スイカジュース
タイで知り合ったトゥクトゥクの運転手は、最初は少年だったのに会うたびに逞しい青年に……
灼熱の国で飲むスイカジュースは格別ですよ!
タイに来たのは1年ぶり、5回目。大学の時のボランティアで来てからハマってる。日本がようやく春めいてきた頃、タイの昼間はもう30度を超す。
「ヤン!」
私が呼んで手を振ると、駆け寄ってきてサッと荷物を持ってくれる彼はトゥクトゥクの運転手だ。2回目に来た時に乗ったのが縁で、来る度にお世話になっている。日本にいる間もずっと英語と日本語でメッセージのやり取りをしていた。
「ミッキー、イラッシャイ、クルマ、コッチ」
2歳年下のその少年の、人懐っこい笑顔が可愛くてお気に入りだ。美玖と言いづらいらしく、私の事をミッキーと呼ぶ。
空港まで車で迎えに来てくれたのは初めてだった。まとわりつく灼熱の空気を払い除け車に乗り込むけれどさほど冷房は効かない。
「暑っつ! 相変わらず暑いね」
「ソウ、アツイネ、ホテルイッタラ、ミッキースキナ、アレノム?」
「飲む飲むー!」
片腕を振り上げると、ヤンは力いっぱい笑う。私も笑う。旅費を払ってまでタイに来るのは、この国と人が好きだから、ということもあるけれど一番はヤンに会いたいから。
市内に入れば相変わらずの渋滞。いつまでこの信号システムを使ってるんだ、この国は。いつものホテルにチェックインして荷物の整理をしロビーに降りると、今度はヤンの派手なトゥクトゥクに乗り換え夕飯を一緒に食べに行く。
「ミッキー、ナニタベル」
「何でもいい、とにかくスイカジュース!」
「ハイ、ジャア『ヘンリー』イキマスネ」
わかってる、私が食事をおごって、滞在中ずっとヤンを雇うから付き合ってくれるってことくらい。最初会った時は本当にまだ少年だったヤンが、会うたびに逞しくなって小麦色の顔もおとなびて来た。それなのに、くしゃっと笑うとまだ少年の時のようで。
4人は乗れるトゥクトゥクの座席に一人で乗る。蛍光色のシートは所々剥げていて、ふくらはぎにひっかき傷も作るがもう気にならなくなった。運転席に身を乗り出すように座ると、微かにヤンのコロンの甘い香りがスパイシーな風に乗って、鼻腔をくすぐる。
レストラン「ヘンリー」に着くとヤンはタイ語でいくつかの料理を頼む。メニュー表はタイ語で書かれていて、英語表記は申し訳程度しかない。ここは、タイ人の中でも比較的裕福な人が来るレストランだ。お値段的にも日本とあまり変わらない。
ヤンは大体私の好きな物を覚えてくれている。トムヤムクンも少し辛みを抑えてもらっているし、最後は必ず、マンゴーと蒸した餅米にココナッツミルクをかけた、……なんだっけ、いつも名前を覚えられないんだけどあれが大好き。そして、スイカジュース。屋台のもまあいいんだけど、やっぱりレストランのが美味しい。
「オイシイネ」
「うん、ヤンももっと食べなよ。ジュースは?」
「アア、チョト、クダサイ」
にっこり笑うと、私のジュースのストローに口を付けた……あっ、や、いいんだけど、うん。べ、別に子供じゃないんだからさ。間接キス、なんて言葉浮かべるほどでもない。
お腹一杯になって、ホテルに戻った。
「明日は9時に来てね」
「ハイ、マーケット、ト、エステネ」
ジャア、とロビーを出ていくその手を取って引き留めたい。出逢った時同じくらいの身長だったヤンはもう私よりずっと大きくなっている。厚い胸板。その胸に、抱きしめられたい。
一人部屋に戻り、ヤンの笑顔を思い出す。小麦色の逞しい腕を思い出す。腕に入れた入れ墨は、2つ増えていた。タイ語と英語で細かく書いてある字を読み取ることはできなかった。 天パの黒い髪を、2ブロックにして金髪に染めたのは去年の事。ちょっと最初は違和感あったけど、今日は思わず見惚れた。
「オハヨウゴザイマス、ミッキー、ヨクネタネ」
「えー、そんなに眠れなかったよ」
「ドウシテ」
「……いいから、行こう! GO、GO!」
「ハハハッ、ミッキーキョウモゲンキデスネ」
マーケットでは石鹸やアロマオイル、服に靴にアクセサリー、友達のお土産もたくさん買った。ヤンは全て持ってくれて、宅配の手配もしてくれた。エステでは、終わるまで一仕事してまた戻ってきてくれる。
その日の夜は、ヤンの友達の店で食べた。若干衛生的に不安な店ではあった。それでもスイカジュースだけは、と思ったのだが最後まで飲みきれなかった。案の定、ホテルに戻った時ちょっと胃がムカムカし始めた。
「ヤン、……お、お腹気持ち悪い」
「アア……ミッキー……ゴメンナサイ、クスリカッテクルネ」
「ううん、いい、いいから部屋まで付いてきて」
いいのか、私。心細いのが一番だけど、部屋に彼を入れていいのか? いや、今緊急事態だから。だって、他にこの国に知り合いなんていない。
ヤンに支えられ、エレベーターを上がる。幸いフロントでも特に声はかけられなかった。部屋に入ると即座にトイレに駆け込み全部吐いてしまったが、それだけでも結構楽になった。
「ダイジョウブ? ミッキー、ホスピタルイク?」
「ううん、いい、大丈夫……ちょっとベッドに」
「チョト、マッテテ」
ヤンはポケットから携帯を取り出し誰かと何やらタイ語で話した。ホテルの案内のパンフレットを見ながら、多分場所の説明をしているのだろう。え? 誰か来るの? やだな、こんな姿やっぱりヤンにも見せたくなかったのにましてや他人なんて。
「クスリ、モッテキテモライマス」
質問する気力もなく背を丸め寝ているとノックの音がしヤンがドアを開け、誰かが入って来た。ヤンの声にこたえたのは女性の声だった。日本語を話す時のヤンは優しい口調だが、タイ語の時は少しきつい、はずなのにその人と話す口調は少し優しく感じる。
ああ、そういう人、か。
ほんの少しだけ何かを期待した自分が馬鹿だった。
「ミッキー、カノジョハ、ポンサントイイマス。シゴトホスピタル、ワタシノフィアンセ」
紹介される前に一瞬で覚悟をした自分を褒めよう。多分、ショックは少なかったはず。両手を合わせてサワディカー、と軽く膝を曲げ挨拶をするポンさんは、小柄で可愛らしい人だった。差し出された薬をミネラルウォーターで流し込む。錠剤なのに口の中にいつまでも苦味が残るけれど、あまり水を飲むとまた吐いてしまう。
ははっ、もうなんかバカみたいで涙も出ない。少なからずヤンも私の事、と何度か思ったし思いたかった。でも、そうだよね。私は時々ヤンを指名で雇うツーリストに過ぎないのに。何、小説みたいな展開期待してんだか。
「ミッキー? ダイジョウブ? ドウデスカ」
「ああ、もう大丈夫。帰っていいよ」
「アシタハ、ナンジシマスカ」
「うん、多分明日はホテルで寝てると思うから来なくていいよ。それから先のことはまた連絡します」
「ワカッタ、ジャアメッセージクダサイ」
ポンさんが私にそっと濡れタオルを渡してくれ、心配そうに優しくポン、と肩を撫でるように手を置くと、片言の英語で落ち着いたらもう少し水を飲んで、と言った。そして、ヤンに一言告げそっと部屋を出た。
「モシ、モットビョウキナッタラ、デンワクダサイ」
「……ヤン、結婚するの」
「……ハイ」
今の、間は何。
「お幸せにね」
「ミッキー……ミッキーハ、ダイジナヒト。ワタシノ、イチバンダイジナヒト」
「お客さんだもんね」
「チガウ、ワタシ……ミッキー、チャントシタニホンジン」
「ちゃんとした、ってどういうことかわからないけど」
「ワタシ、マズシイ。ミッキー、オカネモチ。ダカラ、ワタシケッコンデキナイ、ミッキーカワイソウネ、オヒメサマ」
「……別に普通の家庭で育ったし。お姫様なんかじゃないし! 好きな人と一緒だったら少しくらい貧しくったって」
……はっ、何言ってるの私。ヤンと、どうしようっていうの。
「ごめん、何でもない。もういいから、帰って」
「ゴメンナサイ」
「ポンさん、待たせたらだめだよ」
「オヤスミナサイ」
そうして、ヤンは静かに出て行った。胃のむかつきはとっくに治まっていたけれど、涙だけが止まらない。
友達に話したって、騙されてるんだよ、とか金ヅルじゃん、と言われてたし自分でももちろんそうだよね、金払いのいいお客さんだから優しいしサービスしてくれてるんだよね、と思っていた。
人混みの多い観光地で差し出された手は、大事なお客さんの為。
ヤシの実のジュース飲んでみたいけど一人じゃ飲めなさそう、と言ったらストローを2本貰って来て、一緒に飲んでるのを写真に撮って即座に待ち受けにしたのもサービス。
ヘアアクセサリーを私の髪につけニアウ、と微笑んでくれたのも。
香水を選んでくれたのも。
ダイジナヒト……
トゥクトゥクに跨って、煙草をくわえ眩しそうな目で空を見上げてる姿が好きだった。
ダイジナヒト……
私は次の日は一日中ホテルで過ごした。当然ヤンから連絡が来ることはなく、ホテルの近くのデパートに行きフードコートでスイカジュースを買ってまたホテルに戻り部屋で飲んだ。
初めてこのスイカジュースを飲んだ時、美味しい! と感激して大騒ぎした私を、ヤンは笑って見ていた。マンゴージュースやメロンジュースも飲んだけどやっぱりスイカが一番おいしいんだよね。それから、ヤンはずっとスイカジュースが美味しいお店を探してくれていて、観光に行く先々で美味しいスイカジュースを飲ませてくれた。そしていつもこう言って笑うんだ。
「ミッキー、スイカジューススキデスネ」
次の日もヤンに連絡をせず私は一人でお気に入りのテーラーへ行った。ワンピースとスーツをオーダーするのだ。悩みまくって何とか決めたけれど、センスのいいヤンがいればそんなに迷わずに済んだのに。ヤンはお世辞は言わなかった、的確に私に似合う物を選んでくれた。
夜、ヤンから英語でメッセージが来た。明日帰る時空港までどうするのか、という内容だった。ヤンへの料金は半額先払いで、最終日に半額払う事になっているのでその事もきっと気になっているんだろうし、私もちゃんと払わないと後味悪い。朝8時に来て空港まで送って、と返した。
一人で食べる食事は味気ない。
いつも、ヤンがいた。ヤン……、好き、だったよ。
その日飲んだスイカジュースは水っぽくて美味しくなかった。
「オハヨウゴザイマス」
いつもの爽やかな笑顔でなく、しかもあまりしっかり目を合わせてくれない。客としては2日も運転手を放っておく悪い客だから仕方ないか。
「これ、残りのお金」
封筒に入れた1万円を渡そうとすると、イラナイ、と言って受け取らない。まあいいか、きっと空港で渡した方がいい。
少し並んで荷物を預け、たくさん椅子のならんでいるロビーへ行きどちらともなく座った。いつもなら色々と話題をふってくるヤンが今日は無口だ。再びお金を渡そうとすると、頑なに拒まれた。2日間仕事がなかったから悪いと思ってるのかもしれない。
「いいんだよ、今までのお礼だと思って」
「ミッキー、マタクルネ、ジャナイ、ンー、キテネ」
「ううん……今日で、もうお別れ」
「ナゼデスカ」
「ごめんね、辛いから」
「ナニカ、ワタシ、ワルイコトアリマシタカ」
不意に手を握られ、ようやくまともに顔を見合わせた。
「ミッキーアエナイノ、カナシイデス」
「ポンさんとお幸せにね。私、ヤンの事大好きだった、だからもう会えない」
「ダイスキ……LOVE?」
「そうそう、LOVE」
少しふざけて言ったつもりだった。少しだけでいい、お客さんとガイドとしてだけでなく特別な気持ちを持っていたことを伝えて終わりにしようと思った。
「ごめんね、忘れて。じゃあ、行くね」
握られた手をするりと抜き立ち上がったその時、ヤンの腕が私を抱き締めた。
「ちょ、……さ、最後だからってそんなサービスいいから」
「サービス、ジャナイ……ミッキー、ダイジナヒト」
「やだ、ダメじゃん、ポンさんに怒られるよ?」
「キノウ、フィアンセヤメマシタ」
「はあっ? 何やってんの、冗談でしょ」
「……ホントウ、デス」
わけがわからなかった。いくら上客を逃しそうだからってそんな嘘をつくなんて、と腹が立ってきた。ヤンの胸を思いっ切り押し、離れようとしたが力ではかなわなかった。
「もうやめて、わかったから、またガイドお願いしますから」
「ソレ、イラナイ」
「だってさっき、また来てって」
「ワタシ、ニホンイキマス」
「いやっ、そんな事言ったって、仕事とかねえ、色々大変な事あるじゃない?」
「……トゥクトゥクシマス」
「ないって、日本は! 普通の免許も難しいと思うよ?」
「ミッキー……ミ、ク、イマ、ワタシ、キライデスカ」
「……嫌い……じゃ、ない」
「キライ、ジャナイ、……スキ、ネ! ミク! I LOVE YOU!」
「ちょ、声大きいって、はずか……」
声大きくてさっきからチラチラ見ていた人達が、私達がキスをしているのを見て指笛をならしたり拍手したりしているのを、気を失いそうな位ボーッと聞いていた。
ヤンは、甘くスパイシーな香りを私の鼻腔に残し搭乗ゲートに向かう私に大きく手を振り、見えなくなる直前に投げキスをした。
それから半年。
「ミク、オキテ。アサゴハン」
おでこに優しくキスをして起こしてくれる、最高のパートナー。ヤンは何でも家事をこなす専業主夫だ。今では近所の奥様達にも人気者で、あちこちからお得情報を貰ってくるあたり私よりずっと向いていると思う。
父にはまだ反対されたままだけどね。母は、何だか知らないけど大笑いしていた。あんたならさもありなん、さっさと孫の顔見せなさいよ、って。
丁度朝ごはんを食べ終わる頃、目の前にお手製のスイカジュース。飲み干して、幸せかみしめて。
さあ、じゃあ今日も仕事頑張るぞ! 行ってきます!