++ 二〇××年×月×日 ++
ある老舗高級料亭の一室。
高そうなスーツの着こなしで育ちの良さを知らず知らずのうちにアピールしている中年男性と白ユリを連想させるドレスで清楚を打ち出した若い女性が食事をしていた。
和やかとはいえない張り詰めた空気の中、二人は机を挟み、向かい合って座っていた。
この場の空気を変えようと最初に話しかけたのは中年男性のほうだった。
「私の掲げた『美しい国』とは省略した言葉で本当はもっと長いんですよ。知ってますか?」
中年男性の発言を険しい表情で聞いていた若い女性はその内容に酷く驚いた。
「え? すみません、分からないです」
「そうですか、ではヒントをあげましょう。…国は人で成り立っている、です」
中年男性はなおも親しげに話しかけている。逆に若い女性は困惑しきっていた。
「国は人で成り立っている…ですか、んー美しい国は人でなり、あれ可笑しい? …美しい人…で国は。あっ! 『美しい人の国』ですか」
「正解! と言いたいところですが違います。おしいですけど、まだ足りません。」
もう限界だと言わんばかりの彼女は思い切って重い口を開いた。
「…すみません、話が見えないのですが、これはどうゆうことなのでしょう。 まさかクイズをするためだけに日本の総理大臣であるあなたがわざわざ私なんかをここに呼んだ訳じゃ無いですよね?」
「お気に召しませんでしたか。前置きであなたの緊張をほぐして差し上げようと思ったのですが…しょうがありませんね」
そう言って残念そうにうつむいた中年男性は脇に置いてあったファイルの中から紙を一枚取り出し、そうっと机の上に置いた。
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人の歩く音、遠めから聞こえてくる話し声、でも僕の頭にこびりついて離れないのはクーラーのゴーという音。わりと静かだけど落ち着かない病院特有の雰囲気はここも健在だ。
僕は受付にいる看護婦のおばさんに言われるがまま、自分の番がくるのをただ座って待っているだけ。
暇ですることが無い。座っている長椅子に寝転がりたくとも流石にそうゆうわけにもいかない。
あまりにも暇なので受付窓口周辺に張ってある予定表やら健康保険証変更のお知らせなど一通りの文字に目を通した。が、もちろん面白くもなんともない。それなのに、まだ暇は腐る程余っている。しょうがないので待っている患者さん達の観察でもして時間潰す事にした。
さてと、それじゃあまず、ひとつ前の席にいる若い女性から。おそらく彼女は二十代だろう。けど装いは落ち着いているというより地味過ぎて根暗っぽい。熟女に憧れているのか知らないがもう少しオシャレ考えたほうがいい。
まあ、服装については僕も人のことは言えないのだけど。
彼女は僕の視線に全く気付いておらず、本に夢中になっている様子。多分彼女は学生時代、勉強ばかりで遊ばなかったから、人付き合いに苦労してここに来る羽目になったんじゃないだろうか? なんかそんな気がする。
よし、この調子で行くか。
えーと、次はさっきの老けづくり女のさらに前にいる人。髪の長さからいって男性だろう。彼はイヤホンを装着しているために何となく若者に見える、でも後頭部のモジャモジャと細身の背中しか見えない今、断言はできない。彼が呼ばれて立ち上がったら絶対顔を拝んでやろうと決めた。
そんな二人を見て思った事がある。本に音楽。暇つぶし対策がいるという事だ。
でも僕以外にも対策をしてない人が二人、僕の隣にいた。だがその二人はここにいる誰よりも楽しそうに時間を過ごしている。それはなぜか? 一目瞭然である。地球温暖化を推進しているかのようにイチャついたカップルだったからだ。わざわざ僕の隣に座るなんて最悪だ。不細工同士ならまだ許せる。が、二人は美男美女だった。
唯一、暇を持て余していた僕は窓の景色を見ているふりしながら隣のカップルを観察していた。正直言って今の僕にとっては毒でしかない。心の病に苦しんで薬を貰いに来たにもかかわらず毒を渡されるのだからたまったものではない、でも嫌悪感に勝った好奇心から観察は続行中だ。
僕の勝手なイメージでは、ここの科は病院内でも浮いている存在な気がしていた。
類は友を呼ぶ。ここに来る人は必然と浮いた人達ばかりなのだと思っていた。
なぜなら心療科に来るということは自分のことを人間失格です、と認めているようなものだ。だからこそ僕は五年もここに来るのが遅れたのだ。プライドが邪魔をし、えらく遠回りしてしまった。
だが諦めてここに来た僕と違って彼等は気軽に立ち寄った感があった。コンビニがわりで病院に涼みに来ているのではないだろうかと思えるほどに。まったく理解できない人種だ。
どうしても内心カップルに毒づいてしまう。その原因のほとんど嫉妬で出来ていると自分でも分かっていたけど止めるつもりはなかった。なにしろ僕は人間失格だから。
以上観察終了。
僕を含めて五人か。思っていたより多いな。
ここ山崎医療福祉大学付属病院には屋上にヘリポートまであるここいらでは大きな病院、なはずが、心療科は小さく受付の前には三人用の長椅子が三つだけ、しかも追いやられたように三階奥の突き当たりに位置している。追いやられた僕はまだ呼ばれない。隣のカップルを見ていたからなのか、暇すぎるからなのかは分からないが、だんだん苛立ってきた。
苛立ち抑えていたらその時、『ガチャ』って音がしたので診察室の扉を見た。すると中から白衣を着た女性が顔を出していた。
「南野春花さーん、お入りください」
僕もしくはモジャ男性のどちらかが呼ばれるのを期待していた僕にとって、女の名前は論外だ。また追いやられても、もうする事はない。
「はい」
蚊の鳴くような声とともに老けづくりな女の人が扉の中へ吸い込まれていく。僕はそんな彼女を恨めしそうに見送っている。彼女のほうが先に座って待っていたので当然と言えばそれまでだが、今の僕にはそんな理屈は関係無い。
まだ暇は続きそうだ。新たなる暇潰しを捜すことで暇を潰す事にした。でもすぐにその必要も無くなった。
「ねえ、今日は何でこんなとこなの?」
「内緒」
急に隣のカップルが小声で話しだしたからだ。二人を今まで心の中でけなしてきたが今の二人は救世主様に見えた。二人の声が神のお告げと思えてくる。僕は一字一句聞き逃さないよう必死で聞き耳を立てた。
「嘘ばっかり、教えてよー」
「ダーメ、ここは俺にとってのオアシスなんだから」
葬式にアロハシャツで来たかのように、この場に似付かわしくないカップルはなんと、ここの常連をほのめかせている。驚きつつも、僕はなんとか平静を装った。
「何よ、もう!」
カップルの彼女がおたふくになった。彼は慌ててフォローし、それを見た僕は内心鼻で笑っていた。
「いや言っちゃだめって規則なんだよ」
「何で?」
彼女は首を四十五度に傾げ、また僕は鼻で笑った。これじゃあ可愛いを通り越してマヌケだ。
……やっぱりけなしてしまうようだ。
「何でも」
その後もブリブリ彼女は何度も繰り返し聞いていた。しかし、彼は決して口を割ろうとはしない。
まさか本当にそんな規則を守っているのだろうか?
医者に守秘義務があるのは当然だが、それを患者にも強要させるものなのか?
思わず首をかしげそうになり、ハッとした僕は我に返った。
まあどっちにしても僕の場合、誰にも言うつもりなんてないけど……なら、まあいいか、どっちでも。
バカップルにも飽きたので携帯電話でゲームをして残りを過ごすことにした。最初から携帯いじれば良かったかも、と今更思った。
五分後、扉からやっと人が出てきた。もちろん老けづくりな女性だ。でもなぜか前とは違う気がする。よく見ると顔は少し笑っているようで、僕はこの時初めて彼女が美人だったと気付かされた。彼女はまるで幸薄オーラを脱ぎ捨てて幸せの階段を登っているように思え、僕は小さくなっていく彼女をいつまでも眺めていた。
「川西冬真さーん、お入りください」
よし、僕の番がついに来た。
「はい!」
彼女の変わりようを見て僕の期待と緊張は高まっていた。ここなら僕は変われるはずだ。
扉を開け、一歩踏み出す。白一色の清潔感溢れる部屋には机と椅子が二つ。その内の一つ、背もたれ付きのいい椅子はさっき僕を呼びに来た白衣の女性が座っている。
他には誰もいない。どうやら彼女が先生らしい。
「どうぞここにお掛けください」
優しくおっとりした声で先生は言った。
「はい」
「そんなに硬くならないで気楽でいいですよ」
「はい」
さっきから返事しかしていない。僕の緊張はピークに達していた。元々人と話すのが苦手なうえ、相手は予想外の若い女性だからだ。落ち着きを取り戻すために鼻でゆっくりため息をついた。その間先生はずっと僕の顔を見て微笑んでいる。鼻息が荒い人だと笑われているのか、それともただ笑顔でいるだけなのか分かりかねる顔だ。
「川西さんは今日どうされたんですか?」
鼻ため息で少し落ち着いた僕は先生の口を見据えて答えた。
「人よりイライラしてしまうんです」
先生の眉があがった。僕は続けて言う。
「あーえっと、イライラするべきでない時にイライラしてしまうんです。えー、例えば友達と遊んでいる時とかに」
先生は小さく何度も頷いた。
「何しても楽しくないのですね」
「ああ、全く楽しめないわけじゃないですけど、まあそうです」
「それはいつからですか?」
「高校生の頃からなんで五年ぐらい前からですね」
その後も先生の質問に答え続けた。始めはガチガチだった僕もいつの間にか自然と喋れている。診療に来たというより学校の個人面談に近い気がした。
「愛想良く振舞ってるつもりなんですけどね、しまいに疲れてしまって」
「それで人間関係が上手くいかないというわけですか」
「そうなんです。楽しそうにしすぎて好かれたら面倒ですし、かといって嫌われたら孤立してしまうんです。それが職場でもプライベートでもです」
「じゃあ川西さんはどうしたいんです?」
先生の声が少し低くなった気がした。怒ったかなと思い、先生の顔を覗くと相変わらず微笑んだまま変わらない。それが逆に怖い。
「すいません、好かれ過ぎず嫌われないなんてそんな都合のいいこと無理に決まってますよね」
「いや、出来ますよ」
予想外な発言に返す言葉が出ず、部屋中沈黙に包まれた。一瞬この部屋のように頭の中が真っ白になってしまった。それでも先生は笑顔を崩していない。
「えっなんて?」
遅れて焦った言葉は敬語を忘れたまま口から飛び出してしまった、僕はその直後に後悔した。
「好かれ過ぎず嫌われない事も出来ますよ」
もはや言葉遣いを気にしているかどうかの問題じゃない。先生の笑顔は何を考えているのか、さっぱり理解不能だ。
「どうすればいいんですか?」
すると先生は白衣のポケットから何か取り出した。
ん、小瓶?
「これを飲めばいいんです」
そう言うと先生は茶瓶の中から錠剤らしき物体を僕に差し出した。受け取ったものの戸惑っていると、いつの間に用意したのか、机には水の入ったガラスコップが置いてある。
「さあ、どうぞ」
今度はコップを差し出してきた。しょうがなく僕は錠剤を口に含み、水を一気に飲み干した。
「これでもう大丈夫」
先生の笑顔を見ていたらテレビの電源を切った時のように突然スパッと、視界が真っ黒になった。
++ 一ヶ月後 ++
それからの僕はまるで別人だった。
職場の先輩とも上手く折り合いがつけられるし、友達も僕の事を理解してくれた。何でこんな簡単な事が今までできなかったのか不思議なぐらいだ。
僕は生まれ変われた。そして今まさに幸せの階段を登っている。あと心残りなのはモジャ男の正体だけ、どれくらい心残りかというとラーメンに入っている支那竹ぐらい。ないと少し寂しくなってしまう。でも、それを抜きにしても今のメン(男)になれたのは全て先生のおかげ。
そうだ、明日にでも先生にお礼がてら診察してもらおう。
翌日、仕事を休み、昼ご飯を食べたらすぐに二回目となる山崎医大病院へと向かった。
心療科には僕の他に一人だけ先客がいた、バカップルの彼だ。今日はブリっ娘の彼女はいないみたいで大人しく座っていた。やっぱり常連と言ったのは本当らしい。
彼を見て思い出した。前来た時、彼は他言無用の規則があるとか言っていた。あれはどういうことなんだろう? 僕はそんな事言われなかったのに。
彼に直接聞きたいがそこまでフレンドリーにも厚かましくもなれない僕は、諦めて暇潰し対策用の本を読むことにした。
ほどなくして彼が呼ばれ、診察室に入っていった。
彼は、『ほうじょうあきまさ』って言うらしい。まるで武士のように古臭い名前だ。でも彼の整った顔からは古臭いという言葉は似合わず古風といった方がしっくりくる、と自分で思ってしまったことに対して腹が立った。
そして、ふと窓ガラスに映った自分を見る。せいぜい農民止まりの風貌とそれ以上に醜い内面にがっかりだ。
よし、今日はこのひがんだ性格を直してもらおう。
そう思った途端に扉が開いた。結局、クーラーの音が耳障りで全然本に集中できずじまいで終わった。
「川西冬真さーん、お入りください」
「はい!」
古風な侍と入れ代わりに農民の僕が扉の奥に入って行く。すれ違い様に見た彼はなぜか落ち武者のように下を向いている。
診察室は相変わらず綺麗過ぎるぐらい白い部屋だ。僕が入ると汚れてしまいそうで恐い。そんなことを考えながら丸椅子に腰をかけた。
「今日はどうされたんですか?」
変わらない先生の笑顔。
「治していただいたお礼ついでにまた治してもらおうかと思って来ました」
「どっちがついでなんでしょうね」
「疑ってるんですか? 心療科の先生ともあろうお方が」
「冗談ですよ」
先生とはまだ二回しか会ってないのにとても親しげに話せるようになっていた。人見知りの僕にとってこの数字は快挙だ。人に言えなかった自分の悩みを正直に打ち明けたからかもしれない。全くの他人だからこそ言いやすく、加えて先生は人の愚痴を聞くエキスパート、僕を上手くのせてくれているのだろう。
僕は心から先生に感謝した。
「この間はありがとうございました。おかげで今は幸せです」
「いやお礼を言われるほどのことではないですよ。これが仕事ですから」
「そんなことないです。先生様々です」
「そこまで言って下さるとわ、本当にありがとうございます」
先生は深々と頭を下げてくれていた。僕も一緒になって頭をゆっくり下げる。
「それで今度は何を治したいのですか?」
「えっ」
自分の足と床だけの世界に入りきる直前に先生の声がした。
急いで頭を上げると先生は背筋を伸ばして僕を見下ろしていたようだった。
「ああ、ひがみっぽい性格なんですけど、治せます?」
「もちろんです」
先生はまた例の小瓶を取り出すと、後ろを向いて「千夏さん」と呼び掛けた。すると声の方向から受付にいた看護婦さんが水入りガラスコップを持ってやってきた。
「はいどうぞ」
二人に渡された錠剤と水を飲み込んだ。千夏さんはそれを見届けると来た道を辿るように受付に帰っていった。
「やっぱりまた気絶するんですか?」
「いいえ、最初だけです。それじゃあ、また何かあれば来て下さい」
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
先生は満開の笑みで頷いた。
「僕の前の患者さん、えらく落ち込んでいたんですけど」
「患者さんに対して守秘義務がありますのでお答えできません」
僕が言い終わる前に先生はかぶせてきた。その声は今までの柔らかい口調からは考えられないほど早口だ。
僕は面食らった。気を取り直し、別の質問をしようと口を開く。
「あのまだ」
「お大事にしてください」
またもや先生にかき消されてしまった。そのせいか生ぬるかったはずの空気が今は肌寒い。
先生は僕の投げたボールをグローブで受けてくれず、バットに持ち替えて僕の頭上の遥か上を勢いよくかっとばしているのだろう。もうキャッチボールは成立しそうに無い。
先生の顔は笑っているように見えるが、おでこに『帰れ』と書いてある。
訳が分からないまま帰るのは嫌だけど、この空気には耐えられない。
「失礼しました」
帰り道、車内で先生を怒らせてしまった反省をしながら、もうあそこに行くのをやめようと思っていた。
しかし、心療科にはまたまた行くことになるのだった。
++ さらに五日後 ++
「また、行方不明者が出てしまいました」
仕事から帰ってテレビを何気なく見ていたら、最近ここらで起きた連続失踪事件のニュースをやっていた。
被害者は先月から出始め、今までで六人もいなくなった、にも係わらず警察は犯人の手掛かりさえ掴めていない有様。そんな馬鹿な警察をあざけ笑うようにまた、二人新たな被害者が増えたらしい。
「北条秋雅さん十九歳の男性と南野春花さん二十六歳の女性が昨日から行方知れずのままです」
僕はテレビ画面に映っていた二人の顔写真に釘付けで瞬きを忘れてしまっていた。
この二人には見覚えがある。心療科の患者でバカップルの彼と老けづくり女だ。
全身、鳥肌になりながら考ていると僕の頭の中で一人の人が浮かび上がってきた。その人は白衣を身にまとった才色兼備、その言葉通りの若い女性。つまり心療科の先生だった。
犯人は先生なのか、いや! 決め付けるのは早すぎる。だが少なくとも無関係とは考えにくい。
警察にこの事を通報すべきか、先生に直接確かめに行くか悩んだ末、直接確かめに行くことにした。確かに怪しいがどうしても先生が悪人とは考えられない、いや考えたくないと言ったほうが正しい。
だが今日はもう夜遅いし、ちょうど明日は休日。朝一心療科に行くと決め、そのために早めに寝床についた。が、結局興奮して眠れなかった。
「川西冬真さーん、お入りください」
先生の声がした。今日はぶりっ娘も来ている。その顔は険しく、ぶすっ娘と化していた。おそらく彼女も僕と来た目的は一緒なのだろう。そんな彼女を見ていると先生を信じる気持ちはどんどん揺らいで崩れ落ちそうになっていく。
僕の疑いの目は診察室の扉を捕らえており、そこには小さな字で担当医と書かれたネームプレートがある。だが肝心の担当医の名前は書かれていない。今更気付いたが、ますます不信感が募る。でももう遅い。
「はい」
立ち上がり扉のノブを回す。手が震えて上手く回せない。
なんとか中に入ると、変わらない景色がひろがる。やっぱり先生は座って微笑んでいた。
その顔を初めて見た時も緊張と不安が溢れそうだった、けど今はその比ではない。とっくに溢れて吐きそうな程気持ち悪くなっている。
その不安は正しかった。とこの後すぐに理解できた。
「ばれてしまいましたか。手荒になることを先にお詫びします」
先生は僕の顔を見るなり丁寧にお辞儀をしだした。
それを見て『ヤバイ』と僕の全細胞が警告してくる。
即座に逃亡を謀る。
がしかし、失敗。
それは後ろに退がろうとする意思とは逆に、体が前のめりに倒れこんでしまっていたからだった。
!!?
痛みもなく声も出ない。
椅子に座る暇なく何が起こったのかさえ理解できなかった。
診察室に入って一分足らず、僕の意識はあっけなく闇の底に沈んでいった。
僕は死んだのか?
暗闇に閉じ込められていた僕は以外に冷静だった。死ぬ前は走馬灯のように記憶が甦ってくるというけど何もなかった。その事だけが心残りで後はどうでも良かった。
自分なりにこの世との別れをしていると突如、地平線のように横一筋の光が現れた。真っ暗闇の中にあるためその光にはどうしても惹きつけられてしまう。光の筋はゆっくりと、しかし確実に太くなっていく。そして闇と光の比率が五分になった時、光の奥から人影が表れ、人影に気をとられた瞬間、闇は完全に消え去っていった。
「yā-k la bās?」
意味不明な言葉は人影から発せられている。
次第に光に慣れ、ぼやけていた謎の人影は次第に鮮明になっていく。
「はあぁ、外人?」
「yā-k la bās?」
人影かと思っていた者はスキンヘッドの黒人で寝ていた僕を間近で睨み付けている。
ここはテントの中のようだ。逃げようと上半身を起こすが黒人に体を押さえつけられて動かない。
僕は当然パニックになった。
「怯えんでも大丈夫じゃけん、あんたのこと心配してくれよるだけで」
どこからか変な訛りの日本語が聞こえ、声のした先にはモジャモジャ頭のおじさんが立っている。
そのおじさんは黒人に「もうオーケー」と連呼しながら身振り手振りで訴えだし、それが奇跡的にも伝わったらしい。黒人はすぐにテントから出て行ってくれた。
「これでええか?」
おじさんが近寄ってくる。
「……」
僕は上半身だけ起こし固まっていた。
「無視かい!」
そんな僕におじさんは声を荒げた。でも顔は笑っている。
「え…いや、はい」
「分からんことあろう。今暇じゃけん答えてやらあ、言ってみ」
目の前にいるおじさんは終始笑顔だ。そこは先生と似ている、でもその笑いは種類が違った。ニタニタしていて小馬鹿にしているような顔だ。
「……ここ…ど…こですか?」
おそるおそる尋ねたらおじさんは即答した。
「アフリカ」
突拍子も無い答えに僕が驚くとおじさんはいたずらっ子みたいに喜んでいる。
「放心状態ですって顔しとるな、まあ無理もねえわ」
そう言うとおじさんは僕が聞く前に説明し始めた。
「今まであんたが飲んだ薬は軽い麻薬みたいなもん。一時的に脳を麻痺させて、楽しくさせるだけ。本当の目的はその後アフリカに連れて来てボランティアしてもらう事。実はこのボランティアこそが本当の治療なんよ」
「何言ってんだ。このオッサン」って顔しているであろう僕の事などお構い無しに、おじさんはまだ話を進める。
「ちなみにあんたの病名は贅沢病じゃって。甘ったれ過ぎて心が弱りきっとるだけ。そんな奴が今、日本には山ほどおるんよ、俺もそうじゃったわ。治るまでは日本に帰れんけど、ここはいつも人手不足じゃけん、いつまででもおってええって、良かったな」
振り返り背を向けたおじさんの後姿に、僕は何故かデジャブを感じた。
おじさんが出てった後も僕はしばらくテントの中にいた。外からたまに聞こえてくる呪文じみた声のせいで金縛りに遭ったように体が動かない。
脅えながら周りを見渡していると、布でできた壁に飾られている額に目がいった。テントには全く似合ってない、高そうな木でできた額縁の中は日本語でこう書いてあった。
『美しい人だけの国』 |