インサイダー
厚くたちこめた黒雲の下、砂嵐が荒涼とした都市を舐めていく。路上に散らばった砂まみれの魚には蝿がたかり、白濁した皮下を蛆がウゾウゾと這いまわる。
その魚もどき――得体のしれない紫色の斑点と四方八方に手足の出ている――の干上がった死骸が散らばるように落ちていた。
店のレジに海藻が絡まり、その中で湿ったドル札が重なっている。山のような砂と塩でなかば隠れてしまっている床下への鉄扉。
遥か地下で、冷凍されていた女が目を覚ました。
棺の中、暗闇にぼんやりと光るボタン。それは右腕の位置にあったが、身体を芋虫のようにごそごそと動かして無理矢理左手で押す。
反応しない。
「糞。いきなり故障なんて。勘弁してよ」
ジャニスは悪態をつきながら棺を手動で押し上げ、頭を振った。冷凍睡眠装置は覚醒用電力以外は既に止まっていた。それどころか地下シェルター全体の電源が落ちていた。
食料部屋と睡眠装置のある小部屋。その程度しかない個人用シェルターなのだ。補助電源を入れたが、薄ら明かりさえ点かない。
塗り潰されたような闇を左手で探る。指先が不意に硬いものに触れて一瞬引っ込める。恐る恐る確かめると、デスク上に手の平サイズの球があるのがわかった。
それ――球型PCのディスプレイを指先で操作し、中央指令を呼び出そうとする。片手だろうと慣れているはずの操作だったが、何度も失敗したあげく床に落とした。
その衝撃で警告音が鳴った。
PCはジャニスが眠っている間に起きた様々な出来事への警告を今更吐き出した。
「津波警報……浸水警報……ウィルス警報……半径十キロ内に生存者はいません」
暗闇に響く無機質な声がそっと彼女を崖下へ押した。
生存者ゼロ! 別シェルターで同じく冷凍睡眠したはずの両親も死んだのだ。
ジャニスは吹雪をやり過ごすうさぎのように身を縮こませた。
「まだ地上にはウィルスが残ってる?」
「地上は新種のウィルスに覆われています」
沈んだ声で終了を命令し、探り出したイスにもたれる。
「生存者ゼロ……」
傍にハシゴがあるのに気づいたが、上る気は起きなかった。地上に人間はいない。ウィルスが落ち着くまで、この暗闇で生きていかなければならない。
ジャニスは壁を伝うように食糧部屋へ行った。袋を手に取り、目のすぐ近くまで持ってきてラベルを読んだ。吸収素材の簡易トイレ。水。缶詰。合成食品。いくつか持って戻る。
「何を食べてるかわからないって、こんなに味気ないものなんだ……」
ジャニスは匂いと味に集中し、必死に想像力を駆使して食事をした。咀嚼していると冷凍睡眠装置に入る前のことを思い出す。
彼女は生まれた時から右腕が未発達で、腋の上に申し訳程度に肉の瘤があるだけだった。
小さな頃からそのことをよくからかわれた。目の前で泣かれたことも。それだけなら叩くなり言ってやるなりすれば済んだ。
しかしハイスクールの授業でバスケをやるときは「笑顔で正しい」教師が無理矢理に彼女をチームに入れた。入れられたチームはその時点で勝負などを捨てて彼女のフォローをしなければならなかったし、実際、彼女はチームでやるスポーツなどやりたくなかった。
チームメイトの苦笑いに浮かぶ迷惑そうな気持ちが大嫌いだった。これから先、両親も含めとにかく行く先々でこんなことばかりなのだと思うと、死にたい気分になるのだった。
大洪水が来ると聞いたときは、誰よりも早く速やかに冷凍睡眠装置に入った。お気に入りの作家のテキストを大量に球型PCに入れて――。
ジャニスはガバッと上体を起こし、傍の球型PCを起動した。暗くてテキストは読めないとしても朗読モードは搭載されているはずだった。
「――稚キ頃ノ記憶ガ、恐怖ト悲哀ノミシカモタラサヌ者コソ、不幸ナルカナ……」
滑らかというには程遠かったが、大好きな短編を読み上げはじめた。
誰にも迷惑をかけずに好きな物語を読んで過ごす。皮肉にも自分の夢が一つ叶ったのだ、ジャニスはそう思うことにした。
それから毎日、好みの怪奇小説を聞いて過ごした。昼夜の別なく暗闇の中に浮かんでは消える狂気と幻想。馬鹿馬鹿しいB級ホラーの哀れな怪物に自分を重ね、温かい何かが心臓から広がって全身へと流れていくのを感じる。
しかし朗読を終え夢が覚めると、途端に寒くもないのに震えがくるのだった。すぐに次の夢を再生する。何も考えないように、何も見えないように。
ある日ジャニスは上からの騒がしい声で目を覚ました。幻聴ではない……と思う。
PCに尋ねても「半径十キロ内に生存者はいません」と返ってくるだけだったが。
「もしかしたらPCが壊れてるのかもしれないし……それに『生存者』は『人間』のことだけだから、何か猫とか犬かも」
しゃるる、しゃるると唸るような声。どんな生物なのか想像できない。恐怖よりも好奇心が勝った。ハシゴを上り、扉の手前でウィルスのことを考えて一瞬躊躇したが思い切って開けた。厳重なはずの外蓋は簡単に外れた。
久しぶりの光に目を焼かれるか心配していたが、取り越し苦労だった。
夜。
外は想像していたほどひどい光景ではなかった。腐った魚の干上がった臭いが鋭く鼻を突くが、耐え切れないほどではない。周囲を埋め尽くす砂を踏んで歩き、その乾いた音に感動する。足跡は奇妙な形に崩れた。
声のする方へ向かって歩き出す。月明かりの下で、ビル群が砂に埋もれている。砂丘をのぼると声が大きくなった。久しぶりで身体が思うように動かない。
頂上に着いて見下ろすと、そこで異形の者たちが火を囲んでいた。無数の節くれだった脚を持ち、一本の太い腕を使って缶を持つ。逆さまにして火に燃料を放った。ジャニスには気づいていない。
「…………」
火を使う。
知性のある存在なのかもしれない。地球外から来た生物なのか、あるいはウィルスでああいう形になった動物なのか。しかし寂しさを埋める一つのチャンスではあった。
ジャニスは声をかけようかと思うが、ふと過去の記憶が蘇った。どうやっても外部の者にされてしまう自分。所詮自分は誰かの仲間にはなれないのではないか。
彼らが気づいた。
彼女は逃げ出そうとするが転んでしまう。近づいてきた一匹が一本腕で彼女を起き上がらせてくれた。そのまま連れられて火の傍へ。
ジャニスはその時、割れたガラスに反射している自分の姿を見た。ぼうっと浮かび上がる火にあてられた、彼らとよく似た姿……!
「アナタノ、ナマエハ」
しゃるる、という音が混じりながら、彼らは人間の言葉を話していた。
地上を跋扈するウィルスは人間を〈別のもの〉へと変化させていた。ジャニスはシェルターの蓋が壊れていたことを思い出した。そこからウィルスは地下へ侵入していたのだ。
ジャニスは泣いて事情を説明した。異形の者たちに――いや、既にそれは当たり前の新人類の姿なのだった。
「もう私、仲間外れじゃないんだ……」
一本腕が彼女の潰れたトマトのような頭部を撫でた。話を聞いた彼らはお互いの手を合わせて叩き合い「おめでとう、おめでとう」と迎えたのだった。
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