弥ェ門は暗い蝋燭の明かりの下で白髪交じりの髪を掻き揚げ、嘆息を繰り返した。鋭い眼光で膝下に広げられた古地図を凝視する。
「この辺りに今年もなる。石羽根。獰猛な和賀の羆神輿と江釣子の金色神輿が行き会うのは。十年前は死人が出た。五年前には大怪我で人事不省の重症者が十二人も出た。しかもいつも打ち負かされているのは、我らの江釣子神輿。今年の和賀にゃ荒くれ共が揃っていると聞く。大変な時に宮元総代を仰せ付かった」
眉間に皺を寄せ何度も神輿の通る道をなぞって首を振った。
「和賀山塊末端の愛宕神社を発する羆神輿は狭い山道を怒涛の如く駈け下って、国道107号に出る。其処より道を東に取り一気に旧吉沢陣屋まで進む。其処から幅一間にもみたぬ隘路を進んで石羽根ダム堰堤に向かう。この間凡そ三時間。午前五時に江釣子神社を発駕する我が金色神輿が丁度この堰堤上に達するのは八時。往古より小競り合いを繰り返し、犬猿の中の両者の衝突は避けられぬ。私の差配一つで死人や怪我人も出よう。ましてお先棒を担うは我が息子。祈るしかあるまい」
夜半、弥ェ門は庭に出て勧請してある江釣子神社に祭りと息子の無事を祈った。
「一弥。我が伊藤が今度の例大祭で宮元を務める。大祭は五年に一度。宮元は旧江釣子藩十ヵ村の持ち回りで、五十年に一度だけ名誉ある一番神輿を担ぐことが出来る。今年がその年に当たる。一生にただ一度だけ江釣子神社の宮元となりお先棒を担ぐ栄誉に携わることとなる。お前は壮年で一番相応しい時期に担げるのだ。しっかり務めるのじゃ」
「これは代々伝わってきた、法被、鉢巻、締め込みです。心して身につけなさい」
両親からそう告げられ、一弥は濃灰地に背中に白抜きの極太文字で宮元と入った法被と豆絞りの手拭、晒し木綿の下帯を受取った。すぐさま全裸になって釣瓶井戸から冷水を汲み上げ頭から被る。3,4度繰り返すと一弥の白い肌が薔薇色に染まる。褌をきつく締め上げ、法被を羽織り、本豆絞りの手拭をねじって額に締める。
「立派だわ。一弥さん。見違えます」
「立派な若衆振り。見事である。いいか、一弥。決して和賀の羆神輿と事を構えてはならぬ。万一死人でも出たら宮元総代としてのワシの面目は丸つぶれである。挑発を受けようとも耐えてくれ」
「父上。ご安心召されよ。私は父上の為に耐えるのでは無く、自分自身が立ち直る為耐えて見せましょう。絵里にふられて以来、大変長い間ご心配を掛けました。この叉とない機会に生まれ変わります」
「良くぞ申した。行って参れ。ワシも直ぐ追いかける」
「はッ」
母上が火打石の鑽り火で送り出す。
暁闇午前四時、江釣子神社境内は早くも大勢の担ぎ手の若者達でごった返していた。神輿庫から重さ千二百貫もある巨大な一番神輿を引き出して大鳥居をくぐるのは、想像以上に困難を極める。輦台に固定された神輿を数百本のころを宛がって、そろりと前に引き出す。と、同時に数十人に及ぶ担ぎ手達に等分に全重量を移し変えていく。少しでもバランスを崩すとひっくり返る危険がある。総代の弥ェ門は引き綱を引っ張りながら、先棒に取り付いて真っ赤になって唸る一弥に大声で叱咤する。
「右!右が下がっている。三番棒だ。少し前に出ろ」
「わっせい、わっせい!」
しゃがみ込んで担ぎ棒を支えていた担ぎ手が一斉に腰を踏ん張って、立ち上がる。神輿がゆるりと持ち上がり、前に進み始める。
「右廻り!右手は大きく回れ。左手は止まれ」
狭い鳥居を擦るようにくぐって、神輿は漸く往来に出た。総代の弥ェ門は重荷を下ろし、ほっとした。世界文化遺産平泉中尊寺金色堂を正確に模した金色神輿。先々代弥ェ門が今の金で五十億もの寄進をして、奈良法隆寺宮大工に作らせたものである。金色堂の正二分の一。一間半四方で寄棟。全体が金箔で覆われ本物と見構う。神輿が揺らぐ度に、朝日に照らされ燦然と輝く。神社前の参道には徹宵して待ち侘びた村人が押し合うように蝟集している。神輿は盛大に揉み合うようにうねって進む。早くも村衆達が祝い水をぶっかけてくる。
「わっしょい、わっしょい」
一弥は担ぎ棒に肩を預け、弓なりに反って踏ん張りながら進む。見物人たちから羨望の熱い眼差しが注がれているのを感じる。灰色の法被、晒木綿の腹巻、締め込み、白足袋はだし、被り物は斜めにキリッと巻いた捻り鉢巻。いなせな一弥の姿を一目見ようと、娘達が嬌声を上げている。ギラギラ照り付ける強烈な日差し、わっせい、わっせいと声を合わせる。途切れなく浴びせられる水、村は興奮の坩堝の中にぶち込まれた。街角では神輿を担ぎ手全員が両手を伸ばす差し上げが行われ、観衆は喝采する。皆汗と休み無く浴びせられる水で、ずぶぬれだ。担ぎ手は次々交代する。あまりの重量に疲れ果ててしまうからだ。しかし先棒の一弥はそれも許されぬ。最後の宮入まで担ぎ通す。参道を出ると左に折れ西に向かう。国道旧107、秋田道だ。
三時間が経過した。疲れ果ててはいたが意気は軒昂している。やがて石羽根の堰堤だ。曽祖父が苦心惨憺し、構築したあの佳寿弥堰。否が上にも興奮の度合いは増す。するとせいやッ、せいやッの掛け声と共に堰上を引き返してくる、漆黒の巨大神輿が姿を表した。和賀の羆と恐れられる喧嘩神輿だ。担ぎ手全員が熊皮の褌を締め、上半身裸形の黒い剛毛で全身が被われた山賊の出で立ち。これ以上無い悪相の人間を集めたようだ。堰上は幅三間。とても擦れ違えない。一間半の金色神輿が差し上げで辛うじて通れる狭さだ。羆神輿もそれ以上の大きさ。互いに譲らず、じりじりと堰中間点に迫る。
「青瓢箪の小倅のカズヤが先棒とは笑わせやがる。手前ェはオカマなんじゃから、尻を向けて下がりやがれ。そこどけッ!」
「熊野郎。不潔で性悪なツラ、みたぐは無ェ。手前ェらこそ道を譲れ」
見物の村人も責め囃す。怒号が飛び交い、喧喧諤諤。ガツンと音を立て二つの神輿が激しくぶつかり合う。
「引けェ!引くんだ!」
弥ェ門が声を嗄らして叫ぶ。先棒を担ぐ一弥等は懸命に弓なりになって、駕籠の行き脚を止めようと踏ん張る。
「羆神輿の先棒は和賀熊五郎、お前ェだな。ボブサップみてえな面しやがって。少しばかり下がれば、我らの引き返し点、堰中間に安置されている江釣子神社お旅所にたどり着く。下がれ」
「何を!糞爺。誰かと思えば、引き篭もり一弥の親父、弥ェ門じゃねえか。息子が青瓢箪なら、テテオヤの弥ェ門はそれに輪掛けたうらなりの皺くちゃだぁ。道理でお前ェらが作る野菜、いつも萎びて食えた代物じゃ無ェ」
「おい。熊五郎。エラそうな口訊くんじゃ無ェ。それともナニか?熊皮の褌なんか締めてやがるから、タマタマが蒸されてふやけ、使いモンに成らねえンで焦ってやがるのケ」
「アホ!貴様ら親子揃って村の娘っ子、誰一人も振り向か無ェ。超もてない哀れなウラナリ。タマキンも使いようも無ェだろうが。ワッハッハァ」
「ウヌ。笑ったナ。熊野郎。このワシを誰だと思っておる。言わずと知れた和賀十万石領主、伊藤弥ェ門和重が末裔、二十五代弥ェ門と嫡男一弥である。ものども頭が高い。控えおろう」
「糞爺。今は何時だと思っている。平成十八年。二十一世紀である。時代遅れの馬鹿神輿、ふっとばしちまえ。押しつぶせェ。熊軍団よ。一気に行けえ!」
「小癪な。是まで言われ耐え忍ぶのは、モウ我慢出来ねえ。一弥。豚熊のど阿呆を叩き潰せ。遮二無二突っ走れ!!」
弥ェ門の激しい檄。一弥達は態勢を前のめりに入れ替え、猛然とうねって前に迫り出した。
「わっせィ、わっせィ」
「セイヤッ、セイヤッ」
ゴンという担ぎ棒のぶつかり合う音。入り乱れる軍団同士の激しい競り合い。蹴りを入れる者。拳固で殴りつけるもの。阿鼻叫喚の生き地獄。
「一弥!低く押し出し、一気に捏ね上げろ」
相手の棒先の下にこちらの棒をこじ入れ、捻りながら巻き上げる。満身に力を込め、全員が玉の汗を滴らせ、じり、じりっと神輿を持ち上げて行く。羆神輿は南部鉄で拵えている。重心が高く、捻られると神輿重量の重さで忽ち傾き、ズズっと滑って、担ぎ手数十人をぶら下げるように傾いで、もんどりうって哀れ堰下数十メートルの水面に転がり落ちた。
「う、わァ」
「やった。やったぞ。一弥でかした。正義の金色神輿が、悪の権化羆神輿を葬ったり」
「父上。してやりました。積年に渡り、常に和賀の羆に負かされ続けた、我が金色神輿がとうとうやっつけました」
意気揚揚と堰中央のお旅所まで進んだ江釣子神輿は、見物の大観衆から歓呼を受け、高々と神輿を差し上げた。拍手や口笛の嵐である。
「勝った。勝った。えらいぞ、弥ェ門。えらいぞ、一弥」
意気の上がった金色神輿は勢力を取り戻し、道々で歓声を受け、ゆっくりともと来た道を引き返し、正午無事神社へ宮入を果たした。
「ご苦労であった。宮出しより巡行、堰にて羆神輿を突き落とし、無事宮入を果たすことが出来た。宮元総代の勤め恙無く終えることが出来、弥ェ門感激しておる。単に一弥。お前の働き実に見事であった。礼を言う」
「何の。父上。父上のお導きがあったればこそでございます。礼を申しあげるのは私の方で御座います。父上。有難う御座いました」
親子の会話で又大歓声と拍手。
「今日はゆっくり休め。お神酒をたっぷり飲んでナ」
「はい。父上。一弥、なにやらすっきり致しました。是までのもやもやした鬱屈した気分が吹き飛び、身体の隅々までやる気が横溢。明日から久しぶりに農作業、頑張ります。それと嬉しいことに完全に自信を無くしていた女性へのアプローチ、出来そうな気がしてきました」
「良かったのお。母上も喜ぶぞ。はよ家に戻って報告せい」
「これも江釣子神社のお導きかと存じます。神殿に額づいてお礼の参拝を済ませ、お神酒を頂いて帰ります」
「そうか。ワシは一足先に戻っておる」
ひどく疲れていたはずだが、お神酒をしこたま飲んでも少しも酔いが回らぬ。若い女性たちが代わる代わる一弥と一緒に記念写真を撮ろうとせがんで来る。皆格好がいいと褒める。悪い気はしない。女の子に誘われ昼飯をご馳走になり、そこでも飲んで騒いだ。夕刻、やっと開放され疲れた体を引きずって一人家路を辿る。薄暗くなってきた。江釣子中学の横まで来た時である。校舎の裏の薄暗い場所で何やら人だかり。近づくと数人の男達が若い一人の女性を今正にレイプしようとしている。男達は和賀熊五郎以下、今朝羆神輿を担いでいた悪党達。嫌がる女性の浴衣を無理やり脱がそうとしている。女の子は猿轡を嵌められ声も出せないようだ。
「馬鹿者!か弱き女性を犯す卑劣な野郎共。許せネエ!」
一弥は塀を飛び越え男達の間に割って入った。凄ざましい拳固や蹴りが一弥を襲う。
「なにしやがる。もうちょっとで犯せるところだ。な、なんでえ。貴様今朝俺達と神輿を堰堤の断崖から突き落とした一弥じゃ無ェか。トンで火にいる夏の虫。みんなぁ、畳ンじまえ。二度と神輿を担げなくしてやれ」
「熊五郎。手前ェ以前からトンでもねえ、悪ガキじゃったが、とうとう婦女暴行。犯罪者の極悪人。天誅を加えてやる」
「青瓢箪が何抜かす。死ね!」
悪ガキ連は一斉に一弥目掛けて飛び掛り袋叩き。忽ち一弥は血だるま。連中が一弥に暴行を加えている隙に女性が携帯で警察に連絡したのであろうか、パトカーのサイレンの音。
「い、いけねえ。サツだ。女。サツを呼びやがったな。覚えていやがれ。や、野郎ども、やべえ。ズラかろう」
身体中を殴る蹴るの打摘を受け、苦悶のあまりのた打ち回る一弥。女性はやっとのことで目隠しと猿轡を外した。
「ど、どなたか存じませんが、危ないところスンでのところを助かりました。まぁ、大変なお怪我。だ、大丈夫ですか」
這いずりながら近づいた女性を見て、仰天した。毎晩毎日夢に見る女性、あの、絵里その人。
「え、え、え、絵里さ・・ん。絵里じゃないか・・・あ、あ、逢いたかった。死ぬほど逢いたかった・・・」
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