坂東蛍子、本の虫を探す
「いない・・・」
坂東蛍子は長いこと睨み合っていた芥川龍之介全集第六巻から顔を離し、棚に戻しながら目をギュッと瞑って束の間の休息をとった。一つ息を深く吸って、吐いた後、次の第七巻に手を伸ばす。蛍子は先程、帰りの支度を済ませている最中に担任の君咲先生から本の虫を探して捕まえてくるよう頼まれていた。図書室にいるだろうとのことだったが居場所までは教えてくれなかったので、こうして古そうな書架を一つずつあたっているのであった。現在放課後の五時三十二分、実に近代文学二十三冊目を読破し終えたところである。坂東蛍子は勉強の出来るタイプの馬鹿だった。
「どの本をお探しですか?」
本を抱えた女子がそっと声をかけてきた。
「え?」
「いや、ないって聞こえたから・・・」
女子は恐縮そうに頭を下げた。なるほど、きっと図書委員の子だな、と蛍子は思った。私が本を探してると思って声をかけてくれたのね。
ちなみに藤谷ましろが坂東蛍子に声をかけたのは図書委員だからという理由だけではない。ましろはクラスメイトであり教養も深い蛍子と気軽に話せるような間柄になりたいと以前から思っており、これを良いきっかけに出来たらと、書架の奥で何やらしている蛍子を一時間程度横目で気にしていた後、なけなしの勇気を振り絞って話しかけたのであった。
こんな綺麗な人と話が出来たらどんなに楽しいだろう。その上本の話が出来たならどんなに素晴らしいことか。しかし同年代の子たちは藤谷ましろが興味を示している程本に関心が無いようだった。せいぜい漫画を読むぐらいで、活字の話になると途端に「立派」とか「真面目」とか、あるいは「根暗」のようなレッテルを貼られ、一歩距離を置かれてしまう。ましろはそれが耐えられなくていつしか友達に本の話を振るのをやめた。しかしましろは本の話ぐらいしか出来なかったため、次第に友人との関係は薄れていったのだった。
誰にだっていつかは寂しいなぁ、と思う夜が来る。藤谷ましろはその夜をもう随分とたくさん越えてしまっていた。家に帰ると一人の夜が来る。再びやってくる夜を少しでも遅らせたくて、いつしかましろは図書室に詰まった無数の本の世界に逃げ込むようになった。
「確かに探し物をしてるんだけど、ちょっと違うの。本じゃないのよ」
坂東蛍子は自身の目頭をグリグリした後、親切な図書委員にニッコリ笑いかけた。
「本の虫を探してるの」
ましろは思わず胸元で本を抑えていた腕にギュっと力を込めていた。自分のことではないと分かっていても、その言葉は彼女の夜の底で冷えた心を温かさでいっぱいにしたのだった。久々に自身の心臓の音を聞いた気がした。
「でも中々いなくてねー・・・ずっと凝視してたから目がそろそろ限界かも」
だから古い本のある書架にいたんですね、とましろは何とか言葉を絞りだした。手伝います、とましろが言うと、蛍子は本当に助かったという風に安堵した表情を浮かべてありがとう、と言った。無事本の虫を採取して先生に提出出来た折には、この善良な図書委員の功績を口添えしなくては、とも思った。
藤谷ましろはこの頃にはもう蛍子と友達になりたくて仕方ない心持ちであった。蛍子に興味を持ってもらうにはどんな人になれば良いのだろう。本の話は疎遠の元だ。しかし本のこと以外となると、途端にましろは何も分からなくなってしまう。夏の日差しの下に突然放り出された時のように、クラクラして目が霞んでよく見えなくなってしまうのだった。
「坂東さんは、どんな人が好きなんですか?」蛍子の隣で本の頁を捲りながら思わずそうこぼしてから、何て不躾な質問だ、とましろは酷く後悔した。
蛍子はまず“なんでこの善良な図書委員は私の名前を知ってるんだろう”と思った。その後で好きな人について詳細に考えようとしたが、頭の中がすぐさま漢字五文字で覆い尽くされてしまって深く考察することが出来なかった。「松任谷理一」、せいぜい「松任谷理一 好き」程度である。下手な検索ワードのようだな、と蛍子は頭を抱えながら「好きなタイプは、一言で表すのは難しいかな」と乾いた笑いを返した。
「でも嫌いな奴はすぐ答えられるわ!」
ましろはビクっと体を震わせて、恐る恐る次の言葉を待った。
「コイツ!芥川龍之介!こういう奴ほんっと面倒くさい!」蛍子は自身の開いている本を指さして憎々しげにグリグリ押した。
「例えば、そうね、この“文放古”って話!」と矢継ぎ早に言葉を続ける。
「これ自分を馬鹿にした手紙の内容を嘲笑ってるけど、結局途中で共感の上同情したり、“文反古”の“反”をわざわざ“放”に変えて抽斗に手紙を放り込む描写を意識させたりしてさ、要は手紙に自己投影してることを読者に伝えたいわけでしょ?周りは駄目だけど自分も駄目だ、みたいな」
ましろは呆気にとられながら聴いていた。この人はさっきパラパラ流し見しただけでそんなことまで考えられるんだ。やっぱり凄い人だなぁとましろは思った。
「知るかっての!駄目なのはあんたが駄目だと思うから駄目なんであって、それに私を巻き込むなって話よ!私全然駄目じゃないし!」目の端で本の虫を探しながら蛍子は語気を強めて言った。
「で、でもっ、そういう懐疑的な精神は芥川の文才によってシリアスなユーモアとして昇華されてると思うんですよね・・・その片鱗はこの話の中にも感じられるし・・・」と藤谷ましろは少しムスっとしながら反論した。
「えー?斜に構えながら内心でうじうじしてるようにしか感じなかったけどー?」
目を細めてましろを見返す蛍子に、ましろは控えめに肩をいからせた。
「た、例えば!不思議な島、いや、西郷隆盛!これ!」と手を伸ばして別の全集を書架から引っ張り出す。どれどれ、と蛍子は挑戦的な目でその本を覗きこんだ。
日の傾いた図書室の隅で、肩を並べ寄せ合った二人の少女の些か声の大きな押し問答は閉室時間まで止むことは無かった。