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Act. 10-1 とんでも腐敵な何かの芽生え?
<<<< 朽木side >>>> 
 
 気付けば何処だかよく分からない場所に立っていた。
 
 大学のグラウンドのようでもあり、階段の踊り場のようでもあり、自分の部屋でもあるように思えた。
 
 背景があやふやで、何処でもあり、何処でもないような不思議な空間だった。
 
「朽木さん」
  
 ふいに背後から名を呼ばれた。振り返ると、長い黒髪がさらりと揺れるのが視界に映る。
 
「グリコ……?」
 
 一瞬戸惑ったのはあの腐女子がいたことに驚いたからではない。
 
 その表情がいつもと違っていたからだ。
 
「朽木さん……」
 
 呆然と立ち尽くす俺にゆっくりと近付いてくるグリコ。頬が桜色に染まっている。
 
 どこかおかしい。
 
 グリコが頬を染めるといえば、ゆでだこ状の真っ赤しかあり得ない。病院や警察に連行されること必至の妄想に塗りたくられた色。頭から湯気でも出てきそうな真っ赤しかあり得ない筈だ。
 
 なのにこいつの頬を今、俺は桜色と映しとっている。
 
 そしてグリコの顔は、いつもの楽しげな、悪戯っぽい笑みではなく、躊躇いがちの、恥じらいの表情を浮かべているのだ。
 
 なんだ? また下品な催促か?
 
 グリコがこういうもじもじした表情をする時は、大抵「朽木さんの初体験教えて」とか、思わず殴りたくなるような下ネタをお願いする時だった。
 
 だが――今のグリコの顔は、なんとなくそれとも違う。
 
 目が濁っていない。
 
 俺が返事に迷っていると、目の前まで来たグリコがすっと俺の胸に頬を寄せてきた。
 
「なん……」
 
「あたし、朽木さんが好き」
 
 グリコの声が頭に響く。
 
 なに――?
 
 今、なんて言ったこいつ?
 
「グリコ。冗談は……」
 
「冗談じゃないもん。朽木さんが好きなの」 
 
 な。 
 
 グリコが――俺を?
 
 驚いて固まる俺を見上げるグリコ。その時気付いた。
 
 グリコの服装は、いつのまにかメイド服に替わっていた。どこかで見たことのあるコスプレ。髪の間からぴょこんと覗くのは黒の猫耳。
 
 なんでよりによってその格好なんだ。
 
 俺にそっちの趣味はない。ゴスロリもメイドも猫耳も正直濃すぎると思う。
 
 いや、メイド服は普通にある服装だから馬鹿にはしないが、このメイド服はどう考えても実用的じゃない。
 
 まぁ、グリコの童顔に似合わなくもないとは思ったが。
 
 だがそんな服を着て告白されてもひくだけだ。
 
「いい加減それは脱げ」 
 
 しなだれかかってくるグリコに冷たく言うと、この馬鹿女はその場でドレスを脱ぎだした。
 
 背中のファスナーをどうやって下ろしたのかは知らないが、いつのまにか白い肩が露になっている。

「いいよ。朽木さんの好きにして」
 
 いや、そういう意味で言ったんじゃない。
 
 そう言って止めようと思ったが、首の後ろに回される腕に言葉を遮られた。
 
「朽木さん。抱いて……」
 
 唇を寄せて囁きかけてくるグリコ。吐息が熱い。
 
 悪いがお前相手にそんな気にはならない。
 
 ならない筈なのに――
 
 俺の意思に反して、腕がグリコの腰を引き寄せた。
 
 
 何をしているんだ俺は。今すぐ手を離せ。
 
 何度も自分に言い聞かせた。
 
 だが、グリコを抱き締める腕は揺らがない。
 
 ゆっくりと唇が近付いてくる。頬を染めたグリコの唇が。
 
 思わず目を閉じた。
 
 
 駄目だ。俺には拝島がいる。
   
 グリコを抱くわけにはいかない。
 
 抱くわけにはいかないんだ――――
 
 
 ジーッ ジーッ
 
 
 
 がばっとベッドから跳ね起きた。
 
 そこは見慣れた寝室。陽の光がカーテンの隙間から射し込み、スズメの鳴き声が朝の訪れを爽やかに演出する我が家の寝室だった。
 
 
 
 全身、嫌な汗をかいていた。
 
 サイドテーブルに置かれた目覚まし時計に目をやる。 
 
 7時。いつもの起床時間だ。
 
 俺を眠りから覚ましてくれた時計に、感謝しつつ手を伸ばす。スイッチを切って、深々と息をついた。
 
 
 なんて夢を――
 
 
 悪夢としかいいようがない。俺がグリコと抱き合うなど。
 
 ベッドから降り、汗を流すためにバスルームに向かう。昨日足首を捻挫したため、壁に手をつきながらそろそろと歩く。
 
 断続的に感じる鈍い痛みが脳をいち早く覚ましてくれる。思考がぐるぐると廻りだした。
 
 
 
 グリコの夢を見ること自体は、初めてではない。
 
 例えば、拝島を抱く夢。これまで何度となく見てきた。その中に、グリコが出てくることはしばしばあった。
 
 ビデオカメラをじっと構えて、俺と拝島の睦事を撮影している。そんなアホ女を夢の中でしばくくらいは何度もあったことなのだが。
 
 しかし、こんなのは初めてだった。俺がグリコと絡む夢など――
 
 最悪だ。
 
 理由はなんとなく分かっている。
 
 昨日、推理レースとかいう、ふざけてるが手の込んだレースに参加し、グリコと共に優勝した。
 
 そのレースの後、メイド服姿のグリコと追いかけっこをすることになった。
 
 いつも俺に脅しをかけてくる怖いものなしのグリコが、初めて弱味を見せたので、チャンスとばかりに写真に収めたのがことの発端だ。
 
 何故あれほど取り乱すのかは分からないが、グリコはコスプレ姿の自分を見られるのが心底嫌そうだった。
 
 それでこちらも脅迫のネタにと思って写真を撮り、慌てるグリコの姿が面白かったので、ついついからかい半分に構内を引っ張りまわしたのだが。
 
 まさか階段の上から飛び掛ってくるとは思わなかった。
 
 落ちてきたグリコを咄嗟に抱きとめ、もつれるように倒れこんだ。
 
 そして身を起こした俺とグリコが目を合わせた瞬間。
 
 至近距離で見つめあったグリコが、ポッと頬を赤らめたのだ。
 
 あれには正直驚いた。
 
 確かに俺はグリコを抱きしめていたし、顔も触れそうなほどに近かった。
 
 だがそれまでにも、そういう場面はあった筈だ。
 
 初めて会った時もそうだし、俺が風邪をひいた時も、レースの途中、グリコに乱暴した時もそうだ。
 
 至近距離で見つめあうなど、何度もあったことだ。
 
 だけどあいつは、今までその距離を意識した様子は見せなかった。
 
 俺を観賞物として扱うグリコにとって、俺が触れることなど意味のあることではなかったのだ。 
 
 なのに何故今回に限って頬を赤らめたのか?
 
 俺は困惑した。
 
 まさか。到底あり得なさそうな話だが。
 
 いや、ないとは言い切れない。なにせあいつは俺の容姿が好みだと言い切ったのだから。
 
 そう――。あり得ないことではないのだ。
 
 
 グリコが俺を――好きになったということは。
 
 
 
 シャワーの高すぎる水圧が、俺の頭を激しく叩いた。
 
 そのおかげで胸の鼓動を意識せずに済む。
 
 俺が好きなのは拝島だけだ。もしグリコが俺のことを好きなら、きっぱりあいつとは縁を切り、遠ざけるしかない。
 
 呼吸が乱れてるのは湿気で息苦しいからだ。
 
 あいつが俺を好きなのは、迷惑でしかない。告白してきたら即行ふってやる。
 
 そう決めて、シャワーのコックをキュッと捻った。
 
 
 
 軽い昼食を終え、書斎で課題のレポートに取り掛かった。ふと壁の時計に目をやると時刻は2時を過ぎている。
 
 今日はグリコがお見舞いにくる予定だった。
 
 昨日、絶対にいらないと強く拒絶したのだが、じゃあ料理以外のことを手伝うから、と切にお願いするグリコに押し切られ、仕方なくお見舞いに来ることを許可してやった。
 
 自分のせいで俺が怪我したのをそれなりに反省している様子だった。
 
 あいつのおかげで酷い目に遭うのはこれが初めてではないので、俺としては今更な感があり、それよりはできるだけあいつとの接触は避けたいという思いの方が強いのだが。
 
 あいつに掃除や洗濯をさせると、足の自由がきかない自分でやるより数倍疲れそうな予感がする。
 
 適当な雑用を頼んでさっさと追い返そうと考えながら、キーボードに指を走らせた。
 
 
 チチッ チチッ
 
 
 窓の外にとまったスズメ達が軽やかな鳴き声をあげて戯れている。
 
 静かな空間に響くその声は、緊張感を緩ませ、忙しく働きっぱなしの脳に休息のタイミングを教えてくれる。
 
 時刻は3時。課題のレポートももうすぐ終わりそうだ。俺はコーヒーを淹れるために立ち上がり、キッチンに向かった。
 
 やかんに水を入れ、火を点けるとまたもやグリコの顔が浮かぶ。
 
 くそ――どうにも落ち着かない。あいつが変な顔をするからだ。
 
 あいつが本当に俺を好きかどうかなど、よく観察してみれば分かることだ。今日これからこの部屋に来るのだし、二人きりでいるときの様子を見れば、あいつの気持ちなど一目瞭然だろう。
 
 何を焦ってるんだ俺は。
 
 簡単なことだ。もう一度あいつに触れればいい。あいつが俺を好きなら、その時の緊張感で分かる筈だ。
 
 そして俺を好きだと確信できたなら早めに切り捨てる。できれば違っていて欲しいが――――
 
 そうだ。あいつには、章の一件で世話になっている。
 
 昨日のレースで一応その借りは返したが、やはり章を救ってくれた事実は大事な恩として残っているのだ。俺を好きだからといって冷たく避けるのは、悪い気もする。
 
 これであいつの態度が僅かでも改まるなら、俺としても今より少しだけ――ほんの少し、1ミクロンくらいは優しくしてやるのもやぶさかではないのだ。
 
 うむ。あいつだって女だ。急に遠ざけられれば傷付くだろう。付き合うとか抱いてやるとかはできない相談だが、どうしてもというのなら一緒に食事をするくらいは許してやってもいいかもしれない。
 
 女は嫌いだが、もとよりあいつは女とは思えない新人類だし、多少冷たくあしらったところで今更ストーカー行為を止めるとは思えないし。というかあいつ、俺を好きだからストーキングしてるのか? それなら「傍にいるのを許してやるからストーキングは止めろ」といえば止めさせることができるかもしれない。
 
 俺のことが好きなら素直に俺の言うことに従う筈だ。なんにせよあいつの本当の気持ちを確かめてからだが――
 
 
「ってもう6時じゃないか!」
 
 
 俺は時計の針を見ながら愕然とした。
 
 今日来るとか言ってなかったかあいつは?
 
 しかも昼過ぎにとか言ってなかったか?
 
 何をしてるんだ。もう外は暗くなり始めている。何かあったならあったで、電話のひとつくらい寄越すのが礼儀ってもんだろうが。
 
 それとも電話もできない状況に陥ってるのか? まさか事故とか――
 
 
 ピンポーン
 
 
 俺はハッとして椅子から立ち上がった。
 
 痛む足を引き摺り、急いで玄関に向かう。
 
 覗き窓から姿を確かめるのももどかしく扉を開けると、やっとというかなんというか、予想通りグリコが立っていた。
 
「やっほー朽木さん♪」
 
「やっほーじゃない! 今何時だと思ってんだ!」
 
 思わず怒鳴りつけてしまった。
 
「えー……っと、6時過ぎてるね。ちょっと遅くなっちゃった」
 
 腕時計を確認しながら大して悪びれた様子も見せないグリコ。
 
「でも、時間を約束してたわけじゃないし、どうせ外出の予定もなかったんでしょ? 別にいいじゃん」
 
 なんでそんなに怒ってるの? と言わんばかりのきょとんした顔で俺を見上げる。なんだこいつ。
 
 今更だがこいつの親に子供の教育についてとくと説教してやりたい気分になった。
 
「よくない! 昼過ぎに来ると言ってただろ! 俺にだって色々と予定があるんだ!」
 
「そっかーごめんごめん。とにかくあがるよー」
 
 その「ごめん」で本当に謝った気になれてるのか小一時間ばかり問い詰めたい。
 
 しかし俺の怒りもなんのその、グリコはするりと部屋に入り込み、全く遠慮なくリビングに向かう。
 
「何かあったのかと思ったぞ」
 
 扉を閉めた後、何故かリモコンを取りテレビをつけるグリコにぶすっとした顔で言ってやると、
 
「んーまぁ確かにちょっとした事件があってね」
 
 目線はリモコンに落としたまま答えるグリコ。
 
「事件?」
 
「そう。あたしにとってはすんごい大事件だったのよ。たまたま通りかかった本屋さんでそれを見つけた時は、もう運命を感じずにはいられなかったわ」
 
 両手でリモコンを握りしめながら中空を扇ぐ。その顔はうっとりと輝いている。
 
「ほう」
 
 寒々しい風が心の中を吹き抜け、すっと頭を冷やしてくれた。
 
「や〜っぱ日頃の行いを神様は見てくれてるもんなのね! ず〜〜っと探してた同人誌があんなところで見つかるなんて」
 
「怒り」という名の毒が侵食してくる。まさかこいつ、人と約束しておきながら。
 
 マガジンラックから雑誌を一冊取り出し、丸めて準備を整える。
 
「もうラッキーというかこれぞあたしの愛のなせる業というか、諦めないで10軒も回った甲斐があったっていうもの」
 
「全力で寄り道しとるじゃないか!!」
 
 ばこ――ん!
 
 脳天にめりこませた強度の高い雑誌『Newton』はいい音を響かせ、腐れ女を完全に撃沈してくれたのだった。
 
 
 
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