運命の歯車は廻る
男は、豪奢な寝台の上で己の人生を振り返っていた。
枯れ枝の様な腕、皺が寄り染みの浮き出た皮膚。かつては王国の貴婦人達の憧れを集めた容姿も寄る年波には勝てず、そこにあるのはただの一人の老人であった。
家臣達は言葉にはしないが、己の余命はもう幾許もないのだろう。
人払いした寝室で幼き頃を思い出す。
ラインハルトは、ガーデナー王国の第二王子としてこの世に生を受けた。
前年に側妃から第一王子が生まれていたが、正妃の第一子として王太子として育つこととなった。ゆくゆくは、このガーデナー王国を導きし王となることが決められていた。
5歳になると、筆頭公爵家令嬢のリューシナとの婚約が結ばれた。
それと同時に王太子としての教育が始まった。
7歳、側近として宰相子息エドワルド、騎士団長子息オージンが選出され共に教育を受けることとなった。
それまで同年の者が周囲にいなかったラインハルトは、この2名と深い友情を育むこととなる。
婚約者であるリューシナとも文のやりとりを通じて誼みを深めていく。
12歳、王立学園に入学。
切磋琢磨し、学園の貴族達の中でも頭角を現すこととなる。
5年後の卒業年までは平穏な日々が流れた。
そして17歳、春。
卒業を迎えるこの年、ラインハルトは恋に落ちた。
相手は一つ下の学年の子爵令嬢サラ。天真爛漫な笑顔を守りたく、ずっと側にいて欲しいと望んだ。
側近達もサラの事を思っている様子に、ラインハルトは焦る気持ちを抱いた。
しかし自分は立太子を控え、また幼き頃よりの婚約者リューシナとの婚儀も同時に控えた身。諦めようと何度も思ったその時に、リューシナのサラへの苛烈な虐めが知らされた。
涙を堪えてなんでもないと言うサラ。
真っ直ぐに此方を見据え、扇で口許を隠しながら知らぬ存ぜぬと言うリューシナ。
心の天秤はいとも容易く傾いた。
婚約破棄。
意外にもあっさりとリューシナはそれを飲み、他国へ嫁ぐと身を引いた。
それから。
周囲を説得し、サラには王妃教育を施し、婚姻。
立太子してすぐに、王はラインハルトに王権を引き継いだ。
王子は一人しか生まれなかったが、サラとは仲睦まじく過ごすことができた。例え、軽んじられることが多いからと嘆くサラが公務を控えるようになってしまっても、己がその分をカバーすれば良いと思い頑張ってきた。
しかし婚姻から5年。サラは病に倒れ、移る可能性があると見舞いもできぬままに還らぬ人となった。
ただ一つの我儘として、後添いをという周囲の言葉に頷くことなく過ごし、ただ一人の王子に王権を託し今に至る。
良い人生だった。
そう呟き、かつての王は誰に看取られることなく穏やかに息を引き取った。
カタリと運命の歯車は廻る。
カタリカタリ。
気付けば、どうやら己の身は赤ん坊になっていた。
薄ぼんやりとした視界。
ゆっくりと周囲を把握していく。
父親だと名乗る男を見て驚いた。
前宰相……?
エドワルドと名付けられ、育てられるうちに気が付いた。
7歳、かつての己に宰相子息エドワルドとして謁見する。
かつての自分は今では他人で、酷く混乱したがそんな素振りは見せずにやり過ごすことができた。
何度も葛藤した。
この前世の記憶は妄想ではないのか。
自分は何なのか。
やがて、一つの境地に行き着く。
私は、あの頃の自分が欲しかった友になろうと。
かつての己は、友に会うまで孤独という事すら知らなかった。
一生を通して大切な友人達を得られたことが、前世の自分にとって何よりも嬉しかったことはまぎれもなく事実。
今の私はエドワルドとして、王国のために、かつての己自身のために生きようと。
そして、やがて来る17歳。
サラは記憶の中の通りに現れた。
愛しい愛しい少女。
宰相を継ぐ者として図書室に篭りがちな私の前に、サラは何度も現れては優しく微笑んだ。
やはり、サラには分かるのだ!
サラに前世の記憶はない様だが、確かに愛し合い結ばれたかつての己の事が魂で覚えているのだ!
歓喜に震え、何度も逢瀬を重ねた。
しかし、残酷に時は流れる。
繰り返されるサラへのリューシナからの虐めの訴え。
ラインハルトの腕の中で涙を零すサラ。
そして断罪。
混乱のうちに迎えた断罪の場で、私はどんな顔をしていたのだろう。
翌日の夕方。
サラに図書室の奥へ誘われた。
そして涙を流しながら、王子には逆らうことは出来ないけれど、愛しているのは貴方だけと告げられた。
かつての己と婚姻の儀を挙げるサラ。
公務の相談として私室に呼ばれ、逢瀬を重ねた。
やがてサラは私の子供を身籠った。
生まれた王子は、かつての記憶にある王子と同じ顔をしていた。
崩れ落ちそうな身体を堪えて、体調不良と偽って王宮を辞し屋敷へ帰る途中、馬車の脱輪事故により私は強く頭を打ち意識が遠のいていくのを感じた。
カタリと運命の歯車は廻る。
カタリカタリ。
気付けば、どうやら己の身は赤ん坊になっていた。
薄ぼんやりとした視界。
ゆっくりと周囲を把握していく。
父親だと名乗る男。
前騎士団長……?
オージンと名付けられ、育てられる。
7歳、かつての己に騎士団長子息オージンとして謁見する。
17歳、サラとの再会。
騎士団の練習の合間に訪れるサラ。
頬を染めて差し出される手拭い。
交わされる口付け。
ラインハルトは?
エドワルドは?
本当に俺だけを見ているのか?
翌日、身を隠してサラの跡を追うと、かつてラインハルトだった頃に気に入っていた薔薇園に着いた。
薔薇の迷路の奥、知る人の少ない東屋。
そこにはラインハルトに抱きしめられ、口付けを交わすサラ。
潤んだ瞳で頬を染め、ラインハルトを見上げて微笑んでいた。
午後を告げる鐘の音が響き、ラインハルトは公務に向かう。
サラはラインハルトと別れ、図書室へと向かう。
書棚の陰で抱き合うサラとエドワルド。
睦言を繰り返す二人の姿は甘い恋人同士のものだった。
混乱のままに日々は過ぎ、やがて訪れる断罪の日。
翌日の午前中、練習場に訪れるサラ。
涙を流しながら、王子には逆らうことは出来ないけれど、愛しているのは貴方だけと告げられた。
かつてのラインハルトとして、エドワルドとして、王侯貴族として訓練を受け慣れ親しんだ感情を隠すこと。それが今この時程役に立ったことは無いだろう。
それでも気付かれないように、顔を見られないようにするためだけにサラをそっと抱き締めた。
国王となったラインハルト。
国王夫妻を守る騎士団長となった俺。
公務を行うラインハルトが宰相と執務室に籠る時間が、俺、オージンが王妃となったサラに喚ばれる時間だったらしい。
しかし、もうサラを抱くことは出来ない。
断り続けると、突然隣国との紛争激しい前線への勅命が出た。
サラを、ラインハルトを、エドワルドを見ていたくなくて、俺は逃げるように前線へ向かった。
我武者羅に前線に立ち、多くの敵を討ち、多くの矢を浴びて、俺は戦場で仰向けに倒れていた。
青い空だった。
そしてゆっくりと意識が遠のいていった。
カタリと運命の歯車は廻る。
カタリカタリ
気付けば、どうやら己の身は赤ん坊になっていた。
薄ぼんやりとした視界。
ゆっくりと周囲を把握していく。
父親だと名乗る男。
前公爵……?
リューシナと名付けられ、育てられる。
リューシナとしての幼年期は、辛いものだった。
3歳になる前から始まる王妃候補としての教育。100年に至る記憶があろうとも、何の役にも立たなかった。
決して王の瑕疵にならぬように、感情を完全に隠すことを叩き込まれる。
好悪の感情も出しては行けない。
王妃の我儘で重臣を蔑ろにする、もしくは姦臣を重用してはならない。
繰り返した生の中で、リューシナがこんなにも苦しい時間を過ごしていたなんて知らない。
いつしか、私は、その時を待ち侘びる様になっていた。
断罪の場。
扇で隠さないと、微笑んでしまいそうだった。
否、大声で笑い出しそうだった。
虐めなんてしなかった。
ただ、微笑んでいただけ。
サラ。
貴女が私をここから解放してくれる、と。
断罪の後、リューシナは隣国へ向かう馬車に乗せられた。
しかし、王都を出て幾許もしないうちに襲撃に遭った。
野盗を装った男達。
その剣が胸を貫いた瞬間、やはり見えたのは青い空だった。
カタリと運命の歯車は廻る。
カタリカタリ
カタカタカタカタ
ラインハルトのエドワルドのオージンのリューシナの記憶を持って、男の魂は回帰した。
ガーデナー王国第二王子、ラインハルトとして。
4度の転生があるとは思っていなかったため、気が付いた瞬間には酷い錯乱状態に陥った。
2歳になってしばらくした頃、父王にリューシナのことを訊いてみた。
そして、リューシナに会いたいと我儘を言った。
その願いは、3歳になる直前に叶えられた。
恐らく、多少の躾が可能となったから会うことができたのだろう。
リューシナは、辿々しく挨拶をしてぎこちなく微笑んだ。
父王にリューシナとの婚約を希う。
共に歩める妃がいいとの子供の賢しげな言葉に、父王は苦笑して王子妃宮を開き、そこにリューシナを住まわせてくれた。
幼いうちから両親と引き離されるのは、本来なら可哀想なことなのだろう。
しかし、微笑むこと以外が許されないあの場所にいるより、共に勉強し支え合う方がリューシナも幸せだと思う。
共に過ごす時間が増える程、リューシナは微笑むことが減り、代わりによく笑うようになった。
7歳、側近としてエドワルドとオージンに会う際には、リューシナも共に臨んだ。
学園に入り3人と共に過ごした。
そして17歳になる前に3人を集めた。
「この一年だけ、私の望みを叶えて欲しい」
怪訝な顔をする3人に私は続けた。
「まずは来週、私がいつも行っている薔薇園の東屋、彼処をいつも私が行く時間に物陰から見ていて欲しい」
ますます不可解な顔をするが構わずに続ける。
「これから何回かこういったことを言うが、私の事を疑わずに従って欲しい」
まずリューシナが、そしてエドワルドとオージンが深く頷いた。
「それは、ラインハルト様にとって、とても必要な事なのでしょう。
我らはラインハルト様の意のままに」
薔薇園の東屋は、初めてサラに遭った場所。
かつての記憶通りのサラは、はにかむような笑顔で話しかけてきた。
「彼女は何者でしょうか」
エドワルドの言葉にリューシナが即答する。
「一学年下のサラ・カント子爵令嬢でしょう」
「随分可愛らしいが、リューシナ嬢の目の前で浮気か?」
オージンが詰め寄って来る。
「いや、それは有り得ない。
これだけははっきり言っておく。
そしてこの気持ちが変わることもない、と。
明日、オージンの朝の鍛錬後にも彼女は現れる筈だ。
オージン、気取られるなよ」
「本当にラインハルト様の言う通りに現れたな。
なあ、ラインハルト様、これはどういうことなんですか?」
「その答えはまだ答えられない。
エドワルド、今日も午後は図書室だったか?」
「もしや……?」
「ああ。エドワルドも気取られるなよ」
サラが去った後の図書室、最奥の書棚の陰から出るとエドワルドが憮然とした顔でいた。
「昨日と今日の午前中を見ていなければ、彼女を気に入っていたかもしれません」
「俺も、鍛錬後に出された手拭いにはグッときたしな」
「ら、ラインハルト様もでしょうか?」
不安げにリューシナが尋ねるのを、軽く笑って否定する。
「まさか。そうだったら、今、ここにいるわけがないだろう?」
同じ様な状況が何度か繰り返され、表面上だけ彼女には全員、優しく対応することにした。
今もって、彼女の目的がわからないからだ。
そしてサラから虐めの件が訴えられた。
王宮の自分の執務室に、4人を呼び寄せた。
「本当にリューシナはサラにこんな酷いことをしたのか?」
涙ながらに訴えるサラはとても儚げで、何も知らなければきっと何にも増して庇いたくなるのだと思う。
「いいえ、私はラインハルト様に相応しく品性を持って常に行動しております」
リューシナが微笑みながら述べる。
「そ、そんなっ!」
「サラ、リューシナは虐めをする様な必要がない。私はリューシナを信じる」
そこからは酷いものだった。
儚げな様子をかなぐり捨ててリューシナを罵るサラ。
オージンに取り押さえられ、エドワルドの手配した近衛に引き立てられていく様子は尋常の物ではなかった。
獄中で、サラは死んだ。
最期までリューシナを罵り続けるだけで、目的を吐くことはなかった。
彼女の目的は結局、最期までわからなかった。
男は、豪奢な寝台の上で己の人生を振り返っていた。
枯れ枝の様な腕、皺が寄り染みの浮き出た皮膚。かつては王国の貴婦人達の憧れを集めた容姿も寄る年波には勝てず、そこにあるのはただの一人の老人であった。
家臣達は言葉にはしないが、己の余命はもう幾許もないのだろう。
痩せこけた手を老婆がそっと握り締める。
「ラインハルト様……」
「リューシナか…………そろそろ、時間が来たようだな。
本当に、本当に良い人生だった」
リューシナの背後には、王となった息子と宰相家、騎士団長家にそれぞれ嫁いだ娘達。そしてその孫達がいる。
寝台の足許には、老いたエドワルドとオージンが皺だらけになった顔を歪めて涙を堪えている。
「いい、人生、だった……」
やはりそれが、男の最期の言葉となった。