◆ ◆
夕陽が水平線上に沈んでいく。海の上には美しい金色の道ができ、どこまでも続いているようだ。空を見上げると、青と茜色のコントラストができあがって、綺麗だった。
ホットパンツに濃いブルーのキャミソール。ビーチサンダルをぶらぶらさせて、前下がりボブの少女は道行く人の影を目で追いかけていた。待ち人は、なかなか現れない。
「紫ちゃん、こっちだよ」
声のした方へ咄嗟に顔を向ける。キャップを目深にかぶり、パーカーに両手を突っ込んだ長身の男が近づいてきた。
「ごめん、遅くなって。迎えに来てくれてありがとう」
「ううん、柳くんお疲れ。収録は終わったの?」
紫は、目の前でキャップを外し悪戯っぽく笑う、黒髪の少年を見上げた。いつ見ても彼は人目を惹くような整った容姿をしている。
彼は今世間で人気急上昇中のアーティスト、F.Tというグループのメンバーの一人だ。その甘い声と天使のようなルックスで、若い女性を中心に絶大な人気を誇っているのが、目の前の人物――RYU――だった。本名をただローマ字読みで変換しただけだというのは、紫も最近知った。
その柳が桜の双子の弟で、あることがきっかけとなって今ではメル友なのだから、世の中わからない。
「無理やり終わらせてきた……っていうのは冗談で、順調に終わったよ。僕はただひたすら浜辺を全力疾走してただけだし。……このくそ暑い中、ふざけんなって話だよね」
「あはははは。見てみたかったな。柳くんが汗だくになって必死で走ってる姿。多分笑う」
あはは、と柳も釣られるように笑い、誰かを探すように紫の周囲を見回しながら言った。
「速星は?」
「部屋で罪悪感に苛まれているよ」
紫はふっと笑った。速星曰く、『桜と有沢を前にすると、嫉妬の炎が全身を駆け巡って、思ってもいない悪言を吐いて怯えさせて、後で冷静になると自分がいかに馬鹿だったかわかって泣けてくる』のだそうだ。紫はそんな速星に対し、馬鹿だけど、お前は頑張ってるよ、と励ましの言葉を与えてやった。桜が速星のことをホモだと勘違いしていることは、面白そ……じゃなくて、かわいそうだから黙っておいてあげた。
「桜は?」
「ああ、桜ならお菓子買いに行ってくるって、コンビニ行ったよ」
柳が来る数分前まで一緒にいたのだが、突然思い立ったように走って行ってしまったのだった。
何か言いたそうな柳の顔を見て、紫は付け足して言った。
「大丈夫、蘇芳も一緒だよ」
「……そう」
柳はそれだけ言って、わずかに口の端を上げた。
「さすがにこの時間帯に一人で行かせるのはちょっとね……。桜も暗いところ一人で歩く時はちょっと怖いって言ってたし。蘇芳は何も言わずついて言ってくれたけどね。本当に優しいよ、蘇芳は」
「……そうだな。だけど……」
柳は眉間に深い皺を刻み、険しい表情で呟いた。
「暗くなってきたし、有沢くんとはいえ男と二人だけっていうのは、まずいかもしれない」
「え?」
「……トラウマだからね」
「うん……」
桜が男性恐怖症だと知ったのは本当につい最近のことで、それまでは全然知らなかった。今思えば、桜についていくのは、自分の方が良かったかもしれないと、紫は内心後悔していた。
紫のしゅんとなった顔を覗き込み、柳はふっと笑う。
「――じゃあ、僕たちも行こうか。桜になんかおごってもらおう」
◆
「本当に、それ全部有沢くんが食べるんですか……?」
「一ノ瀬も食べるだろ?」
「それにしても、多いですよ……」
目の前で次々とアイスやら杏仁豆腐やら、シュークリームやらをかごの中に放り込んでいく細身の人物を、半ば感心、半ばあきれたような気持ちで私は眺めていました。私が食べるのはポテチだけですから、その他は全て有沢くんが食べるということになります。
これ全部有沢くんの胃の中に収まるの。なのになんで太らないの。世の中には、いくら食べても太らない体質の人がいるとは聞きますが、すごいですね。感嘆のため息しか出てきません。
「そんなに食べると、太りますよ……」
「……いいよ別に」
「私がいうのも何ですが、太るのは健康によくありませんよ。心疾患、糖尿病の原因になったり、内臓の機能が低下して、体臭が臭くなります。私はそんな人と一緒にいたくありません」
目の端に映りこんだコンビニの外は、いつの間にか日が暮れて、真っ暗です。ショーウィンドウには私と有沢くんの姿が、並んで映っています。方や細身の男、方やボンレスハムのような女。全く説得力はありません。
有沢くんと並ぶと、恥ずかしい。こんなに太った私が並んで立っていると、私だけ浮きたって見えます。周りから、どういう感じで見えているんでしょうか。――ブタと飼い主、みたいな。
有沢くんだって、わたしのような太った女と並んでいれば嫌だとか思うはずです。心の奥では、何こいつブタ臭いとか思っているかもしれません。
店を出たとき、さっきの自分の言葉があまりにも不適切だったような気がして、私は急に恥ずかしくなってきました。本当にブタが何を言っても説得力なんてない。
「わ、私が言っても、説得力なんてありませんよね、あはははは。や、痩せなきゃなあ私も。健康のために……」
「……一ノ瀬くらいがちょうどいいと思うけど」
「は?」
何を言っているんでしょうか。有沢くんったらおかしい。
「太りすぎでもない、痩せすぎでもない、ほどよい丸みがある」
そう言って、有沢くんは私の頬をつまんで、横に引き伸ばしてきました。
「餅……」
いや、ちょっと痛い。いくらぶよぶよしているといっても、そんなどこまでも引っ張られると痛い。それと、さっきの発言ですが、丸みって、丸みって……。
「セクハラで訴えますよ!」
「一ノ瀬は十分可愛いよ。子猫みたいで」
え、何それ。不意打ちとか卑怯技使ってこないでください。
顔が熱い。そんなこと急にさらっと言われると、照れてしまいます。どういう反応したらいいのかわかりません。
「あ、有沢くんの甘言には惑わされません!」
私はそれだけ言い捨てて、暗い道を走りだしました。きっと紫が待ってる。空には、無数の星が瞬きだしていました。今日はいい天気だったから、星が綺麗です。
「可愛いなんて……嘘ばっかり……」
私が可愛いなんて、あり得ません。可愛くなくていいのに。
対向車のヘッドライトが眩しくて、一瞬瞳を閉じました。視界を閉ざすと、他の感覚が敏感になるようで、車の音がやけに大きく感じます。
その一瞬の間、突然大きな手に素早く手首を掴まれ、強い力で思いっきり引き寄せられました。
頭が、真っ白になりました。こんなに暗い中で、誰かに無理やり手を掴まれることほど、今の私にとって恐ろしいことはありません。
その感触、この感じ――恐怖が私の心を支配していく感じ。膝が笑い、身体が震えが止まらない。
「い、いや……! は、放してください……!」
震える声を上げるのが精いっぱいでした。相手の顔さえまともに見れません。私はとにかく掴まれた手をほどこうともがいてみますが、全然びくともしません。
「桜?」
その聞きなれた声に、私ははっと顔を上げました。
「り、りゅ、柳!」
私を拘束していた力が急に緩み、思わず私は弟の胸に飛び込んでいきました。
「え、何。どうしたんだよ……」
戸惑ったように私を抱きとめてくれる柳。私はその顔を見上げ、一生懸命説明しようとしますが、声が震えて、うまく話せません。
「あ、いきなり……手、掴まれて……こ、怖くて……。また、ああ、あの、あの時みたいに……」
「そう、なんだ……」
柳は私の背後に困惑したような視線を向け、その人物の名前を呼びました。
「有沢くん……桜はそう言ってるけど……」
え、あ、有沢くん……。
「車道に飛び出しそうになったのが見えたから……つい。ごめん」
有沢くんの、罪悪感がにじみ出るような声を聞いて、私は多少冷静さを取り戻してきました。柳の後ろに回り込み、とりあえず弁解してみます。
「……あ、あああの。有沢くんは悪くありません……。私が勝手に怖がってるだけで……」
「一ノ瀬……」
気遣わしげに、私の名前を呼ぶ有沢くん。じりじりと私と距離を置くように後ずさるのが、何故か切ない。
「だ、だから全然気にしないでください。あれはただ、反応を間違えただけっていうか、ただちょっとびっくりしただけで……有沢くんのことが嫌いとか、そういうわけじゃありませんから」
なんでこんなに必死になって、有沢くんのことが嫌いじゃないという言い訳をしているのかがわかりません。有沢くんはただ気まずそうに俯いています。
あああ、本当に有沢くんのせいじゃないのに。勝手に走り出して、勝手に車道に飛び出そうとした私が悪いのに。有沢くんと気まずくなるのは、嫌なのに。
「……顔色悪いね。紫ちゃん、先に旅館に戻ってて」
今までそこに紫がいたことにも気付かないくらい、私の気は動転していたみたいです。
「う、うん。わかった」
紫は私の背に腕をまわし、足取りのおぼつかない私を支えて歩いてくれました。
「僕は、有沢くんとちょっとゆっくり話しながら帰るから」
――柳が最後に言った言葉は、私の耳には届きません。聞こえるのは、夜の海の、波の音。
◆ ◆
「びっくりしたでしょ? 突然あんな反応されて」
柳は、ガードレールに身体を預け、夜の海を眺めながら苦笑した。
「有沢くんは、多分桜の中で家族の次に親しい男だと思う」
「…………」
有沢からの答えはない。彼も、静かに寄せては退いていく波を見ていた。
「だけどね有沢くん。突然、小さなことがきっかけでフラッシュバックすることだってある。僕はただ、有沢くんにもそれを知っておいてほしい。傷つくのは、桜だけじゃない。きっと有沢くんも、傷つくでしょ。これからも同じ部屋で生活していかなきゃいけない以上、君には知っておいてほしい」
有沢は黙ってうなずいた。
「これから君に教えてあげるよ。桜に昔、何があったのか」
「……いいのか?」
「……桜には、僕が言ってたことは絶対秘密だからね?」
◇
『桜ちゃんは、本当に柊さんが好きなのねえ』
そう、桜は柊兄が好きだった。恋愛的な意味で。何かと柊兄にくっついていて、僕たちの仕事のない時はいつも遊んでもらっていた。
柊兄は僕たちよりも年上の近所のお兄さんだった。しかもけっこういい家に住んでいて、柊兄の家に遊びに行くと、綺麗に手入れされた薔薇の庭と、小さな川とその先には小池があった。とにかく、いいところの坊っちゃんであることは間違いない。確か……何とかグループの御曹司、そんなんだった気がする。
彼は祖父がフランス人のクォーターであり、アメジストのような瞳と、彫の深い整った顔立ちで、桜の心をがっちりつかんでいた。見た目は優しそうだし、何より本当に桜にも僕にも優しかった。
彼は、将来英語の教師になりたいとずっとそんな夢を僕たちに語っていた。会社は継ぎたくないとかなんとか。
いつからかしらないが、柊兄の桜を見る目が変わり始めた。桜の体に必要以上に触るようになった。僕が気付いた時にはもう柊兄は桜にしっかり唾をつけていたんだと思う。ふざけるなこのロリコンが。柊兄に桜と間違われて肩に手を回されたときのまだ純粋な中学生だった僕の気持がわかるだろうか。
双子の僕が言うのもアレだが、桜はすごく可愛い子だった。絹のような漆黒の髪に、黒曜石の輝きの瞳。長い睫毛、くりっとした目。薔薇色に染まるふっくらとした頬。黙っていれば天使だねとよく言われるのを僕は知っている。口を開けば、おどおどした平和な子だというのがよくわかる。
そんな容姿もあって、桜はモテた。でも、あの頃から桜は男が苦手だったらしく、すごく迷惑だと言っていよ……。だから時々、僕が桜の格好をして、代わりに断ってあげたりしていた。これでもあの頃は、瓜二つだね、と周りの人間から言われていたんだよ。
確かに、手を出したくなるだろう。それは認めよう。心の中で勝手に好意を抱いていて、何しても別にいいと思う、実際何もしない分には。だけど、本当に手を出したら犯罪なんだよ、ロリコンが。
あれはいつだっただろうか。確か、僕たちが中学3年の冬……二月中旬ごろだったと思う。幸い、僕も桜も頭の出来は上の上だったため、受験勉強もそこそこに三人でよく遊びに行ったりしていた。
すごく唐突に、桜が柊兄に、「好きです、付き合ってください」と告白して小さな箱を渡した。柊兄はなんのためらいもなく、「僕も桜ちゃんが好きだよ」とか、狼の如く目を光らせて、あふれ出る涎をすすっていけしゃあしゃあと答えやがった。どういうことなんだ、お前の眼は節穴なのか桜、と心の中で激しく葛藤していた僕だったが、こればっかりは僕がどうすることもできない。桜がいいと思うなら、僕が止める必要なんて、どこにもないと思っていたから……。
誰も止めるものがいなかった二人は、どう考えてもロリコン犯罪者とロリの組み合わせにしか見えないにも関わらず、誰も反対するものもなく、そのまま交際を始めてしまった。どうなってるんだこの世の中。
そして、色々なことをはしょって、色々なことが壊れ始めた。
まず最初に、柊兄は桜に対し、自分意外の男には近づくなとか、男はみんな危険な狼だとか、自分をさしおいて何言ってんだこいつと思うようなことを桜に吹聴し始めた。それをきいた素直で心やさしい桜はますます混乱し、ますます男嫌いに拍車がかかっていった。混乱している桜はなんか可愛かったが、それはそれ、これはこれだ。
――そして、あの日。
桜は恐怖のどん底に突き落とされる。
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