第17話 父の視線
じんじんとした疼痛が後頭部に走る。
ルルはその痛みに意識を強制的に覚醒させられて、目を開いた。
覚醒直後のぼんやりとした頭で周りを見る。
鼻には酒の香りが、耳には酔っぱらいたちの喧噪が聞こえてきて、あぁ、ここは酒場かと理解する。
「お目覚めになられましたか?」
穏やかで優しい、ルルを労るような声がしたので、ルルはそちらの方を見た。
見慣れた、絹のような光沢を纏った銀髪、鮮血よりもなお赤い瞳を持ったその少女。
しかしかつてと比べるといささか年を重ねたようで、七年前には感じられなかった、凄絶な色気を纏い始めていることにルルはふと気づく。
「……どうかされましたか? お兄さま」
正式にカディスノーラの養子となり、法律上の兄妹関係になってからは、人がいるときは、ルルさま、ではなくお兄さまという呼称で統一することにしたらしいイリスが、首を傾げてそう尋ねる。
ルルは自分が今考えたことに気づかれないように、何でもないと首を振り、気になっていることへと話を進めることにした。
「ええと……なんで俺はこんなところで寝てたんだ?」
「それは、お兄さまがお義父さまとの戦いに敗れ、そのまま気絶なさったからですわ」
その簡潔な回答に、自分が倒れる直前の記憶が蘇る。
戦い、敗北した。その記憶が。
そして、改めて周囲の酔っぱらいたちを見てみれば、その中心にいるのは父と母であり、珍しく酔っているらしいことが分かった。
その様子を見つつ、考える。
自分は負けたのか、と。
けれどなぜだか不思議とそのことに悔しさは感じなかった。
それは本来自分が使える力を使っていなかったから、という部分もないではなかったが、それ以上に父との戦いで剣術については出し切れるものを出し切った、とおいう思いがあるからだ。
特に最後の一合については、かつて魔王だったとき、勇者と交わした一合一合に匹敵する高揚を与えてくれた。
それは、本気で挑んでなお勝利できない相手がいる、という事実に久し振りに触れたからだろう。
戦争は好きではなかったし、出来ることなら避けたいと願ってきた前世ではあったが、決して戦いそのものが嫌いだったわけではない。
お互いの命だけが掛かった戦いであったなら、きっとルルは喜んで戦っただろうと思えるくらいには。
「……しかし、またなんで酒場なんだ? なんだか随分めでたいことがあったみたいだが……誰かの家に子供でも産まれたのか?」
改めて見渡して、その喧噪がいつもの酒場とは異なり、何らかの慶事があったらしく、そのために酒を飲んで騒いでいるのだ、ということをルルは感じ取った。
だからこその質問だったのだが、イリスは呆れたように言った。
「まぁ……お兄さま。お兄さまはご自分がどうしてお義父さまと戦ったのか、お忘れになってしまわれたのですか?」
その返答はルルの疑問に対する明確な答えだった。
そうだ。
自分は、冒険者になるための力を示すために、父と戦ったのだ。
そして、父に勝利し、悠々と旅立つはずであった……。
そのために祝いの席が設けられることは、何ら不思議なことはない。
しかし、ルルは負けたのだ。
それなのに……。
そう言うと、
「勝ち負けが問題の勝負ではなかったではないですか。現に、数ヶ月前にお兄さまなど問題にならないくらい、こてんぱんに叩きのめされたラスティたちは悠々と旅立って行ったではありませんか……」
ラスティたち――ミィとユーリも含めて――は、今この場にいない。
あの三人は冒険者を目指してルルより先に旅立ったからだ。
同い年だったのに、こんな風に時期がずれたのは、実のところラスティとミィの方がルルよりも生まれが数ヶ月早く、その分、冒険者登録が出来る時期が早く巡って来たからである。
ミィとユーリも、七年前はどうにかしてラスティを村に残そうと努力していたのだが、いつまで経っても彼の冒険者志望熱が冷めないことでついに諦め、仕方なく自分たちもついていくためにと修行をはじめたのだ。
誰が彼女たちに冒険者になるための技術、具体的には戦闘技術を教えるかが一応、問題にはなったが、それについては定期的にこの村にくる冒険者二人組と、それにイリス、さらにはパトリックがいたため、結局教師に困ることはなかった。
ただ、ラスティがパトリックに剣士としての技能を学んでいるため、これからのことを考え、後方支援ないしは、中衛としての役割を自らに求めた二人は、ユーミスとイリスを教師に選び、結果として中々の腕になって村を旅立っていった。
旅立つ前に、やはりルルと同様、その腕前の確認にと三人とも、その技を学んだ教師と戦う羽目になり、ラスティはルルとグランとパトリックと、ミィとユーリはユーミスとイリスと戦う羽目になり、結果としてラスティたちの大敗北で終わっている。
三人とも「自分たちはまだまだだ……」と高く伸びそうだった鼻を思い切りハンマーで根本から叩き折られた形になったわけだ。
とはいえ、新人冒険者としてはほとんど規格外の腕前になっていることは、グランとユーミスの話で明らかになっていたので、それならいいだろうということになり、結局彼らが村を出ることは許されることになった。
この七年の間に、ラスティたちが冒険者になるにあたってまず王都に行き、グランたちの氏族に入ることも決まっていたので、今頃は王都で新人冒険者としてがんばっているはずである。
一月に一度届く手紙にも、その旨、記載されており、非常に楽しそうで、それを読みながら自分も早く都会に行ってみたいものだと普通の田舎少年のような心持ちになったくらいだ。
村に残った彼らの家族にも、彼らから仕送りが定期的に届いているらしく、新人とは言え、もう一端の冒険者と言っていい活躍をしているのだろう。
教師たちとの戦いに敗北した彼らですら、そんな風に問題なく村を出ることを許可されているのだ。
少し考えれば、それなりにいい勝負をしたルルが、認められないはずはないということくらい分かりそうなものだが、ルルはなんとなく勝たなければ駄目なのだと思っていた。
魔王として敗北は即、死に繋がる生活を長くしてきたことによる先入観があったのかもしれない。
どうしても戦いにおいては勝たなければ目的は達成できないのだと無意識に考えてしまう自分の性格に気づき、しかし、それも必ずしも悪いことではないだろうと修正することを諦めた。
「と、言うわけで、この宴会は、お兄さまの出立を祝うもの、というわけですわ。……僭越ながら、お兄さまに随行いたします私の出立についても、同様に祝っていただけているようですが……そうは言っても、やはり主役はお兄さまですわね。ちなみに宴会は、お兄さまが倒れられて、異常がなくただの気絶だと判明してから、すぐに酒場で始まりまして……それからずっと、酒場の真ん中で、お義母さまとお義父さまがお兄さまの思い出を延々と語っておられますわ」
イリスに言われて、耳を澄ませてその思い出とやらを聞いてみれば、ルルが生まれて直後に産声を上げたそのときから、パトリックと戦い、最後の一撃で倒れたそのときまでの話をエンドレスに繰り返しているようであった。
そして聴衆たちはそれをうんうんとうなずきながら、時には涙を流しつつ、酒瓶を際限なく開けながら聞いている。
「……よく飽きないな?」
ルルが呆れたようにそう言ったので、イリスはふっと笑って返答した。
「酔っぱらいというものはいつの時代でもあんなものだと思いますわ」
全くその通りだ。
ついでに言うなら、時代だけでなく種族も関係ないらしい。
魔族であっても、宴会というものはだいたいこういうものだったのだから。
遙か昔にこの世界に存在しただろう思い出の景色を頭に浮かべながら、ルルはイリスの至言に深く頷いたのだった。
◆◇◆◇◆
この世の終わりまで続くかと思われた宴会も、徐々に潰れる人、寝入る人、帰宅する人が増えて緩やかに終わっていった。
母とイリスも先に帰宅している。
本当ならルルも一緒に帰るつもりだったのだが、パトリックに男なんだからまだいてもいいだろう、飲め飲め、などと言われて席を立つことを拒否された。
レザード王国の飲酒解禁年齢は十四。つまり、今日からルルに酒をすすめても問題ない訳だ。とは言え、無理にすすめているわけではなく、なんとなく口実にそうしているだけのようである。
仕方なく進められた酒を飲みながら、父のループする話を聞いていたのだが、ふっと一瞬まじめな顔になった父が、周りに聞いている人間がいないことを確かめて言った。
「……ルル。なんで本気で戦わなかったんだい?」
その瞬間、ルルは、息が止まるような驚きを覚えた。
おそらく、父から見えてルルの表情は固まっているように見えただろうと思うくらいには。
そして、そんなルルの顔を見た父は吹き出すように笑って、
「ふっふ……ははは! 冗談だよ、冗談……ルル。そんなに驚かなくても」
そんなことを言うものだから、ルルはふう、と息を吐いて応じたのだった。
「なんだ……突然おかしなことを言わないでくれよ……父さん」
「あっははははは。そうだね……ルルは本気で戦うわけにはいかないんだったね……どうしても、隠しておきたいんだろうから」
けれど、少し不貞腐れたようにパトリックが続けたその台詞にやはりルルは見抜かれているということに気づく。
おそらく、どこかで気付いたのだろう。
そして、隠されていることに、不満を感じたのだ。
息子が、実の両親に言えない秘密を抱えているという事に。
それは理解できる心情だったが、パトリックにしては珍しいことだとも思った。
そして、これ以上隠しても意味がないことを理解したルルは、パトリックに申し訳なさそうに言う。
「……悪かったよ。別に永遠に秘密にしておこうと思ってたわけじゃないんだ。ただ……父さんも言ったことだろう。切り札の一枚や二枚は、持っておけって」
そうだ。
自発的な行動ではあったが、パトリックもまたそのような行動を奨励していた。
戦いの幅を広げるため、そして絶対に負けない、と言い切れる一手を常に残しておくため。
そのためには、切り札は持っておけと、そういう考え方をしているのがパトリックだったはずだ。
痛いところを突かれたと思ったのか、パトリックは少し口を尖らせた。
どうもいつもよりずっと子供っぽい態度なのは、もしかしたらこの人は酒に弱いからなのかもしれない。
考えてみれば、あまり大量に酒を飲んでいるのを見たことが無い。
それはこういう理由があったからだろうか。
だとしたら、それは賢明だっただろうが……。
「確かに、そう言ったけどね……最後の勝負だ。何もかも、出してくれると思っていたのさ。なのに……」
パトリックはそう続けた。
少しさびしそうに。
そして、その台詞でルルは父がどの程度ルルのことを見抜いているのかを理解した。
おそらくだが、父は、ルルが何か得体の知れない切り札を持っている、というところまでは理解しているが、それがどういうもので、どの程度のものなのか、ということは分かっていないのだろう。
そうでなければ、こんな言い方にはならない。
パトリックとの戦いは、純粋な剣術勝負だった。
その土俵であれば、あれは間違いなく、ルルの全力に違いなかったからだ。
もしそれ以上を望むなら、魔力の使用を解禁しなければならないが、それをしないことを前提として整えられたあの場でルルの全力を望むのは、およそ不可能なことを言っているに他ならないからだ。
おそらく父は、ルルがグランから何かを学んだ、というくらいに考えているのではないだろうか。
古代魔族として強大な力を持っている、もしくはそれに近いものを感じている、ということはないのだろう。
だから、ルルはここであれが全力だったと言って、父のちょっとした我儘を避けることも出来た。
けれど、ルルは思ったのだ。
どうせなら、ここまで言ってくれるなら、父に、全てを見せるのも悪くない選択なのではないか、と。
ルルに可能性を感じているらしいパトリックに、自分の全力をぶつけてみてもいいのではないか、と。
パトリックがそれでルルを恐れたり避けるようになったりするとは一切思わなかった。
ルルは、それくらいにパトリックを信頼しているからだ。
パトリックは、間違いなく、ルルにとって実の父だからだ。
だから、ルルは覚悟を決めて言ったのだ。
「……だったら、もう一度、戦おうか? 今度こそ……全力で」
冒険者になるための出立は、馬車の関係で明日ではなく明後日だ。
それくらいの時間は取れることだろうと思っての台詞でもあった。
そして。その台詞に、酔いの回ったパトリックは面白そうな顔をして言った。
「ほほう……本当かい? 出し惜しみは、無しでかい?」
そしてルルは続けた。
「もちろん。だけど……そのときは父さんも手加減無しでだ」
「……? 当たり前じゃないか! 今日だって手加減したつもりは……」
パトリックは本気でそう言っているのだろうが、ルルの言いたいのはそういうことではない。
魔力の使用を制限して、筋力を同列まで引き下げた父を、本気とはルルは呼ばない。
「そうじゃなくて……魔力を使って、筋力低下の魔法具もつけないで、ってことだよ」
まさかそんなことを言うとは思わなかったのか、パトリックは酔いもさめたかのように目を見開く。
「ルル……僕を馬鹿にしているのかい? これでも僕はこの国の剣士としては、ほとんど頂点に近い位置にいるんだよ? その僕が……いかに才能があるとは言え、十四の子どもと、全力で戦えと?」
どことなく凄みの混じった視線で、パトリックはルルを睨んだ。
それはいつもとは違う、剣士としての父の顔だった。
殺気の混じった威迫が、ルルを貫く。
けれどそれは、むしろルルにとっては懐かしい感覚だった。
何もかもを極めた人族の凄腕たちが、そうやって自分に挑み、そして敗北していくのを何度も見た。
だから、そんな父を見て浮かぶ感情は恐れではなく、むしろ喜びだった。
「そうじゃなければ、俺は本気で戦うことなんてできない。……最後なんだ。またいつここに戻ってくるか分からない。父さんも職場が職場だから、王都で会うことは出来るだろうけど、そこで俺は本当の意味で全力を出す気もないし、出せるとも思えない」
そんなことをすれば、あらゆる意味で、きっととんでもないことになる。
それが分かっているからだ。
そこまで言って、ルルが本気でそんなことを言っているとパトリックにもわかったようだ。
信じ切れてはいないらしいが、それでも、
「……分かった。けれど、僕は本当に絶対に手加減はしないよ? 怪我で出立が遅れても恨まないでよ?」
「それはむしろ俺の台詞だよ、父さん」
即座にそう返したルルに、パトリックは呆気にとられた顔をして大笑いし、それから言ったのだった。
「そこまで言うなら、望み通り……君に、レナード王国最上位の剣士の力を、見せてあげるよ」