奇譚「消えた男」
あいつが現れたのは、月の出ない暗い夜のことだった。
長旅の後だったんだろうな。やけに汚い身なりの男だと思ったよ。
でも、よく見ると服そのものはべらぼうに高価そうでね。
チグハグなやつだった。
オレ達がコソコソと額を付き合わせて噂をしてたらさ、ジャラリと金の音がしてね。
もちろん、オレ達はハッとなって振り向いた。
店主のやつもそうだろうね。瀕死の魚みたいな顔で山積みの金貨を数えてたよ。
あいつはとびっきりの笑顔でオレ達に向かってこう言った。
「さあ、みんな。好きなだけ飲み食いしてくれ、俺の奢りだ。
今日も、明日も、その次の日も──俺がここに泊まっている限り俺の奢りだ。
その代わり、約束してくれ、酒場の外に出たら俺の話は絶対にしないって。
もちろん、怖い女房にも、タダ酒の話は内緒だぜ」
オレ達はすぐに友達になった。
まあ、最初はあいつの財布の友達だったわけだがね。
でもまあ、あいつの話は面白くてよ。気づけばすぐに本当の友達さ。
いつの間にか幼馴染みたいな顔で仲間に溶け込んじまってたよ。
ああ、確か、こんなことも言ってたな。
「俺は大陸一の詐欺師なんだ。
黄金をせしめることにかけては、どんな錬金術師だろうと俺に敵いやしない。
貴族蜂や商人蜂の巣から、甘い黄金色の蜜を労せずごっそり戴くのが、俺の仕事なのさ」
まあ、ホラなんだろうけどよ。
あいつが誰かから金を騙しとったなんて話は一度も聞いたこたあねえし。
そもそも、金なんて奪う必要はねえんだ。
びっくりするほど金持ちだったからな。
しかも、気前も良くって、嫌なところは一つもない。
毎晩毎晩、あいつの奢りで宴会さ。
そりゃあもう、いい思いをさせてもらったぜ。
南や東のバカみたいに高えワイン。西のいーい香りの蒸留酒。北の喉から火が出そうなキツい酒。
蝶鮫の卵、肥育鵞鳥の肝、白松露茸、そして最高級の肉、肉、肉。
みんな遠慮なく飲み食いしたもんだが、一番呑んで、一番食ってたのは間違いなくあいつだね。
どんな胃袋になってるんだか、山盛りの飯もぺろりと平らげちまう。
そのくせ、腹は全然膨れやしねえ。
ありゃあ一体、どんなカラクリだったんだか。手品か、そういう体質なんだか。
酒にも滅法強くてね。
一樽呑んでも顔色が変わらなかったくらいさ。
おっと、そうそう。
その日のことだったな。
その日は死人みたいな顔で部屋から出てきた。
珍しく一人にしてくれって言って、一番強い酒を黙々と呷ってたっけな。
まあ、そりゃあ心配だったけどさ。
あんなにおっかねえ顔してるあいつは、初めてだったもんでね。
夜更けになって、客もまばらになった頃だ。
残ってたのは、オレと、ブルーノと、ガスと、うーん、ボリスのやつもまだ起きてたっけな。
まあ、いつもの常連組さ。
あいつは出し抜けにオレ達にこう言ったんだ。
「俺はもうだめだ。ここにはいられない。あいつに見つかった」
その時、風で窓がガタガタ揺れてね。
あいつは化物でも見たような顔で椅子の上で縮こまって、こっちがビックリするような血走った目で入り口を見つめてた。
まあ、訳がわからんよな。
オレ達もそうさ。
何がそんなに怖いんだってな、あー、ブルーノだったかな。
とにかく、みんなして聞いたんだ。
苦労したぜ。
あいつは酔ってもいないはずなのに、口から出るのはうわ言ばっかりでさ。
結局、何だか分からないが恐ろしいものに追われてるってことはだけは聞き出した。
それからは知っての通りさ。
オレ達はそれぞれの伝手を使って、あいつが首尾よくカルキノスまで逃げられるように手配したってわけ。
月の無い夜に、御者のボリスとオレが付き添ってさ。
あいつはずっと馬車の中で魘されてたよ。
化物の声が、とか。
爪で馬車を引っ掻く音が、とか。
そんなの聞かされ続けりゃ、化物のこと信じてなくても怖くなってくるもんさ。
御者台でボリスの野郎と身を寄せ合って、震えながら辺りを見回してたよ。
そんで、東の空が明るくなってきた頃だな。
いつの間にかあいつも寝静まっててさ。
酒が切れてだいぶ経ってたもんで、オレ達も酔いが醒めてきてた。
やっと街の城壁が見えてきて、オレ達もほっとした。
そら見ろ、何も起こらなかったぞってな。
オレもボリスも、さっきまで怖がってたのが嘘みてえにさ。
オレ達はあいつを起こそうと思って、馬車の中を覗き込んだわけ。
そしたら、あいつの姿がない。
慌てて馬車を止めさせてさ、とにかく馬車の扉をあけて。
ああ、もう酔っちゃあいなかったさ。
でも……あいつは影も形も見当たらなくって。
見付かったのは、あの薄汚れた高価そうな服が一揃いと、灰が一握りだけだったよ。
(鯨の樽詰め亭の常連客、ピエールの証言より)
☆
アウレリア公爵領〈春の宮殿〉。
厳しい冬が過ぎ、再びアウレリア公爵家はこの宮殿に居住空間を移していた。
エーリカ・アウレリアは兄から自由に使って良いと許可を得ている貯蔵庫で、一枚の書類を読み込んでいた。
それは錬金術のための道具を探していた時に、たまたま机から滑り落ちた一枚の羊皮紙だった。
「おや、エーリカもそういう話に興味があるのかい?」
「ひっ!?」
背後から声をかけられ、エーリカは驚いて振り返る。
そこには日頃から各国を飛び回っていてなかなか会えなかった兄エドアルトの姿があった。
「お兄様、お帰りなさいませ。いつお戻りになられたのですか?」
「ただいま。昨日の深夜に着いたんだけど、起こすのは悪いと思ってね。
それにしても、エーリカは怖い話が苦手だと思ってたのだけど違ったみたいだね。
だったらエルリックからとっておきの怖い話を聞いてくればよかったかな」
「いえいえ、お構いなく。偶々ですので」
この手の怪談に目がないエドアルトに対して、エーリカはきっちり拒否して今後の安寧を確保する。
そしてエーリカはエドアルトの返事から、あることに気がついた。
「もしかして、お兄様はアクトリアス先生にお会いして来たのですか?」
「うん、帰りはノットリード経由だったからね。ついでに見舞いを済ませてきたよ」
昨年の秋の事件で大怪我を負ったエルリックは、交易都市ノットリードで療養を続けていた。
エルリックの痛ましい傷跡を思い起こして、エーリカの表情が翳る。
エドアルトはエーリカの表情を読み取り、安心させるように微笑みを浮かべた。
「大丈夫、エルリックは元気にしていたよ。
昔受けた施術のお陰で治癒も順調で、後遺症も残っていない。来月にはリーンデースに戻れるらしい」
「それは……本当に良かったですね」
「うん、今度一緒にリーンデースに遊び来てみるかい、エーリカ」
「ええ、是非」
エドアルトが優しくエーリカの頬を撫でると、彼女はやっと微笑みかえす。
そこには仲睦まじい兄妹の姿が在った。
「こほん」
その二人を見つめて咳払いした黒髪の少年が一人。
クラウス・ハーファンである。
エーリカは咳払いの音で、やっと彼の存在に気がついた。
「えっ! クラウス様が何故ここに……?」
「エドアルト、お前の妹は俺がここにいると都合が悪いようだ。俺は東に帰るぞ」
「待ちたまえよクラウス君。そんなこと言わないで、もう少し手伝ってくれないかな?」
「ああ、申し訳ありません。お久しぶりです、クラウス様。西にようこそ」
クラウスは不貞腐れたような態度でそっぽを向き、吐き捨てる。
エドアルトは慌てて取り成し、エーリカは態度を取り繕って恭しく挨拶をした。
「長らくご無沙汰だったな、エーリカ。しばしの間だが世話になる。
どうせこの後も、すぐに別の土地に引き回されるのだろうがな」
「ははは、僕を睨まれても困るなあ」
健康そうなエドアルトと比べると、クラウスから濃厚な疲労感が漂っていることにエーリカは気がつく。
「クラウス様、なんだか今日はとてもお疲れのご様子ですね?」
「そこの男に隙あらば道具のように使われているからな。借金奴隷の気分だ」
「奴隷なんて言い方はやめてよ、クラウス君。僕はいつでも人道的だよ?」
「エドアルト、お前が人道的なら、悪鬼の類もさぞや人道的だろうな」
「あはは、これは手厳しいねえ」
クラウスにとって土地やら地金やらを毟られるより余程マシだった。
高価な短杖の代金を購うためなので、多少の過労働も仕方が無い。
とは言え、エドアルトもまたそれを承知しているのが、無理な酷使の原因なのである。
「あのお疲れでしたらクラウス様、水薬がありますので試飲してみませんか?」
そう言ってエーリカは、鞄の中から一本の水薬を取り出す。
壜の中には、赤と紫と緑の大理石模様の面妖な液体が揺蕩っていた。
禍々しい液体を見たクラウスはピクリと右の眉を吊り上げ、エドアルトの笑顔は固まった。
「これを、飲めと?」
「へえ、これ……人が飲めるモノなのかな?」
「ええ、疲労回復・魔力補充に優れた逸品だそうです。よろしければお兄様もいかがですか?」
持っているだけで呪われそうな禍々しい色彩の水薬だった。
かなりの毒々しさなのだが、エーリカがそれに気づくには彼女の危険感知能力は若干足りなかった。
当然クラウスやエドアルトの脳内では危険信号が点滅して警告音が鳴り響いている。
ちなみにこの水薬はハロルド・ニーベルハイムと仲のよい調合師セルゲイの試作品だった。
人外二名には大受けだったので、安全性と効果の方は折り紙付きである。
ただし、エーリカ自身は味見してない上に、この水薬が味に大問題があって横流しされたことを知らない。
「ほう、魔力の主成分は、大蛸の髄液、一角獣の幼角、アルラウネ由来抽出液か」
「薬効は確かそうでしょう?」
クラウスは答えに窮したまま、水薬に括り付けられていたラベルとエーリカの表情の間で視線を彷徨わせる。
エーリカが親切心から勧めているせいか、彼も断りづらかった。
諦め切った光の無い目でクラウスは水薬の壜の栓を開け、少しの間逡巡してから一口飲んだ。
「ぐ……ッ!!」
「クラウス君! 大丈夫かい?!」
「お口に合わなかったでしょうか? 」
「い、いや……恐ろしく珍妙な味だが、マズくはない。かなり魔力が補充されたし体も軽くなった気がする」
そう言ってクラウスは水薬の残りをゆっくり飲み干していく。
クラウスの様子を見ていたエドアルトは、ほっと胸を撫で下ろしながら薬壜を一本つまみあげる。
エドアルトも、普段ならばもう少し慎重に確認するはずだった。
しかし、可愛い妹が用意してくれたという事実が、彼の警戒心を緩めさせてしまったのである。
「じゃあ、折角だし、僕も頂いてみようかな」
エドアルトは栓を開け、無警戒に呷った。
その瞬間、動作が止まる。
普段滅多に顔色を変えることのないエドアルトだが、その顔面は蒼白になっていた。
「う……! うううう〜〜〜〜〜!!」
「お兄様!? だ、大丈夫ですか〜〜〜!!」
「ふっ、エドアルト……意外に軟弱だな」
エドアルトが口を押さえて走り去っていく。
大慌てのアウレリア兄妹を尻目に、クラウスは余裕の笑みを浮かべていた。
エーリカはクラウスを複雑な表情で見つめ、口を開く。
「クラウス様は大丈夫なんですか?」
「俺は鍛えているからな。これくらい何ともない」
「舌や胃も鍛えてるんですか……いや、それは流石に無理なのでは?」
「精神の鍛錬の問題だ。この程度で動じていては、魔法使いは務まらん」
「クラウス様ったら……」
相変わらずの不遜な態度のクラウスにエーリカはクスリと笑う。
クラウスはそのエーリカの珍しく自然な笑顔に見蕩れて頬を染める。
一方、エーリカは別のことに気を取られてしまっていて、そんなクラウスの変化に気づかなかった。
「あ……そうでした、クラウス様といえば!」
エーリカは、長机の上に積み上げてあった小箱から二種類の綺麗な香水壜を取り出す。
ハロルド経由で取り寄せた、ノットリードで大流行中の香水だ。
「クラウス様とアン様への贈物に、香水を差し上げようと思っていたのです。
せっかくですので、今お渡ししてしまってもよろしいですか?」
「ほう、俺の分もあるのか」
「ええ。近頃は男性も香水くらいは嗜んでおくものだそうですよ」
「そういうものなのか?」
表面上は訝しそうに、しかしどこか満更でもない様子で、クラウスは壜を手に取る。
「壜まで凝っているな。ガラスの青が深い」
「さすがですね、クラウス様、お目が高い」
壜は鮮やかな青ガラスと艶やかな銀で仕上げられている上物である。
それは、洗練されたハーファンの文化に馴染んだクラウスですら認める出来だった。
「まずはアン様にはこの女性用の『天使の甘やかな囀り』を。
そしてクラウス様には男性用の『恋人達の甘き調べ』をどうぞ」
「天使? 甘やか? 恋人? なんなんだその歯が浮くような惰弱な名前は」
「まあまあ、いいではありませんか。微笑ましいでしょう?」
クラウスが毒づくが、エーリカは気にしないで説明を続ける。
「西北部で大流行中のこの二つの香水は、どちらも密かな恋が叶うという噂があるそうです。
もしも、クラウス様にも密かに想っておられるお方がいましたら──」
「か、勘違いするな! 俺は!」
クラウスは思わず大声で遮り、はたと気づいて自分の口を塞ぐ。
エーリカは少々驚いたような表情でクラウスを見つめた。
「俺は……その、誰も、密かに想ってなどいないぞ。
正々堂々が俺の信条だ。逃げも隠れもしない……していない」
「もう、クラウス様ったら、いきなり怒らないで下さい。もしもの話ですよ?」
「そ、そうか、すまない。そうだな、うん」
「さて、折角ですから、実際に香りをお試し下さい。
女性用の方になりますが、開封済みのものがありますので」
エーリカが別の香水壜を開け、白絹のハンカチの上に一滴落とす。
彼女がハンカチを空中で一振りはためかせると、甘い香りが二人の間に広がった。
それは薔薇を主体とした花々の華やかで甘い香りに、香根草と白檀の神秘的な香りで構成されていた。
「これは……」
クラウスは不意に胸が疼くような不思議な感覚を覚えた。
世界の彩度が上がって、目に映る全てが鮮やかに変わる。
まるで心地よい無音の天上の調べが、霧雨のようにしっとりと降り注いでいるような気分だ。
「いかがでしょうか?」
「……っ!?」
はっとして顔を上げると、そこには金色にきらきらと輝く妖精の姫君が佇んでいた。
そう感じてしまうほど、クラウスにとって目の前の少女の美しさは鮮やかなものだった。
彼は慌てて頭を振り、エーリカから目を逸らす。
声をかけられるその瞬間まで、クラウスは自分が惚けていたことに気づかなかったのである。
「ただの香水とは思えん。魅了の魔法にも匹敵するぞ」
「気に入って頂けたようで幸いです」
不意に、クラウスはエーリカと二人きりという事実に気がついた。
密やかな恋が叶う、という言葉が彼の意識の中で静かに波紋を広げていく。
雰囲気に流されてしまうことに危機感を覚えたクラウスは、必死に頭の中で関係のない話題を探し出す。
「し、し、しかし、あれだな。例のノットリードの魔剣は大事件だったみたいだな」
「ああ、去年の秋の件ですね」
「旧型の空母は大破だったのだそうだな」
「残念なことです。新型は無傷だったのが不幸中の幸いですね」
「お前も進水式に参加していたそうだな。無事で何よりだ」
エーリカが話題の転換に食いついてくれたお陰で、クラウスは徐々に調子を取り戻していく。
一方、エーリカはうっかりと事件に深く関わっていることを気取られないように慎重に話題を選ぶ。
「あの場にクラウス様がいたら、広範囲魔法で対処出来たのでしょうか?」
「いや、それは難しいだろうな」
「あら、珍しく弱気なのですね」
「解体されれば事象を無理矢理上書きして実体化する大質量の溶岩では、さすがに俺の手にも余る」
実体化するまで手は出せない。
実体化してから消し飛ばすか、冷却するか、あるいは防護陣を器の形にして支え続けるか。
何にしても、並大抵の魔法使いでは力不足だろうと、クラウスは試算した。
「大聖堂の霊脈を利用して魔法を増幅したとして、魔剣一つ防ぐのがやっとだろう」
「とすると、クラウス様と並ぶほどの高位の魔法使いが十六人ほど必要なんですか?」
「それもカラクリが分かった後だから言えることだ。
魔法の挙動も判明していないのに、あの場で咄嗟に被害を抑え込んだアウレリア公。
そして十五本を完全に無効化する方法を編み出したニーベルハイム伯の息子。
いずれも、相当に非凡な能力を持っていると言える」
特にニーベルハイムの継嗣は末恐ろしい限りだ、とクラウスは唸る。
エーリカはその言葉を聞いて、思わず目を泳がせる。
「そうだ。ニーベルハイムと言えば、お前も詐欺事件に巻き込まれかけたのだったな?」
「よく知ってますね、クラウス様」
「転移魔法の違法利用が犯行に使われていたと聞けば、気になるのも無理はあるまい。
リーンデースに寄った時に、調査を担当している転移の専門家の話を聞いてきた。
魔法使いでも見落としかねないほどの、巧妙な隠蔽工作がされていたそうだな」
「そんな悪質な詐欺だったのですね。大事にならないうちに判明して幸いでした」
エーリカはニーベルハイム家の醜聞が広がらないように言葉を選ぶ。
危うい話題を受け流しながら、ふと彼女はとある懸念事項を思い出した。
「でも、私達は災難だったで済みますが、まだ行方も生死も不明の一家がいるのですよ」
「共犯者どもの夜逃げではないのか?」
「そのように言われていますが、全く痕跡を残さずに一家丸ごと消え去ったそうです」
「まるで怪異のごとく、か?」
「ええ、得体の知れないものがその一家を丸ごと隠してしまったようで、怖くて……」
「なるほど。その失踪事件が気になったから、先ほどこの資料を読み込んでいた訳か」
クラウスは「消えた男」と題された一枚の資料を机から拾って眺める。
エーリカは静かに頷いてから口を開いた。
「誰も彼もこんな風に消えてしまったのではないか……なんて、妄想じみてますよね」
「そうか? 例えば、その消えた男が詐欺の主犯だとすれば、どうだ。
例の一家も同じ方法で消された可能性もあるだろう?」
「まさか。例えば、魔法で、このような人の害し方があるのですか?」
「いくつか思いつくが……これだけでは特定は難しい。
せめて残った灰か現場を確認できればな」
「そんな……これって、事実じゃなくて作り話……ですよね?」
エーリカは内心の焦りを笑顔で隠しながら首を傾げる。
クラウスは硬質な蒼い瞳でエーリカを刺すように睨みながら言葉を続けた。
「作り話であればいいが、そうでなかったならば問題だ。
魔法以外にも、ある種の怪物にも同じような殺害が可能だしな」
「それって、例えば何ですか?」
「そうだな、例えば──」
言いかけて、クラウスは口をへの字に結んで沈黙する。
睨みつけるクラウスの表情が更に厳しくなり、エーリカはわずかにたじろいだ。
「この話はここまでだ」
「えっ?」
「だが、話を終える前に、お前に忠告しておく。
この件にしろ詐欺の件にしろ、これ以上は詮索するな。
これと似たような事件があっても、決して関わるな。
仮に関わってしまったとしても、深入りするな」
「分かってますよ。クラウス様は私がそんなに危なっかしく見えるんですか?」
冗談めかして言ったエーリカの問いに、クラウスは答えない。
答えない代わりに、彼は真剣な顔で続けた。
「どうしても逃げられないようなら、真っ先に俺のところに来い」
「それは……」
「お前を守るためだ。いいな、絶対だぞ。これだけは約束しろ」
クラウスの語調は有無を言わせない調子だった。
エーリカは少し悩んだ後、答えを口にしようとした。
しかし、その返答はノックと共に聞こえてきた明るい声に阻まれた。
「エーリカ、クラウス君、お茶にしないかい?」
いつの間にか、部屋の入り口にはエドアルトが立っていた。
エドアルトの顔に浮かんだ笑顔は、彼がすっかり調子を取り戻したことを教えていた。
「お兄様、もう大丈夫なんですか?」
「まだ危篤状態だよ。すぐに甘い焼菓子で口直ししないと死んでしまうかもね」
「エドアルト、お前は子供か……?」
「もう、お兄様ったら」
エドアルトの子供染みた冗談に、クラウスは不貞腐れたような仏頂面で返す。
まるで同年代の子供同士のような二人のやり取りに、エーリカは柔らかく微笑んだ。
失踪事件の話題を続けられる雰囲気ではなくなってしまい、エーリカは思考を明るい方に切り替える。
「では、私が先に行って用意しておきますね。
お二人にご覧になっていただきたい磁器があるのです」
そう言ってエーリカはお茶会の準備のために応接室へと向かう。
ちょうど数日前、ハーファンに売り込むための色数を抑えたシンプルながら美しいティーカップの試作品が届いたところだった。
折角なので、エドアルトやクラウスにも磁器のプレゼンテーションを行っておこうという目論見だ。
エーリカが十分に離れたであろう頃合いに、クラウスは無言で結界を展開させた。
数種の防音効果のある呪文を織り込んだ、盗み聞き対策の魔法である。
「エドアルト、キナ臭い資料は鍵でもかけて仕舞っておけ」
「まったくだね。申し開きの言葉もないよ」
尤もな指摘に、エドアルトは肩をすくめてクラウスの差し出した資料を受け取った。
エドアルトは資料を折り畳み、手帳に挟んで懐に仕舞う。
「アージェン領の詐欺事件、吸血鬼がらみだな?」
「その可能性もあるね」
「詐欺師の一味に、転移魔法に細工した魔法使い、そして巻き込まれた商人一家。
みんな知らず知らずのうちに吸血鬼の眷属にされていたんだな。
吸血行為すら刷り込まれず、仮初めの命も枯渇するに任せ、捨て駒として消え失せたか」
「辻褄は合うけど、あくまでも推測の域を出ないよ。残った灰か現場でも調べなきゃ分からないし」
「ならお前は知ってるんだろ?」
エドアルトは笑顔と共に沈黙で応える。
クラウスはそれを肯定と受け取った。
見舞いついでに、こっそり消えた商人の屋敷でも探索したかと、クラウスは頭の中で結論づける。
「推測通りだと仮定すれば、目的は何だと思う? 吸血鬼が今更金儲けなどという話ではあるまい」
「僕が吸血鬼なら、ニーベルハイム伯爵家の凋落を狙うかな」
「西北部には他にも多くの名家があるのにか?」
「あの家には他の名家にはないものがあるはずだよ。
もちろん例の天才少年のことではなくて、領地に付随するものの中にね」
エドアルトの指摘に、クラウスは小さく頷く。
「そうか、ニーベルハイム領には西北部一帯の霊脈の要の一つである塔があったな。霊脈の浸食が狙いか」
「所持者こそニーベルハイム家だけれど、塔の建造を指揮したのはトゥルム家だ。
西のトゥルム家は源流を東のトゥール家にもつ魔法塔建造の名家だからね。
彼らの築いた塔が穢されれば、霊脈の修復は容易ではない。吸血鬼にとっては好都合だろう?」
「昨年の一連の騒動に連なっていたというわけか。忌々しい」
昨年の春から、イクテュエス大陸では霊脈関連の施設に対する攻撃が繰り返し発生していた。
大陸中央の霊脈の中心であるリーンデース地下層への、呪術的に作られた怪物の侵入。
各地の霊脈によって封印されていたキャスケティア時代の墳墓への、同時多発的な盗掘。
これだけならば、ただの偶然という見方もできた。
そこに西北部の霊脈の要であるニーベルハイムへの詐欺が加わると、偶然の一言で片付けるわけにはいかなくなる。
「こそこそと隠れて糸を引いている輩の狙いは、北の大陸に布かれた魔法的守護の弱体化か」
「半分は正解だ。さすがだね、クラウス君」
「エドアルト、ならばもう半分はなんだと言うんだ」
「霊脈に関わる事件以外で、キャスケティアの遺物が原因となった事件があっただろう?」
エドアルトの問いに、クラウスは自身が巻き込まれた事件を思い出す。
奇しくも、それはリーンデース地下への怪物の侵入と同日に起こった事件だった。
それを切っ掛けにクラウスはキャスケティアの遺物が、人々を危機に陥れていたことを思い出す。
クラウスを〈来航者の遺跡〉に誘い込んだ魅了の首飾り。
オーギュストを竜から転落させる原因となった酩酊の鐙。
そして、〈炎の魔剣〉の遺跡発掘現場で起こった事故も、魔法の遺物に起因していた痕跡が確認された。
どれもこれも最小の力で、最悪の悲劇を狙った卑劣な手法だった。
「公爵家の子女、将来有望な竜騎士、専門知識に秀でた学徒。
いずれも国家にとって有益な人物の暗殺が狙いか。
しかし、確実に殺せるとは限らない、不確実な手段ばかりだぞ」
「危険だけれど必ずしも死ぬわけではない、というのが重要なのかも知れない」
「そんな手ぬるい吸血鬼がいるとは思えんがな」
クラウスは釈然としない様子でエドアルトに続きを促す。
「仲間や家族、恋人……大事な人を奪われた者は、それまでと同じようには生きていけない。
愛や友情や誇りを喪った者の心は、程度の差はあれ、捩じ曲がり易くなる」
「その心の隙をついて、手駒にしようというわけか。例えば、あのルイ・オドイグニシアのように」
ルイは降臨祭の事件以来、ずっと塔に幽閉されている。
今もなお吸血鬼の関与や眷属化の疑いをかけられ、尋問や調査が続けられていた。
彼もまた未来ある王族の少年だったが、肉親の怪死を境に何者かに偏った情報を吹き込まれ、歪んでしまったのだ。
「手駒か……僕の意見は少しだけ違う」
「では、お前はどう思っているんだ、エドアルト」
「きっと彼は寂しいのではないかと、そう考えているよ。
自分と同じように考え、同じように動いてしまう他者を求めているんだ。
手駒ではなく、心が同じ色に染まってしまった同類が欲しいんだ」
エドアルトは手慰みに水薬の壜を持ち上げ、陽に透かすように揺らした。
一雫ほど残った赤い液体が、透明なガラス壜の底で薄く広がっていく。
「心を同じ色に、か……。
そう言えば、カルキノスでも同じような言葉を聞いたな。
お前も僕と同じモノになる、だったか」
「……仮説を裏付ける、貴重な証言だったね」
エドアルトはクラウスから顔を背け、感情を込めずにそう言った。
クラウスはエドアルトがこれ以上踏み込まれたくないのだろうと考え、話題を変える。
「しかし、それにしたって、やり方が不確実すぎる。
狂王を僭称する割には、よほどの臆病者なのか、極端な秘密主義者なのか」
「どうだろうね。秘密主義はともかく、臆病というのは違う気がするけど」
エドアルトはそう言って肩を竦める。
「お前はどう考えているんだ、エドアルト?」
「うーん、この仮説はまだ推測の域を出ないんだけどね。
彼は何らかの事情で、直接的に事件に関与できない状態にあるんじゃないかな。
それどころか、自由に眷属を増やすこともままらないのかもしれない」
「分からんな。何故だ?」
エドアルトは黙考しながらガラス壜を置く。
壜の中で広がっていた赤は、時間の経過とともに底に集まって小さな雫に戻っていた。
「例えば、身動きが取れない状態でどこかに幽閉されているとか。
それ故に、手駒を通じて間接的に事件を起こしたり、呪物をばらまいて罠を張ったりすることしかできなかった。
……というのは、どうかな?」
「仮にも狂王の僭称者だぞ。何だその情けない事態は」
「まったくだよ。そもそも、誰が狂王を騙るほどの人物を幽閉出来たのかって話だしね」
敵の尻尾を攫んだ瞬間に煙となって消えてしまったかのような、クラウスはそんな錯覚を覚えていた。
まるで、この敵は何重にも重なった騙し絵の向こう側にいるかのようだ。
貯蔵庫の中に重い沈黙が下りる。
そんな時、遠くで少女の呼ぶ声が響いた。
二人はエーリカを待たせていたことを思い出す。
「おっと、可愛いエーリカが僕のためにお茶を用意してくれていたんだったね」
「俺達のために、だろう?」
「うん、僕のためだね。ああ、そう言えば、君もついでに招かれていたんだっけ?」
「エドアルト、お前、覚えていろよ」
クラウスは舌打ちし、足早に部屋を出て行ったエドアルトを追う。
春の花々の匂いに混じって漂ってくる紅茶の香りに、クラウスはどことなく安心感を覚えるのだった。