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4章 埋まらない距離は誰のせい?
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 ◆ 

 柊といえば、節分の時にはイワシの頭に刺して玄関に飾るものであり、クリスマスの時にリースやツリー等に飾るものであり、魔除けのおまじない的なものとして古来よりなじみ深いものです。
 それだけ柊という植物は神聖なもの、邪念の欠片もないもののはずでしょう。
 しかしこの柊という名前の人は、それらからはかけ離れた印象というか。
 私は極度の緊張で胸が張り裂けそうでした。滲んだ汗が背中をつたい、心臓は早鐘を討ったよう。神聖なものを前にしているからではありません、きっと。
 まるで人形のような端正な顔立ち。艶やかな黒髪。私を映す瞳は磨き抜かれたアメジストのように冷たく輝いて、こぼれる歯は真珠のよう。きめ細やかな肌は男の人とは思えないくらい瑞々しく、透明感があります。その完璧な美しさは、生きて動いているのが奇跡のようです。恐怖を覚えつつも、それくらいのことは私にもわかりました。
 だというのに、サーモンピンクのスーツ。あまりにも不自然な組み合わせな気がするのに、それを普通に着こなすこの人が恐ろしい。こんなに完璧なほど美しい人間を前にしているにも関わらず、ただ私は足が震えていました。そう、美しい姿を繕っただけの邪神を相手にしている、そういう気分です。
 だって、この人の第一印象として、鞭とヒールと黒いスーツがきっとよく似合う、サディスティックな雰囲気を感じとったのですから。
 一瞬、獲物を狙う豹のように鋭い光りを瞳に宿し、逃がさないと言わんばかりの表情を浮かべます。私は蛇に睨まれた蛙のごとくその場に固まり、瞬きばかり何度も繰り返しました。何この状況。聞いてない。早く、ここから出なくては。

「〝とりあえず、そこのソファーへどうぞ。桜〟」
「あ、あの……っ」

 半ば強制的にソファーに座らされて怯える私を見下ろし、ふと彼は表情を和らげて懐かしむような笑みを浮かべ、早口で言います。

「〝どうしたの、黙っちゃって。ほら、柊お兄ちゃんだよ。ね? 本当に覚えてない? 前みたいに、お兄ちゃんって呼んでくれないの?〟」

 何言ってるんでしょうかこの人。柊、柊お兄ちゃん? 他人の趣味にとやかくいうつもりはありませんが、仮にも教員が、生徒にそういう遊びを強要するのはどうかと思います。そういうことがしたいならプライベートな時間にどうぞ。

「〝わ、私なにもし、知りませ――〟」

 柊と名乗ったその人は、唇の端を釣り上げ、私に迫ってきました。
 私の全身を舐めるような視線。居心地の悪さから、ソファーに飛び乗って後ずさり、さっと身構えます。

「〝な、何ですか! というか、あなた一体誰ですか!〟」
「〝ああ、これは失礼。私の名前は柊・S・アーデン。9月からこの学園で教鞭を執ることになった〟」
「せ、先生なんですか? それなのに、そんなドピンクのスーツ着てきて、恥ずかしくないんですか? いい年した大人が。一瞬間違えて変な部屋に入ったのかと思いましたけど!」

 言ってから、しまったと口を押さえても時すでに遅し。仮にも先生に対して私はなんということを言ってしまったのでしょうか。たとえそれが本当のことだとしても、それは本人に言うべきではなかったのに。ただ私の胸のうちにとどめておけばいい話だったのですが、何でしょう、のりというのは恐ろしい。
 そして急に彼は黙りこくってしまいました。絶対怒ってる。絶対、英語の成績が下がる。せめて彼が公平な先生であることを願うばかりです。
 しかし、彼の言葉は私の憂慮に反するものでした。

「ははっ面白いなぁ。そう? うけると思ったんだけど」
 よかった、怒っていないのかもしれません。と、ほっと胸をなでおろしたのもつかの間のこと。
「〝でも、英語で話そうね桜。これ一応、抜き打ちテストだから。今のは減点ね〟」

 綺麗な紫色の瞳は一切の感情を遮断していて、とても冷たい光りが宿っています。やっぱり怒ってたのでしょうか。
 そして私の顔に伸ばされた冷たい手。

「さ、さのばびっち!」
 私は頬に触れたその手をばしっと振り払い、怯えながら柊先生を睨みあげました。
「〝さ、触らないでください!〟」
「あははははっ!」

 罵倒したはずなのに、お腹を抱えて笑っています。何ていうか、怖いです。

「昔はあんなに慕ってくれてたのに……。酷い嫌われようだ。そうやって、あの時も拒絶したよね」
「何言ってるんですか? 本当に私、何も知りません!」
「あ、そう。本当に忘れてるんだ。ふーん。俺もそれなりの覚悟で来たんだけど。まあいっか」

 人を食ったようなその物言い。何でしょうか本当に。早く帰りたい。

「先生、早くテストしてください」
「まあそう急かさなくても。俺はもっとゆっくり話したい」
「私は別に、先生とする話なんてありませんから!」

 ていうか、柊って日本人の名前じゃないですか。それにしては発音はネイティブだし、目の色だって紫色。これは二世とか三世とか、そんな感じでしょうか。
 彼は肩を竦めてやれやれと首を振り、黒いソファーに足を組んで深々と腰掛けました。どこか不遜なその態度。昔絵本で見た王様の風情によく似ています。大体、暴君でしたけど。

「〝はいはい。それじゃあ……夏休みは何をして過ごしましたか? できるだけ詳しく英語で教えてください。制限時間は3分です〟」
「〝入院してました。終わり〟」
「〝詳しく、と言ったはずだけど?〟」
「〝いや、本当に入院していましたので、これ以上言いようがないんです。すみません。それじゃあもう帰っていいですよね? さようなら、また今度〟」

 入院していたのは本当です、嘘はついていません。ただ、これ以上この人と一緒にいるのはなんとなく危ないと私の中の本能が告げているのです。
 近づくなとしきりに警報を鳴らすのです。

「そう? 残念でした。評価はCね。後日改めて追試ということで……」
「どうしてそうなるんですか! パワハラで訴えますよ!」
「だってそうでしょう? 入院していたのはわかったけど、それしかわからなかった。いつどこで誰が何をどうしていたか、全然わからなかったし」

 言いたくないことだって、普通わかるでしょう? そういうのを強要するなんて、人間として最低です。この男を教員にしたのはどこの馬鹿ですか。どう考えても教員としては不適格です。何故今私の目の前にいるのかわかりませんが、本当にありがとうございました。
 こういう人間に限って、人前では上手く繕えるのでしょう。周りの人間は、この人がどんな人なのかよくわからないけれど、その表面にコーティングされた人柄とこの完璧な容姿に騙され、人からは慕われるのかもしれません。

「何? そんなに熱い反抗的な視線で見つめられると、物凄くいじめたくなっちゃうなあー。何なら、補習もつけるけど?」
「やっ、やめてください! どうしてそんな、いじわるばっかりするんですか? パワハラも大概にしてください!」

 すると、彼は何故か恍惚とした表情を浮かべ、囁くように答えたのです。

「そういうところが可愛いんだよねぇ。顔真っ赤にしちゃって。半泣きで懇願する。とっても心を揺さぶられるよ。昔からそうだ……」
「な、何のことですか……」
「忘れちゃったんだよね、桜。そんなに俺のことが怖かった? あの時、泣いていたもんね? でもそういう姿が、たまらなく……」

 軋むソファーの音。窓から差し込む光が、私の目を直撃して眩しい。
 私に覆いかぶさるように隣に腰掛け、氷の華のような微笑みを浮かべる彼には妖艶という言葉がよく似合います。そして彼は逃げようと咄嗟に身体を反応させた私の手首を掴み、その胸に押し当てる。

「……あの、先生?」
「俺の、ここをくすぐるんだ……」
「ひゃぁっ……!」

 耳元にかかる吐息。その感触にたまらずに声を上げたら、なお一層楽しげな忍び笑いが耳元に響いて、私は次第に怖くなってきました。
 この人は、私との相性はきっと最悪だ、だから早く離れないといけない。人が怯える姿を見て笑うような人と一緒にいてはいけない。これ以上何をされるかわかったものではありません。
 ところが。

「おっといけない。改心したんだった」

 そう呟いて、彼はあっさり私の身体を解放したのでした。
 意味不明な言動に、私は言葉も出てきません。
 何を改心したのかわかりませんが、もう一度人間としてまっとうに生きるために人生最初からやりなおしてこいと言いたい。

「意地悪して、ごめんね。つい以前の癖で……」

 一体どんな癖なのかは追求したくないですね、怖いし。
 威嚇するように彼を睨みつけ、素早くその腕の中から逃れようとしたその時。ドアがいきなり勢いよく開けられました。
 まさに天の助けです。

「……あらぁ?」
「あっ……」

 間延びした、甘ったるい声。不遜な笑みを浮かべて立っていたのは。

「何やってんのぉ? えー、やだあ。変な時に入ってきちゃったぁ?」
「びっち!」
「誰がビッチなのよぉ! ビッチはどう考えてもそっちじゃなぁい! どこから連れてきたのか知らないけど、またすっごいイケメンが一ノ瀬ちゃんと絡んでる! ねえねえ、ちょっとでいいから、たまには桃にもイケメン分けてよぉ。ビッチん!」

 ピンクのストレートな髪をツインテールに結いあげて、頬の筋肉を痙攣させる桃耶さんでした。相変わらず小顔で、愛くるしい顔だち。これで性格さえよければもっと好きになれたのに。多分。
 私はピンクに囲まれて、ちかちかする眼を瞬かせて慎重に訊ねました。

「桃耶さん、今授業中なんですよ。何やってるんですか?」
「あ、人のこと言えるわけぇ?」
 
 そう言って身構える桃耶さん。私もなんとなくつられて身体を硬くして迎え討ちます。どうしてこんなことに。
 そして何故かそのまま臨戦態勢突入です。
 蛇とマングースのごとく、お互い髪の毛を逆立てる勢いで威嚇しあい、両者ともその場で相手の出方を見ていました。ですがその混乱(?)に乗じて、私は何とか変態教師の腕の中から脱出し、ある程度の距離をとることができたのですから感謝しなくてはなりません。

「だって私はテストだったし……。桃耶さんは……何ですか。さぼりですか。だから万年学年20位で。特Aの永遠の補欠なんですね、わかりました」
「きーっ! 何ですってぇ!? 桃はせんせーに頼まれて、授業用のプリント取りに来ただけっ」

 机の上に積み上げられたプリントをはたいて、胸を張る桃耶さん。そんな、『どや?』みたいな顔されても……なんと反応してよいのかわかりません。曖昧に笑みを浮かべ、私はとりあえず、その空間を離れる努力をしました。
 しかし終わったと思った会話ですが、どういうわけかまた桃耶さんが絡んできたのです。どうしても私に言いたいことでもあったのでしょうか。

「一々人の神経逆なでして……。やっぱりそういうの、前から狙ってやってたんでしょ? 顔だけじゃなく、性格もブスだったのね! 最高だわぁ一ノ瀬ちゃん!」
「そんなぁ。桃耶さんには負けますよー」

 私が笑ってそう返すと、桃耶さんは青筋を立ててひきつった笑いを浮かべました。

「それは一体どういう意味なのお? ん?」
「そのままの意味ですけどー。補足するなら、そうですね。桃耶さんほど狡猾な方には、私のブスさも遠く及びませんということですね。はい」
 桃耶さんは奇声をあげて髪をかきむしり、ぎっと私を睨みつけてきました。
「あんた以前と別人格すぎるんじゃないの!? 本当に一ノ瀬桜なわけ? 眼鏡だってかけてないし。眼鏡買いに行ったんじゃないの? つーか別人すぎてもう笑えるしぃ!」

 そんなに変わったでしょうか。自分ではよくわかりませんが。
 というか、思っていることを口に出すようになっただけなので根本的には何も変わっていないのです。ただ、言うようになった、それだけのこと。けれど、他人が変わったと言うのであれば、変わったのかもしれません。その変化は喜ぶべきなのでしょう。

「ありがとうございます」
「な、何よ突然っ! きもっ!」
「桃耶さんはいつも、なんだかんだと私のことを貶めようと画策されながら、私に色んなことを気付かせてくれます。私の知らない私、私の知らなかったこと。本当に、感謝しているんですよ」
「やだやだやだああああ! あんたのそういうところが一番いやなのおー。腹黒いのはあんたの方じゃない! どうしていつも桃ばっかり皆からビッチ扱いされなきゃなんないの! 桃は、恋に一途な女の子だけど、あんたは色んな男に気を持たせるそぶりばっかり見せて……意味わかんない!」
「いや、あの、本当に――」
「あーあーあーしりませーん!」

 素直に自分の気持ちを伝えたはずなのに、上手く伝わりませんでした。もっと研究する必要がありそうです。
 そうですね、例えば……。こう両手を広げて、よくアメリカとかのホームドラマでやっているように、親友を抱きしめて、ありがとうって言ったり、愛してるって言ったり、頬にキスをしたり……。
 様はスキンシップを取ること。それによってきっと、気持ちも伝わりやすいのかもしれません。うん、今度誰かにやってみましょう。
 例えば……紫とか。きっと嫌がられるんでしょうねえ。猫みたいにするりと私の腕を抜け出して、パンチを繰り出してくるかもしれません。

「まあいいです。わかってもらえなくても。でも私、別に桃耶さんのことずっと恨んでいるわけではないんですよ、確かに嫌いになりましたけど。女は時に男以上に狡猾な面も見せるんだという教訓になりました。ありがとうございました本当に」
「本っ当に嫌味な子! ここが人目のない場所なら、桃はあんたをぶん殴って逆さづりにして、パンツ脱がしてリンチにしてやったところよ!」
「どうしてですか? 素直に感謝してるのに!」
 暴力はよくありません。
「黙って! もうそれ以上余計なことを言わずに、さっさと桃の前から消えてよ! あんた見てると調子狂うのよ! せっかく『可愛い、守ってあげたい女』ってキャラ作って周りからの恩恵を得てんのに、あんたのせいで台無しじゃない! これじゃあただの性悪女じゃん。桃が悪役みたい。どうして桃がペース乱されなきゃなんないの! いやよもう! 意味わかんない!」
 確かに、長いしすぎたかもしれません。
 あとはピンク同士仲良くすればいいと思います。お似合いです。

「それじゃあ私はこれで……。追試の日程が決まったら教えてください」
「何、追試とか。馬鹿が無理して特Aになんて入ってるからそういうことになるのよ」
「はあ……」
 そして、何だかまたやけに絡んでくる桃耶さんを適当にかわして、私はその場からなんとか逃げ出すことに成功したのです。
 どうしてでしょう疲れました。
 しかしやっと厄介なものから解放された。それはよかったです。


 ◆ ◆


 部活後いつも通り体育館で防具を片付けていた時だった。紫の背後でふーっと長いため息をつき、部員が話しかけてきた。
「柊先生の登場で、この学園のイケメン順位に変動があったことは間違いないね!」
 確かに、柊先生は完璧なまでの美しさだった。教師やめて、モデルにでもなれと言いたくなるくらい。とにかく比類なき美。そんなところ。
 しかし紫はあまり好きにはなれなかった。
 桜だって、あれは邪神の化身に違いないとか呟いていたくらいだ。空気清浄機がそう断言しているのだから、きっと間違いない。何と言っても初日にサーモンピンクのスーツを着てくるくらいだ。絶対あれは頭のねじが2本か3本くらい飛んでいる。そう、桜とも話し合ったし。
「あんまり興味ない」
「嘘でしょー? 番長だって、イケメンには興味あるでしょー?」
「だって、あの人あんまり好きじゃないし」
 紫がテストの最後の一人だった。英語研究室のドアを叩いた時の柊先生の不思議そうな顔を今でも忘れない。
「絶対私のこと、男だと思ってるし。でも他の先生からは女子二人って聞いてるから不思議でしかたないんでしょ。どうせ私は胸もないし、小さいし、ずんどうだけどね!」
「そこが可愛いのにねえ?」
 自分にとってはコンプレックス以外の何者でもない。
「ところでさあ、聞いた?」
「何を?」
「有沢くんのこと!」
 真面目な表情で迫ってくる部員に少し引きつつ、紫は怪訝そうに彼女を見上げる。
「ついに、あの鉄壁の有沢くんに彼女ができたってみんなちょー騒いでるんだよ!」
「彼女?」
 紫が思い浮かべたのは、ほんわかした雰囲気のちょっとずれたところが可愛い彼女。その彼女が有沢蘇芳と仲睦まじく並んで歩く姿だった。
「そう! 黒瀬が見たんだってー」
「黒瀬が……」
 余計なこと言いふらしやがってと心の中で毒づいて、紫は苦笑した。
「それはまた随分と信憑性のない噂だな。発信源が黒瀬じゃあ――」
「違うの! それだけじゃないんだからね。一年生の子も見たっていうのよ!」
「そうなのか?」
 一体何を見たっていうのだろう。よくわからないが、興奮気味にまくしたてる部員に紫は訊ねる。
「その子が見たのは後ろ姿だけらしいんだけどね。黒髪のストレートで、えーっと……せ、せぇええ」
 せ、がどうしたのだろう。訝しげな表情で次の言葉を待っていると、あっと別の部員が叫ぶ。 
「それ、私も聞いたことあるかもー」
「なんかねー有沢くんがねー、滅多に笑わないあの有沢くんが、本当に慈しむような笑みを浮かべて、その子の名前を呼んだらしいの」
「へえー……」
 そんな噂があったのか、初めて聞いた。
「彼女有力候補者なんだよねーその人」
「そうそう。トラックで見たって子、結構いるもん」
 あの子たち、そんな人目のつくところで突っ立ってるのか。意外だと紫は苦笑する。
「ねーどうしたの番長ー。あたしたち、番長と有沢くんが付き合う日を夢見て、今まで頑張ってきたんだからね」
「頑張る方向が間違ってるとは思わないのか? もっと違うことにその努力を向けろよ」
「だってね、番長と有沢くんが付き合うっていうならまだ許せるってか諦めがつくけど、どこの馬の骨ともわからぬ女が有沢くんを独り占めとか、みんな発狂しちゃうって!」

 そんなこと言われても。
 もう振られてしまったのだからどうしようもないじゃないか。
 どうしてみんなこう、人の傷口に塩をぬるようなことばかりするのだろうか。本当は皆から嫌われているのではないかと時々後暗くなる。

「やっぱり、近くにいる人が有沢くんの心をつかんじゃうのかなー?」
「ああ、そうなんじゃないの?」
 これだけ近くにいた紫は、一体なんだったのだろうかと自嘲する。有沢にとっては魅力がなかったのかもしれない。  
「あーあ。番長とくっつかないんだったら、あたしも陸上部のマネージャーにでもなればよかったかなあー……」
「なんだ、マネージャーになりたいのか?」
「だってさー。同じ寮にいても恋に発展しないなら、いっそ少し離れている時間があった方がきっと思いは強くなるものなんだよー」

 何だ、その理屈。
 逢えない距離が愛をはぐくむ的な。
 つまり、何か。
 紫は、距離が近すぎて相手にされなかったとか。

「あ、思いだしたわ!」
「何?」
「だから、名前。彼女疑惑の人」
 聞かずともわかる気もするが、紫は一応促した。

「ななせよ。立花ななせ!」




 

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