挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
半透明なシナプスの恋 作者:藤山素心
5/26

第5話 オトナ女子と溶けた氷塊の歪な表面に映る捻れた風景


 まだ聞き慣れない終業のベルが鳴る週末。
 珍しく外食に誘う哲子に、修一は連れ出されていた。

 女子寮に住む哲子が、毎日飽きるほどメニューを眺めて楽しみにしている寮母の夕食を捨ててのこと。
 しばらく外食をしていなかったこともあり、修一には断る理由がなかった。

「なに食うの、今日」

「ん? お魚みたい」

 修一の知る限り哲子の味覚は小学生男子だ。
 大好きな物はカレーにとんかつ、ラーメン、チャーハン。
 焼き肉という言葉にも目がない。
 社食の焼き魚をボロボロに崩して食べている姿からは、美味い魚料理に誘うこと自体が想像できない。

「……みたい?」

 という言葉に修一がモヤモヤしていると、工場から歩いて来られる小さな居酒屋に着いていた。

「ここだね」

 暖簾のかかった引き戸の入り口に、毎日出し入れされる看板。
 居酒屋と言うよりは小料理屋に近い店構えは、どう見ても哲子の行きつけには見えない。

 修一の直感アラートが灯る。

「哲子さん。今日、なに?」
「サプライズだよ」
「は?」

 がらっ、と引き戸を開けるとカウンター席とテーブル席がいくつか。
 そのテーブル席に並んで座る女性が2人。

「こ、こんばんは――絵里子(えりこ)さんッ!」

「おいーす、テツコー。迷わなかった?」

 舎弟のようにお辞儀する哲子の向こう側。
 2対2の合コンのようにセッティングされたテーブルのふたりは、なにもかもが対称的だった。

 男っぽい口調の絵里子と呼ばれた女。
 アラサー感の否めない巻き髪ロングヘアー。
 胸元がぱんぱんに張った白シャツで襟元に小さなフリルという姿。
 それは彼女の体つきに対して意図的にタイトな物を選んでいるような印象。
 顔立ちも派手で化粧も濃いめ。
 フレグランスはジルスチュアート、テーブルで見えないがボトムは黒のタイトなパンツといったところかと容易に想像できた。

「遅くなりました!」

「ま、座んなよふたりとも」

「はい!」

 問題はその隣だ。

 哲子は当たり前のように絵里子の前に座る。
 必然的に、修一は明るい色のショートボブと向かい合わせに座るしかない。

「ほら、イケメン・ニューフェイスも座んなよ」

 締め上げられる鳩尾から胃の内容物が飛び出すような感覚に襲われた修一。
 心臓の拍動が鼓膜を伝って脳に直接響き渡る。

「ども」

 修一の手先が震え、それは腕を這いながら肩まで揺らした。

「こんばんは」

 その声。

 椅子を引いて座ると、少し視線を逸らして気まずそうに会釈するショートボブ。
 ちらりと向けられたその瞳。

 かっ、と全身の血液が修一の耳たぶにまで浸透する。

 あり得ない。
 その事象が起こる確率は神の意志が介在しない限りゼロに近いもの。

「わたしは池畑(いけはた)絵里子、こっちは七木田美紀。ふたりとも事務で庶務で会長のお守りしてる、タカギ製作所の美人ツートップといえば――」

 絵里子の声が遠のいていった。

 七木田美紀――
 それは修一のもとから永遠に消え去ったはずの存在。
 あの日、修一が入社式で感じた視線はこれだったのだ。

 一瞬にして背筋を鳥肌が駆け巡る。
 小刻みに震える奥歯を修一は止めることができない。

 長い黒髪を肩口までばっさり切って色を明るくしたせいか、昔の面影は残っていない。
 だがその声、その瞳が、修一に激しいフラッシュバックを誘発する。

 合コンで初めて会った日。
 海で観覧車に乗った日。
 玄関で背中を見送ったあの日。
 暗闇の稲妻に姿をあらわにする一瞬の映像。

「やっぱ、修ちゃんだったんだ」

 浮かんだ笑顔が修一の柔らかい部分をえぐった。

「ん? あぁ……」

「むかし言ってた慎さんって、会長のことだったんだね」

「まぁ」

 美紀に釘付けになった修一の視界に絵里子が割り込んでくる。

「おいこら、そこー。まだ開会の言葉を述べてないぞー」

「すんません」

 絵里子は予想通りジルスチュアートにまみれていたが、それどころではない。

 なぜ美紀がここに。

「ふたりとも、とりあえず生で良かった?」

「はい!」
「……哲子さん、テンション高ぇ」
「ほら修っぴ! 絵里子さんが聞いてるよッ!」

 修一は運ばれたビールジョッキをそそくさと受け取り、絵里子、哲子、そして美紀の前に置いた。
 手狭なテーブルには不要な調味料も空いた席に移す。
 体を動かしていないと、修一は破裂しそうだった。

「それでは改めて個別フラゲの新入社員歓迎会に、乾杯ぃー」

「かんっっっぱーいッ!」

 高々と掲げられた絵里子のビールジョッキに応えたのは哲子だけ。
 修一と美紀は所在なく、申し訳程度にジョッキを傾けた。

「どういうことよ哲子さん」

「え?」

 絵里子が勝手に頼んだであろう鰤カマ焼きを崩しながら、哲子はきょとんとしている。

「なにこれ」
「魚のアタマ丸ごとだけど」
「ちげーよ、この飲み」
「だからサプライズだって」

 哲子が意味を理解しているか定かではないが、ある意味では破壊的なサプライズだ。

「どのあたりが」
「昨日、絵里子さんに言われたのよ。修っぴの歓迎会やろうって」
「で?」
「私、すっかり嬉しくてね」
「そりゃサプライズ」
「え? 修っぴ、なんか用事あった?」

 修一は美紀と目が合った。
 なんでもないことが心臓に悪い。

「ない……けどオレ、臨死レベルのサプライズ」
「おおげさ」

「ところで自己紹介はァ?」

 胸元のザックリ開いた白シャツで身を乗り出し、刺身の盛り合わせ六点を受け取ろうとする絵里子。

「あ、オレ取ります」
「気が利くねェ、イケメンは極める角度が違う。飲んで」
「はぁ」

 飲みたくもないビールだったが飲まないわけにはいかない。
 渋々とジョッキに口をつける修一を、美紀がじっと見つめていた。

「……オレ、ちょっとは大丈夫んなったから」

「そっか」

 その雰囲気に絵里子がカチンときた。

「ちょっとアンタらねー。なにそのもうコッソリできちゃってるけど、隠したいのに隠せず滲み出ちゃう濃縮会話。初対面じゃないの? 説明しなさいよ、美紀ぃ」

 修一はこのタイプの女性が苦手だった。
 いつもなら飲ませて酔わせて色々と終わらせるところだが、相手は職場の先輩。
 特に女性では大変面倒くさいことになる。
 一時の逃避目的で新しい生活を潰すことはできない。

「絵里子さん。あたしたち、学生の頃の知り合いなんです」

 知り合い――
 その鈍器のような美紀の言葉に、修一の芯が折れた。

「そうなの?」

「……そうですね」

 間違ってはいない。

「どの程度の知り合い?」

 これぐらいの返しで後に退くアラサーを修一は知らない。
 命を乞う時は、命を握る者を満足させるしかないのだ。

 ちらっ、と美紀の視線が修一に投げかけられる。
 まずは修一がどう答えるか待っているようだ。

「はぁ、まぁ……」

 言葉を濁すしかない修一に美紀が手を差し伸べた。

「あたしたち、友達でした」

 トモダチ――
 知り合いからは昇格したが、ねじ切られた修一の心臓は奈落の底へ向かう。

 もろきゅうを口に運びながら、哲子はクイッとメガネで修一を見あげた。

「知らなかったぞ、修っぴ。水腐れな」
「水臭い、ね。きゅうり落ちたよ哲子さん」

 絵里子は黙ってビールを流し込んでいたが、視線は修一に絡みついたままだ。

「知りたいねェ。そのイケメンのしなやかな指先が、どんな秘奥義でメロディを奏でてたのかを」

「修っぴ、ピアノとか弾けるの?」
「いや、たぶんエロい表現。だから、きゅうり落ちたって」

 じっと見据える美紀の姿が修一の目に痛かった。

「なに?」
「修ちゃん開発部では、修っぴって呼ばれてんだ」
「哲子さん命名」
「そっか」

 そのまま黙り込んだ美紀の背中を絵里子がどんと叩く。

「おい美紀ィー。失われた情欲の炎、剥き出しかァ?」
「絵里子さん。あたしたちホント、そんなカンジじゃなかったんです」
「じゃ、どんなカンジよ」

 ほとんど哲子がボロボロに崩してしまった鰤カマの皿を持ち上げ、修一は新たに運ばれた軟骨の唐揚げをテーブルの真ん中に置いた。

「料理、来ましたよ」

 どんなカンジもヘチマもない。
 修一にとって美紀との時間は、氷らせて心の奥底に保存してあるものがすべてだ。
 氷塊の歪な表面に映る捻れた風景を、時々思い出して眺めるだけ。
 終わらせることができなかった過去。
 せめて大切にその姿が二度と現れないよう閉じ込めておくしかない。

「Yo、イケメン。思い出は甘酸っぱい系?」
「いや、別に」
「クール」
「なに飲まれます?」

 空になったジョッキを受け取り、修一はメニューを絵里子に渡した。

「酔わせて黙らすつもり? 手慣れてるゥ」
「違います」
「イケメンはなに飲むワケ」
「あんま、飲めないんで」
「自分は理性を保ってアウトボクシングに持ち込む。わたしだけパンチドランカーとか、ある意味プロ?」
「意味わかんね」

 美紀は笑っている。
 だが修一の記憶に残っている笑顔とは別の顔だった。

 ズキズキと修一の真ん中が痛む。

「ところでイケメン千葉君に質問なんだけど」
「なんですか」
「とりあえず、社会人1年生としての抱負を一言」

 懐かしくも新しい美紀の顔を眺めながら、修一は壁にもたれて天井を仰いだ。

「抱負ですか……」

「うっわ、イケメンの破壊力は仕草の端々に宿るね。ね? 美紀」

 同意を求められて美紀も返答に困るだろうが、顔に出すぎるも考え物だ。

「そう、ですね」

「あんなの毎日見せられてたんだ」
「ま、毎日じゃないです」

 修一の溜め息は止まらない。

「あの、まだそれ引っぱるんですか?」

「あ、ゴメン。では千葉君、どうやってヨリを戻すつもりか四百字詰め原稿用紙二枚程度にまとめてどうぞ」

 絵里子の矛先は変わらない。猛禽類の爪は一度掴んだ獲物を離しはしないのだ。
 哲子すら目を丸くして修一に注目している。
 なによりも言いづらくしていたのは、変わらずまっすぐな美紀の瞳だったのかもしれない。

「ヨリとかじゃなく――」

 気持ちの塊を言葉にしようとすると、それは修一の中でいつも霧のようなつかみ所のないものに変わってしまう。

 言いたいことはひとつだが、吐き出すべき言葉の選択肢が多すぎる。

「――いろいろ精算します」

 そしていつも間違ってしまう。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ