悪役令嬢に恋した少年
7歳の夏の日、ぼくは父さんに連れられて王立図書館に足を踏み入れた。
そこには子供じゃわからないようなむずかしい本がいっぱいあって、ぼくは読めもしないのに本棚と本棚のあいだをうろうろと歩き回ってしまった。
大人の世界にちょっと足を踏み入れたような気がして、すごく、興奮していたのだ。
そして図書館でもいちばん奥、百科事典がずらーっとたくさん並んでいるところで。
彼女を、みつけたのだ。
コーンスープみたいな髪の色をした女の子だった。
背が低くって、年はたぶんぼくと同じくらい。
白桃色のワンピースを着ていた。
脚立の上によじのぼって、高いところにある分厚い本をとろうとしていた。
おなじ子供なのに頭がいいんだなあすごいなあ、と素直に驚いていると、グラグラ、彼女の足のしたで脚立が傾いた。
あぶない!
ぼくは走っていた。
最近おぼえた加速魔法を使っていた。
彼女の落ちてくるところへ、すべりこむ。
絵本の騎士さまみたいに受け止めてあげれたらかっこよかっただろうけど、どうにもこうにもうまくいかなかった。
どさっ、と。
「いてててて……」
ぼくは彼女のおしりの下敷きになっていた。
ちょっと重くて苦しかったけど、おんなのこが痛い目にあうよりもよっぽどいい。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫だった!?」
彼女はぼくの上からぴょこんと飛びのくと、すごく心配そうな表情でのぞきこんできた。
きれいな目をしているなって、思った。
まるで|母さんがお気に入りにしている指輪の宝石みたいだった。
「ねえ、しっかりして。ねえ」
しばらくぼーっと見惚れてしまっていた。
ガクガクと肩をゆすられて、ハッとした。
「大丈夫だよ。きみこそ、ケガはないかな」
「ええ、平気よ。ありがとう、助かったわ」
「いいんだよ。しゅくじょをまもるのはしんしのつとめだからね」
父さんがいつも口にしている言葉を、ちょっと真似してみる。
途中でちょっと照れくさくなってしまって、うまく舌が回らなかった。
けれどもちゃんと伝わったみたいで。
「ふふ、貴方だったら立派な紳士になれるわね」
彼女はぽんぽん、とぼくの頭を撫でてくれた。
あとで知ったことだけれど、彼女――ミラはぼくのひとつ下で6歳だった。
けれども、とても大人びた雰囲気で。
この日、ぼくには"年下の、憧れのお姉さん"ができた。
それからというもの毎日のようにぼくは王立図書館に通うようになった。
もちろん、ミラに会うためだ。
図書館には防音魔法がかかっているから小声で喋るくらいならまわりの迷惑にならない。
彼女はむずかしい本を読んでいるだけあってとっても賢くって、ぼくの知らないようなことをいっぱい教えてくれた。
「魔法の呪文はあくまで想像力を刺激するためのものよ。だから理論上は誰にでも無詠唱なんて可能なの」
とか。
「お世辞にも文明が発達してるとはいえないのに正確な世界地図が作成されていて、万国共通の貨幣が流通している。これは驚くべきことだわ。ぶっちゃけて言えばゲームの世界だから、なんだけどね」
とか。
ゲーム?
ミラはその単語をよく使うけれど、いったいなんだろう。
質問してみると。
「えっと、まあ、フェンにもそのうち説明したげるわ」
とはぐらかされてしまった。
たぶん、この世界に隠された大きなヒミツを解き明かすカギみたいなものなんだろう。そんな気がした。
* *
そうして一か月が過ぎた夕食どき、ぼくは父さんから褒められる。
「最近、ずっと王立図書館にこもってるらしいな。勉強熱心で偉いじゃないか」
たしかにミラの話についていくため、彼女がいないときも図書館でがんばって本を読んでいた。
「好きな子でもできたのか?」
やっぱり父さんは、すごい。
何もいっていないのにわかっていたのだ。
ぼくは目を丸くしながら頷いた。
「お、おう。適当に言ってみたつもりだったんだが……まあ、なんにせよ知識を蓄えるのはいいことだ。
とくに男ってやつは色恋がからむと何十倍もがんばれるからな。
ところでフェン、その子に我が家のことは教えているのか」
「ううん」
ぼくは首を振る。
「だって父さんいつも言ってたじゃないか。『若いうちは自分の魅力だけで女に惚れさせてみろ』って」
「そうだ、それでいい。小さいころから家の肩書をふりかざす遊び方を覚えたってロクなことにはならん。
だがなフェン、おまえに残念なことを伝えねばならん」
「どうしたの?」
「宮廷での父さんの任期もそろそろ終わりだ。もうすぐイルベ領に帰らねばならん」
「じゃあ、明日ミラに結婚をもうしこんでくるよ」
ガタンッと父さんは机に突っ伏した。
「ず、ずいぶんと積極的だなフェン……。こんなに驚いたのは母さんが婚姻状を持って屋敷に乗り込んできたとき以来だよ」
ちなみに母さんはぼくの弟を生むために実家のジルサル領に帰っている。
「この一か月、ミラといてずっと楽しかったんだ。この気持ちはきっとずっと変わらないと思う。
伝えないままイルベ領に帰ったらきっと後悔するし、告白してくるよ」
毎月ためていたおこづかいを使う時がきた。
大した額じゃないけれど、ちいさな指輪くらいは買えると思う。
「お、おう……。フェン、これと決めたら一直線なのはおまえのいいところだが、張り切りすぎておかしなことにならないように気をつけろよ。母さんのそういうところ、あるからな。
ところでその子の、どこが好きなんだ」
「大人なところと、ええっと――」
脚立から転げ落ちそうになっってじたばたしたり、本を読んでいるときに居眠りしてしまって、目を覚ました後にあわてて口元をぬぐったりする仕草とかかな。
とてつもなくかわいいんだ。
* *
次の日の朝、ちょうどいいことに父さんの知り合いの商人が屋敷を尋ねてくる。
「ほう、ほう。これから坊ちゃんは求婚しなさる、と。
でしたらこれはちょうどいい。じつは翠石の指輪がとてつもなく安値で手に入りましてな」
「3000モルだけど、足りるかな」
「おお、まさに天の巡り合わせとはこのこと、2900モルで売ろうとしていたところなのですよ」
ぼくは運がいい……のではなくって、たぶん父さんが気を利かせてくれたのだろう。
将来、こんな親になれたらいいなって思う。
指輪を握りしめて、走り出す。
いつもの、王立図書館へ。
奥まった窓際の席に、今日も彼女は座っていた。
「おはよう、フェン。そんなに焦ってどうしたの? 服が乱れているわ」
「……実は、聞いてほしいことがあるんだ」
ぼくの雰囲気を察してくれたのか、ミラは目を伏せて少し考え込むと。
「外で話しましょうか」
本を閉じたのだ。
王立図書館の前はちょっとした庭園になっていて、秋になりつつある今はコスモスがのびのびと花を咲かせていた。
そこでぼくは想いを告げる。
「きみのことが、好きなんだ」
そして指輪をケースから出すと、ミラの指に通し――あれ。
しまった。
サイズのこと、全然考えてなかった。
指輪はすこしぶかぶかで、ミラのほそながい指だとすっぽ抜けてしまいそうだったのだ。
このままじゃ格好わるすぎる。ミラだってガッカリしてしまうだろう。
けれど父さんが前に言っていたとおり「男ってやつは色恋がからむと何十倍もがんばれる」らしい。
ぼくは思いついていた。
この失敗をロマンチックに変える言葉を。
「きみが大きくなって、この指輪がぴったりはまるころになったら迎えにいくよ。そのとき、結婚しよう」
彼女はしばらく目をパチクリさせていたけれど。
やがて。
いつも澄ましてばかりだった顔を、ちょっと赤く染めて。
コクと、頷いてくれたのだ。
ぼくたちは、前よりずっと仲良くなった。
これまで話さなかったこと――家のことなんかも話題にあげるようになった。
「実はね、ぼくの家は侯爵家なんだ。イルベ侯爵家、知ってるかな」
「勿論よ。言葉遣いも丁寧だし貴族だとは思ってたけど、まさかイルベ家の子だったなんてね」
「驚かないんだね」
「ううん、けっこうびっくりしてるわ。それじゃあお返しに教えてあげるけど、わたしの本名はミラルテス・テルス。公爵家の生まれなの」
「えっ」
固まってしまう。
まさか向こうも貴族家の子だとは思ってなかったのだ。
でも考え直してみると、身なりはいつも清潔だし物腰だって上品だ。どうして気づかなかったんだろう、ぼくは。
というか、公爵家!
侯爵のひとつ上にあたる爵位!
そんな家の子に求婚してしまうだなんて。
えっと。
すごく失礼なことをしてしまったんじゃないんだろうか。
「やっぱり衝撃よね。
……指輪、返した方がいい?」
ぼくは、首をぶんぶんと横に振った。
「よかった。怖気づかれてやっぱナシ、なんてされたら私、泣いてたかも」
「そんなひどいこと、しないよ。次に会うのは15歳、貴族学院で会うときかな。その時にはきみに釣り合う男になっておくよ」
「ふふ、楽しみにしてる」
好きな子と思いが通じ合って、一緒の時間を過ごす。
すごく素敵な時間だった。
けれどやがて終わりがくる。
「いよいよ明日だね、フェン」
「ミラ、手紙、書くから」
ぼくはイルべ領に帰らないといけない。
「うん、待ってる。
……ねえ、最後にひとつ、いいかしら」
「なにかな」
「あなたにだけ教えてあげる。この世界の、大事な大事なひみつ」
ここは王立図書館、防音魔法がかかっているはずだけれど、ミラはそっとぼくの耳元に口をよせた。
誰からも見えない本棚の影。
ミラの吐息が頬をくすぐる。
すごくいけないことをしているような気がして、体はぴいんと張った姿勢のまま動けなくなってしまった。
「ここはね、ゲーム……簡単に言うと、物語の中なの」
そしてぼくは知ってしまった。
開くべきでない禁断の宝箱、その中身を覗いてしまったのだ。
ミラは語った。
彼女はもともと別の世界の生まれで、ある物語にものすごくはまりこんでいた。
思いがけない事故で命を落として、気がついたら登場人物のひとりであるミラルテス・テルスに生まれ変わっていたのだ。
「ミラルテスは悪役でね、物語の通りなら9年後に貴族学院に入るんだけど、公爵令嬢だからっていばり散らしたり、取り巻きに命令して気にいらない子をいじめたりするの」
その親も親で似たようなものであり、結果、多くの人から怨みを買ってしまっていた。
やがてしっぺ返しのように両親は暗殺され、さらにこれまでの悪事が露見する。
どん底に叩き落されたミラルテスに手を差し伸べるものなどいなかった。王都を追い出され、最後は奴隷にまで身を落とすのだった……。
それは、妄想と笑い飛ばすにはあまりにも具体的すぎた。
まるで目に浮かぶよう。
テルス公爵の悪名は子供のぼくですら知っている。
――血も涙もない"氷の宰相"。
――若い王を傀儡とし、政治を思いのままに操る"宮廷の魔王"。
――数々の改革を推し進める一方で対立者を容赦なく陥れる"漆黒の革命家"。
その命を狙っているひとは少なくないだろう。
「だから私は頑張っているの。未来を変えるために。
お父様を殺させはしないし、奴隷になるつもりもないわ。
それに、かっこいいお婿さん候補もいることだしね」
彼女のその言葉に、ぼくは思わず赤面してしまった。
「でも小さいころの恋心なんて線香花火みたいなものだし、フェンの気持ちが変わっちゃったら遠慮なく忘れてくれていいからね」
「そんなわけないじゃないか。ずっときみのことを想い続けるよ。ろくでもない運命からミラを救ってみせる。だから、待ってて」
そしてぼくたちは一度、はなればなれになった。
まず何をしようかと考えて、暗殺者と戦う力が必要だという結論に落ち着いた。
魔法を練習しよう。
ミラは言っていた。
「設定資料集に書いてあったのだけれど、この世界の魔法で大事なのは反復なの。
繰り返せば繰り返すほど脳が魔法に最適化されていくわ。もともとの才能の差なんて簡単に覆るの。
だんだんと発動までの時間が短くなって、必要な魔力量も減少する。
魔力容量の限界だって増えていくわ」
だからイルミ領に戻ってからはほとんど一日じゅう、魔法を使い続けた。
「なるほど、お相手はテルス公爵のご令嬢だったのか。そりゃあよっぽど頑張らにゃあ釣り合いがとれんだろうな。
よし、ここはひとつ昔の知り合いに片っ端から声をかけておいてやろう」
運がよかったのは、父さんの協力が得られたこと。
前に宮廷魔術師をつとめていた人とか、勇者と一緒に魔族領へ乗り込んだ剣士さん、たくさんの論文を出している政治学者さん。
たくさんのすごいひとがぼくにいろんなことを教えてくれた。
「若いというのは羨ましいのう。テルス卿の娘さんも幸せなことじゃて」
「フェン、結婚式にはおれたちも呼べよな。祝いの剣舞を披露してやるよ」
「クク、きみにはぜひテルス家を乗っ取って欲しいですね。そして私の政治理論を実践してください」
そして8年が過ぎ、ぼくは魔法学院に入学する。
彼女がやってくるのは来年、まだまだやれることはあるはずだ。
この世界はゲームで、5人の"攻略対象"とやらがいるらしい。
ぼくはミラの教えてくれた"原作知識"という予言をもとにして、彼らを"攻略"してしまうことにした。
彼女を守るために、手を貸してくれる仲間が必要だったのだ。
* *
6歳の夏の日、私は不思議な男の子に出会った。
フェン――フェンタネル・イルベ。
くりっとした目が犬っぽかったのを覚えている。
私ことミラルテス・テルスより1歳年上だけれど、弟みたいだった。
そう感じるのは私に前世の記憶があるからだろう。
フェンは私の、女の子らしからぬ小難しい話をよく聞いてくれた。
「魔法の呪文はあくまで想像力を刺激するためのものよ。だから理論上は誰にでも無詠唱なんて可能なの」
とか。
「お世辞にも文明が発達してるとはいえないのに正確な世界地図が作成されていて、万国共通の貨幣が流通している。これは驚くべきことだわ。ぶっちゃけて言えばゲームの世界だから、なんだけどね」
とか。
屋敷の大人たちはみんな忙しくって、私が喋りたくってもろくすっぽ相手をしてくれないのだ。
言いたいことの十分の一もいかないうちに「お嬢様は賢くいらっしゃいますね」と話を切りにかかる。
フェンは違った。
最後まで耳を傾けてくれて、そのうえ、話についていこうとがんばってくれていたのだ。
彼は私がいないときも図書館にきて熱心に勉強していた。
偶然それを見かけた時は、「こいつかわええなあ」とニヤニヤせずにいられなかった。
フェンとの時間はおだやかで、私にとってはやすらぎだった。
やがて一か月が過ぎ、すっかり秋になったころ。
「きみのことが、好きなんだ」
図書館前の庭園で。
「きみが大きくなって、この指輪がぴったりはまるころになったら迎えにいくよ。そのとき、結婚しよう」
告白、された。
フェンは優しくってまっすぐな男の子で、だからその純粋な好意が嬉しくって。
つい、頷いていた。
けれどそれからというもの、前世の記憶がふと頭をよぎるようになった。
転校する時は「毎日手紙を送る」なんて言ってくれた男の子がいたけれど、いつのまにか月に一通、半年に一通、やがては年賀状すら届かなくなり、同窓会に行ってみれば大学で知り合った女の子と結婚したという話を聞かされる。そんなことがあった。
……幼いころの約束や恋なんて、時の流れとともに忘れ去られるもの。
フェンもそうなるんじゃないか。
そう思うと切なくって悲しくって、彼がイルベ領に帰ってしまう日、私は私の知ってる世界の大きな秘密を教えていた。
フェンの記憶に深く刻まれたかったのだ。
「ここはね、ゲーム……簡単に言うと、物語の中なの」
いざ口にしてみたら、わりと電波なことに気付く。
けれどもう止まらない。
そもそも誰かに話したくてたまらなかったのだ。けれど妄想狂扱いされるのがこわくって言えなかった。
フェンだったら正面から受け止めてくれる。そんな確信があったのだ。
そして、その通りだった。
「ずっときみのことを想い続けるよ。ろくでもない運命からミラを救ってみせる。だから、待ってて」
そして、9年後。
15歳になった私は貴族学院に入学する。
このときの私はまだ知らなかった。
フェンが私以上の努力を重ねて、むしろ私に勿体ないくらいの男の子になっていたことも。
9年前に話した原作知識をもとにして、攻略対象を全員攻略終了してしまっていることも。
フェンは2年生なのに生徒会入りしていて、そこにハーレム? 逆ハーレム? 男ばっかりのやつはなんて言えばいいんだろう。
とりあえず。
クール腹黒な生徒会長も。
狼系でオラオラな先輩も。
過去に恋人を失った心の傷に悩まされている先生も。
王位継承問題に悩む第三王子も。
実はスパイとして送り込まれてきた留学生も。
みんなまとめて、攻略済み。
フェンの取り巻きになっていた。
というか友情にもそれ以上にも見える感情をむけるような。
なんて背徳。
そう感じるのは私の眼が腐っているからだろうか。
その光景を眺めて呆気にとられていたのは私と、もう1人。
「原作知識で逆ハーするつもりで来たけど、これはこれで……じゅるり」
どう考えても転生者っぽい発言をする、原作主人公。
なんだか似たような趣味嗜好で、ちょっと仲良くなれそうだった。
ちなみに。
私の薬指には、あの日渡された翠石の指輪がぴったりとはまっている。
フェンにそれを見せると、照れ臭げに笑ってくれた。
……幸せな学園生活が始まる気がした。