最初は彼を求めていた。彼を求めてこの河川敷に通っていた。
ここにくれば会える気がした。
彼がいつものようにディズニーや名画のアレンジ曲などを練習している、そんな気がした。
風が吹きぬけ、草木が撫でられ水面が小波に揺れる。
良く晴れた午後だというのにTシャツにカーディガンという格好では大分肌寒い。
もう、秋なのだ。
彼がいないことぐらいわかっていた。
それでもここにくれば会える気がした。
会えた気がした。
ここにいれば、彼を感じられた。
いつものように私の知らない音楽を演奏し、私が曲名を訊くと優しく教えてくれて。
次の公演はあそこの老人ホームだから、映画やクラシック音楽のほうが受けが良いと言って。
――この間の公演はどうだったの?ごめんね。私仕事で見にいけなくて
――いつだって聞けるんだから気にしなくていいよ。うん。すごく喜んでもらえた。ディズニーやジブリのアレンジは子供達には大当たりだった。でも、病院だと年齢がばらばらだろ?だから受ける曲も違くてさ。次は最近の曲も入れたほうが良いみたい
――ね、『星に願いを』、聴きたい
――今?
――うん、今
そんな会話を思い出して、彼の演奏する音色を思い出して。
ここにくると彼がいないことを実感して、でも、彼を感じられて。
寂しくて暖かかった。
だけど、それも、長くは続かなかった。
寂しさも暖かさも感じなくなってしまった。
想いが遠のいた訳じゃなかった。
今でも彼が恋しくて、会いたかったし、彼に会えるならどんなことでもするだろう。
遠のいたのは思い出だった。
あれだけ近くにあった、鮮明で強くて、片時も離れなかった思い出は、確実に色褪せ薄れつつあった。
薄れるなんて思わなかった。
思い出せなくなるなんて微塵も思わなかった。
彼の言葉が思い出せない。
彼と一緒に行ったレストランの名前が思い出せない。
彼が演奏してくれた音色すらもぼやけてしまって。
彼の匂いも彼の声も彼の顔でさえも曖昧になりつつある気がして怖い。
私は写真が嫌いだった。
ビデオも嫌いだった。
自分の思い出がそれらを見ることでイメージとして上書きされてしまいそうで嫌いだった。
だから、それらは押入れの奥に押し込んだ。
捨てることは出来なかった。
嫌いでもそれは出来なかった。
それから一度もその押入れは開けてなかった。
特に最近は怖くて仕方が無かった。
誘惑に負けて写真を見てしまうかもしれない。
きっとそうすれば、彼の顔も声も今より鮮明になるだろう。
レストランの写真も見つかるだろうし、彼の演奏も聴ける。
だけど、それは私の思い出を私のイメージへと変えてしまう。
私が気付かない内に、今抱いているこの思い出とは違った視点での思い出になってしまうかもしれないし、彼の声も顔も機械が覚えたものへとすり替わってしまうだろう。
私はそれが怖かった。
それでは彼のことを忘れてしまったのと変わらない気がしたから。
一周忌は明日だった。
あれからもう一年も経つ。
その時間はあまりに早く、あまりに空虚だった。
あるものは彼との思い出だけだった。
だけど、それすらも今失おうとしている。
一周忌に彼の遺影を見るのが怖い。
彼の親族の思い出話を聞くのが怖い。
たぶん、明日も彼の遺影を見ることは無いだろう。
彼の親族ともまともには話さないだろう。
静かに彼の供養を願えればそれでいい。
彼が死んでしまったという実感があるのか無いのか自分でもわからなかった。
悲しいのだからあるのだろう。
でもその悲しさは会えないことへの寂しさ、ただそれだけなのかもしれなかった。
彼の死を看取ったはずなのに、彼の死はとても曖昧で、それなのに酷く残酷だった。
何をもって彼の死を認めればいいのかわからなかった。
どうすれば彼が死んだことを自分に納得させられるのかわからなかった。
それでも墓には、暇を見つけては訪れていた。
彼の傍に居たかったから墓地の近くにも引っ越した。
だけど、そこには彼はいなかった。
彼を感じることが出来なかった。
だから自然と初めのうちはこの河川敷に来ることのほうが多く、最近は墓参りばかりになっていた。
たぶん、彼の死を認めてないから辛いのだと思う。
認めれば少しは辛さが紛れるんじゃないかと思う。
それは会えるかもという期待を断ち切ることに繋がるから。
期待さえしなければ辛くない。
誰かがそう言った。
きっとそうなのだろうと思った。
だから私は彼の死を認めたかった。
もう一度、ここに来た。
彼がいないことを確かめにきた。
でも、彼がいないことを確かめても何も変わらなかった。
少し曖昧になった記憶を呼び寄せ、思い出にふけり、過去を見つめるだけだった。
そう信じたくなかっただけで私は彼がこの世にいないことを認めていた。
だって何の感慨も無く彼がここにいないことを認めていたから。
ここに来るまでの道中、緊張も期待感も込み上がりはしなかった。
ヒトカケラも浮かんではこなかった。
それこそ、自分で緊張を作り上げることも出来ないほどに諦めきっていた。
期待は関係なかった。
ただ、彼に会えないことが辛くて、思い出が消えてゆくのが許せなかっただけだった。
だから、明日、彼の一周忌が終わったら、私も後を追う。
そう、決めた。
夕飯は彼の好きだったカレーにした。
少し子供っぽいところのあった彼は、カレーとかハンバーグとかそういうものが好きだった。
私の作った黒蜜入りの特製カレーを特に気に入ってくれて、演奏会の前日などにはよくせがまれて作ったものだった。
黒蜜が入ってないとすぐにわかるくせに、辛くないとダメだった。
普段はそんなこと無いのに、その特製カレーにだけは口うるさい彼が少しだけ面倒くさくて、可愛かった。
材料は帰りに全部そろえた。
特に良いものは買わずに、いつも通りに安いものをあの頃と同じ材料で作ることにした。
あの頃と同じ材料を同じ分量で。
出来上がったカレーは一人で三日は持つぐらいの量だった。
懐かしい匂いがする。
最後にこのカレーを作ったのはちょうど一年前だった。
彼がどうしても食べたいと言い、私は作った。
甘めに作ろうか?そう訊ねた私に彼はいつも通りに、と答えた。
出来上がったカレーは今と同じように鍋いっぱいの量で、でも彼はほんの一口しか食べなかった。
やっぱり、おいしい。ありがとう。
彼は言った。
そう言ったはずだ。
その言葉がすごく優しくて、なぜだか悲しくてでもすごく心に響いて。
だから間違えるはずがない。
それなのに、その言葉までも今では酷くぼやけて感じた。
絶対の自信があるはずなのに、不安だった。
覚え間違えているんじゃないかと、どこかで見た映画かなんかの台詞と混じってしまっているんじゃないかと、不安だった。
彼との日々は昨日のように感じられるのに、思い出だけは遥か昔のことのように思えた。
あの頃から何も変わらない自分がいるからつい昨日のように感じるのかもしれない。
でも、時がきちんと流れていることは残酷にも私の思い出が教えてくれる。
出来上がったカレーをカレー皿によそう。
二皿分用意することにした。
一つは自分の目の前に。
もう一つは向かいの席に。
久しぶりに食べた特製カレーはやっぱりおいしくはなかった。
最初にカレーを作った時にオリジナリティを出したくて入れた黒蜜。
彼はおいしいと感動してくれたけど、私は普通のカレーのほうがおいしく感じた。
だから、作るたびにうまく出来ているか自分でもわからず、彼に味見してもらっていた。
今日のカレーはうまく出来たのだろうか。
向かいの席に置いたカレーは静かに冷めていった。
食事を終えた私は、明日のための準備を始めた。
法事と永逝、二つの準備を。
時間を必要としたのは後者のほうだった。
私が死んだあと、なるべく迷惑はかけたくなかった。
私は遺書を書くことにした。
私が死んだら母さんも父さんも悲しむだろう。
私には子供がいないから本当の意味で理解することはできないけれど、その悲しみは私が彼を失った悲しみと同じぐらいなのかもしれない。
だけどそれでも、両親を悲しませないためだけに生きるというのはできなかった。
そうかと言って、喜ばせるために生きることもできない。
それをするには私の抱えたこの想いは重すぎた。
人を幸せにすることも笑わせることも、日々を消化していくだけで精一杯だった私には到底できない大業だった。
だから、彼が私に謝ったように、謝ろう。
彼が私に感謝したように、感謝しよう。
悲しませて、ごめんね。
生んでくれて、ありがとう。
私は幸せだった。
本当に幸せだった。
だから、この幸せに埋もれたまま終わりにしたかった。
この幸せから抜け出す勇気はなかった。
最後の我儘で私は幸せになれる。
幸せが消えるという懸念が消えて、私は本当に心安らかになれる。
だからごめんね。
だから、ありがとう。
私は幸せです。
私の作った黒糖カレーを一口だけ食べた彼はまた眠りに就いた。
こんな風に安らかな寝顔を見ていると彼のどこが病に侵されているのかわからなくなる。
もしかしたら、すべては嘘なんじゃないかとさえ思えてくる。
最近は彼の睡眠時間が長くなっていた。
起きているより眠っている方が多かった。
薬の影響もあるんだろうけど、たぶん、眠っている方が楽なのだろう。
起きていると体が痛むようだった。
洗い物を片付けて、黒糖カレーの入った鍋を冷蔵庫に入れた。
まだまだ、たっぷり残っていた。いつものカレーを食べたいとせがまれて作ったものはいつも通りの味と量になった。
――また明日も食べるから。なくなるまで毎日それでもいいよ。ホントにおいしいからさ
三食このカレーを食べてもあと二日は持ちそうで。
本当はカレーのような刺激物より、もっと食べやすいものをたくさん食べて体力をつけてもらいたかった。
少しでも長く頑張ってもらえるように。
見守ることしかできない自分が嫌いだった。
明け方、荒い呼吸を耳にして目を覚ました私は彼の苦しむ姿を目の当たりにした。
呼びかけても苦しそうに喘ぐだけで応えてくれない。
彼の両親を起こして医者に連絡する。
医者が来るまで、私たちは必死に呼びかけ続けた。
何度も何度も、ひたすら彼の名前を呼び続けた。
医者が来て、彼の顔や、体を簡単に見た。
それで一体何がわかったのか。
何を根拠にそんなことを言うのか。
まだ生きている彼の前で医者は言った。
最後のお別れをしてください。
私は悲しみより、苦しみより、怒りを覚えた。
彼はまだ生きている。
死ぬだなんて決まっていない。
それなのにその言い方は、確信めいたその言い方は。
気の毒そうな顔をして、私の顔をじっと見て、用意していたようにハンカチを差し出して。
私は視界がぼやけていることに気がついた。
いつの間にか涙が溢れていた。
医者の差し出すハンカチを拒絶し、彼のもとへと近づいた。
彼の名前を呼ぶ。
叫ぶ。
彼は苦しそうに喘ぐだけ。
苦しみは増す一方なのか、時間が経つにつれて呼吸の荒さは酷くなっていった。
医者の宣告から、すでに数時間が過ぎていた。
看護師が脱水症状になるから飲みなさいとスポーツドリンクを持ってきた。
涙は枯れることなくあふれ続けていた。
声もかすれていた。
それでも私は呼び続けた。
彼はうまく空気が吸えていないようだった。
今にも消えてしまいそうな炎を前に私は限界だった。
言いたくなかった、言葉にしたくなかった願いを私はとうとう叫んだ。
――死なないで、私を一人にしないで、生きていけない。一人でなんて生きていけない!だから、
――そんなこと言うなよ。生きてよ。幸せに生きてよ。俺のことは忘れてもいいから。幸せに生きてくれることが俺の望みだから。
彼が、目を開けた。
私を、見つめて、彼はそう言った。
苦しそうに、でもはっきりとした声で私にそう言った。
一瞬、微笑もうとしてすぐに辛そうに顔を顰める。
私は、頷いた。
頷きながらも、彼の言っていることがうまく飲み込めなくて、
――わかった!わかったから死なないで。約束するから死なないでっ!
さっきよりも苦しそうに空回りする呼吸を繰り返すだけの彼。
私は堰を切ったように懇願した。
死なないで死なないで。
彼はもう何も答えなかった。
時折、自分の状態がわかっていないようなうわ言を言ったりするだけだった。
彼の呼吸は浅くなり、やがて、命を絞り出すようにゆっくりと止まっていった。
酷く、胸が苦しい。
喉も痛い。
目もだるく腫れているようだ。
寝返りをうつと頬に当たる枕が濡れていることがわかった。
見慣れたつまらない自分の部屋だった。
夢、を見ていた。
一年前の夢。
彼が死ぬ時の夢。
その夢はあまりに鮮明で力強く、現実よりも遙かにリアルだった。
時間を確認してからベッドを出て朝食の支度をすることにした。
妙に清々しい朝だった。
外から雀の声まで聞こえてきて、朝の光が窓から差し込んでいる。
とても辛い夢を見たはずなのに、とても辛い気分なのに、すっきりとした気分でもあった。
彼は言っていた。
生きてと。
幸せに生きてと。
それが望みだと。
何で私は忘れていたんだろう。
いや、覚えていた。
夢を見る前もちゃんと覚えていたはずだけど、でも片隅に追いやっていた。
彼の望みだというのに、私は無視して、悲観にくれてこれが幸せなんだと言い聞かせて。
挙句の果てに彼の一周忌に自殺まで考えて、遺書まで書いて。
死ぬ気は無くなっていた。
彼の望みを再び聞けたからかもしれないし、鮮明な夢のおかげで彼のことを忘れていないと知ったからかもしれない。
何が理由で死ぬ気がなくなったのかはわからないけど、彼の夢のおかげであることには変わりなかった。
カバンに入れておいた遺書を破って捨てた。
法事まで時間はまだずいぶんとある。
私は遺書の代わりに手紙を書くことにした。
一周忌が始まった。
彼の親族や友達に混じって私は座る。
住職が経を唱える中、私は一年ぶりに彼の顔を見た。
遺影という名のその写真は記憶の中の彼と寸分違わず、優しく幸せそうに微笑んでいた。
私と遊びに行った時の写真だった。
彼の両親から思い出話を聞かせてもらい、また私も語った。
どんなに彼が優しく、強い人だったか自慢しあった。
私の知らない彼の姿をたくさん彼らは知っていて、親には見せない彼の一面を私は知っていた。
私も彼の両親も意外な彼の一面に驚き、懐かしさと、新鮮さを感じていた。
穏やかな一周忌だった。
お久しぶりですと書けばよいのでしょうか。
改めて手紙を書くとなるとなんだか少し恥ずかしくて、正直どう書いていいかわかりません。
ただ、今日はあなたに聞いてもらいたいことがあってこの手紙を書きました。
少しだけ、耳を傾けてくれると嬉しいです。
最初に私は謝らなければなりません。
あなたとの約束を忘れて私は生きることをやめようとしました。
本当にごめんなさい。
この一年間、いつもあなたの影を追い続けて、ぬくもりを探し続けていました。
あなたがいないことが本当に寂しくて、辛くて、何度も何度も泣きました。
河川敷であなたの真似をして音を奏でたりもしました。
稚拙な音だったけれども、そうすることであなたがそばにいるような気もしました。
時間を見つけては河川敷やお墓、あなたとの思い出の場所を巡ったりしていました。
でも、一年というのはとても早くて長い時間でした。
日々はあっという間に過ぎていくのに、あなたのぬくもりが遠のくには十分な長さでした。
思い出も時間が経つにつれて、ぼやけるようになりました。
私にはそれが耐えられなかった。
あなたがいなくなってから、写真もビデオも見ることはなくなりました。
そんなものに頼らなくてもあなたのことならいつでもそばに感じられると思ったからでした。
いや、そう思い込みたかったのでしょう。
本当はたぶん、怖かったんだと思います。
あなたの姿を見たら恋しさが抑えられない。
これ以上の苦しさは受け入れられなかったから。
でも、現実は違いました。
あなたのぬくもりは薄れ、それでも私が写真やビデオを見ることがなかったのは、今思えばただ意固地になっていただけなのかもしれません。
そうして、一年が経ち、私は昨日自殺を決意しました。
一年経っても何も変わらない苦痛に私は負けたのです。
お父さんやお母さんに宛てた遺書も書きました。
でも、あなたが助けてくれた。
昨晩、一年前の夢を見ました。
あなたが死んでしまう時の夢です。
とても鮮明なその夢はあなたの言葉を私に強く思い出させてくれました。
「生きろ。幸せに生きろ。それが俺の望みだから」
あなたがいない寂しさも辛さも消えてしまったわけではありません。
心は未だ苦痛に苛まされ、今こうして手紙を書いている最中も悲しみに溢れています。
でも、今はもう死ぬつもりはありません。
生きて、幸せになるつもりです。
思い出に浸るだけの幸せではなく、今を生きて幸せになります。
それがあなたの望みだからというのもあります。
でも、それだけじゃありません。
私は私の意志で幸せになりたいと思いました。
私はあなたに依存していました。
あなたがいて初めて私は幸せになれる。
そんな女でした。
でも、もう、やめます。
あなたがいなくても、私は幸せになる。
そう決めました。
できればそんな私のこれからの人生、あなたに見守ってもらいたいと思っています。
そう思っている時点ですぐには独り立ちできそうにありませんね。
でも、見ていてください。
私は幸せになります。
たとえ思い出が薄れてしまおうともあなたと過ごした日々は私の大切な一部です。
あなたと出会わなければ今の私はいなかったでしょう。
最後に。
ありがとう。
あなたと出会えて私は本当に幸せでした。
そして、それ以上の幸せを探して私は立ち上がることにします。
本当にありがとう。
私はお墓の前で手紙を燃やした。
なんとなく、それで彼に届くような気がした。
手紙を書いている時、ふと思ったことがあった。
あの夢は本当に現実にあったことなのかと。
彼は死ぬ間際、本当にあんなことを言ったのだろうかと。
もし、現実に言っていたならどうして私は死のうなんて思ったんだろう。
でも、死のうと決意したときも彼のあの言葉が頭をよぎっていた気がする。
それでも、自殺を思い立ったのは、それほど、思い出が薄れていたか、私が憔悴していたか。
ただ、今となってはどっちでもよかった。
彼の夢の中の言葉が現実に言われた言葉だったとしても、
夢の中だけの言葉だったとしても、今の私に死ぬ気はない。
彼なら、私の幸せを望んでくれている。
そう確信しているから。
帰ったら、久しぶりに彼の演奏を聴こう。
機械の覚えた、だけど、紛れもない彼の演奏を。
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