◆
なんか、階段からころころ転がっていったわけですが……あんまり衝撃は大きくありませんでした。しかもあんまり痛くない。
「ひゃひ!? わ、私の下に誰かいます!!」
「気付いたか桜。体、痛くない?」
あれ……。カーテンがある。ベッドもあります。紫が心配そうに私の顔を覗き込んでいて、有沢くんが壁に寄りかかって私を見ていて……。
――ここ、階段じゃないみたいです。保健室みたい。
「気付くのが遅いわデブ。なんで押しつぶされた私が早く立ち直って、あなたがまだそこで寝てるわけ? 意味わかんないんですけど」
慌てて声のするほうを見ると、足首に包帯を巻いてもらっている人がすぐ隣に腰掛けていました。これ、絶対私が踏み潰したっぽいと思いつつ、状況がまったく飲み込めないふりをしたい今の心境。
「だ、大丈夫ですか……?」
で、どうしましょう。何かおろおろすることしかできません。ああ私ってつくづく役立たず、無能です。どうしましょう、このまま消え去りたい。
「これ見て、どこが大丈夫だと思うわけ? アンタのおかげで、足首捻挫よ。デブ。どう責任取ってくれるわけ? 返答しだいではぶちきれるわよ」
口調がもうすでに切れてます、という心のツッコミはさておき、私にある選択肢は『謝る』以外にありませんでした。
しかし恐怖で開いた口から言葉を発することができず、目に溜まった涙があふれて視界がにじんで、やっと何かが言える気がしました。
だってめちゃめちゃ怖いんですよ、目の前の顔。睨み付けてくる目なんてほら。何、悪魔なの。悪魔なのですか。怒りに顔が歪んで、赤く染まる頬はポットなのですね、わかります。
「ご、ごめんなさい……」
私が亀みたいに首をすくめて震えてやっと言えたのがその言葉です。見兼ねたのか呆れたのか、紫がまあまあと言って間に入ってきてくれました。まさに天の助け。番長は伊達じゃない。私を睨付けていた目の前の人の態度が180度変わりました。
「そんなにすごむなよ。なっ? こいつだってきっと悪気があったわけじゃないんだ。ただ重力には逆らえなかったんだ」
「紫……あんたこのデブの知り合いなわけね。どうしてくれるのよ。もうすぐ地区大会なのに、この大変な時期に捻挫なんて」
地区大会……この人が所属する部活って一体……。文化系なら少しは私も力になれるかもしれないんですけど。
「……ごめんな。山村、今回は団体から外れるしかなさそうだな……。仕方ないけど、佐々に出てもらうしか……」
嫌な予感はしていました。
「……同じ部活ですか?」
そう問いかけた私を、気まずそうに目をそらしながら、紫が頷く姿に、全身に電撃が流れたみたいに、体がしびれて動けませんでした。
「けっ、けけけけけーっ」
「どうしたんだ……奇声を発して……」
剣道部でいらっしゃいましたか。
私、どうやら大変なことをやらかしてしまったようです。膝が笑ってきました。お腹も、心なしか痛くなってきた気がします。
おそらく、あふれる激情を抑えきれなかったのでしょう。机を手のひらで思い切りたたいて、彼女は声を荒げました。
「冗談じゃない! 私は出る。痛み止めでも何でも打って。こんなことぐらいで……!」
私を睨む目は、恨みと怒りで満ちています。すすり泣く私を見て、彼女はまた机を両拳で何度も何度もたたきつけました。
「ねえ、山村。わかるでしょ。無理、だよ……その足じゃ、踏み込めない……」
こめかみを噛みしめて、私をギッと睨みつける山村さんの前で、私は動けなくなりました。
「あー苛々するわね、何泣いてるのよあんた。泣きたいのはこっちだっつーの。あんた、いちいちイライラする」
それにいちいちびくつく私って、どれだけ気が小さいんでしょう。私絶対、今世紀最大のビビり王です。いやでもこれ私死ぬかんじですか、死亡フラグ立ってる感じですか。誰でもいいからヘルプミー。
「ご、ごめっ……な……い。な、なんでもしますから……あのっ。私、役立たずかもしれませんけど、が、がん、がががん」
がんばりますから、と言いかけたその言葉を、戸を引く音が遮りました。
「ああああ! 一ノ瀬ちゃんたら、こんなところにいたんだぁ。もう、一ノ瀬ちゃんが頼まれてた資料運び、桃が代わりにやってあげといたんだからねぇ!」
その場の注目を一瞬のうちにして桃さんが集め、私だけでなくその場の誰もが拍子ぬけしたようです。一時ですが緊張から解放され、安堵に胸をなで下ろしました。
「っと、そうじゃなくてぇ。話はきかせてもらったからねぇ。桃、喧嘩はよくないと思うなぁ。一ノ瀬ちゃんだって、悪気があって山村ちゃんの足首痛めたわけじゃないだろうし……山村ちゃんだって、それはわかるじゃん?」
「桃さん……」
「うん、だからね、許してあげてほしいなぁなんて。てか何? 償う余地っていうの? そんな感じにしてあげよう? 一ノ瀬ちゃん、一応何でもできるすごい子だから、大丈夫だと思うんだぁ」
「…………どうした、熱でもあるのか」
有沢くん……それはあんまりですよ。桃さんはいつも優しいですって。そう心の中で弁明してはみましたが、
「ひどいっ、桃のことそうやっていつもからかってぇ」
小さい声で、からかってないし、とかぶつぶつ言ってる声が聞こえてきました。ええ、たぶん私にだけきこえるか聞こえないかくらいの声で。
「桃は、ただ一ノ瀬ちゃんが、みんなから誤解されないようにしたいだけ……」
そんな、私のためを思って……やっぱりいい人なのですね、桃さん。
「なんでもするって言ってたもんね、がんばってね!! うちの学校の剣道部、厳しいって有名だけど!! 一ノ瀬ちゃんならその試練も乗り越えられるって桃は信じてるからねぇ!」
「え、え?」
なんか、状況がよくつかめません。結局、私はどうなるのですか。
「そんなことで、私の大会が、かえってくるとでも言うの?」
桃耶さんは満面の笑みで山村さんの顔を覗き込みました。
「山村ちゃん、しっかり一ノ瀬ちゃんをしごいてこき使って、最後はぼろ雑……じゃなかった、それで許してあげようよ、ねぇ?」
「…………」
無言で私を睨む山村さんから、目をそらすことができませんでした。
お前の体は貰って行く、最後は身も心もボロボロにして捨ててやるよ、とそんな恐ろしいことは山村さんは言いませんでしたが、彼女の顔にはそう書いてありました。
私の今の心情を表していたのは、ドナドナの歌。それが私の頭の中で何度もリピートされていました。
◆
何でもしますとは言いましたが、結局私、何をすればいいんでしょう……。
「部長、なんですか、あの人。さっきからぼけーっと壁際につったってるだけで、山村さんの周りをうろうろして……邪魔じゃないですか?」
え、え……。何か私、皆さんの邪魔してましたか。どうしましょう、役立たず以下の馬鹿桜。焦りすぎて、手汗がにじんできます。
「大丈夫、なんですか? あの人、滝のように汗かいてますよ。すごい速さで山村さんの周りぐるぐるしてるし」
きゃーもうやめてー。私を見ないでください。なんか緊張しすぎて、どうしていいか分からなくて、多動になってくるので。
ちょっと、と紫が汗ばんだ私の腕を掴んで、部員さんたちの前に引きずり出しました。そしてなぜか不審の目で注目する部員さんたち。え、何これ。集団リンチですか。関係ないかもしれませんが、剣道部のみなさん美人です。あと紫、最高にりりしくてかわいい。こんな美人に囲まれて、私幸せ――じゃなくて、やっていかれるのでしょうか、いろんな意味で。
「ああ、ごめん。色々あって。私にもよくわかんないけど。今日から剣道部のおまけになりました一ノ瀬桜さんです。今日からたぶんマネージャー的な何かをしてくれると思うから、皆気軽に声をかけてあげてください」
そう言うと、軽く私の分厚い背中を軽く叩いて、紫は部員全員に笑いかけました。皆さん、ものすごーく希少なものを見たかのような目で、私を凝視してきました。
なんとなくその場の空気がざわついて、有沢という単語が何度も飛び交っています。え、何が起こったのか私全然把握できません。
「番長、もしかしてその人……例の人ですか?」
例の人って……私は珍獣か何かですか。ごめんなさい、こんな人目にさらされるような場所に出てきてしまって……。ああもう、自分の星に帰りたい。
「番長って呼ぶな。部長ってよべ」
「はい、番長」
――でも頑張らなければ。山村さんへの責任は、しっかり果たさないといけませんよね。
その場にいる皆さんの注目を集めて、すっかりあがっていましたが、何とか声を振り絞ってみます。
「あああああああ、ああの。すす、すみませんでした。――大事な時期なのに、山村さんのこと……。覚悟はできています、もう打つなり叩くなり、好きにしてください!」
「まあまあ、誰も桜を取って食うなんて思ってないから、そんなにびびらなくても大丈夫だって。ほら、皆やさしいし。美人だし。桜の大好物だぞー、友達百人ぐらい作れるって」
「は、はい!」
どう見たって百人もこの場にいないとか、みんな鋭利な刃物のような目をして私を見てるとか、色々突っ込みたいところはたくさんありましたがそんなのは今どうだっていいんです。
今の私には……何ができるかわからないですけど。
「がんばります、番長!」
◆
あの時は、がんばりますなんて明言しましたよ、ええ。
でも何これ。
異界……ですねわかります。
「今日の部活が終わるまでに、全部片付けておいて。ちりひとつ残したら、やり直しだからね」
「は、はぁ……」
これが、本当に女の園……なのでしょうか。思わず目を疑いたくなる目の前の光景。鼻を覆いたいけど、山村さんがまだそこにいるから、そんなあからさまにはできません……。
脱ぎ捨てられたシャツ。何か芳香剤と靴下のにおいが混ざり合ってえも言われぬ悪臭を放つ靴箱。ロッカーの上には茶色くなったペットボトル。パッケージはウーロン茶ですが、中身は……もはやお茶じゃない、どろどろした何か。あと、パン。
恐る恐るそれを手にとって、間近でみてみると、カビが生えてました。いやだ、何これ。ここは一体、どこですか。本当に剣道部の部室ですか。私、間違えたんですか、どこかで何かを間違えたんですか。
「――そうか、きっとこれは夢でしょう。うん。騙されないですよ」
私は自分にそう言い聞かせて、ロッカーを思いっきり蹴り飛ばしてみました。
「いっ痛い……」
小指を角にぶつけたのと同じ痛みが……これはどうやら紛れもない現実のようです。
これが女の部室だなんて、信じたくないけど、豚小屋。
これならまだ竹刀でびしばしと叩かれたほうがましです。
まあ、動物小屋の掃除だと思えば……がんばれますよ、桜。やるしかないのです。
装備は完ぺきです。あずき色のジャージ。口と鼻をおおうタオル。向かうところ敵なし。今の私を掃除のプロとでも呼んでください。
とりあえず、散らかったシャツを集めて、そこらへんに置いてあったかごに全部突っ込みました。洗濯機……探さなきゃだめですね。
「お。やってるねぇー」
「と、桃耶さん……どうして」
こんなところに……来ちゃだめです。ぶたになりますよ。
「うん、一ノ瀬ちゃんが心配で……。来ちゃったのぉ。桃にも何かできることあると思ってぇ。手伝うよ?」
て、手伝うって……。こんなカオス、手伝っちゃだめです。もはやここは日本じゃありません。豚小屋です。
「でも、私の仕事ですから……」
「まあいいじゃん? 二人でやったほうがぁ、早く終わると思うよぉ?」
わー。鳥肌たっちゃいました。なんてかわいい笑顔なんでしょうか。もしかして今私だけに笑いかけてくれてる……って何、私キモい。今更だけどキモいです。
「そ、そこまで言ってくれるなら……じゃあお願いします。私、洗濯機を探しに行ってくるので……」
「え、洗濯機? 洗濯機ならぁ……学校から2キロ先にコインランドリーがあるよぉ」
に、2キロ……ちょっと遠いような気がしますが、そこしかないのなら仕方ないですよね。
「じゃあちょっと行ってくるので、その間に……あのそのへんに座っててください!」
「あ、ねえ一ノ瀬ちゃん。そのバッグは……置いてったほうがよくない?」
肩にかけたバッグの中には、別に大したものは入っていませんでした。が、こんなバッグでも、誰かに盗まれたり中身を見られたらいやです。
「ど、どうしてですか?」
「邪魔でしょ? そんなにたくさんシャツがあるのに、バッグ持ってったら。ね?」
ねって……。そんな。
「え、あのっ」
半ば強引に肩からバッグをひきはがされ、部室から押し出されてしまいました。
もう、仕方ないですよね。桃耶さんもいることだし、たぶん大丈夫ですよ、桜。
◆ ◆
「あの子には悪いけど……一ノ瀬桜を締め上げるにはこれくらいのことは仕方なーい。誰も桃がデブちんを突き落としただなんて思わないだろうしぃ? 勝手に落ちたあのデブが悪いんだもん」
それだけでは終わらない、桜にとどめを刺すために、桃耶はここに来たのだ。
勝った。
これで、紫からも見限られて、孤立無援になるはず。そう、この学園での居場所はなくなるだろう。
邪魔ものは、きっとこれで消えるはず。あのデブもきっと、もうこの学園には戻ってくることはないだろう。
桃耶はそう確信していた。どんなに嫌がらせをしても、不死鳥のごとく舞い戻ってくるデブ。むしろ嫌がらせ自体に全く気付いていない様子だったデブ。さっさと立ち去ればいいよ。
随分いらいらさせられた。鈍感にもほどがある。速星も、これできっと……少しは自分のことを見てくれる。
あの子がいると……速星はなぜか私を見てくれない。でもいいの。もうこれで、平穏な毎日が戻ってくるはずだから。
お待たせしました。2月とかいっときながら、気付けばもう5月。
次回は6月頭頃までに仕上げたいと思います。たぶん。
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