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半透明なシナプスの恋 作者:藤山素心
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第16話 無慈悲で残酷なフラッシュバック


 大学3年の頃。
 嶋田(しまだ)准教授の研究室(ラボ)でただ1つ分かったことは、大学の研究室は物を売らないという当たり前のことだった。

 研究室では研究するばかりで、いつになっても物は売れない。
 そしてその研究もこの准教授の手伝いをしてから実績という物を手に入れ、その上で誰かに研究費をもらい、それから自分の研究を進めて、それから――

 それが気の遠くなるような未来の話だと気づいた時、修一は大学の研究室に行く意義を見失って部屋に引きこもった。

 自宅のアパートにいても、ぼんやり考え込むばかり。
 研究室に入り浸りでほとんど帰っていなかった部屋は足の踏み場もない。
 洗濯物は溜まり、台所の食器には原色のカビが生えていた。
 大学にいる意味がわからない。

「……つまんねぇな、こんなの」

 珍しく携帯電話が鳴った。
 厳密には、かかってきた電話に修一が珍しく気づいた。

『もし、もし? 修ちゃん……だよね』

 美紀は受話器の向こう側で、自信なさそうな声だ。

「だけど」

『良かった。最近ずっと電話も繋がらないし、メールも返事くれないし、死んじゃったのかと思った』

「悪ぃ。ずっと研究室にいたから」

『ずっと?』

「ずっと」

『大丈夫? 修ちゃん』

「なにが?」

『なにがって……修ちゃん、今から時間ある?』

「あり余ってる」

『じゃ、今から行っていい?』

「どしたの」

 美紀は深いため息をついた。

『どうしたのって、修ちゃんが心配だからでしょ。来て欲しくないの?』

「……いや、そうじゃないけど」

 そこで通話は一方的に切れた。
 美紀がなにを急いでいるのか分からない。
 修一にはなにもかも分からないことばかりだった。

 30分もしないうちに、大学近くにある短大に通っていた美紀がアパートのドアをノックしていた。
 部屋に来るのは、確かこれで3度目だ。

「開いてる」

 薄い金属のドアを開けて美紀が顔をのぞかせると、入って右手にある台所の惨状に顔を歪めた。

「ちょっと、なにこれ?」
「は?」
「は、じゃないよ。なんなの、この台所」
「あぁ……悪ぃ」

 美紀はバッグを玄関に放り投げ、取りあえず台所をかたづけ始めた。
 部屋の中に久しぶりの生活音が流れる。

「修ちゃん。ほんとに、ずっと研究所にいたんだね」
「まぁ、ほとんど」
「それでこんなに連絡取れなかったんだ」

「こんなに?」

 その言葉に嫌な予感が走る。

 カレンダーの日付を改めて見て、修一は事の重大さに言葉を失った。
 4か月が過ぎている。

 ガラケーの着信履歴は美紀からの電話とメールで一杯だ。
 そのうち返事をしている形跡があるのは数えるほど。
 電話に至っては、ほとんど折り返していない。

「悪ぃ」
「……いいよ、修ちゃん嘘つく人じゃないし。ご飯とかも、食べるの忘れてたんじゃない?」
「よく言われた」
「やっぱりね。お茶飲む?」
「あ、オレが煎れる」
「いいよ、あたしやるから。どこにあるか教えて」
「いや、オレが」

 言葉に逆らうように立ち上がった修一。
 なんとなくこの場は、自分が美紀にお茶を煎れるべきではないかと思った。

 狭い台所で洗い物をする美紀と並んだが、話をするのはいつ以来か。
 なにを話したのかすら修一には思い出せない。

「ねぇ、修ちゃん」

「なに」

 美紀はわずかにうつむいて、水道の蛇口から流れる水に手を浸していた。
 その手に食器はない。
 ただなにかを洗い流すように、自分の手をじっと見つめている。

「修ちゃんは、その……やっぱ彼女とかいると、めんどくさいカンジ?」

「彼女?」
「うん」
「まあ、いた方がいいんだろうけど」
「でも、作らないんだ」

 修一も手を止めて黙り込む。

「彼女いても、なにしていいかわかんねぇし」

 美紀と台所に並んで立ったまま、修一は淡々とお茶の葉を急須に入れた。
 これからどういう会話をしていいのか、さっぱり想像がつかない。
 それを察してか、いつも美紀から話を振ってくれる。

「あたし、今年短大卒業なんだ」

「就職は?」

「ううん、まだ……」

 美紀は首を振るだけだ。

「お茶、入ったけど」

「修ちゃん」

「なに」

 美紀が袖をつかむ。

「あたしのこと、嫌い?」

 予想もしない言葉に修一は動揺した。

「いや……嫌いじゃないけど」

 修一はもっと言葉を選ぼうとしたが、思うように出てこない。

「そう……」

 それ以来、美紀は黙ってしまう。

 こんな時に気の利いた会話のできない自分が、修一は心の底から情けなかった。
 言い寄られた女にはあれほど適当に返せるというのに、美紀のことになるとなにもかもが円滑に機能しなくなる。

 修一は必死に美紀の心を推測してみる。

「今日、なんかヘンじゃね?」

「ん? うん……」

 だが、あいにく何も思い浮かばない。

「就職探し、オレも手伝うよ」

 修一が思いついた精一杯の会話がそれだった。

「そうじゃなくて!」

 台所の流し台から視線を上げ、美紀は激しい感情を吐き出した。

「え?」

 その瞳がわずかに潤んでいたことに修一は気づかない。
 いつもと違う瞳の色を、ただ美しいと感じていた。

「修ちゃんにとって、あたしってなに?」

「なにって」

 千葉修一にとっての七木田美紀――
 友達になってくれた最初の女性。
 美紀と会って話をすることは、とても楽しい。
 それを美紀が楽しんでいるかどうかはよくわからない。

「わかってる、つもりだけど。修ちゃんてカッコいいけど悪い人じゃない。むしろ不器用で無愛想で……けど……」

 明らかに美紀は苛立っている。
 それぐらいは修一にもわかった。

「オレは」

 美紀が今までになく険しい表情を向ける。

「修ちゃん、なにもしないよね」

「……しない?」

「初めて会ってから1年以上経つけど、修ちゃんあたしになにもしないよね」

 修一の脳裏に、初めて美紀と出会った合コンの言葉が鮮明に蘇る。

 ――特別なことはなにもしなくていいよ、友達だからって。

 やはりあれは社交辞令だったのだ。
 友達だからといって、なにもしなくていいはずがない。
 そんなことは少し考えればわかるはずだと、修一は激しく後悔した。

 美紀は狭い台所で向かい合ったまま、せきを切ったように言葉を並べる。

「なにも言わないし、なにもしてこないじゃん。ズルいよ……好きとも嫌いとも言わない代わりに、変なとこで紳士的に振る舞うとか」

 手にした湯飲みに口を付ける余裕がなくなる。
 体全体が動揺し、修一は今にも湯飲みを落としてしまいそうだった。

「知ってた? 修ちゃんあたしのこと、一度も名前で呼んだことないんだよ」

 なにが起こっているのかわからない。

「それは――」

「あたしの部屋に来たいとか、思ったことない?」

「今から?」

「違うよ!」

 それが的外れな返答だと一瞬で理解できた。
 虫が這いずり回るように、修一の背中を不快な鳥肌が覆う。
 しかし、だからといって適切な言葉が見当たらない。

「間違った……今の、ナシ」

 美紀の頬を一粒の涙が流れた。

「修ちゃん、やっぱりおかしいよ」

 膨張した空気がはじけ飛び、美紀の両肩から力が抜けていった。

「女の子に困ったことないでしょ? なのに、なんであたしなんかを隣りに置いとくの……名前も呼ばれたことない……何ヶ月も研究室に入り浸ってなにもかも忘れちゃうのに……でも結構、あたしはそれでも――」

 美紀は言葉に詰まった。

 そして、永遠に続くかのような沈黙の後。

「――やっぱりだめだな、あたし」

「だめ?」

「今日はこんなこと言うつもりなかったけど、ごめんね修ちゃん。あたし、やっぱりだめだよ……」

 修一は激しい動揺の荒波に抗いながら、言葉を噛みしめてみた。

「……だめ?」

 それ以上、なにも浮かんでこない。
 自分に背を向けてカバンを手に取る美紀に、うまい言葉が見つからない。

 いつもの修一なら、この場はこのままやり過ごす。
 むしろ、終わりを歓迎するかのように。

 だが今は違う。
 この感情は、修一が今まで経験したことのないもの――
 息苦しく、嫌な汗で手のひらは湿っている。

 玄関で靴を履きながら美紀は振り返った。
 それは美紀の、最後の淡い願いだったのかもしれない。

「あたし、修ちゃんのこと好きだったけど、理解しようとしたけど……」

「え……好き? オレのこと?」

 想定外の言葉が修一を混乱させる。

「そうよ」

「好きって……友達として?」

 美紀は黙ったまま背を向けた。

 ついに最後まで、美紀の意志を理解することはなかった。

「さよなら」

 最後の言葉を残し、ドアはゆっくりと締まった。

 今はただ、それを黙って見送るしかない。

「……なんだ、コレ」

 修一は玄関に膝を抱えて座り込んだ。
 ひんやりと冷徹な床が芯から体を冷やしていく。

 そして頬を伝う涙に、修一は初めて気づいた。
 今まで経験したことのない感情――
 これは恐らく友達に対するものではない。

 だが気づいた時にはもう、それは手のひらにはない。
 淡い雫はその指をすり抜け、こぼれ落ちてしまった。

「名前?」

 そしてようやく修一は言葉にする。

「七木田……美紀」

 その名前を繰り返しては噛みしめ、修一は初めてその響きの意味を知る。

「七木田、美紀……」

 関を切ったように、修一の瞳から涙がこぼれだした。

「つまんねぇ人間なんだな……オレは」

 修一がその後、二度と美紀に連絡を取ることはなかった。


「――君! ちょっと千葉君、大丈夫!?」


 ここはアパートでもなく大学でもなく、ボーリング場。
 ここはアパートでもなく大学でもなく、ボーリング場。

 残酷なフラッシュバックに身震いしながら、我に返った修一は現実の時間の中で肩をすくめていた。
 絵里子が棒状のアイスの包み紙を剥きながら、怪訝そうな表情でのぞき込んでいる。

「あ、絵里子……さん」

「どうしたの急にフリーズしちゃって! 体調でも悪いの!?」

 棒アイスをべったり舐めながら巻き髪をかき上げる。
 その姿は品定めでもしているようだ。

「いや、別に」

「……なら、いいけど」

 この無慈悲で残酷なフラッシュバックを、なんとかしなければいけない。
 そうしないとまた、なにかを失ってしまう。

 そんな思いに修一は駆り立てられていった。

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