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半透明なシナプスの恋 作者:藤山素心
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第7話 バランスの悪い人


 数日後。

 慎之介が備品として「犬百科」という写真集を買ってくれた。
 それを元に最初のページから順に犬種を1種類ずつ、それぞれ20回ずつ哲子にイメージ抽出してもらった。

 毎日ただ黙って目を閉じたままヘッドホンをする。
 そして「犬百科」の1ページずつをイメージし続ける。
 それは単調な作業の繰り返しで、端から見ていても楽しそうなものではない。

 だが哲子は文句ひとつ言わず繰り返しイメージを抽出し続けた。
 手先の器用さもいらない。
 誰かの顔色をうかがうこともない。
 ただ集中して犬なら犬だけをイメージしていればいいこの作業を、むしろ哲子は楽しそうにこなしている。
 なによりこれは哲子にしかできない。

 その間に修一は出力装置の開発を進めていた。
 残念ながら、まだこちらは机上の理論でしかない。
 ハードウェア部分を実用化に向けて総合的に調整すること。
 ソフトウェア的に抽出した脳波形のエンコード。
 映像機器側でのデコードを完成させることなど。
 問題は山積みだ。

 だが、それがいい。
 こうして夢中になって頭を動かしている限り、あの不快なフラッシュバックに苛まされることがないのだから。

「修っぴ。8ページ目の犬、20回目終わった」
「お疲れ。次、いけそう?」

 モニターから振り向きもしない修一に、哲子は申し訳なさそうに声をかける。

「いつも度々すまぬのだが」

「ん?」

 ようやくモニターから視線を外し、修一はキーボードから手を下ろした。

「もうお昼じゃあないかね」

 修一は壁掛け時計を見て我に返った。
 正直、めんどくさいし空腹感もない。

「またか……昼、いらない」
「このところ毎日、お昼食べてないけど」
「そう?」
「朝ご飯、食べた?」
「……うん?」

 生返事になっていることは修一自身も理解している。
 しかし今は優先順位が圧倒的に違う。

「じゃあ私、社食に行ってくるから」
「あいよ」

 哲子は乱れた髪を簡単に手で直し、開発部の部屋を出て行った。

 静寂の中。
 意識がモニターの中のプログラムに吸い込まれるような錯覚。
 むしろ修一はそれに酔いしれた。

 この感覚で物事に集中している時、いつでもそれはうまく進んだ。
 余計な雑念のない、純粋な思考の連続が生み出す痺れのような感覚。
 ピアノを弾き続けるように、ただひたすらキーボードを叩く。
 ミスタイプもバグも感覚で察知できる。
 次の演算など入力する前から湧き出て来る。

 そんな感覚の時、修一は決まって空腹を感じない。
 もちろん日頃から空腹感がどういったものか具体的に説明できなかった。
 時間がきたら仕方なく、みんなと同じように食事をしていただけ。
 大学の研究室で倒れてからは極力そう努めていた。

 しかし今はこの感覚の方が大切だ。
 この勢いで次の――

「――たら、修っぴ!!」

 どこからか名前を呼ぶ声に、修一は思考の深い海底から引き上げられた。

「え?」

 急に視野が広がり、天井の蛍光灯が瞬いているのを感じる。
 ここは大学の研究室ではなく、タカギ製作所の開発部だと修一は改めて認識した。

「あれ、哲子さん。昼メシは?」

「なに言ってんの! もう7時に」

 哲子の言葉を遮るように修一を尿意が襲う。

「やべ。シッコしてくる」

「ち、ちょっと!」

 急いでトイレから戻り、修一は再びモニターの前に座る。

「さ、次」
「あのさぁ」
「なに?」
「だから、もう7時だって」
「ん? ああ、そう……だね」
「そうだねって、帰ろうよ」

 そうは言っても、ここからが正念場。
 それが哲子には分からないのだ。

「区切り、悪ぃんだ」
「区切り?」
「今の演算と解析、もう少しで終わるし」

 哲子から深いため息が漏れる。

「あと、どれぐらいよ」
「……6時間、ぐらい?」
「ろ、6時間!? 続きは明日やろう!」
「そだね」

 言葉とは裏腹に修一はキーボードを叩き始めていた。

「それ逃げたりしないから! 明日でいいから!」

 キーボードを叩く手をわずかに止め、修一は奥歯を噛みしめた。
 こうなってしまうと自分でも感情がコントロールできない。

「頼むよ、哲子さん」

 哲子には申し訳ないが、できれば理解して欲しい。
 むしろ哲子なら理解してくれるだろうと、修一は根拠もなく信じていた。

「わかった……じゃあ私、帰る」
「寮のボードに『外泊』って書いといて」
「外泊? わかったけど、ちょっと待てそれ男子寮。私、女子寮だから」
「せんきゅー」
「聞いてないし……」

 ゆっくりと閉められたドアの向こうに哲子は消えていった。

 これで誰にも気兼ねなく作業に集中できる。
 修一は自我の境界線がぼんやりするような感覚に包まれながら、静まりかえった開発部で黙々とプログラムを叩き続けた。
 意味のない銀細工に明け暮れるより、どれほど充実していることか。

 できる限り実際の空間を意識して、空気中の成分や塵の平均密度等を計算に入れる。
 その上で屈折率の調整と光源の強さを決めなければならないが、使用する予定のCPUの発熱量が問題だ。
 その微調整のために莫大な量の計算式が必要となる。
 そのかたわらで、哲子が抽出してくれたイメージの脳波形も平行して解析しなければならない。

 もうひとり、自分が欲しい。

「ま、オレみたいな人間がもうひとりいてもね……」

 開発部のスリガラスからは煌々と明かりがこぼれ、まるで蛍の儚い光のようだった。

 修一は外界からの刺激を遮断して、頭の中だけにある設計図に没頭する。

 余計な物を「見ず」「聞かず」「話さず」生活すれば、人間は素晴らしい能力を発揮できる。
 このことを昔の人は知っていたのだ。

 大学の研究室でもそうだった。
 三牧の実験室でもそうだった。

 体中を妙なホルモンが毎日流れ続け、疲れが疲れとして認識されにくくなる。
 そして時々、失神するように椅子で眠る。
 それでも2~3時間すれば自然に目が覚めるのだ。

 できれば日の高いうちに工場内をウロウロしたくない。
 人と違う時間に活動していれば美紀と鉢合わせすることもない。

 一番忘れてしまうのが食事だったが、哲子が必ず声をかけてくれた。
 モニターの前から離れたくない時は、しばしばブロック状の固形食を何個か買ってきてくれる。
 ありがたいことに、時々おにぎりや味噌汁のカップを織り交ぜてくれた。

 困ったことは工場の保守問題だった。
 日曜日はどうしても開発部を追い出されるので、渋々と寮に戻るしかない。
 しかし寮では部屋の鍵を明けっ放しで眠るだけ。
 ただ床で死んだように眠っていれば、すぐに希望の月曜日がやって来る。

 この繰り返しが修一にはとても心地よい。

 そしてこの日を境に、修一は寮に戻らなくなっていった。


▽ ▽ ▽ 


 現実の時間が意味を持たなくなっていく中。
 修一は今日も開発部で作業を続けていた。

「こら、修ちゃん!」

 勢いよく開発部のドアを開けて入ってきたのは会長の慎之介。
 この時間にはいつも河原で釣りをしているはずだった。

「あ、慎さん」

 どさっと椅子に座った慎之介は、修一を見るや大きくため息をついた。

「なんてこったい……どうやら哲子さんの言ってたことは、本当だったようじゃな」
「どうかしたの?」
「どうかしてるのは修ちゃんじゃ!」

 慎之介はいつになく厳しい口調だ。

「オレ?」
「昨日、哲子さんが河原に来て『修っぴが瀕死』ってげっそりしとったぞ」
「死なねぇって」

「鏡を見てみなさい」

 慎之介の表情は見たことないほど険しい。

「なんで」

「いいから、流しに行って鏡を見てみなさい」

 仕方なく軋む体を起こし、修一は曇ったステンレスの流し台にある小さな鏡を見た。

 そこに映っていたのは馴染みのない別人だった。
 皮膚の張りを失った血色の悪い顔。
 無精髭はもみあげから境目を失ったまま伸び、貧相な顔貌を形作っていた。
 5kgぐらいは減った体重のせいで顔の輪郭が削げている。
 ボサボサに伸びた髪の毛は、知的活動をしている人間には見えない。

「あ? 誰これ?」

「それは修ちゃんじゃなくなった修ちゃんじゃよ。まったく、イケメンの面影もないぞ」

 修一は似合わない無精髭を他人事のように撫でた。
 慎之介は眉間のしわをさらに深くする。

「どうしたんだい、そんなに思い詰めて。なにを急いでるんだい?」
「いや、急いでるっていうか」

 すっと哲子から差し出されるお茶。

「修っぴ。これ飲んで」
「あ、さんきゅー」

 口にしたお茶は適正温度だったが、枯れ果てた喉には痛かった。
 喉元を熱い液体が過ぎ、みぞおちに貯まっていくのがはっきりと分かる。

「でも慎さん。もう少しで完成する――」

「修ちゃんは、なんにでも一途なんじゃな」

 しばらく鳴りを潜めていた強烈なフラッシュバックが、修一に牙を剝く。


 ――言われたことない? けっこう一途だって。


 思わず修一は身震いした。

「……せっかく忘れてたのに」

 慎之介は工場から聞こえてくる金属音に、ぼんやりと耳を澄ましている。

「うちの職人は事務員も含めて、何故かこんな奴ばっかりじゃ」
「でもオレ、職人じゃないし」

 慎之介はそれに答えない。

「修ちゃんは、大学の頃からそうやって研究してたのかい?」
「かな」

 手に持った湯飲みをテーブルに置き、慎之介は前屈みに膝の上で両手をすりあわせた。

「いいかい。人間にはバランスが必要じゃ。食って、寝て、働いて、遊ぶ。そして豊かな喜怒哀楽。どれが欠けても、どれかに偏ってもだめなんじゃよ」

「意味わかんね」
「わしから見れば、修ちゃんはもう職人じゃよ。研究の職人ってとこかな」
「慎さん、持ち上げすぎ」
「いいや。自分の技を磨き続けて自分の腕にプライドを持つ男。その道1本の十分な職人さ」
「そんなモンかね」

 慎之介は修一を正面から見据えた。

「でもな、立派な職人じゃない。バランスの悪い偏った職人じゃ」

 どう理解すればいいか修一にはわからない。
 ようやくなにもかも忘れて研究ができるようになった。
 それを期待されて入社したはずだった。
 にも関わらず、それではだめだと慎之介は言う。
 もちろんバランスの意味もわからない。

「どうすりゃいいのよ」

 慎之介はまた、お茶をひと口すすった。

「簡単さ。終業のベルが鳴ったら会社を出て、好きなことして遊べばいい。そして食って、寝て、また明日から働くのさ」

「これ、好きなことなんだけど」

 修一はリターンキーをリズミカルに2度叩いた。

「なんか他に、やってみたいことはないのかい?」

「……ない」

 沈黙の後、慎之介がつぶやいた。

「誰かほら、彼女とかは」

 玄関を出て行く、長い黒髪の美紀。
 居酒屋のテーブルに座った、明るいショートボブの美紀。
 ここしばらく襲ってこなかったフラッシュバックが眼前を走る。

 まばたきを繰り返しながら首を振り、修一はなんとかそれらを追い払った。

「頼むよ……忘れてたのに」
「なんじゃ?」
「いや、別に」

「まぁいい。なんでもいいから、仕事以外のこともしなさい。一生懸命、それもしなさい」

 湯飲みを流し台に置き、慎之介は部屋を出て行ってしまう。

 修一は湯飲みを眺めたまま、途方に暮れるしかなかった。

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