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3章 変か恋か
27
 ◇

 三月上旬のある日。桜はまだ家に帰ってきていなかった。外は既に日も落ちて暗くなっていた。雪がわずかに道端に積もっていて、肌に突き刺さるような寒さの日だった。母に桜が帰ってきていないことを言っても、別に心配する風でもなく、そのうち帰ってくるでしょうと、答えは冷たかった。
 柊兄の家にも探しに行ったけど、柊兄は留守のようで、家には帰ってきていないと聞いた。
 正直、嫌な予感しかしなかったよ。
 二人でどこかに出かけたのかもしれないと思った。けれど、二人だけで行く場所に、特に心当たりがあったわけじゃない。だけど何だろう。双子の絆とでもいうのかな。なんとなく、桜はここに柊兄と二人で行ったんじゃないかって思ったんだ。
 僕が向かった場所は、何年か前に封鎖されたホテルだった。取り壊すにも金がなくて、経営者がそのまま放置しているらしいという噂は聞いていた。近くのコンビ二でたむろしていた女子高生に話を聞けば、黒髪の女の子と二十歳くらいの男が入って行くのを見たという目撃証言も得られた。
 それで、僕の勘は正しかったんだと思った。
 柊兄はまごうこと無き変態。僕はそれを知っていた。だってロリコンだぞ。中学生くらいの女の子連れまわして廃業したホテルに入っていくなんて、たとえ柊兄がイケメンであってもどう見ても変態じゃないか。桜が柊兄に何をされているか想像するだけで吐き気がした。……というか、本当に変なことしてたらぶっ殺してやろうと思った。
 女の、悲鳴に近いような鳴き声が、廃墟と化したビルの中で響いていた。
 普段聞きなれた高いトーンのその声は、今は全てを拒絶して、全てに絶望しているような声に聞こえた。僕はぎゅっと目を瞑り、拳を握り締めた。
 耳をふさいでしまいたくなるような悲惨な声だったけど、その時は声を頼りに進むしかなかった。そして辿りついたのは、3階にある、一番左の部屋。崩れたようなホテルの中を懐中電灯だけを頼りに進んだ。そして意を決して、夜の闇に包まれたホテルの一室に突入した。
 目の前の光景に僕は呆然となった。
 暗闇の部屋の中で笑う、変態ドS男がそこにいた。

 桜は手首を縛り上げられ、目隠しをさせられて冷たい床の上に押し倒されていた。セーラー服は半分脱げかけていて、外されたホックから胸の谷間がのぞいていた。

 桜は泣いていた。何度も嗚咽を繰り返し、「痛い、やめて」と柊兄に泣きながら頼んでいた。「こんなことをされたと世間に知られたら、もうモデルもできなくなるし、舞台に立てなくなる」と。
 柊兄は、そんな桜の涙ながらの言葉を無視して、暗闇の中で苦痛と恐怖に悶える桜の姿を写真に撮っていた。はっきり言ってどんなにイケメンであってもただの変態にしか見えない光景だった。
 それを見た瞬間、僕はかっと頭に血が上って、怒りで眩暈さえした。母親に半ば無理やりさせられていた仕事だったとはいえ、桜は仕事に対して誇りを持っていた。プロだったんだ。
 僕は、許せなかった。あんなに慕っていたのに。あんなに……三人は、仲が良かったのに。それを全部ぶち壊した柊兄が許せなかった。 桜をこんなにめちゃくちゃにして、桜の人生までめちゃくちゃにした。拳を握りしめ、桜の身体に覆いかぶさる柊を睨みつけた。
 そして僕は――柊兄の後頭部を、近くに落ちていた空き瓶で背後から殴りつけた。

「何やってんだよアンタ!」
 僕の声は、怒りで震えていた。 
 柊兄は、僕の声に顔をあげ、事もあろうか笑った。
「何が、おかしいんだよ!」
 そのまま、柊兄は動かなくなった。
 何でその時柊兄が笑ったかなんて、僕にはわからない。ただわかっていることは、その笑いが腹立たしかったってことだ。
 
 震える桜の身体を起こして、制服を整えてあげた。桜の身体には、赤い痣ができていた。
「桜、桜……」
「もうやだ……もうやめてください……」
 桜の瞳孔は大きく開いていた。その目に僕の顔が映っているけれど、僕のことを見てはいなかった。
「大丈夫だから、もう大丈夫だから」
 そういって桜の冷たい身体をさすってあげたら、桜は僕の顔を見て言ったんだ。
「私のせいで、柊お兄ちゃんが……私がいけないんですか? ごめんなさい、ごめんなさい」
「どう考えても桜のせいじゃないだろ。どうしてそう自分を責めるんだよ」
 桜はとにかく混乱していて、僕のジャケットにしがみついて涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした。
「私が、同じクラスの男の子と話したりしたから……」
「……そんなガキみたいな理由で、桜をこんなところに連れ込んだのか?」
 よく考えてみれば、柊兄は独占欲の塊のような男だった。
 桜を異常に可愛がり、桜が他の男と仲良くしているのを見るだけで、いつも苛々していた。
 そういうことに、もっと早く気付いていたら。桜が柊兄なんて好きにならなかったら。――今でも、そのことを考えてしまう。

 は? 殺すわけないだろう。ちょっと気絶させただけだよ。まあ、頭は血管が多いから、出血がひどかったみたいだけど、完全に悪いのは柊兄だろう。本当、そのまま死んでくれればよかったのに……。僕は暴力は嫌いだけど、柊兄だけはサンドバックにしてやってもいいかもしれない。
 そのあと警察呼んで、柊兄の身柄を引き渡したよ。何故かすぐ戻ってきたみたいだけどな。どうせ……柊兄の両親がもみ消したんだろう。じゃなきゃあんな変態犯罪者……野放しにされているわけないんだ。

 頼みの母は、桜に何もしてくれなかった。元モデルの母親は、寺の住職の父と結婚して、一生こんなところで終わるのは嫌だといつも子どもたちに愚痴っていた。そして自分はもう輝くことができないからと、僕たちに色んなことをやらせて、僕たちをいつも比べていた。
 勉強、スポーツ、音楽、あらゆる面で僕たちは比較され、ほんのわずかな差であっても、桜のことをできの悪い子だと責めた。
 母は……傷ついていた桜に対して、暖かな言葉一つかけなかった。それどころか……桜を嘲笑してこう言った。
「なんて馬鹿なことをしてくれたの? あなたのせいで、私の人生計画も、めちゃくちゃなのよ……。あの柊くんのところと今いざこざを起こせばどうなるかってことぐらい、あなたにもわかるでしょう? あの家が動くだけで、何億もの人とお金が動くの。もうおしまいよ、あなたの人生も、私の人生も」

 僕はいつも何も、してあげられなかった。片やほめられる僕、片や怒られて泣いている桜。どう接していいのかわからなかった。
 桜があんなに人に対して姿勢が低いのは、僕のせいなのかもしれない。
 ああ、今あの家に住んでるのは、両親だけだよ。誰があんなクソ女のいる家になんていられるか。

 ――桜はずっと震えてた。病院にいって、カウンセリングを受けても、何をされたのか聞いても、何も覚えてないって言うんだ。ただ、寒い、痛い、怖い……。これしか言葉が出てこなかったよ。
 次の日、桜はその日あったことを何も覚えていないと言うんだ。柊兄と何があったのか、何も……。

 そして桜は、自分でも気付かないうちに男性を拒否するようになっていた。自覚したのは、共学の高校に入学して、しばらくしてからだよ。それを自覚するようになって、桜の男性恐怖症はエスカレートした。男が隣にいるだけで不安になる、顔が赤くなる、足が震える。

 暗闇の中で、何も見えず、何もわからず、男に襲われた時の桜の恐怖がわかる? 
 何があったのかを忘れるほど、記憶の中から抹消したいほど、桜にとっては怖かったんだろうね。それも、初恋の相手だ。ずっと好きだった、信じていた相手から無理やりそんなことをさせられた桜は、いつの間にか男に恐怖を抱くようになっていたんじゃないかな。
 
 で、桜がとったコーピング行動が、太る、顔を隠す、男とは絶対関わらないように、嫌われるようにする……だったわけだよ。
 桜の顔、ちゃんと見たことある? すごい可愛い顔だったでしょ? 痩せてる時の桜は、顔をちゃんと上げてた時の桜は、本当に可愛かったんだよ。あれでも昔は、ある程度世間に名前の知れ渡った子役だった。まあ、すごい短期間だったんだけど。

 でも何故か、女子校に編入したはずが、女一人であとは全部男ばっかりのクラスだったって……桜、馬鹿なの? いや……馬鹿だったら、よかったんだろうね。そしたらこんなに男に囲まれて生活することなんてなかっただろうし、男と相部屋なんて……絶対なかっただろう。
 今はごく普通に有沢くんに接していられるみたいだけど……最初見たとき、すごく不思議な気分になったね。僕や父以外の男にこうも普通でいられると、逆に何か桜によくないことが起こってるんじゃないかとさえ思ってしまったよ。

 ◇

「……というわけだから、暗闇の中で二人とか、桜と接触することは絶対しないで」
 傷付くのは、有沢くんだけじゃないと、僕はわかっていた。桜のさっきのあの顔を見て、桜も同じくらい、傷ついたと思った。
 あれは、仕方ない。不可抗力なんだ。桜にはどうしようもないこと。
「お互い、傷つくのは嫌でしょ?」
 そういう状況におかれると、どうしても桜はあの時のことがフラッシュバックする。たとえばその相手が、ある程度心を許した相手であっても……。いや、気が置けない相手だからこそ、負う傷は大きくなる。そうだ、柊兄がそうであったように、有沢くんも桜にとって心に占める割合は結構大きい存在になっている。……多分だけど。  
「……」
「有沢くんは、大体いつもそんな感じで黙るの? まあ桜としたら、大きな置物くらいに思えてちょうどいいのかもしれないけど」 
 有沢くんは、なおも黙ったままだった。きっと頭の中で色々考えているんだろう。いつもこんな感じだって紫ちゃんも言ってたし、今更いらついたりはしないけど、何も知らない初対面の人とかどうやってコミュニケーションとるんだろう。不思議だ。
 桜も、最初は動揺しまくったんだろうなあ。
「有沢くんが何考えてようが、僕にはどうでもいいけど……これからも桜と仲良くしてあげてよ」

 言いたい事は全部言った。あとは、有沢くん次第だな。
 そう思って、静かに寄せては引いていく夜の海を眺めていたら、はっきりした声で有沢くんが言った。
「当たり前だろ。ルームメイトなんだから……」
「そうだったね」
 ルームメイト、ね。本当にただそれだけなのかと問いただしてみたかったけど、それはさすがに意地悪なのかもしれない。有沢くん自身が、まだ桜のことをどう思っているのかわかっていないと思うから。まあなんとなくだけど、桜のことは友達以上、恋人未満って感じで見ているのかもしれない。桜は、有沢くんのことをどう思っているんだろう。

 今度聞いてみようか。 
 ……話す時間が、あればだけど。

 肩をすくめ、僕はそのまま夜の海沿いを歩き出した。


 ◆

 どうしよう。私のあの反応、やっぱり有沢くんのこと、傷つけましたよね。
 言葉にならない声で、紫にすがりついたら、紫は私の肩を掴んで笑って言いました。

「大丈夫だって。蘇芳は絶対気にしてないってば」
「そ、そ、そうだといいんですけど……でも、やっぱり私……」
 あの時、有沢くん……私の反応に戸惑うような、傷ついたような表情を浮かべていました。私……有沢くんと気まずいままずっといるなんてこと、できません。

「何だ、桜ちゃーん、有沢くんとまた何かあったの? ねえねえねえ!」
 紫の後ろから、色黒の魔人が首を突っ込んできました。またですか、またあなたは私と有沢くんに嫉妬ですか。
「何だよ、もう復活したのか速星。お前さっきまで部屋の隅っこで柱に頭ぶつけて大反省会してたんじゃなかったの?」
「桜と有沢が何かあったと聞いて飛んできました」
 ……ま、またいじめられるんでしょうか。速星を前にすると、やっぱり自然と身構えてしまいます。身体を固くし、俯く私の前に座る速星。
「……どうしたの? 桜」
 速星の声は、とても静かです。いつもと何か違います。
「あ……えと……大丈夫です」
「その回答はダメだな。俺的に0点」
「ダメって……0点て……」
 そうか、0点……何か落ち込みますね……。0点。どうせ、私はダメなんですよ。
 ――まあ別に関係ないですけどね。速星が私に何点付けようが、正直どうでもいいですよ。
「何でもいい、話してみれば何か俺にだってできることがあるかもしれない。桜が俺のことが嫌いなのはわかってるけどさー」
「嫌いじゃないですよ」
 怖いだけ、ライバルなだけ。嫌いとか、そういうのじゃないと思います。
「そうそう、嫌いじゃない……え?」
「好きでもないですけど……」
「そうだよね、あはははは」
 何で笑いながら泣いてるんでしょう。不思議な人ですね。紫は何故か大爆笑中です。だってライバルだもんな、とか言いながら。
「まあ、あんまり自分の中に溜めこまない方がいいと思うけど、な?」
 口を半開きにして、呆けた顔で速星のところを見ていたら、ポケットから何かを取り出して、私の口の中に突っ込んできました。
「んあ……」
 イチゴ味のチュパチャップス……。
「甘いものが好きだと聞いて」
 そんなことを前も言っていたような、言わなかったような。
「それ食って、元気だせよ。有沢なんて大丈夫だよ。見た目は繊細そうな奴だけど、中身は図太い奴だから」
 もしかして、これで元気づけようとしてくれている……のでしょうか。
「あ、ありがとうございます……」
 私の言葉に笑う速星を、こんなにちゃんと見たのは初めてかもしれません。色黒の肌に、こぼれる白い歯。さわやかな笑顔だなー。こういう顔、初めて見たかもしれません。
「そりゃあ、桜と有沢がうまくいくとか、俺は許せないわけですよ。だけど、桜が元気なくて、泣きそうな顔してるのはもっと見たくないっていうか……。つまりだな、いつも桜の自然的な笑顔のために、甘いものを常備しております」
「何ですか、それ」
 おかしい。自然的笑顔って。思わず笑っちゃうじゃないですか。
「ちょ、俺今本気で言ったんだけど……そこで笑うの?」
「今のが冗談じゃないなら、お前は相当痛い奴だな」

 紫は、またまた大爆笑しています。確かに速星は痛いかもしれませんが、それで元気をもらえるなら、それも悪くないと思えます。
「速星は、本当によきライバルです!」
 ここで、ちゃんとライバル宣言しておこうと思います。今後のために。
「いや……なんで俺がライバルなの……?」
 私じゃなくて、何故か紫に聞く速星の顔は、何故かとっても戸惑っているように見えました。
速星、いつも報われませんね。ざまあ。

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