こ・れ・は! Magic‼︎
男は暗闇の中にいた。瞳を閉じても開いても、視界に映る景色には何の変化も見られない。
ーーコツッ、コツッ……
足音が聞こえてくる。段々と近づいてくるそれは、硬く、辺りに反響するような鳴り方をしていたが、男の耳にはくぐもって聞こえた。
ーーガチャリ……バタン
すぐ近くで扉が一枚、開いて閉じた。
(何が……起こっているんだ?)男は困惑していた。身体を動かそうにも、身動きが取れない。というよりも、首から下の感覚が段々と、薄れてきている。
カッ、と目の前に光が射す。突然の明かりに男の目は眩んだ。少しずつ瞼を開き、彼は見る。
そこにはブレザー姿の女学生が一人、呆然とした顔で立っていた。
彼と女生徒は狭い空間の中にいた。左手には桃色の四角いタイルで敷き詰められた壁。彼女の向こう側すぐには同系色の扉。上部には広い隙間が空いている。
男はそれと似たような景色に見覚えがあった。自分が今どこにいるのか悟った彼だったが、しかしどうして自分がそこにいるのか。全く意味がわからない。
「あの……」
女生徒が、おずおずと口を開いた。
「ここ、女子トイレですよ?」
女生徒は、ここは女子トイレなのにどうして男性であるあなたがここに居るんです? ということを言っている。
(……え、いや、それはなんとなく分かっているんだけど)
(そこ?)男の困惑は、ピークに達した。
「すみません……」
男はとりあえず謝った。彼にはそれくらいしかできることがなかった。
なんせ、彼の頭は洋式便器の便座にすっぽり嵌っていたのだ。
*
舞台上に降り注がれるスポットライトの明かりの中で、カイゼル髭をつけたタキシード姿のマジシャンがうやうやしくお辞儀をする。誰もが耳馴染みのあるベタな音楽が流れる。ショータイムの始まりだ。
中盤のいよいよ盛り上がってきたところで、マジシャンは観客の内の一人を指名し、その男を舞台に上げた。男は言われるがまま、人一人がすっぽり収まるくらいの細長い箱に押し入れられる。
マジシャンは箱正面ーー腰より下、胴、首にあたる三枚ーーの扉を閉めると、アシスタントに持ってこさせた長く鋭い剣を、その箱にザクザクと刺し始めた。剣が箱に刺さる度に『ジャーン』と派手な音が響き、観客はドッと湧く。マジシャンが箱上部、男の顔にあたる部分の扉を開くと、彼の引きつった笑顔が見えた。
一度剣が全て引き抜かれると、今度はアシスタントが二枚の大きな鉄板を持ってくる。マジシャンは鉄板を観客に見せびらかして、硬く、分厚く、曲げることができないことを伝える。そして、男の顔部分の扉も完全に閉めてしまうと、その二枚の鉄板を箱に差し込んでしまった。
男の身体は腰から下、胴、首と三分割にされてしまう。マジシャンは胴部分、首部分の箱をスライドさせ、観客を湧かせた。元に戻し、三枚の扉を下から開いてゆくと、胴体にあたる箱の中身が空っぽだった。腰から下、首はちゃんとあるのというのに、胴体だけが消えてしまったのである。
これには観客も驚いた。箱の中に入った当人も信じられない、といった顔をする。マジシャンは満足げに扉を閉め、ワン、トゥー、スリーとステッキを振る。
再び扉を下から開いてゆく。足、胴と現わになって、三枚目の扉が開かれると、今度は首が消えていた。
再び観客の驚く声が漏れる。ーーしかし、今度は驚いていたのは観客だけではない。マジシャン当人も驚いた顔を見せた。
扉を閉め、ステッキを振る。ワン、トゥー、スリー。扉を開いてゆく。足、胴。また首が無い。
観客がどよめく。マジシャンはマイク越しに言った。
『首、どっかいっちゃいました』
ドッ、と観客の笑いが起こった。マジシャンは扉を閉め、手招きをしてアシスタントを呼ぶ。
二人は箱を舞台の隅に移動した。その時、マジシャンはマイクに乗らないくらいの小さな声でアシスタントに言った。
「どうしよう、ほんとに首どっかいっちゃったよ」
*
「なるほど」
女生徒は男から訳を聞くと腕を組みウンウンと頷いた。
「今どんな気分ですか」
「どんなって?」
「マジックの途中で首だけ女子トイレの便器の中に飛ばされちゃうなんてどんな気分なのかなって」
「パニックだよ!」
女生徒は何故か妙に落ち着いた様子でニヤけているので、男は自分が夢か幻を見てるんじゃないかと思った。
「ど、どうしよう。どうしてこんなことに……訳が……訳がわからない」
「それどうやって声出てるんですかね」
「ど、どうって……」男は困った。
「声って一度吸い込んだ空気が外に出る際に声帯を振るわせることによって出るんですよね」
女生徒は屈んで便器の周りを観察した。「首しかないのに……。吸い込んだ空気はどこへ行っているんでしょう。元の身体の中を一度通った上でこちらの首側に戻ってきてるんですかね」
「え、そこ⁉︎ 気になるのそこ⁉︎」
「そうだ、元の身体側を空気が通らないと身体側死んでしまいますよ。酸素を取り入れられなくて。血流……は動いてるんですよね。血は首側に来てるのか。そうか、そうでないとこの首側死ぬし……」
「ちょ、ちょっと!」
「首から下は今感覚ないんですよね。ずっとこのままだったらどうします。水は飲めるんでしょうか。食べ物は……排泄は?」
「ねぇ! 気持ち悪い! 君さっきから気持ち悪いよ! こわい!」
女生徒は微笑んでいる。「冗談です」
「にしても、ほんとどうするんです?」
「どうする、って言われてもな……。首から上だけじゃ何もできないし」
「笑うこととか、泣くことくらいしかできないですよね」
「そ、そうだね」
「誰か呼んできます?」
「ちょ! ちょっと待って! この状況に順応できる特異な人ってすごい希少だから! ほんと君くらいだから!」
「そんなぁ。褒められても何も出ませんよ」
「ちょ、あ、ボールペンでつつくのやめて! やめて!」
男の顔をまじまじと見つめていた女生徒は立ち上がった。「ラチがあかないですね」
「どうしよう……」男は落ち込みを隠せない。首が便器に嵌まり込んで身体も動かせない今、彼は鼻を掻くこともできないのだ。鼻をかむこともできない。鼻をすすることはできる。彼はうら若き女生徒を目の前にして、ふと鼻毛が出ていないか気になったが、今は鏡で確認することもできないし、たとえ出ていたとしても抜くこともできないし、中に押し入れることもできない。
ずっとこのままだったらどうしよう。そんな考えが頭をよぎる。このまま夜が来て、明日になったら。他の誰かに見つかったら。ーーTwitterに写真を載っけられて何万リツイート、何万ファボされてバズってしまったら。彼は今自分の顔を隠すこともできない。脂汗が額に滲んだ。彼はその汗を拭うこともできない。
「大丈夫」
女生徒はアルカイックスマイルを浮かべていた。「私に任せて」
男は目の前の女生徒をちょっとオカシなコだと認識していたので、ゾッとした。「任せて、って?」
「私が今ここで、マジシャンとして覚醒すればいいんです」
ーー何を、言っているんだ?
女生徒は腕まくりをし、安っぽい黒ボールペンをかざした。「大丈夫です。ちょうど昨日ハリーポッター観たんで」
「ちょ! ちょま! ちょっと待って!」男の制止を聞かずに女生徒は便器の蓋を閉めた。「私を信じて」くぐもった声が、彼の耳に聞こえた。
「ワン……」
「待って! 何しようとしてんの!」
「トゥー……」
「落ち着いて! 話し合おう! ね⁉︎」
「スリー‼︎」
ーーグイッ
「ウアアァァァァッ!」
ーージョワァァァァァ……
「ガボガボボガボガボ……」
女生徒が銀色のレバーを引くと、蓋の向こうでは勢いよく水が流れる。彼女はちょっと(あっ、ヤバイかも)と思った。
彼女が恐る恐る、手を伸ばす。一瞬、溺れ死んだ生首を想像して手が止まる。
手を蓋にかけると、女生徒は思い切って、それを開いた。
*
マジックショーは終盤に差し掛かっていた。首の消えてしまった箱は舞台の隅に追いやられたままで、観客は皆最後の最後で首が戻ってくるのだと思っている。マジシャンは他のマジックを進めながらも、気が気ではなかった。このまま首が帰ってこなかったら……そう思うと、ゾッとした。
マジシャンは舞台上で自らが消えるマジックを披露していた。大きな赤い布に包まれ、火花が弾ける瞬間、パッと姿を消した。そして、舞台を食い入るように見つめる観客たちの、後ろから姿を現わす。
効果音とともに、スポットライトがマジシャンを照らす。観客は驚き、拍手が湧いた。しかし、何人かの観客は舞台上の異変に気付いた。
「あっ! なんだあれ!」
舞台脇に置かれた、男の入った箱の上部から、勢いよく水が噴き出ていたのである。
それに気付いたマジシャンは観客たちの脇を走った。そして舞台に上がると、箱の扉を開いた。
水が溢れ出て、その向こうに男の顔があった。
観客たちは拍手喝采が会場に響く。
「あぁ、よかった」思わずマジシャンは言った。
「あぁよかったじゃないでしょう! とんでもない目にあった!」
「まぁまぁ、ここはひとまず水に流して」
マジシャンと男は舞台中央で両手を挙げた。観客たちはそれをスタンディングオベーションで迎え、マジックショーは大盛況で幕を下ろした。
*
マジックショーの閉園後。男は楽屋で一人、待たされていた。鏡を見ると、ちゃんと首と身体が繋がっている。鏡をまじまじと見つめ、鼻毛が出ていないか見た。
扉が開き、マジシャンとアシスタント達がやってくる。男は椅子に直った。
「席を外してください」
アシスタント達が楽屋を出ていくと、マジシャンはジャケットを脱ぎ、かぶっていたシルクハットを取った。
そしてペリリ、とカイゼル髭を剥がした。
男はその顔に見覚えがあった。
「あっ! 君は……」
その女性マジシャンは、あの女生徒だったのだ。
「お久しぶりです。……といっても、あなたにとってはさっきぶりですかね」
「そんな……まさか……」
「そう。私はあなたの首から上を、過去の私が通っていた高校の、女子トイレの便器の中に飛ばしてしまっていたようなのです」
マジシャンはエヘヘ、と笑った。
「君は……気付いていたのかい?」
「いえ、気付いたのはさっき、マジックショーが終わる時。あなたと並んでスポットライトを浴びた時です」
元女生徒マジシャンは鏡の前の椅子を引くと、そこに腰を下ろした。
「私はあの日、何気なくトイレに入った。そこであなたに……あなたの首に出会った。そして前の日にハリーポッターを観ていたこともあって、ノリでマジックめいたことをしてみた。そしたらちゃんとあなたの首が消えた! 私はうれしくって、自分がマジシャンの素質があるんだ、って思ったんです。それから私は高校卒業後マジシャンの弟子になって、修行を積みました。そして今やこうして、立派にマジシャンやってるわけです」
マジシャンは胸を張ってニッコリ笑った。その笑顔を見ていると、男はどうにも怒れなかった。
「まだ失敗も多いけど……あの日の経験が私のルーツになってるんです。あなたには、とてもとても感謝してます。ありがとう」
マジシャンは手を差し出した。男はそれに応え、握手をする。
「どうでした? 私のマジック」
男は吹き出した。
「そりゃあもう……すごかったよ」
鏡の周りに取り付けられた強い光がマジシャンの顔を照らす。その笑った顔は、女生徒だった頃より少し大人びていた。