◆ ◆
剣道部部室。
窓がひとつしかないこの部屋では、窓を開けても風が通らず、嫌でも熱気がこもってしまう。風を通すためには、せいぜいドアを開けっ放しにするしかないのだが、さすがに羞恥心はあるため、それはできない。
昼間はとても暑くても、夕方になれば、多少涼しい風が吹き込んでくる。
その微々たる風に部活後の涼を求めるのが、みんな大好きだった。
部室はある意味、みんなの憩いの場だ。
パシリが帰ったその後で、笑いながらパシリの話をする。
「あたしさ、一ノ瀬のこと見直したかも」
部室へと続く渡り廊下にオレンジ色の日が差し込む。
「あたしも。何か憎めねー。触った? あの二の腕。すげーぷにぷにしてんの。気持ちいいったら……」
「ねー山村さー。そろそろ許してあげれば?」
山村は光を手で遮り、眩しそうに目を細めた。
「……別に、もう怒ってないし。ていうか、とっくに怒る気失せてるっつーの。だけどあいつがめちゃ怯えた目であたしを見てくるから。収拾がつかないっていうかさ」
「あー……山村は目つきが悪いから、余計怖いんじゃないの? 怒られてるって思ってるんじゃない、一ノ瀬。あーやっぱうまいわ、あのはちみつ漬け。あいつ何。どこのお母さんだよ」
桜が作ってきたレモンのはちみつ漬けは、部活の後で食べるのが恒例になっていた。みんな手づかみで摘み、他愛も無い話をして部室に溜まる。
「今日もすげー萎縮してたよねッ。山村にタオルと飲み物渡すとき。こりゃー蛇に睨まれた蛙みたいだなーって思ってみてたけど」
「あの噂も嘘くさいなーって思えてきた」
「え、セフレ募集しまくってるとか、有沢くんに体で迫ったとかっていうあれ? あれはありえんでしょー。あんなきょどったトドちゃんには、とてもじゃないけど男なんて落とせません」
だよね、と頷きあう部員たち。何日か桜を観察した結果、全員が同じような結論にたどり着いたようだ。
「そういや鬼の番長紫さまーはどこにいったの? いっつも一番張り切って練習してるのに……結局今日は来なかった」
「くだらないことしてないで、練習練習!」
「全然似てないよ! 番長はもっとかわいい怖い」
誰かが紫の声真似をしてみせ、笑い声がそこに響いた。他にもう人影はなく、建物の影と部員の影だけが浮かんでいた。
「私桃ちぃと番長がいるところ見たよー」
それはとても珍しい組み合わせなようで、そうでもない組み合わせだなとそこにいる全員は思った。あの二人は中学が一緒だから、時々話しているのを見たことがあるのだ。
「そういえばさー桃ちぃから香水もらっちゃったんだー。この間の雑誌に載ってた――」
ドアノブをまわし、部室に足を踏み入れたとき、何かにぶつかった。
「痛ッ」
すりガラスの向こうに、ピンク色の物体が見えた。もそもそ動くそれが、『桃ちぃ』と呼ばれる人物だということに、みんなすぐ気づく。
「えー、何? 何してるの桃ちぃ……」
桃耶は、ジャージのポケットに突っ込んでいた手を抜き出して、あははと笑った。
「勝手に入ってごめんね? 桃も何かお手伝いしたいなって思って。一ノ瀬ちゃん、いなかったんだね」
首をかしげて目をしばたかせる桃耶に、部員たちは笑った。
「かわいーなぁ桃ちぃは」
「え? え?」
桃耶は大きな目をぱちぱちさせて、きょとんとした。
「一ノ瀬なら一番先に帰ったよ。どうやら私たちにリンチにでもあうとか思ってるらしく、いっつも声を震わせながら『お先に失礼いたしますッ!』って転がっていくのさ」
その言葉に笑いの渦が起こる。あれは確かに、走っていくというよりは転がっているという言葉がしっくりくるのだ。
帰りの用意のために鞄を引っ掻き回していた一人の部員の顔が急に曇る。
「? どうかしたの?」
「え、ちょッ、冗談でしょ? ――ないんだけど、香水が!」
よく探したか、持ってこなかったんじゃないのとか、皆軽く笑って流そうとしていた。
「違うよ! だってあれ、ずっと鞄の中に入ってたし。一度も使ってないし!」
「何だ、一回も使ってないんじゃん。色気も素っ気もねーやつに香水あげるくらいなら、下水にでも捨てたほうがまだ建設的なんじゃないの? においも消えるだろうし?」
その言葉にみんな爆笑する。くだらないことに笑えてしまうのが女子高生らしい。
「そのうち出てくるって! 色気が必要になったらおねえさんが買ってあげてもよくってよ?」
その言い方がまた面白くて、爆笑の渦がおこった。
「ごめん桃ちぃ、もらった香水、どっかになくしちゃったみたいで……」
桃耶は声を立てて笑った。
「別にいいよぉ。あんなの、たいしたものじゃなかったし」
桃耶はにっこりほほ笑んだ。心の広い子なんだろうなあと、部員たちは心の中で思っていた。その笑みの意味も知らずに。
◆
「え……」
私は、ただ自分のカバンに入っていた見覚えのない小瓶を出しただけです。
「最低だな……」
いきなり蔑まれて、どぎまぎしています。しかもなぜか桃耶さん介入。何してるの。
「皆、お願い。一ノ瀬ちゃんを責めないであげてぇ! 桃、思うんだけどね、本当はそんなに悪い人じゃないと思うのぉ……だから、一ノ瀬ちゃんが自分から言ってくるまで待ってあげて欲しいの――最初から責めてちゃ、言いたいことも言えないでしょ? ねえ、お願い……。それが一ノ瀬ちゃんのためになるなら、正直に一ノ瀬ちゃんが話してくれたら、許してあげようよ」
「桃ちぃ……」
何言ってるのか、全然わかりません。桃耶さんは私をかばうような発言をしているかのように思いますが、よく聞いていると私が盗んだこと前提で話しているのがわかります。
「桃ちぃは本当に優しいんだね……。いつも一ノ瀬のことかばってあげるし」
……今の言葉が、かばっていた……? 周りにはそういう風にとれるんでしょうか。
私が、盗んだとか、最低だとか、そんな言葉しかさっきから聞こえない。
早く、違うって弁解しなきゃ。
だって正直に言えばみんな、わかってくれるはずです。私、がんばりましたよね……。私のこと、認めてくれてたんですよね?
私の言葉、信じてくれますよね……。
心を占領するのは不安と恐れ……。生唾を飲み込み、ジャージの裾をぎゅーっと掴みました。緊張して、汗が出てくる。声が、震えそうです。
――勇気を振り絞って『私、知りません』と言いました。
◆ ◆
「……どうした?」
今にも飛び降りてしまいそうな顔で、桜は学校の屋上に座り込んでいた。部活に行ったら、すれ違いで転がりさる桜の肩にぶつかったのだ。いつもと様子が違う桜を追いかけて、部活を放り出してここまで来た。
今日は、何で笑わないの? その言葉を心にしまいこみ、紫は訝しそうに桜の隣に座った。この世の終わりみたいな、絶望的な顔はホラーとしかいいようがない。
「あ……っ。わ、私またみなさんを怒らせてしまったみたいで……ダメですね、本当」
「駄目なのは、いつものことじゃないのか?」
「…………」
空気がより一層重くなった。今の言葉は桜に打撃を与えるには十分だったのかと、紫はその時になってようやく悟った。無神経な言葉だったと紫は内心反省した。
珍しい。相当、本気で落ち込んでる……。いつもなら、笑ってそうですねーくらい言うのに。
……私を見たら笑うのが桜だろう、笑わない桜なんて――。紫は痛みに胸を抑えた。
「何か言われた? もしかして噂のこととか……? だったら全然気にするな。――私がついてるから。何か言われたら、私多分許さないから」
「噂?」
まずい、本人は知らないのか。言ってから紫は焦って何でもないと両手を振った。
「あの……私のカバンに香水が入ってて……私はただ誰のかわからなくて取り出しただけで……。それで、あの……桃耶さんがそれを見て、探してたのこれでしょって……。それで盗んだって言われて。――……否定しても、わかってもらえなくて」
「…………」
あれだけ一緒にいて、あれだけ桜は剣道部に尽くして……。それでも桜は信じてもらえなかった。
馬鹿みたいだ……。
自分も、みんなも、馬鹿みたいだ。
急激に怒りがこみあげてきて、紫はこぶしを握り締めた。剣道部だけじゃない。今まで桜に対して抱いていた自分の思いにも、怒りを感じた。
嫉妬。一時抱いていた、桜への優越感。桜の純粋さを見ると、自分の汚い部分が浮き彫りになって、今までの自分への怒りで頭も胸もいっぱいになる。
「正直に言ったんです、違うって。でも……私の言葉は最初から無視されてました。なんかもう、そこで全部ぷっつんってキレちゃったんですよねー。あはは……」
今まで何を見てきたんだろう。紫の心に浮かぶのは、いつもおどおどしてるけど一生懸命で、紫を見ると笑顔になる桜の姿。そして、誰に対しても誠実であろうとする桜の姿だった。
――ごめんね、ごめん。
鼻をすする音がした。今桜の顔を見るのが怖くて、紫は黙って桜の背中に手を置いた。
「……こんなことゆーさんにいうのもおかしな話ですよね。ははは、忘れてください。早く練習に戻らないと、みんな待ってますよ? 私大丈夫ですから、行ってください」
桜はすくっと立ちあがると、くるっと振り返って笑った。
見ていて、痛々しい笑顔――。目の周りが若干赤く腫れている。泣きすぎたんだろう。今は涙が流れていないが、どれほど泣いたのか、大体想像がつく。いつもの笑顔を知っているからこそ、無理に笑っているのがよくわかる。
――やめろよ。私の前でそんな顔しないで。
どうみても大丈夫、じゃない。
桜に大丈夫だと言わせる自分も、桜の正直な言葉を信じないみんなも、本当に馬鹿みたい。
こんな時ぐらい、話を聞いて、一緒にいてほしいくらい言えない桜にも、苛立った。桜に苛立つなんてお角ちがいかもしれないけど。
「どどどうしたんですか、そんな怖い顔して……。そんな可愛い顔で睨まれたらど、どうしたらいいのか……。ごごめんなさい、やっぱりわ、わたしの話なんて聞きたくもありませんでしたよね、貴重な時間を割いてしまってごめんなさい。怒ってますか?」
「べ、別に怒ってなんてないよ! さ、桜のことが気になってここまで来たわけじゃないんだからな! 桜が笑わない理由なんて、ホントどうでもよかったんだから……」
桜はきょとんとし、紫の顔を見下ろした。
「桜、行こう」
「え? 行くって、どこに……ちょッ」
自分より一回りは大きい桜の巨体を引きずるように、紫は足早に歩き出した。
◆
戻りたくない、その言葉が私の頭の中で壊れたレコードみたいにリピートし続けています。
だって気まずい。
私が行ったら、みなさん練習どころじゃないし、雰囲気ぶち壊しです。ああ、私は消えてなくなりたい。もう人とかかわったり、誰かに心から尽くす、なんてことに全精力を注いだりできません。今回は本当に、もう本当に、信じてもらえなかったことがショックで悲しくて絶望的で。屋上で今なら飛び降りれたほうがいっそ幸せな気分になれるきがして。
今なら淀んだ負のオーラが見えることでしょうね。わー、すごいよ桜ちゃん。呪縛霊がいっぱいだよー。
意外と力強い紫に引っ張られ、私たちは剣道部部室の前まで戻ってきました。わーただいま。犯行現場に戻ってきたなこいつぅ、やっぱり犯人はお前だ、とか言われるのかな。
紫は部室の前で立ち止まり、小さな肩で深呼吸してから勢いよくドアを開けました。
「番長、一ノ瀬連れてきてくれてありがとう」
「犯行現場に戻ってきたな、お前が犯人だろう、一ノ瀬」
「逃げるなんて最低だな。せっかく正直に言ったらちょっとは許してやろうと思ったのに」
あはは、予想通りの反応にもう笑うしかありません。だから戻ってきたくなかったのに。
ああ、笑いすぎたら、急に胸が苦しくなってきました。もう立っているのもつらいです。おまけに、膝も笑ってます。可笑しくて可笑しくて、震えが止まりません。目から汗、いえ、笑いすぎて涙が出てきました。お腹が、痛くて、血の気が引いて、倒れたらどうしよう。めちゃくちゃおいしいかもしれません。
「桜、しっかりしろ。お前やってないんだからもっと堂々としてろよ!」
紫……。私の肉厚な背中をバシっと強く叩き、それからそっとそう囁いてくれました。
しっかり、その言葉を胸に刻み込んで、何度も繰り返し呟いて精神統一させることにします。しっかり、しっかり、しっかりしっかり……。
「番長、そいつをかばうの? いくら番長でもそれは……」
番長は、発言しかけた部員の顔を冷たく見上げました。かわいい顔だけど、無駄に迫力があり、言葉を飲み込むその場の全員。
口々に私を罵っていたみんなはそこで静まり、番長様のありがたいお言葉を待っているように見えました。わー、すごい。さすが番長、伊達じゃない。
「いい加減にして。桜は誰よりも頑張ってたよ! みんなの為を思って。それを何? 桃耶の言葉一つで態度変えるくらい、桜の言葉が信じられないくらい、あんたたちは桜のことを何も見てなかったってこと? 馬鹿みたい」
「だって、現に一ノ瀬のカバンからこれがでてきたんだよ?」
「それで、桜の言い分は無視してもいいっていうの? 馬鹿かお前。それなら警察いらないよ。大体、桜がそんな度胸ある行為できると思うのかお前たち。こんなにおどおどしてる空気清浄機みたいな人間に!」
……私、今紫にかばってもらってる、のでしょうか。
「確かに……言われてみればそうかもしれないけど……」
「一ノ瀬はいい子に見えて実は裏で悪いこといっぱいしてるって桃ちぃが言ってたから……つい」
紫は、小さな体を震わせて、こぶしを握り締めていました。……大丈夫でしょうか、どこか痛いところでもあるんでしょうか、心配です。
声をかけようかどうしようか迷って手を出したりひっこめたりしていたら、紫が手を壁に思いっきり叩きつけました。ああ、ちらっと見えた手の平が真っ赤です。
「ふざけんなよ。桃耶とうやとーや! お前たち桃耶の宗教団体ですか!? 見えない桃耶より、いつも一緒にいた桜の話をきけないなんて、バカだよ! 馬鹿の壁をもはや越えてるよ!」
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「一ノ瀬と桃耶の言葉を聞いてると、桃耶のほうが説得力があるように感じちゃったんだよ、ごめんね……」
「あ、あたしも、もう香水が見つかったから別にいいよ。うん、あたしこそみんなを騒がせちゃってごめんね。きっと香水に足が生えて勝手に一ノ瀬のカバンに入ったんだと思う」
口々に、ごめんね、ごめんねと私に頭を下げて謝ってくれ、私も釣られてごめんなさいごめんなさいと謝り続け。心の中では紫が私を信じて、かばってくれたことの嬉しさでいっぱいでした。
ありがとう、ありがとう。いっぱい感謝の気持ちを、早く紫に伝えたい。それから、大好きです、やっぱり私は紫が大好きです。可愛いからというだけじゃない、紫の全部が、大好きです。
それから……桃耶さんへの不信感と腹立たしさと、自分の不甲斐なさが入り乱れて、私はとても複雑な気持ちで、思考回路がカオス状態でショートしそうになっていたのです。
◆ ◆
犬のように駆け寄って、ぎゅーと自分を抱きしめてくる巨体。鼻水をすする音。それから、たくさんの感謝の言葉。
「な、なんだよ、そんなにありがとうとか言うな! 大したことしてないし、当然のことをしただけでっ。別にほめられたことじゃあないんだからな……私だって、桜に謝りたいことがいっぱいあるし、ありがとうって言いたいことも……だからそんなに嬉しそうな顔をっ」
桜は、満面の笑みを浮かべていた。
「そういうゆーさんは、ふっきれたような、清々しいかわいらしい笑顔ですよ?」
そうかもしれない。いろいろとふっきれた。
別に桜が有沢のことが好きだって、有沢が桜のことが好きだって、いいじゃないか。二人とも、私の大事な友達で、好きな人には変わりない。私は有沢をあきらめる気なんてないし、ちゃんと告白しようと思う。桜には、ちゃんと言おう。
――もう、大丈夫だよって。
ごめんね桜。もう少し頑張って桃耶と対決してね。今度は直接対決になる予定です。今回もお付き合いいただきありがとうございました。
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