ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
 丸くなったイタチの背中は、まるで弾力のある巨大なボールのような眺めでした。胴体をバネのように縮め、力をためているということなのでしょうが、ついにそれを一気に吐き出し、肺の中にあった空気をすべて勢いよく押し出したのです。あのサイズのイタチなのだから、その肺の大きさも簡単に想像がつくでしょう。きっとバスの車体ほどもあるに違いありません。その内部にあった空気が一度に吐き出されたわけだから、どれだけ大きな声を出すことができたか。しかもイタチは高い天守閣の頂上にいるのです。鳴き声は何キロも遠く、きっと江戸中に響き渡ったことでしょう。

 ものすごい鳴き声ではありました。太く強く、聞いていておなかにズンと来るようで、しかも甲高い女声のような美しさも備えているのです。頭を持ち上げ、肺をふりしぼるような鳴き声をイタチは何回か繰り返しました。三吉とオアゲは顔を見合わせているしかありませんでした。イタチがなぜ鳴くのか、何をしようとしているのか、見当もつかなかったのです。

 このとき江戸の町では何が起こっていたか、三吉たちに知るすべはありませんでした。天守閣と町とは何百メートルも離れているのです。江戸には百万人近くの人が住んでいました。あの時代には世界でも有数の大都会だったのです。

 人が多ければ、当然ペットとして飼われている犬猫の数も相当なものだったはずです。おとなしいのや騒がしいのや、いろいろな性格の犬猫がいたに違いありませんが、江戸の人々が驚いたのは、イタチの鳴き声が聞こえてきたとたん、どの犬猫も例外なくぴたりと動きを止め、耳をぺたんとふせ、後ろ足の間にしっぽを入れてうずくまってしまったことです。一匹の例外もなくそうだったのです。これはひどくおびえたときに動物が取る行動ですが、あのイタチの鳴き声がその原因だというのは明らかでした。

 でももちろん、人々にとってはただの鳴き声に過ぎません。美しく荒々しく、耳慣れず大きいけれど、鳴き声は鳴き声に過ぎません。人々を本当に驚かせたのは、その次に起こった出来事だったのです。

 江戸には百万人が住んでいます。ということは、その人たちが必要とする井戸の数も大変なものだということです。本当の話、江戸では少し歩くだけで、井戸をいくつも見ることができました。大切なものだから厳重に管理され、よく清掃もされていました。まるでイタチの鳴き声に答えるかのように、それらの底から別の声が突然聞こえてきたとしたらどうです?

 でも本当にそういうことが起こったのです。江戸中に散らばる何千もの井戸の底から、くぐもるような太い声が聞こえてきたのです。大きな井戸だけでなく、どんなに小さな井戸でもそうでした。地鳴りに似ているけれど、よく聞けばどこか動物らしさを感じさせる声です。怪物か魔物が発するものに違いなく思われました。これを耳にして、江戸中の人々が不安に思い、恐ろしさを感じたのも無理はないでしょう。自分たちがふだん何気なく使っている井戸の底に怪物が潜んでいるらしいのですから。

 イタチが鳴き声を出すのをやめると、井戸の底から聞こえてくる声も静かになりました。相変わらず天守閣の屋根の上にいますが、気がすんだのかイタチもリラックスして腹ばいになり、体を丸くしています。力を抜いて伏せられた耳が、いかにも満足そうな様子です。

 地の底から声が聞こえ始めた瞬間から、江戸の人々はもちろん井戸のそばから飛びのき、駆け出していました。離れた場所まで逃げて、そばへ戻る勇気などなかなか出ません。それでも怖さを押しのけ、足音を忍ばせて、何人かがもう一度そっと近寄ってみました。おそるおそる井戸の中をのぞきこみますが、何も見ることはできませんでした。真っ暗で何もわからないか、見えていてもせいぜい水面がきらきらと光を反射しているだけで、怪物らしいものは影もないのです。でもこの下に何かが潜んでいるのはたしかだし、あのイタチにも負けないほどの声を出すことができるサイズの体を持っているに違いありません。しかも何千匹という数です。江戸の人々はすっかりおびえてしまいました。

 井戸の底からの声は、三吉たちの耳にももちろん聞こえました。それだけ大きな声だったし、江戸中の井戸すべてからわきおこったのです。耳に届かないはずはないでしょう。「何がどうなったの?」三吉はそっとオアゲのそでを引きました。

「わからぬか?」オアゲは片方の眉を軽く上げました。

「うん」

「江戸中の井戸の底に潜んでいる魔物たちに対して、イタチは呼びかけをしたのだ。どうやら江戸とは、地の底で眠りについていた何千という魔物たちの上に作られた町らしいな」

「どうして?」

「あのイタチもその一匹なのだろう。仲間たちよりも一足早く目を覚まし、『さあさあ、おまえたちも起きろ』と合図を送ったのだろうな。井戸の中から聞こえてきたのはその返事さ。なんとかしないと、これはえらいことになるぞ」

 だけど二人ともよい知恵は浮かびませんでした。これ以上は何事も起こらなかったけれど、そのまま夜が明け、朝になりました。イタチはまだ天守閣の屋根に寝そべっています。竜は体をピクリともさせず、目を覚ます気配はありません。そうやって何もできないまま一日が過ぎ、再び夜がやってきてしまいました。

 将軍様の家来たちも怖がって城には近寄りたがらなかったので、食べ物は城門までオアゲが受け取りに行くようになっていました。イタチはまだ天守閣の屋根にいますが、自分よりもはるかに小さいキツネがうろちょろすることなど気にもしていないようです。

 電気や電灯がある現代とは違って、江戸時代の夜とはひどく暗いものでした。小さな皿の上で油を燃やして灯明にするか、ロウソクに火をつけるしかないのだから当然のことですが、この日の夜は特に暗かったのです。何しろ避難命令の範囲が広げられ、江戸城のまわりは何キロにもわたって無人になっていたのです。そして月が高く昇ると、前日の夜と同じようにイタチは体を起こしました。

 今夜もその鳴き声は見事なものでした。窓のそばへ寄り、三吉とオアゲは耳をすませていました。山やでこぼこが少なく平らな江戸の町にイタチの鳴き声がさざ波のように広がってゆく様が目に浮かぶようでした。そしてもちろん、井戸の下の魔物たちは今夜も返事を返してきたのです。でもそれが三吉とオアゲをひどく驚かせたのでした。昨夜は井戸の底から聞こえてくる声だけだったのに、今夜は地震のような地響きまでともなっていたのです。ぐらぐらと地面だけでなく、天守閣までゆれるのが感じられました。三吉は思わずオアゲにしがみつきましたが、彼女は平気な顔で江戸の町を眺め渡しています。「三吉、あれを見ろ」

 三吉は顔を上げましたが、すぐにぽかんと口を開けることになりました。こんなに奇妙な光景は彼も見たことがなかったのです。

 井戸なのだから、その下には水があるはずです。掘られた深さにもよりますが、場合によっては何メートルもの水深があるでしょう。井戸の下の魔物たちは前日よりも活気付き、元気と力を取り戻しつつあるとしか思えません。声で返事をするだけでなく、地鳴りを起こすだけでもなく、なんとその水を空中高く吹き上げて見せているのでした。まるで噴水のような眺めで、井戸の口から数メートル上へ向かってです。魔物たちが本格的に目を覚ましつつあるのは間違いないでしょう。地鳴りだって、彼らが足でどんどんと大地をけり始めている印なのかもしれません。

 地鳴りも噴水のような水の吹き出しもすぐに収まってしまいましたが、満足そうな顔でイタチが腹ばいの姿勢に戻るのがわかりました。今夜の仕事は終わりということなのでしょう。もちろん明日の夜にもイタチは同じように鳴き声を上げ、地の底の魔物たちはそのたびに元気を取り戻してゆくのでしょう。しまいには彼らは完全に目覚め、大地を割って地上へ姿を現すに違いありません。「どうするの?」三吉は不安そうにささやきました。

「私にも名案はない」とオアゲは答えます。

「竜はまだ目を覚まさないかな?」

 振り返って様子を探りましたが、目を開くどころか、竜はヒゲをピクリとさせる気配すら見せません。顔を見合わせ、二人はため息をつくしかありませんでした。でも悪いことばかりではないのです。翌朝になって、ある荷物が二人のもとへ届けられました。先日、将軍様のところへ行って製作を頼んでおいたものでした。それがとうとう出来上がってきたのです。

 もう時間がないかもしれないと、二人はあせりを感じていました。おととい、昨夜と井戸の底の魔物たちは確実に目を覚まし始めているのです。月が昇れば今夜もイタチは行動を起こし、鳴き声を上げるのでしょう。そして今夜こそ魔物たちがよみがえり、大地を突き破って姿を見せるかもしれません、何千匹という数の魔物です。どうしても防がなくてはなりません。

 なだめたりすかしたりして、怖がる三吉を立ち上がらせることにオアゲは成功したのでした。昼間の間、イタチは目を閉じてぐっすり眠っています。届けられたばかりの道具を持ち、足音を忍ばせて、二人は天守閣の屋根へと向かいました。

 届けられた品物とは、いささか奇妙なものではありました。筒形をした瀬戸物の容器に入れられた液体だったのです。両手でかかえ、三吉は軽く振ってみました。ほぼいっぱいに入っているらしく、ちゃぽんちゃぽんと音が聞こえます。「何が入ってるの?」

「非常に強力な接着剤さ」オアゲはにやりと笑いました。

「接着剤? のりのこと?」

「見た目は普通の水と変わらないが、この容器から出して半日たつと固まって石のようになる」

「それで?」

「これをイタチのしりにあるあの『匂いの穴』に塗りつけたらどうなる?」

「固まる」

「固まって強力なせんになって、穴にふたをするだろう?」

「うん」

「なら、もうやつは『へ』をこくことができなくなるではないか。そのころには竜が目を覚ましておろう。あの『へ』がなければ、今度こそ竜も負けはしないだろう」

「ふうん」

 そんなことをささやき合ううちに、二人は天守閣の屋根へとたどり着いていました。あれだけの巨体であれば敵などいないということなのか、イタチは安心しきっているようです。目を閉じて腹ばいになり、イビキをかいているではありませんか。何を恐れる必要もなく、二人はそばに寄ることができました。もちろん足の下で瓦が音を立てたり、斜面なので滑って転んだりしないように注意は必要でした。でも二人は協力して、イタチの匂いの穴に接着剤をたっぷりと塗りつけることに成功したのです。水のようにさらさらとした液体なので、奥までしっかりとしみこませることができました。

 うまくいったことに気をよくして、互いに肩をつつきあい、笑いをこらえながら二人は屋根から降りてくることができました。そして竜の様子を見に行ったのです。

 竜はまだ目を覚ましてはいませんでした。でも眠りは浅くなりつつあるのかもしれません。昨日まではまったく見られなかったことですが、指やしっぽの先をときどきぴくぴくと動かすようになっていたのです。「日が暮れるまでには目を覚ましてくれそうだな」とオアゲは言いました。

 二人ともすっかり安心していました。そしてあっという間に半日が過ぎ、太陽が地平線の下に沈んで、夜がやってきたのです。ところが世の中とはうまくいかないもので、二人はひどくあせりを感じ、体中に汗をかきはじめていました。もう日が暮れてしまって、いつイタチが目を覚まし、鳴き声を上げても不思議はありません。地下に潜む魔物たちが今夜こそよみがえってしまうかもしれません。

 ところが、頼みにしていた竜はまだぐうぐう眠ったままだったのです。手足やしっぽをときどき動かしかけはしますが、それだけでした。それ以上の動きや目を覚ます気配などまったくないのです。さっきから三吉は竜の頭によじ登り、まぶたをこじ開けたり、力いっぱいヒゲを引っ張ったりしていましたが、それでも反応がないのでした。「これは困ったことになったぞ」とオアゲが言いました。

「水をかけてみようか。そうすれば…」と三吉が言いかけたのですが、不意に手を上げ、オアゲは「しいっ」と黙らせました。そして不安そうに天井を見上げたのです。イタチのイビキがふっと静かになったことは、三吉の耳でも簡単に聞き分けることができました。

「くそ」オアゲが歯がみをします。

「どうするの?」

 するとオアゲは、さっとキツネに姿を変えたではありませんか。「おまえは竜のヒゲを引っ張り続けろ。けとばしてでも何でもいいから目を覚まさせろ」

「あんたはどうするの?」意外にもオアゲが笑い顔を浮かべているので、三吉は目を丸くすることになりました。

「屋根の上へ行ってイタチの相手をしてやるさ。少しでも時間をかせぐ必要がある。何分持つかわからんが、とにかくおまえはがんばって竜を起こせ」

「でも…」三吉は言いかけましたが、そのときには床をけり、オアゲは姿を消してしまっていました。竜の体を駆け上り、屋根の上へと登っていったのです。

 やがて屋根の上で戦いが始まったのでしょう。ドスンバタンという音が聞こえてくるようになりました。オアゲとイタチの叫びがときどき混じります。ギャア、ガーという動物同士の激しい争いになっているのでしょう。でも体の大きさがまるっきり違うのです。きっとオアゲは苦戦しているに違いありません。

 三吉はあせりを感じ始めました。ヒゲを引っ張ったり、やたらとポカポカたたいてみましたが、やはり竜は何の反応も見せません。くやしさのあまり、三吉は涙が出てきそうになりました。屋根の上の戦いはまだ続いています。引っかかれたのか、かみつかれたのか、ギャッというオアゲの悲鳴が聞こえます。とうとう腹を立て、三吉は竜の鼻の穴に手を突っ込んでしまいました。竜の体は固いウロコでおおわれ、少々つつかれようが、けとばされようが何も感じないに違いありません。三吉は、もう竜を目覚めさせようとは思っていませんでした。ただグウグウ寝たままで、オアゲを見殺しにして目も覚ましてくれないことが頭にきただけです。痛みを与え、それを思い知らせてやりたかったのです。

 あの大きな体だから鼻の穴のサイズも相当なもので、やろうと思えば電信柱をそのまま突っ込むことだってできるでしょう。でも手を突っ込んで、人と同じように竜の鼻の穴の内部も暖かく、やわらかいということに三吉は驚きました。そして指を伸ばして肉をつまみ、遠慮なくツメを立てながら、三吉はつねってやったのです。

 するとどうでしょう。突然ブルブルと体を震わせ、聞いたこともない大きな音を立てて竜がクシャミをしたのです。あまりに勢いが強く、三吉がころころと5メートルばかり転がっていったほどです。でもあわてて起き上がり、振り返って三吉は思わず目を大きく見開くことになりました。目を赤くし、涙まで浮かべていますが、竜が目を覚ましていたのです。さっと駆け出し、三吉がその背中によじ登ったのはいうまでもありません。

 事情を説明している余裕はありませんでした。でも竜はすべてを悟っている様子です。翼を大きく動かして飛び上がり、さっと屋根の上へと舞い上がったではありませんか。オアゲはすでにかなり追い詰められていました。イタチと全力で戦うなど彼女にも初めての経験だったに違いありませんが、形勢はかなり不利で、すでに数ヶ所にキズを負っていました。さきほどから攻撃することはあきらめ、防戦一方に回っていたのです。屋根の上であちこち逃げ回るばかりです。でもその彼女の視野のすみを、羽ばたく竜の姿が不意に横切ったのです。「助かった」と思わずオアゲはつぶやくことになりました。

 竜はまず天守閣の上空をぐるりと一周しました。そうやって状況を見ようとしたのでしょう。背にまたがり、竜の耳に口を近づけ、三吉が何かをささやいているのまでオアゲは見ることができました。でも、オアゲが安心していられたのもほんの一瞬のことに過ぎませんでした。竜を目にして集中力がそがれ、注意が手うすになってしまったのでしょう。あっと気がついたときには、イタチの右前足がすぐそばまで迫っていたのです。まるで野球のバットのようにスイングして、オアゲの横面を張り倒そうということだったのでしょうが、何とかぎりぎりのところでよけることができました。

 ところがイタチはそこまで計算していたのかもしれません。2、3歩駆け出しかけ、気づいたときにはオアゲは屋根のはしっこ、あと1メートル先にはもう何もなく、足を踏みはずすと地上へ向かってまっさかさまに落ちてゆくしかないという場所にまで追い詰められていたのです。そのことに気づき、竜の背の上で三吉は息をのんでいました。「オアゲ!」と叫ぼうとしましたが、しっぽの向きを変え、飛行する方向を竜が大きく変化させたことが感じられたのはその瞬間のことでした。

 竜がオアゲを助けにいこうとしているのは明らかでした。でも運悪くこのとき、オアゲのいる場所までは少し距離があったのです。それにあの大きな体で空を飛んでいるのです。竜には小回りはききません。方向を変えるには、かじを切って大回りをする必要があったのです。

 口を開けてにやりと笑い、イタチはオアゲにおしりを向け始めていました。しっぽを持ち上げ、なんとあの匂いの穴を使う用意を始めています。あれを使われては、オアゲはひとたまりもないでしょう。どうしても防がなくてはなりません。だけど間に合うかどうか。

 残念ながら間に合わなかったようです。オアゲにまっすぐにねらいを定め、イタチはグイとおしりに力を込めたのでした。

 だけどすぐに、イタチは「あれっ?」という顔をすることになりました。匂いの液体がなぜか発射されないのです。追い詰められていることも忘れ、オアゲは思わずにやりとしないではいられませんでした。接着剤が期待通りの働きをしているということなのでしょう。

 そのすきをついて前に飛び出し、竜はオアゲの体を空中へとかっさらうことに成功したのです。オアゲの姿が目の前から消えてイタチは呆然とした表情を浮かべましたが、すぐに意味に気づき、頭をめぐらせて憎々しげににらみつけてきました。でも三吉は平気でした。にらまれたって痛くはないし、オアゲは若い娘に姿を変えて、もう三吉の隣で同じように竜の背にまたがっているのです。

「竜よ」オアゲが口を開きました。「あのイタチの近くをかすめて飛べ。やつがもう一度『へ』をこくように仕向けろ」

「どうして?」振り返って三吉は見つめます。でも答えはなくて、オアゲはにんまりと笑うだけでした。その間にもう竜はかじを切り始めています。体を大きく傾け、天守閣の方向へと戻っていきました。

 その様子はイタチも見ていました。うれしそうにおしりを向け、ねらいを定めようとしています。もちろん発射はもっと近寄るまで待とうというのでしょう。しっぽを持ち上げてニタニタしているのです。

 カーブを描き、竜は近寄っていきました。イタチの目の前を左右に横切って飛ぶことになります。ねらいなどはずしようがなく、砲撃をくらうのにこれほどよいコースはないでしょう。だけどイタチは失敗したのです。匂いの液体は今度も発射することができなかったのです。

 わけがわからないという顔をして、遠ざかってゆく竜をイタチはくやしそうに見送っています。でも突然、やけを起こしたのかもしれません。おしりを空に向けたまま、やたらとりきみ始めたではありませんか。匂いの液体がなぜ発射できないのか、理由が理解できないのでしょう。あるいは穴にゴミが詰まっていると思ったのかもしれません。りきんでそのゴミを吹き飛ばそうというのかもしれません。背中を弓なりに曲げ、イタチは思いっきり力を込めているのです。

 笑いながら、三吉たちはそれを高いところから眺めていました。どうしてもうまくいかず、イタチは歯を食いしばっています。体中の筋肉を動員しようというのでしょう。そしてついにポンと大きな音がして、穴が開通したのでした。いくら強力な接着剤でも、イタチの全身の筋力にはかなわなかったということなのでしょう。一気に抜け、中にあった液体が水鉄砲のように飛び出したのです。

 それがまあかなりの大量だったのです。相当たまっていたということかもしれませんが、三吉たちが目を丸くするほどの量と勢いでした。もちろん三吉たちには、しぶきの一部さえかかることはありませんでした。

 バケツに水を入れて運ぶときのことを考えるとわかりますが、手にしてみると液体とは結構重たいものです。また、量が増えればそれだけ重くなります。ニュートンという昔の偉い学者の功績の一つに『作用と反作用の法則』というものがあり、それがこのときイタチの身の上に起こったことだったのです。

 イタチは大量の液体を勢いよく後ろへ押し出しました。すると反作用を受けて、同じだけの力でイタチの体は前へと押されることになります。そしてイタチは、狭くて足場の悪い天守閣の屋根にいたのです。どういうことが起こるかは、簡単に想像がつくではありませんか。

 足の裏がすべるのを感じ、もちろんイタチは体を止めようとしました。でも瓦の上で足は安定してくれず、あせればあせるだけずるずると滑ってゆくことになりました。おまけに押された勢いで、体のバランスまで失いかけていたのです。イタチは転び、とうとう屋根の急な斜面を滑り落ちてゆくことになりました。あっという間に屋根のへりに達してしまいましたが、そこには手すりや滑り止めなどあるはずはありません。そのまま勢いよく空中に放り出され、遠い遠い地面へ向かってイタチはまっさかさまに落ちていったのです。

 このあと起こったことを詳しく説明する必要はないでしょう。いくら大きく強い怪獣でも、あの高さから落ちたのです。イタチはぺちゃんこになって死んでしまいました。バタバタと羽ばたき、竜は三吉とオアゲを地面に降ろしてくれました。戦いの様子を見ていたのでしょう。将軍様の家来たちがイタチのまわりにすぐに群がることになりました。その口から三吉とオアゲに対する賞賛の言葉が次々に述べられたのはいうまでもありません。ついには将軍様本人まで現れ、イタチをご覧になりました。

 江戸の一般の人々も集まり、イタチを眺め、それを倒した勇者たちをほめそやし始めました。イタチが死んだことでリーダーを失ったのか、井戸の下にいる魔物たちは姿を現すどころか、声を上げることさえもう二度とありませんでした。

 夜が明けるころには、竜は姿を消していました。あの翼を再び大きく羽ばたかせ、一直線に天へと昇っていったのです。それ以後、竜の姿を見た人は一人もいません。あの竜は、悪いイタチをやっつけるために天の神様がつかわしたお使いだったに違いないと人々は噂し合うことになりました。

 さて、次は三吉とオアゲのことです。これだけの大手柄を立てたのだから、将軍様が二人をそのままにしておくわけがありません。江戸城を取り返しただけでなく、なんといっても魔物の群れから江戸の町全体を救ったのですから。三吉の冒険は日本中で大評判になり、かわらばんが何種類も印刷され、大変な売れ行きでした。彼の物語はお芝居にもなり、有名な役者がこぞって演じ、長く長く語り継がれることになったのです。

 江戸の人々や家来たちからせっつかれるまでもなく、将軍様は三吉を家来に加えることをお決めになりました。刀を持つことを正式に許され、今はまだ見習いでしかありませんが、江戸城に勤務するようになったのです。大きな家も与えられ、お母さんと一緒にそこへ引っ越すことになりました。だから今では、まだ着慣れておらずあまり似合ってはいませんが、かみしも姿の三吉が毎朝その家から出てくる光景を見ることができるようになったのです。

 それはいささか背伸びをし、思わず笑いを誘わないではいられない姿なのですが本人はまじめだし、大はりきりでもあったのです。でもそのこと以上にまわりの人々を微笑ませたのは、当たり前のような顔で同じ家に同居しているオアゲが、もうその三吉の奥方であるかのごとく振舞い始めているからだということを、物語の最後に付け加えておきましょう。
(終)
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。

▼この作品の書き方はどうでしたか?(文法・文章評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
▼物語(ストーリー)はどうでしたか?満足しましたか?(ストーリー評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
  ※評価するにはログインしてください。
ついったーで読了宣言!
ついったー
― 感想を書く ―
⇒感想一覧を見る
名前:
▼良い点
▼悪い点
▼一言

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項を必ずお読みください。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。