『コミュニティ・ドッグ』
吾輩は犬である。飼い主たちは〈チン〉と呼んでいる。大した考えもなくつけたんだろうが、吾輩の若き日々を象徴する名になるとはなァ。
ごく幼い頃、母親と一緒に何処かへもらわれて行くときでもあったろうか、吾輩だけがオート三輪から振り落とされた──そんなかすかな記憶がないでもない。行倒れ寸前でこの界隈に迷い込んで来て、ひと椀の汁かけ飯を馳走になったのが縁で、この地に暮らすようになった。
ハヤマ下駄店裏の空き地には製材前の桐材が山をなしていた。隅の桐材を何本かずらして、少年たち数人が潜り込める空間が作ってある。下駄屋のセガレの政男たちの秘密の屯所で、吾輩の住まいでもある。桐材の数本をおおってかけられた米軍払下げの野戦用ポンチョは隣家の熊五郎が提供したものだ。屋根でもなく傘でもないポンチョが直射日光と雨を見事に防いだ。
屯所の住人である飼い主たちは、代わりばんこに親に内緒で吾輩の食事を運んで来る。食べる吾輩より食べさせる少年たちがうれしくてたまらないといった表情をする。吾輩はそんな少年たちの眼を見ながら残飯を食べるのを好んだ。彼らの眼はときおり吾々犬族との共存の可能性にキラキラと輝く。そんなときは吾輩も人間という動物をまんざらでもないと思うのだ。
シッポはちぎれるほど振ってかまわぬが、吠えることは許されなかった。飼い主たちの遊びが親にバレてしまうからだ。吾輩にとっては生理的なものゆえ慣れるまでつらい思いをしたが、彼らの事情を呑込んだ。犬族を下等だとばかり思っている人間たちも、少年時代に限っては犬族への愛情も純粋なものだと知れたので、彼らとつき合う吾輩もまんざら不幸というのでもなかった。従属を強いる大人たちに飼われるより、仲間感覚でいられるのでずっと気楽だ。
秘密の屯所の北方約三百メートルを石田川が流れる。下って利根川に合流する小さな川で、少年たちの遊び場であった。石田川では同じ町の別の地区から遊びに来る少年たちとハチ合わせすることがあった。そんなとき、政男たちの仲間は他所の少年たちとは違って、堂々と誇らしげだった。その誇りがどうやら吾輩がいっしょにいることでそうなるらしいことを知って、恩返しの幾らかでも出来ているのかな、と悪い気はしなかった。政男たちは犬を連れない少年たちよりも格が上で、他の地区の少年たちはそれを暗黙裡に認めている。彼らの羨ましそうな顔で吾輩にもそれはわかった。
猫はあちこちの家に居た。エサを少なくしておけばネズミを取るし、飼うにも役場から鑑札を受けなくていい。鑑札はただではない。野良猫はやたらと子を産み、珍しいものではなかったが、猫は少年たちが連れて歩けるわけではないから子分にはなれない。少年たちも猫には興味を示さなかった。猫は同じ空間にいながら別世界の生き物だ。猫は少年たちが必要とする連帯感を提供できない。
商店街は一丁目から四丁目まで、それより西の五、六、七丁目はまとめて「上町」と呼ばれ、上に行くほど兼業農家がふえて経済ランクが下がる。空き巣に狙われるのも二年に一度もない土地柄だから、番犬の需要はない。ムダ飯食いの愛玩犬など存在自体が許されない貧しい田舎だ。そこへ吾輩が迷い込んだ。
冬を桐材置き場の空き地で日なたぼっこや体の暖まる馬乗りで過ごし、夏には北に流れる大腸菌ウヨウヨの石田川で水浴びをする。隣町にあるプール代までは貰えないからだ。男の子たちにできるのは空き地や土手を駆け回ることだけだ。玩具を持たない子供たちは相談ひとつしないで、迷い込んだ吾輩を飼うことに決めた。彼らは親に内緒で自分の食事を少しずつ持ち寄っては吾輩に与えるのだった。
吾輩は鑑札ナシだから社会的には野良と変わらないのだが、愛情には恵まれていたと言っていいと思う。いつ頃からか大人たちも吾輩の存在をうすうす知っていたのだろうが、自分の家で飼えなくても、子供にいっしょに生きる動物がいるのが悪いことではないくらい分かっていた。政男の西隣りの熊五郎のお母さんなど素知らぬ顔で熊五郎の茶碗に食べきれないご飯を盛りつけた。余分は吾輩のところへまわってきた。
鑑札のないまま、吾輩は地域の子供たちの共通の愛玩犬という新しい立場になった。通常の飼われ方ではない。人間の法規では、見つかれば保健所に引っ立てられて薬殺は免れない。近所の人たちの善意で日々を暮らせるのは幸せな、ありがたいことだったけれど、吾輩はその間接的な善意の人たちに報いる方法を知らなかった。たかが犬っころが殊勝なことをほざく、そうお思いか? では、この町の他の飼い犬の話をしよう。
少年たちが遊ぶ界隈、四丁目の大沢邸にシェパードが一頭、大沢邸から大通りを西へ二百メートル、丸山酒店の裏庭に雑種の老犬のハチ。近所にはその二頭だけだった。経済的余裕のなかった時代は、犬は仕事をするもので、金持ちに飼われた犬族は番犬として働く運命だったし、犬鍋という世にも残酷な料理の犠牲になった仲間もいたということだ。
件の二頭は同じ犬族ながら、吾輩の眼にはまったく別種の生き物に思えた。大沢邸のシェパードはこの頃また図体がでかくなったバカで、噛みつくしか能がない。三度々々いいものを食っている。ジャーマンの血を誇っているが、大沢さんがアイツに子を作らせないことさえ知らないでいる。今でこそ勢いがあるが、あと何年かで番犬の役割が終れば、年金のない老後が待っている。それが資本家の大沢さんの飼い方だ。
ハチ爺は番犬としての役割はとうに終えている。なのに、酒屋の忠ちゃんとやさしい奥さんから可愛いがられている。
「結局、犬族は飼い主を選べないんじゃて。ワシが安穏な余生を送れているのは飼い主のおかげ。運がよかっただけじゃから、お前に教えることなんぞ何もない……」
謙虚なハチ爺だが、都会で暮らした血気盛んな頃に、人間たちに勝手な飼い方をさせまいと近隣に声をかけ、何十頭か率いて一揆を起こしたこともあった猛犬なのだ。
「飼い主でさえ、強者が弱者を食いものにして改まらないのだから、犬族が人間との同権を主張しても難しい。大沢のシェパードのように無自覚なのも困るが、飼い主側の自覚を待つしかないだろうな」
とさびしそうだ。
飼い主と敵対せず無視させず、犬族の生きる道である共存を目指して人間にたえず働きかけよ、というハチ爺の言葉が重い。
ハチ爺は田舎に埋もれる犬ではなかったのだなァと思う。吾輩は彼の存命中に彼の思想を学ばなくてはいけないと感じているので、たまには秘密の屯所から出して、ハチ爺と話させてもらえないかと頼んでみるつもりだ。少年たちは吾輩を可愛がるのに夢中で、吾輩の〈犬生〉までは考えてはいないようだから……。
政男たちが乏しい小遣いを持ち寄って、隣町から新品の首輪を買って来てくれたときには涙がこぼれた。同じ首輪でも大沢のシェパードのとは意味が違う。首輪は吾輩が少年たちの所有であることを示すのではなく、仲間として彼らと共にあることの象徴であり、彼らの誇りの印であり、貧しい彼らから吾輩への勲章なのだ。犬は人間より成長が早いから世の中を理解するのも早い。……首輪さえつければ鑑札をもらったと同じで、吾輩が肩身のせまい思いをしなくて済む……そう思ったのだろう。吾輩は彼らの汚れない幼さがうれしくて泣けた。
犬族にも豊かな情感と高度な思考力を持ったものとそうでないものがいる。これは人間と変わらない。人間の方が一方的に飼い主だと思い込んでいることは吾々犬族の間では失笑を買っている。それは人間の知らない事実だ。
熊五郎が五年生、政男が三年生のときのことだ。吾輩はそこそこ逞しい成犬になりつつあった。大人たちの間接的な親切である無視と、実際には存在しないせいで野犬捕獲用予算を計上しない行政のおかげで、捕獲される心配も感じることなく、予防注射一本打たれことなく吾輩は暮らせていた。
エサだけで済む子犬ならそれでもいいが、体の成長も著しかった或る年、吾輩は最初の発情期を経験した。正体の知れぬ性欲というものに悩まされることになった。近隣にメスの姿は見かけないが、匂いはする。二キロ先のメスがその時期の匂いを発すれば吾々の鼻はそれを嗅ぎとってしまう。吾輩はこのときだけは自由に動きまわれる野良でいたいと痛切に思ったものだ。猿やカンガルーのように器用に手を使うことができない犬族のつらさはわかってもらえないと思う。
スッと首を持ち上げて前方を見据える毛並みのよい肢体は、喉元にまっ白な流星が輝く以外は全身ツヤのある黒一色の吾輩。どれほどの美男に生まれようと、番う相手のない寂しさは筆舌に尽し難い。エンピツを舐めなめ日記を書き残す犬も多くないだろうが、そうした狂おしい想いが犬族にないというのではない。エサを与えるだけが飼うことではないくらい察してほしい。人間は同じ動物でありながら、この辺は呆れるほど鈍感だ。ハチ爺は同程度だろうと言うが、吾輩は人間の想像力は犬のそれに及ばないと思うときがある。
熊五郎が吾輩にブラシをかけていたときだった。まったくの偶然だった。グフゥ〜ンという自分の声に驚いたときには股間を握った熊五郎の拳に押しつけるように吾輩の腰が激しく前後していた。有性動物が神秘を知る瞬間だった。突然に世界が変わった。
「わァ、臭っせえッ! 政男っ、これは何だ?」
「どしたん、くまちゃん?」
「こりゃ、小便じゃねえぞ」
「こいつ、腹の中を怪我してるんかな? なんか膿みたいじゃねえ?」
吾輩の精液を少しを指につけて政男は鼻を近づけて悲鳴をあげた。
「わッ、ほんとに臭っせえッ!」
二人に嫌な顔をされるのはつらかった。
……そんな眼で見るなよ。吾輩にも初めてのことなんだ。そうか、この子たちには「まだ」なんだものな……。
吾輩はメスのことを考えていたワケではなかったが、それがメスと関係するものであることは本能的に理解した。いったん知ってしまった快感をだれが知らない過去へなんか戻せようか。
「熊ちゃん、どうやったら、そうなったん?」
「うん、ここをこう持ってやったらな、チンがぐいぐい押しつけて来てな……」
「ふ〜ん。も一度やってんべぇか?」
「うん、やってみんべえ」
熊五郎は吾輩と向き合うと、吾輩の前足を肩にのせて右手でしごきにかかった。えも言われぬ快感に吾輩は後ろ足を踏ん張って腰を動かした。いや、腰だけが機械のように自動的に、そこだけが猛り狂った別の動物のように激しく前後した。吾輩は二度めを終えた。
政男が腹を抱えて笑い、熊五郎も「ほらなッ」と得意そうに大笑いした。吾輩の腰つきがよほど面白かったとみえる。自分たちはこんなぶざまなことは絶対にないとバカにするように笑った。性に目覚めていない子供では現実と結びつけられぬコッケイな動作に見えたのだろうけれど……。
その日、二人は何度となく吾輩の股間に手を入れてきた。吾輩が腰を振るまでもなく、彼らの素早い手の動きに反応して腰は、吾輩の意志とは関係なく動いてしまう。熊五郎や政男に経験さえあれば、こんな酷いことはしないだろう。吾輩のタマタマには一匹の精子も残ってないのに、二少年がわずか何秒かを笑う、それだけのために吾輩は腰振りをやらされた。吾輩の後ろ足にはもう踏ん張る力が残っていなかった。
その晩、吾輩は屯所の桐材の下に寝そべると、いつもよりずっと早く眠気が襲ってきた。腰から下が地球の反対側にいってしまったような感覚がある、と言うより感覚が上体にしか残ってない。動物学者は犬が将来を考えることなどないと言うが、そんなことあるものか。歓喜に始まり疲労に終った大事件の一日を振り返れば、明日を考えない犬など何処にいよう。漠然とした不安から逃れたいと思いはするものの、体は言うことをきかなかった。吾輩は眠りにおちた。
熊五郎と政男が町を触れ回った。面白いものが見られるということで、ふだんはいっしょに遊ばない遠くの少年たちの顔が見えるようになった。勉強のできる子たちまでが自分もめったに食べないような高級なエサを持参して見学に来たのだった。
「見るだけとやるのじゃ値段が違うからね〜ッ」
熊五郎のやつがとんでもないことを言っている。 ……トム・ソーヤのペンキ塗りは犠牲者を出さなかったぞっ。吾輩は新しい観客の前に連れ出されてパフォーマンスをやらされた。大人たちは吾輩に加えられた非犬道的な虐待など夢にも思わななかったに違いない。子供は親の知らないところでも育たなければならないのだ。
子供たちだって犬がどんな格好で交尾するのかくらい知っている。が、ここでは交尾が分解されて見られるのだ。この性教育ショーは主催者の二少年がその意味も理解せぬまま行ったものだが、観客のなかに女の子の姿がなかったのが吾輩にはせめてもの救いだった。
『なんだな、この有り様は? 』
生涯を清い独身で通して来たハチ爺の仙人のような容貌が吾輩の脳裏をよぎった。
……ハチ爺よ、教えてくれ。吾輩はいったい何のために生まれてきたのか? こんな屈辱的な共存が許されてよいのか?
吾輩の頭のなかでハチ爺は眼を細めた。
『チンよ、犬生にはあらかじめ用意された答などないさ。答を求めて吾々は犬を生きるのだな。その意味では人族とて変わりはない……』
自虐的ではあるが吾輩は、このパフォーマンスを通じてコミュニティ・ドッグとしての役割はそれなりに果たせたと思っている。もう何年かすれば悪ガキどもとて世の中で望ましい伴侶を得て、健全な性的関係を築きあげていることだろうが、その何百分の一に吾輩は貢献したのだと思いたい。そう思わないことにはやりきれない。少年たちが性を正しくよろこべる一助になったのであれば、それでヨシとしなければならない。衝動に駆られて犠牲を出すような性関係にだけは陥ってくれるなと願いつつ吾輩はパフォーマンスをやった。
人と犬とが支配・服従の関係を脱却しないかぎりハチ爺の言う共存はあり得ない。犬族が人間に飼われるということは、われわれが人間の求めに応じて何かをしてやることで、犬族が望んでいるものとは違う。人間との相互理解と共存のために、決して飼い主の手を咬むことなく非暴力の思想を貫いている犬族の声なき声を聞いてほしい。苦悩を共有してほしい。事情は飼い主によって異なろうが、政男と熊五郎がしたように、虐待と変わらない求めにも犬族が応じるのは〈共存〉の大義のためである。犬族を代表して心ある人族の方々に宛て一筆認めた次第。(了) |