやってるみたいなんだけど、アカウント知らない?」
それを聞いた瀬奈が固まった。
「ツイッター?」
「うん、どうやらツイノベも書いてる風なんだけど」
「……ツイノベ、ねえ」
瀬奈は苦笑いをする。
「瀬奈、何か知ってるの?」
「知ってるっていうか……」
何とも歯切れが悪い。律子は苛立って瀬奈の肩を掴んで揺さぶった。
「分かってるんなら教えてよ!」
「いや、推測の域を出ないというか、はっきり確認したわけじゃないんだけどね」
「だから、何! もったいぶらないで教えてよ」
「いや、たぶん、そのうちわかるって」
「は? ちょっと、瀬奈!」
キツネにつままれた様な律子を残し、瀬奈は逃げるように仕事に戻っていった。
律子も仕事に戻ったが、日曜日でイブの前日ということもあり、児童書コーナーはてんてこ舞いだった。それでも悠人は的確に客の要求に応えていく。昨日から店員全員が赤い帽子かトナカイの角を付けることになっていて、悠人もトナカイの角をつけていた。律子がフェイクファーを縫い付けた赤いエプロンもそのまま身につけてくれている。背が高く無表情の彼がそんな扮装をさせられているというのが、なんともツボだ。カチューシャで前髪を上げたスタイルも、昨日より様になっている気がする。涼やかな目元、意外に通った鼻筋、きゅっと結ばれた唇。惚れた欲目かも知れないが、ついつい見惚れてしまう。
(うう、何で今さら。就職してから今まで、何年も同じ店で働いてたのに。しっかり、律子!)
気を引き締めながら、何とか仕事を終えた。今日も彼は遅くまで残って本を読んだり仕事をしたりするのだろうか。それでも明日は24日だ。
(イブの予定とか、あるのかな)
恋人はいるのだろうか。いたら毎日あんなに遅くならないか。いや、いても全然おかしくないけど。悶々と考えるものの、答えは出ず、彼に訊く勇気もなかった。
「お先に、失礼しまーす」
帰りの挨拶をする律子に、トナカイの角をつけたままの悠人がPCから顔を上げて挨拶する。
「お疲れ様。遅いから気をつけて」
さりげなく付け足された、思いやりのひと言がうれしい。トナカイの角をぶん、と振って、またPCに向かう彼の横顔を見つめた。
(うっかり角付けっぱなしとか、もう! かわいさアピールとかしてどうするのよ?)
まんまとそのかわいさにやられて、カメラで撮りたい気持ちを抑えつつ帰路についた。
食事と入浴を済ませ、今日読んだ本のチェックをする。少しでも悠人に近づきたいという気持ちで、毎日欠かさずブック・ボックスへ読了した本を登録していた。今日読んだのはO.ヘンリーの短編「賢者の贈り物」だ。律子にとっては高校時代に英語の教材として読んだきりで、イブの日の話だと言うことすら忘れていた。作品を登録して、その感想も綴っていく。
『あらすじはシンプルでいて、愛とアイロニーに満ちている。
貧しい夫婦がイブの贈り物をしようとするが、先立つものがない。妻は自慢の髪を切って売り、夫は祖父の代から受け継いでいる大切な懐中時計を売ってしまう。しかしそのお金で妻が買ったのは夫の懐中時計に付ける金の鎖。夫は妻の美しい長髪を束ねるきれいな櫛を買ったのだった。
やるせない結末に浮かび上がる、何ともいじらしい夫婦の姿。学生時代には感じ得なかったふたりの心の動きに胸が詰まった。自分が仕事をしているからこそ、仕事から帰ってくる夫の疲弊や、やりくりする妻の苦労が伺い知れる。そのつましい暮らしの中でも最高の物を贈ろうという気持ちが浮かび上がってくる。
またその内容もさることながら、アメリカのシットコム形式のドラマを見ているような臨場感がいい。奥さんのデラがご主人のジムに言う台詞も可愛らしくて、洒落ている。自分への贈り物のために髪を切ったデラを見て、何も言えなくなってしまった夫のジム。そんな夫にデラは言うのだ。
“ねえ、イブでしょ? やさしくして”。
こんなことを言われたら、相手はきっと抱きしめたくなってしまうだろう』
ブック・ボックスへ作品の感想を書き終えると、律子は送信されたか確かめようとして、ツイッターを開いた。
(ああ、そうだ、今日の馬刀葉椎さんのツイノベ! 忘れてた!)
慌てて見てみると、彼の23番目のツイノベはつい先ほど更新されたばかりだった。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 23.出会いは就職の面接会場。緊張する僕に『リラックス』と声をかけてくれた君の笑顔にひと目惚れ。めでたく就職したものの、忙しいイブにふたりきりなんて夢のまた夢。それでも今年は覚悟を決めイブのディナーを予約する。恋に破れた若い僕の亡霊たちが、がんばれと囁いたから」
——えっ。
何度も大きく瞬きをして、そのツイノベを繰り返し読んだ。
(まさか。面接会場でのそんなシチュ、きっといくらでも)
本の頁を捲るように、ぱらぱらと彼との会話の記憶を辿り、馬刀葉椎のツイートを遡る。
図書館の児童コーナー、読み聞かせ、歌。
共通項の多いふたり。
(悠人くんが、馬刀葉椎さん?)
律子はそのままベッドに横になり、冷たい手を熱くなった頬に当てた。
(しかも『ひと目惚れ』って……)
『律子さん』
彼の声、彼の眼差し。
思い出してみても、それらが自分を想うものだとは到底信じられない。
(本当に? でもいきなり『イブのディナー』なんて、ハードルが高すぎるよ! 無理、無理!)
思えばふたりきりで食事にすら行ったことがないのだ。赤面しながら、ごろごろとベッドの上を転がる。
(ん? ちょっと待って)
動きを止めて、カレンダーを見た。
——『イブのディナー』って、明日だよね?
当然のことながら、眠ることなんてできなくて。
律子は寝ぼけた頭で、通勤電車に乗った。休日の電車の中は平日より人もまばらで、心なしか皆うきうきと華やいでみえる。律子の前の座席には、テーマパークでイブを過ごすのだろうか、お揃いのキャラクターの帽子をかぶったカップルが手を繋いで座っていた。
就職してからはイブはいつも書き入れ時で、パーティやプレゼントなどとは無縁の世界だ。仕事終わりでせめておいしい物でも、と思うが当然どこのレストランも予約で満席。瀬奈や自分の部屋に食べ物やワインを持ち寄って、管を巻くのが精一杯だった。そんなクリスマスに相手のいないふたりだけの女子会も、今年は瀬奈に彼氏ができたので自動的に解散。律子には悲しいくらい何の予定もなかった。
それが突然、『イブのディナー』。
(いやいや、馬刀葉椎さんが悠人くんだって決まったわけじゃないから!)
そう思いながらも、なけなしのワードローブをひっくり返すのが乙女心だ。白いレースの衿が清楚なボルドーレッドのワンピース、ファーの付いたショートブーツ。ちょっと気合いを入れすぎたかもと思いつつ、白いコートで鮮やかな色を隠しつつ通勤した。更衣室でこっそりと普段着に着替え、児童書コーナーに向かう。
「おはよう、律子さん」
当の悠人は、まったくいつも通りだ。黙々と平積みを直し、在庫を確認している。
(やっぱり、悠人くんが馬刀葉椎さんだなんて、考えすぎ?)
悩んでも答は出ない。とにかく今日をがんばらなければ。少なくとも仕事で彼に失望されたくはない。エプロンの紐をきりりと結び、しっかりと気を引き締めた。
予想通り、忙しい1日だった。明日25日は平日でプレゼントはイブに贈ることが多いため、今日が山だろう。例の『となかいのかわりに』も好調に売れて、『昨日の読み聞かせを見て、迷っていたんだけどやっぱり買いに来た』と言ってくれる母親もいて、嬉しかった。今日も悠人はトナカイの角をつけ、律子はどきどきしっぱなしであった。
何とか仕事が終わり、挨拶をしようと悠人を探したが、彼は見当たらない。早く着替えたいのに、と思っていたら。
「律子さん、お疲れ様」
悠人がどこからともなくひょっこり顔を覗かせた。
「じゃ、お先に」
またあっという間に去ってゆく。
(『お先に』? )
意味が分からず呆然と立ち尽くす。
悠人が馬刀葉椎なら、一緒に帰ろうと誘われるところだ。しかもいつも遅くまで残っている彼が、今日に限って律子より早く帰るなんて。
(イブに過ごす誰かがいるってこと? やっぱり、馬刀葉椎さんじゃないの?)
律子は更衣室に駆け込んだ。思いは錯綜するが、急がなければ悠人を見失ってしまう。どこへ行くのかだけでも見届けなければ、昨日から翻弄され続けてきた自分の気が済まない。慌ててワンピースに着替え、コートを着る時間も惜しんで通用口を飛び出すと。
「律子さん」
呼び止められて振り返ると、そこに悠人が立っていた。
ボタンを閉めていないトレンチコートの下は、ダークグレイのスーツ。背が高く細身の身体にしっくりと馴染み、あの面接のときの借りてきたようなスーツ姿とは別人のようだ。ネクタイは今日のために買ったのだろうか、よく見れば雪の結晶のパターンの中にトナカイが橇を轢いている柄が織り込まれている。いつも履いているくたびれたスニーカーはぴかぴかの革靴に。さっきまで無造作にしていた髪もきちんと撫でつけてある。
その彼が、ゆっくりと近づいてくる。律子の深い赤のワンピース姿を見て、眩しそうに目を眇めた。
「かわいい」
律子が手に持っていたコートを取り、肩からそっと着せ掛ける。
「もっと見ていたいけど、コート着て。風邪をひく」
甘い言葉、紳士的な仕草。くらくらした。ああ、これがあの悠人だろうか。
「……ありがと」
そう答えるのがやっとだった。
震える指でコートのボタンを留めていると、悠人がぽつりぽつりと話しかけてくる。
「今日も忙しかったね」
「うん」
「疲れてる?」
「少し」
「寒いね、雪でも降るのかな」
「うん」
肝心のことは言わない彼に、訴えるように目を上げると、悠人が苦笑いする。
「ごめん、何か緊張してる」
こほん、とひとつ咳払いをした。
「……馬刀葉椎は、俺」
もう、逃げも隠れもしない。そんな決意を眼差しにこめて。
「ごめんね、黙ってて。最初はほんとに偶然だったんだ。ブックボックスで、読み終わった小説の登録してたら、『リスコッティ』って人が書いた同じ本の感想を見つけた。俺がいいなって思うところと一緒で、読書記録を見たら、他に読んでる小説も俺とかぶってるし。興味が湧いてプロフィールみたら『書店員』だって」
悠人は磨き込まれた靴の先で、歩道の縁石をこつんと蹴った。
「小説以外で読んだ本も、3年前は家庭実用書、2年前からは新書も多くなって。2ヶ月前からは児童書だろ。最終的に確信したのは、ツイッターでUPしたその鞄の写真」
律子が下げているトートバッグに、きらきらと赤いリスとどんぐりのチャームが揺れる。まさかここから正体がばれていたとは。
「それで慌ててツイッターのアカウントを変更して。君をフォローした。以前のアカウントは俺ってモロバレで、結城さんには知られちゃったけど『律子さんには黙ってて』って口止めして」
結城とは瀬奈のことだ。それで瀬奈は思わせぶりなことを言っていたのか。
「あの、気になってたんだけど、『馬刀葉椎』ってどういう意味?」
素直に疑問を口にすると、悠人は真っ赤になった。
「……どんぐりが成る、木の名前。細長くて渋の少ない、いいどんぐりが成るんだ。どんぐりは……リスの好物だろ」
つまりは。しびれを切らして律子はつい口を挟んだ。
「悠人くんって……あの、私のこと」
「好きだよ」
切れ長の目は射貫くように、律子をしっかりと見据えて。
「『ひと目惚れ』って言ったろ。ずっと片想いしてて、でも言えなかった。イブもほら、結構痛い思いしてるから、一昨年も去年も誘えなくて。今年、同じ児童書担当になって、これは運命だと思ったんだ。ぎりぎりまで迷ったけど、先週さわむらたえ先生にお願いして、レストランの予約を取った」
「ちょっと、待って。さわむらたえ先生って、『となかいのかわりに』の? どうしてそこで、さわむら先生が出てくるのよ?」
悠人はバツの悪そうな顔をした。
「俺、さわむら先生のファンで、手紙送ったらメルアド教えてくださって。以来親しくしていただいてるんだ。先週になってやっと決心してイブのディナーの予約をとろうとしたけど、どこもいっぱいでさ。この先にある『真実の口』っていうイタリアンレストラン、さわむら先生のお母さんが経営してるんだよ。無理言って予約入れてもらった」
『それでも今年は覚悟を決めイブのディナーを予約する。恋に破れた若い僕の亡霊たちが、がんばれと囁いたから』
あのツイノベの裏に、そんな涙ぐましい奮闘があったとは。
「律子さん、あの、もしこれから予定なかったら、俺と」
しっかりと足場を固め律子を追いつめておきながら、今さら承諾を得ようとする彼。その臆病さが『たまらなく、愛おしい』。つい、いたずら心が頭をもたげた。
「予定は……あるよ」
そう告げると悠人は途端に目を曇らせた。
「そっか。そうだよな」
律子のめかしこんだその姿が誰か他の人のためだと思ったのだろう。俯いて肩を落とす彼に、もったいぶって言ってやった。
「今夜は馬刀葉椎さんと、ディナーに行くんだもん」
悠人が目を見開いた。一世一代の大芝居に顔を赤らめる律子を見つめ、胸に手を当てると、最後にふう、と息をついた。
「もう、だめかと思った」
「ごめんなさい」
律子が労るように彼の腕に手を置くと、悠人はその手を取って握りしめた。緊張していたのか、冷たい手だ。そのまま律子の手を自分の頬に当てる。しばらくして、悠人は掠れた声で懇願した。
「『ねえ、イブでしょ。やさしくして』」
“賢者の贈り物”の台詞だ。
『こんなことを言われたら、相手はきっと抱きしめたくなってしまうだろう』
感想にそう書いたのは他ならぬ律子だった。
——やられた。
仕返しをした悠人はしたり顔で微笑んでいる。
律子は笑いながら、悠人をぎゅっと抱きしめた。
馬刀葉椎の最後のアドヴェント小説が更新されたのは、その夜遅くのことだった。
「馬刀葉椎 @MatebaShii
#twnovel 24.この時期には不思議な魔法がある。『僕にも何か起こるかも』そう思わせるくらい、街はきらきらして。でも大人になってからのイブには、そうそう夢のような話はない。諦めかける僕に、遠く聖者の声がする。『大人になったら、プレゼントは自分で枕元に置くものだよ』と」
FIN
【参考文献(青空文庫)】
オー・ヘンリー 「賢者の贈り物」http://www.aozora.gr.jp/cards/000097/card536.html
チャールズ・ディケンズ 「クリスマス・カロル」http://www.aozora.gr.jp/cards/000914/card4328.html
ウィリアム・シェークスピア 「ロミオとヂュリエット」http://www.aozora.gr.jp/cards/000264/card42773.html
シャルル・ペロー「眠る森のお姫さま」http://www.aozora.gr.jp/cards/001134/card43119.html