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7月の下旬。
今日から日記をつけることにします。先生から、日記をつけることは精神的にも良いことだと聞きました。自分でも、誰かに話を聞いてもらえなくても、話を聞いてもらえるような気がします。
気がつけば、期末テストも終わって、夏休みでした。今回、特別に別の日、別の部屋で受けさせてもらって、またここに逆戻り。誰もいない白い部屋で、オレンジ色の花を見つめてじーっとしてる毎日。
暑い。日差しが眩しくてすごく暑い。汗ばんだ額に張り付く髪が鬱陶しくて、やけになって前髪をちょんまげにしてやりました。視界が開けて、よけい眩しくなった気がします。私ってバカ。
ブラインドを閉めようと立ち上がったら、すこし立ちくらみがしました。多分全然動かないで、ずっとベッド上にいるからだと思います。心なしか、足元がふらつく気がするし、前より体が小さくなったような気がします。窓に映った自分の顔をのぞいたら、血の気の失せ、前よりも顔が少し小さくなった女が映っていました。
窓から見えるのは、青い空と、遠くに見える入道雲。それから、白い病棟。
気付いたら病院にいて、紫とかが傍にいてくれて、すごく心配そうな顔をしていて……。それからなんだっけ、あんまりあの時のことを覚えていない……。確か誰かが、繰り返し名前を呼んで、繰り返しゆり起して、繰り返し手を握って……。すごく冷たくて、寒かった気がする。
それで何故か紫から怒られ、散々怒ったあと、紫が泣きだして……私はどうしたらいいのか全然わかりませんでした。何で怒ってるのかわからなかったし、泣いてる紫に何て声をかけていいのかわからなかったから。ただごめんなさいとしか言えませんでした。
何で早く言わなかったんだよ、って、何度も何度も私の体を揺さぶって。
日記って、こんなことでいいのかな。わっかんない。何かもう、私のこころがこれくらいぐちゃぐちゃってことでいいのかな。
最近、私の弟がよくお見舞いに来てくれるようになりました。おそらく死んでしまうくらい忙しいはずなのに、わざわざ時間を割いてきてくれるからすごくうれしいです。だけどここにいる大体の時間は不機嫌そうな顔で窓の外を眺めていて、あまり話はできません。いつも「また来る」と言って帰ってしまって、もう少し話したいと思っても、なかなか言えませんでした。弟も、忙しいなか会いに来てくれるんだし……それ以上は求められません。
最近、と言えば……何故か目覚めると枕が必ず湿っぽくなっています。汗かと思ったけど、なんか違うような……。
あれから、毎日同じような夢ばかり見ています。誰かに痛いことをされて、私が泣いて謝っている夢。暗闇の中で、四肢を抑えつけられて、首筋に走る痛みの夢。最後はいつも、誰かが止めに入って、私を抱えてそこから連れ出してくれる……そういう夢。
眠るのが、正直怖い。
夜も何度か目が覚めるから、看護師さんに頼んで睡眠薬をもらい始めましたが、そのせいで最近ふらふらしてるんだと思うんですよね。でも、眠れなくて、一人暗闇の中で横たわっていると、誰かに後ろから縛られるような変な感覚がして、怖い……。
どうしたらいいんでしょう。
「あーあ……何か気分転換……」
「何か言った?」
目の前のノートを閉じ、伸びをしていた私に柳が振り返って尋ねてきました。ぼーっと外を眺めているかと思いきや、耳ざといですね、さすがです。
姉の私が言うのは、なんだか身内贔屓をしているようであれですが、我が双子ながら柳はとても整った容姿をしています。漆黒の髪はキューティクルだし、二重瞼に縁取られた黒曜石のような切れ長の目。睫毛は長いし、顔は小さいし。って私は詩人ですか。黙っていれば天使だね、とよく言われているのを私は知っています。
「ねえ柳、この病棟、ピアノが置いてあるんですって。看護師さんが教えてくれました」
「それで?」
意地悪です。私が言わんとしていることが分かっているくせに、腕を組み壁に寄り掛かって私を見下ろす柳はどこまでも意地悪です。
「あの、その……だから……あの……ぴ、ピアノ……」
「声が小さすぎて聞こえない」
「う……やっぱりなんでもありません……」
とてもじゃないけど頼めません。私のためにピアノを弾いてくれなんて、そんな図々しいお願い……お前何さまだよ、このメス豚がって感じです。どうしてこんなこと柳に頼んでるんでしょう。私はバカですかそうですか。
「……ピアノが何だって? 気になって帰れない」
うわー、すごく不機嫌そうな目。眉間にしわ寄せて、そんな可愛い顔で私を見ないでください。私が悪かったです。うん、私がここにいるのがわるいんですねきっと。
凝視し続ける柳の視線に負けて、私は開き直って柳を見つめ返しました。もういいよ、どうにでもなればいいんですよ。別にいいじゃないですか。言うだけならきっとただです。
「柳のピアノが聴きたいんです」
柳は一瞬目を大きく見開いて私の顔を凝視してから、頭を掻きながら溜息をつきました。
「仕方ないなあ……もう」
「あ、ありがとうございます」
確実に断られるんじゃないかと思って、結構びくびくしてましたが、頼んでみるものですね。にやけるのが抑えられません。最初嫌そうな顔をしても、何だかんだ言いつつも、柳はいつも私の言うことをきいてくれるんですよね。
「何にやけてるの? 変な桜」
「……柳と、こうして二人でピアノに向かうのって久しぶりな気がしませんか? 何か、嬉しいですね……昔みたい」
「……そうだね」
二人でピアノのある防音室に向かう途中何人かの患者さんとすれ違って、みんなが柳のことを堂々と凝視しているのがよくわかりました。やっぱりというか、仕方ないというか。
私たちはお互い顔を見合わせて、苦笑いを浮かべました。
ピアノの前に腰かけた柳は、身にまとう空気も、顔つきも普段とはガラッと変わります。そう、プロの顔。柳は黙ったまま鍵盤に触れました。
なめらかに動く指は、まるで魔法にでもかかっているようで、響く音はどこまでも透明で、甘い。そして、深くて、柔らかい音。これが柳の音。
私の好きな音。
瞼を閉じて、ゆっくり柳の背中にもたれかかって、私はすべての神経を耳に集中させました。私の体が、柳の奏でる音にからめとられて溶けていくような、心地よい感覚。悲しいこともつらいことも、全部癒してくれる。
柳の音は、私の心を洗いざらい綺麗にしてくれるようでした。
ピアノを奏でながら、柳は唐突に私に尋ねてきました。
「ねえ桜。どっか痛いところない?」
「もう、柳はこの間からそればっかりですね……。私ならほら、厚い肉の壁がありますから、大丈夫です。でも突然どうしたんですか?」
私は笑ってなるべく明るく答えました。余計な心配、かけたくなんてありません。特に柳にだけは。
柳はピアノを弾いていた手を止めて、私に向き直って私の胸に頭をそっと置いてきました。すごく不意打ちで正直戸惑いましたけど、私はそのまま柳の頭を抱えてその場に立ち尽くしてしまいました。
「……桜が、痛いって言ってる気がしたから。ここが。また無理して、何も言わないで……あの時みたいに痛くても、つらくても……」
「……ごめんなさい」
わからないんです。自分でも。もう傷跡もほとんど消えて、痛みもなくて……。だから大丈夫ですって言いたいのに、どうしてかそれが言えない。
ごめんなさい……。
私のことは、心配しないで。
◇
赤い跡の残っていた手首は今は青紫色の痣になって。鎖骨と首に付けられた痣も、同じように変色して。
震える長い睫毛は、大体濡れていて、ああ、今日もまた同じ悪夢を見てしまったんだろうと予測できて、嫌な気持ちにさせられる。
眉間にしわを寄せる僕を、桜はいつも不安そうに伺ってくる。少し赤くはれぼったくなった目の桜に、冷たいタオルを渡してやるくらいしか、僕にはできない。桜は、僕との間に見えない線を張っている。それ以上、僕が立ち入ることをゆるさないという、明確な線を。
僕の片割れ……桜は僕の双子の姉だ。
訪室すると、白い壁に囲まれた部屋で、色彩鮮やかなオレンジと黄色を基調とした花束の籠が飾られていた。誰かが、もってきてくれたんだろうか。
よく来てくれる、あの小柄な女の子か……。――桜にも、ちゃんと心配してくれる人がいるとわかっただけでも、僕は嬉しかった。
桜は、全然人に甘えるということができないから。
誰か、桜が思いっきり甘えられる人が現れてくれればいいのに。男でも女でも、なんでもいいから。好きなことを言い合える人がいてくれれば……桜が追いつめられることだってないのに。
桜が甘えられる相手は、僕では駄目だ――。
目を覚まして僕に気付いた姉は、顔を見るなり第一声にこう言った。
「ごめんなさい……。怒って、るんですか? また迷惑かけちゃって……」
「桜……何でいつも謝るんだよ」
そりゃあ、僕が家を離れてる間に勝手に別の学校に編入とか信じられないとか思ったけど。男が怖いなら仕方ないかとも思ったけど。何故か結局男のいる学校に入ったけど。バカだなとか、アホだなとか思ったけど。
桜がいいならそれでよかった。僕たちはもうこどもじゃないんだし、いい加減お互い干渉しあうのもよくないと思ってた。僕は僕の生活があって、桜には桜の人生がある。双子だからって、いつまでもどこまでも一緒じゃなくていいと思った。
「あの、仕事は……いいんですか? 今忙しいんじゃ……」
人の心配だけはよくする。自分のことは全然気にもしてない、昔からそうだ。
「そんなこと、桜が心配することじゃないから」
桜は一瞬傷ついた子犬みたいな目で僕を見上げ、それから小さく「そうですね」と呟いた。僕はそれを見て、胸がきゅっと締め付けられた。もっと言葉を選べばよかったと、言ってから後悔しても後の祭りだ。本当はもっと優しく言うつもりだったのに、何故か突き放したような、冷たい言い方になってしまった。
日差しが強く、眩しかった。桜も同じだったんだろう、目を細めて窓から差し込む光を片手で遮っていた。
ブラインドを閉めるくらい僕がしてもよかったのに、桜は額を抑えてふらつきながら立ち上がると、つかつか窓辺にやってきて、シャッとブラインドの紐を引いてさっさとベッドに戻っていった。
…………なんか、気に入らない。
――桜は変わらない。いつも他人のことを考えて、いつも他人の目線を考えて、怯えているんだろう。
こんな風に桜がなってしまったのも、多分……僕のせいというのもあるんだろうか。
一週間前、とある事件により、桜は精神的に大きなダメージを負った。信じられないことだが、男性恐怖症のこいつを、暗がりの倉庫に閉じ込めて強姦させようとした女がいたらしい。そんな女、会いたくもないが……そいつは一度も面会に来なかった。謝罪の言葉一つない。それはそれで、すごく腹立たしい。
その女に会ったら……一発殴りたい。いや、一発じゃすまさないくらい殴りたい。
窓からこちらをのぞく顔を見ると、ひどく歪んだ表情をしていた。こんな顔、桜に見せればまた余計な不安を与えるにきまっている。僕は桜の方を向くことができなかった。考えれば考えるほど、腹綿が煮えくりかえるのだから仕方ない。
桜には、もうこんな思いさせたくない。
あの時と同じような思いは……。
僕は多分、柊兄を一生許さない。
……桜はいつも、僕に何も言わない。一人で悩んで抱え込んで……。僕が気付いたときにはもう、ぼろぼろに傷ついて、取り返しのつかないことになっているんだ。
本当に、バカな片割れだ。
痛くても我慢して、僕に隠そうとするのがわかるから、僕は余計いらいらした。桜にそうさせてしまう自分にも、桜にも。
桜は今日も黙々と日記を書いている。誰にも打ち明けられない心の内を、日記になら正直にかけるのだろうか。
窓の外には入道雲が浮かんでいる。今日も、夕立が降るだろうか。
桜が何かもの言いたげにこっちをみている。はっきり言えばいいのに、何故か桜はいつもいわない。
桜は『痛い』と言いたいと思ってる、そんな気がする。
――心が、痛いと。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。次回、速星のターン(仮)。
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