閑話 イリスの気持ち
かつての無念を覚えている。
手を伸ばそうとして、けれど決して届くことのない高みにいらっしゃったあの方が、まるで霞のようにあっさりとその姿を消してしまわれたその日のことを。
だから。
私はもう二度と、離れないと決めたのだ。
それが、あの日、あのとき、あの方ともう一度出会えたその日の、誰にも言わない私の決意だ。
◆◇◆◇◆
私、イリス=タエスノーラは現在より遙かな過去、魔族の娘として生まれ落ちた。
運が良かったのか、私の家は魔族の中でも名家で、父も母も宿す魔力が強く、私もその血を受け継ぎ、強力な魔力を身に宿して生まれた。
ただ、それでも何の努力もなく強くなれるほど甘いものではなく、たとえ強力な魔力を持って生まれた魔族であるとしても、その力を扱うためには長年の絶え間ない努力と才能が必要なのである。
ごくまれに、信じられないほどの力を生まれつき持ち、またその才覚も飛び抜けている存在、というのはいないではないが、私の知る限り、そんな人物は数多くいる魔族の中でもただ一人だ。
魔王陛下ルルスリア=ノルドおじさま。
彼こそが、世界最高の魔族であり、ほかの誰にも越えることのできない、おそろしく高い壁である。
魔力の扱い、魔力量、そして身体能力、そのすべてにおいて他の何者の追随も許さないその方。
そんなおじさまは、我が父バッカスと幼少の頃から妙に馬があったらしく、よく我が家にきてくださったものだ。
大酒のみの我が父とは異なり、静かに酒杯を傾けて読書をされるのが好きだったおじさまは、毎年必ず私の誕生日を祝ってくれる優しい方で、そんなおじさまを私が好きになるのに大した理由など必要ではなかったように思う。
しかし残念なことに、その気持ちが親愛だったのか、それ以上のものだったのか、判明する前に、おじさまは亡くなってしまわれた。
人族の旗印である勇者に聖なる剣でその胸を貫かれ、消滅させられてしまったらしく、そのご遺体すらも残らずに空気の中に溶けてしまわれたと聞いたときには、もう二度と会うことができないのだとわかって、ひたすらに泣いたものだった。
それからは、復讐が始まった。
私は憎かった。
おじさまを殺したものが。
おじさまが死ななければならなかった、その理由が。
勇者については、不思議と憎くはなかった。
彼の人族は、おじさまといくつか会話をしたらしいことが分かっている。
そしてその中で、勇者はおじさまの話に耳を傾けたという。
それが事実であると知れたのは、おじさまがお亡くなりになられてしばらくしてからのことで、勇者と、教会とが突然対立しだし、人族を二分した争いが始まってからのことだった。
教会は魔族を滅ぼすことを正義としていたから、それに対立した勇者というのは、おそらく魔族を敵視することをやめた、ということだろう。
そしてその理由がおじさまと会話したことにあるのは状況から見て、火を見るより明らかだった。
勇者のしていることが、おじさまの意思に叶うことであるならば、邪魔するわけには行かない。
だから、私は勇者を憎いとは思えなかった。
では私はいったい何を憎むべきなのだろう。
それを考えたとき、教会がまず頭に浮かんだ。
魔族を一方的に敵視し、戦いを挑んできたその集団。
そのことにどんな意味があるのかはわからなかったが、何か意味があったのは確かなのだろう。
彼らを憎めばいいのだろうか。
いや、違うと思った。
そうではなく、その思想に乗っかってしまったすべてを憎むべきではないかと思った。
担がれた人族、対話をあきらめた魔族、そしてどんな行動も起こせなかった自分。
そういう世界のあり方を、私は恨むべきだと。
そうして、行動の指針は決まった。
世界のあり方、それを変えるべく、行動する。
それはつまり、争いをなくすということだ。
そのときの私にできたのは、争いを継続している者をまず、叩き潰すこと。
教会勢力の壊滅だった。
◆◇◆◇◆
けれど、現実はうまくいかない。
私はどこかの誰かにとらえられ、そして何かの施設に投げ込まれて長期睡眠を余儀なくされた。
そして目覚めたそのとき、目の前に人族がいた。
自分を閉じこめた者は人族だったのか、と寝起きの頭で血が上り、つい攻撃してしまう。
けれど、意外なことに、その場にいた人族の一人はおじさまで……。
運命というのはいったいどんな風に繋がっているものか分からないものだと、私は心底驚いた。
ここに投げ込まれ、眠らされたことで、私はおじさまに会えた。
そのことを考えれば、むしろ感謝してもしたりないほどだとすら思った。
そして、その瞬間に私は決めたのだ。
おじさまと、もう二度と離れないと。
唐突な思いつきだったと思う。
けれど、そのときの私には、それが自然なものに思えた。
何よりも強い、執着に似たその感情の名前を、私は知らなかったけれど、それに従うことに忌避感は感じなかったのだ。
◆◇◆◇◆
おじさまは、人族として、人族の村に住んでいるらしい。
そう教えられて、驚いたのは当然のことだ。
けれど、実際におじさまの見た目は人族そのもので、それが事実であることは否定しようがなかった。
ご両親にもお会いしたけれど、やはり二人とも生粋の人族であって、魔族とのかかわり合いなど一切ないように感じられた。
実際、私のことも魔族だとは全く思っていない様子で……。
不思議だった。
人族なのに、魔族と何一つ変わらず、そして何の問題もなく一緒に暮らせて行けるのだということが。
魂に変わりはなく、同一の魂が別の体に宿っているだけだと考える魔族の思想。
けれど、生き物は視覚に支配されやすいものだ。
同じ容姿をした者同士で固まりやすいのは必然で、だから多少の忌避感を感じるのは仕方のないことだ。
そのはずなのだが、この村には一人もいない銀髪の私を、おじさまのご両親はすんなりと受け入れてくれたのだ。
しかも、娘にする、などといって、本当に義理の娘にしてしまった。
私やおじさまが戦ってきたあの時代には絶対にありえないその行動。
長い時間というのは、そういう偏見すらも風化させ、何でもないことにしてしまうのだと驚きを感じたのだった。
◆◇◆◇◆
村の子供たちに会って、教わったこともある。
驚くべきことに、おじさまには、同年代の友人というものがいた。
本来なら遙かにおじさまの方が年上であるのは言うまでもないが、意外にもおじさまは器用に七歳の少年として振る舞い、友人関係を築いていたのだ。
その友人とは、ラスティという少年と、ミィ、ユーリという二人の少女であった。
初めて三人に会ったとき、私を見て、ラスティという少年が、
「は、はじめまして……」
と、どもりながら手を差し出してきたときには、本当にこの時代というのはあのころと違うのだなと感慨深く思ったものだ。
あの時代なら、子供が魔族に手を差し出すことなどあり得ない光景だからだ。
そんなラスティを、ミィとユーリがどことなくにらみつけるような視線で見つめていたのは、彼女たちに魔族に対する忌避感があるからだろうか?
いや、違うだろう。
おじさまの話によると、古代魔族の容姿というものはこの時代には一切伝わっていないということだ。
したがって、子供が古代魔族を知っている、ということもまたあり得る話ではない。
そうである以上、何か別の理由で二人の少女はラスティをにらんでいたということになるが……何か彼に不自然なところでもあっただろうか?
思い出してみるが浮かばない。
気になったので、ラスティがおじさまと二人で遊んでいるときに、遠巻きにしている二人の少女に私の方から話しかけてみた。
すると、
「……あれ、気づいてないの?」
「この娘、もしかして鈍感なのかな……?」
などと二人揃って言われてしまった。
どういう意味か尋ねてみると、先ほどのラスティの様子はイリスの人形のような容姿に一瞬見とれたからで、握手をしてしばらくして顔を赤くしていた。
つまり、イリスに好意を抱きつつあるということであり、それは二人としては非常にまずい事態である。
なんとか引いてもらえないだろうか、とまで言われたあたりで、私はおかしくて笑ってしまった。
「ふふふっ……」
「笑うことないじゃない……」
年下の方の少女、ミィがそういって頬を膨らませたので、私は弁護するように言った。
「あぁ、ごめんなさい。馬鹿にしたわけではありませんの……そうではなくて、私、少々盲目だったのかも知れない、と思いまして」
「盲目?」
首を傾げる、ユーリ。
私は続ける。
「えぇ……ラスティさんには申し訳ないのですが、私にはもうすでに、心を捧げた方がいるようですわ……」
「えっ……そ、それって……?」
「教えてくれるとうれしいなぁ……?」
さっきまでの危機感を感じていたような表情とは打って変わって、私に詰め寄るように顔を寄せるミィとユーリ。
そんな二人の表情を見て、かつてのあの時代にもこんな話をした友人たちがいたな、とふと思った。
もう二度と会えないその友人たちのことを思い出しつつ、また新たな友人がここにできようとしていることに少しばかりの感動を覚える。
そして、私は言った。
「少し、年上の方なんですの」
「年上……そっか、じゃあラスティは範囲外なんだ」
ミィが安心したようにそう言った。
「年上って、どのくらい?」
ユーリがさらに突っ込んで聞く。
「十や二十ではなかったように思いますが……正確にはおいくつなのかしら? 今となると、どう計算していいものか……」
私はそう言ってから、少し悩む。
おじさまの厳密な年齢の計算方法が分からないからだ。
単純に足せばいいのか、それともあの当時の年齢だと考えるべきなのか。
しかし、そんな私の発言の最後の方は聞かずに、ミィとユーリは驚いて言う。
「えぇ!? そ、それって大人の人だよ?」
「イリスちゃんっておませさんなんだね……わたし、びっくり……」
などと言って赤くなっている。
そしてユーリは続けた。
「イリスちゃんの近くで、年上の男の人って言ったら……冒険者のグランさんか、パトリックさんしかいないよ……」
ミィがそれを受けて、頷く。
「つらい恋になるね……うん、私たち、応援するねっ!」
勝手に話が進んでいっているが、そのあまりの剣幕に私はつい、
「え、えぇ……」
などと曖昧な返事をしてしまったのだった。
それから、帰宅したあとにおじさまから、さりげなく、
「……グランも父さんもやめといた方がいいんじゃないか? ほら……流石に、年の差が、な?」
などと言われたので、
「おじさま。年の差など、些末なことでございますわ。むしろ乗り越えてこそ! そう思われませんか!?」
などと、私にしては珍しく強めの声でいったものだから、おじさまも押されて、
「あ、あぁ……まぁ、そうだな。うん。本人がいいなら……」
などと、妙な誤解が形成された気がしたが、放っておくことにした。
今の距離はこんなものでいい。
いつか、もう少し大人になったら……。
そう思って、私は今しばらく、自分の胸にその思いをしまっておくことにしたのだった。