天下のトップアイドル瀬戸綾乃はテレビの音楽番組嫌いで有名だ。
仕事で嫌いなモノ3つを述べろといわれれば、
“水着”
“テレビの仕事”
“お笑い芸人”
綾乃はためらいもなくこう答える。
はじめてこれに触れた品田がそれから数日泣き暮らそうが綾乃の知ったことではない。
だから、綾乃はこの仕事は引き受けたくなかったのだ……。
最近、ヘンな圧力で仕事にあぶれてはいたが、それでもイヤだった。
もう本番。しかも生放送。
営業スマイルを浮かべているが、それでも綾乃は嫌悪感を表情から消し去ることができなかった。
音楽番組と聞いていたのに、トーク中心という綾乃が最も嫌う番組構成。
そして綾乃が番組に嫌悪感を抱くのは、横にいる男のせいでもある。
名前は面倒くさいのでAとでもしてやろう。
歳は綾乃より2つ上。
職業はイカサマボクサー。
特技は八百長試合。
決してKO勝ち出来ないボクサー。
決して自分より強い相手とは戦わないボクサー。
自称 この世界で最も強い男。
「A選手、先日の試合では―――」
綾乃の耳にこのボクサーを褒め称える司会者の言葉が聞こえてくる。
綾乃は、その言葉を右耳から入れて左耳に通してしまう。
母親から説教された子供の頃に身につけた特技だ。
町中であったら絶対チンピラとしか見てもらえない格好でソファーにふんぞり返るAは、
「まぁな。―――へっ。俺は世界一強いからよ」
(そんなはずありません)
綾乃は心の中で舌を出した。
(悠理君の方が絶対強いに決まっています)
「あんなヤツぁイチコロだぜ」
(判定勝ちで1回もダウンとれなかったクセに)
綾乃はチラリと時計を見た。
あと2分で歌のセットへ移動する。
それまで待てばいい。
でも、1秒が長すぎる。
「でよぉ」
グイッ
「きゃっ?」
Aの腕が綾乃の肩を掴むなり、力ずくで綾乃を抱きしめにかかった。
とっさのことに言葉が出てこない。
全身に嫌悪感が走るが、Aは全く気づくことがない。
いや、気づく神経を持ち合わせていなかった。
Aの近くにいる女―――いや。メスというべきだろう。に、綾乃ほど育ちのいいのはいなかったから、無理もないといえば無理はない。
しかも、Aはマスコミに持ち上げられ有頂天の存在。
いずれマスコミから捨てられた時が見物、その程度のレベルの男だ。
「へっ!女だって俺にかかればよぉ!」
そのAの大胆というより、バカ発言に司会者ですら唖然とする。
「あ、あの……」
これはナマ放送だ。
台本にないことをされては困る。
司会者も綾乃もそう思った。
しかし、これで話題がとれる=視聴率が上がる。
そう判断したプロデューサーは、続行の指示を出す。
つまり、綾乃を助ける者が誰もいない。
(だから、テレビは嫌いなんだ)
綾乃は半泣きになりながらなんとかAから離れようともがいた。
「おいおい。この俺に抱かれてるのに嫌がるんじゃねぇよ」
ドスの効いた声で言われるが、それでもイヤなモノはイヤだ。
「あ、あの、私そろそろ」
「あ?歌か?」
Aはニヤリと笑った後、言った。
「俺とデュエットしねぇ?」
「わ、私の歌は、その」
「いいじゃねぇかよ!」
(しかたない)
綾乃はそっとAの首筋を撫でた。
父・昭博から学んだ暗殺術の一つ。
首筋のツボに合気の一撃を喰らわせる技。
普通の人には危険すぎて使えないが、この体なら大丈夫だろう。
(人目もありますし)
「お?」
Aがイヤらしい期待の声を上げ、そして綾乃は立ち上がり、司会者に目で合図を送った。
(番組を進めてください)
その意図を正確に読んだ司会者は、綾乃に声をかけた。
「では綾乃ちゃん。そろそろ時間ですので、準備お願いしますね?」
「はい」
ニコリと笑った綾乃が答えた。
「頑張ってね?」
司会者もAの件がある。心配してるんだろうその声に、綾乃ははっきりと答えた。
「このテレビ局最後のステージですから。頑張りますね?」
スタッフのざわめきは、もしかしたらテレビの前のざわめきだったかもしれない。
「あ、綾乃ちゃん?」
司会者の声を無視するように、綾乃はステージセットへと向かった。
オリオンを初めとして、ほとんどの音楽ヒットチャート上位を独占する瀬戸綾乃。
彼女が“二度とこのテレビ局では歌わない”
そう宣言した。
曲が終わっても、カメラは綾乃をとり続けている。
その前で綾乃は一礼すると、スタジオのドアへ向かう。
それさえ生中継同然だ。
青くなるマネージャーが立ちふさがるが綾乃はその横をすり抜けてしまう。
決して前しか見ない。
そして、綾乃はスタジオを出た。
そのまま楽屋に入った綾乃は、衣装を脱ぎ捨て、さっさと着替えて楽屋を出る。
「綾乃!」
マネージャーがの肩を掴んだ。
「なんてことを!」
「私は歌手です」
綾乃はその手を払いのけた。
「そういう契約でお仕事してます」
「あれだって人生経験というもので」
「未成年でホステスまがいの行為なんて経験したくないです」
マネージャーは、綾乃がかなり怒っていることを肌身に感じた。
(なんだってこの子は―――!!)
もう一度肩に触れようとしたマネージャーは、その手を止めた。
マネージャーにはわからない。
こうなると、綾乃に触れるのが絶対的なタブーにしか思えないのだ。
先輩マネージャーが言っていた。
(瀬戸綾乃は、最後の高級歌手だ)と。
意味がわからなかった。
(あの子には、高貴なまでの気品がある。気品は高級な歌手の最低要件だ)
高級歌手。
品のある振る舞いと歌唱力で不動の人気をとる歌手に対する一種の称号のこと。
決して上辺だけでは隠せない気品のある歌手。
それは時代を作り上げる歌手達のことでもある。
綾乃の背にそうした御大の姿が重なるのを感じたマネージャーは、綾乃に触れられないのは、そのせいなのかしら。とふと思った。
エレベーター前で綾乃の携帯が鳴り出した。
「メール?―――未亜ちゃんから?」
携帯を見た綾乃の表情が固まった。
そこへ―――
「待てやコラァ!」
廊下を走ってきたのは、あのAだ。
Aの手が綾乃の薄い胸ぐらをつかみあげる。
付近の警備員達もマネージャーも、ボクサーであるAに近づくことすら出来ない。
「やめろA!」
Aの付き人が数名、Aを止めようとするが、Aはそれを片手で払いのけた。
「このアマぁ……よくも恥かかせてくれたなぁ」
怒気のこもった声とチンピラのガン飛ばしを喰らわすAだが、綾乃は携帯の液晶画面から視線を離さない。
「何とか言えやコラァ!」
その罵声に答えたワケではない。
だが―――
「許せない」
綾乃はポツリとそう言った。
「ア゛ァァッ!?」
それが自分への答えと思ったAがさらにすごみを増す。
「なんだとぉ!?このアマぁ!」
怒りのあまり、綾乃を壁に叩き付けるA。
そして、綾乃が動いた。
グシャッ
周囲に鈍い音が響き渡る。
少なくともそれはマネージャーにとっては幸いだった。
アイドルを壁に叩き付けたAの人気はがた落ちになるだろう。
だが、それさえ違う。
「……」
Aは綾乃の前で腰を抜かしていた。
その視線の先の綾乃は、右手を壁に向けてまっすぐ伸ばし、仁王立ちしていた。
その右手は、
壁にめり込んでいた。
「ヒッ」
不意に綾乃と視線のあったAはこけつまろぴつ逃げ出した。
「母ちゃん助けてぇ!」
残されたのは綾乃とマネージャーだけ。
その中で、綾乃は携帯を操作して、耳に近づけた。
「―――未亜ちゃん?メールありがとう。それで?このお団子頭の女の子は誰です?」
綾乃が一歩歩き出す度、床が揺れるような錯覚を感じるマネージャーがすぐに警備員相手に事態のもみ消しにかかった。
ボクサーがアイドルに手をあげた。
その悪評はジム側でも避けたい醜聞だろうから、交渉は楽なはずだ。
マネージャーがもみ消し工作に頭を総動員させている中、綾乃はエレベーターに乗った。
「悠理君と……キスしていたというのですね?しかも、水瀬君の方から」
(水瀬専用)地獄へ向かうエレベーターのドアが閉まった。
「悠理君は、今どこに?」
翌日。
「大変だったねぇ」
学校のみんなが綾乃に心配そうに声をかけてきた。
手にはAと綾乃の写真が載ったスポーツ新聞がある。
「大丈夫です」
綾乃はそう答えた。
「本当にあの局の仕事、引き受けないの?」
「勿論です」
「プロデューサーの人、処分されるっていうし、局から事務所へ謝罪も出すって」
「知りません」
つんっ。とそっぽを向く綾乃。
「もう、絶対に仕事は受けません。それでも出ろっていうなら、事務所やめます」
綾乃は言った。
「私はプロです。プロは、仕事に誇りをもっています。それがわからないなら、関係を絶って当然ですから」
「そこまでなんだぁ」
未亜が驚いた声で言った。
「おばあちゃんに話しておこうっと―――いい?」
「かまいません。ところで」
「何?」
「悠理君は?」
「今日はまだ来てないねぇ―――あっ。先生!水瀬君がまだ来てません!」
教室に入ってきた南雲が、美奈子の言葉に、少し考えた後、言った。
「あいつは現在逃亡中だ」
南雲はちらりと綾乃を見て、
「理由は、わかるだろう?」
お昼
「あっ。Aだ」
未亜がテレビに気づいた。
マスコミの取材を受けるAの顔は、憔悴しきっている上に―――
「なんであいつ、丸坊主なの?」
Aの派手な頭はすっかり青々とそり上げられていた。
『いろいろ迷惑かけたので反省しているので』
マスコミの質問にAはそう答えた。
そして―――
『綾乃さんには大変な失礼をしました。心から反省します。頭も丸めました。だから殺さないで―――じゃなく。助けてください』
『はぁ!?』
Aの付き人がAを羽交い締めにしてマスコミの前から連れ去ろうとするが、Aは泣きながらわめき続ける。
『ごめんなさい!もうしません!二度とあんな態度とりませんからぁ!』
「綾乃ちゃん?」
未亜と美奈子の奇異の視線が綾乃に向かう。
「な、何やったの?」
綾乃は困惑したように答えた。
「知りません。浮気者のことだけ考えてましたから」
「水瀬君じゃなければ、あれは耐えられないよぉ」
「Aさん、お気の毒に」
美奈子はテレビに向かって合掌する。
Aが教育放送の幼児向け番組に体操のお兄さんとして登場したのは、それから半年後のこと。
トレーナーとへんてこ帽子のその姿は、幼児達の優しいお兄さんの代名詞となったという。
彼が更正したと世間では彼を褒め称えたという。
でも、
合掌。
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