恋愛感冒
なんでだろう。
なぜ病気になってはじめて、健康な時の幸せを感じられるのだろう。
どうしてだろう。
どうして人は、大切なものをなくす前に、なくしたものの大切さを思い知ることができないのだろう。
風邪を引いた。力を失ったわたしの体は、いつものわたしの元気さがまったく信じられなくなるくらい、力なくベッドに横たわっていた。
それはいままで引いた風邪の中でも、とりわけ重い風邪だった。
頭は痛いし、吐き気だってある。食欲は昨日から全くなくなり、咳と痰、鼻づまりが重なって呼吸もままならない。その上、なにもしなくても体中が軋むように痛んだ。
痛みが伴うようになると、普段していた何気ない動作が途端に、意識に上るようになった。呼吸や寝返り、トイレに行くこと、口にたまったつばを飲むこと。
それら全てが不快になると、急に時間が長く感じる。細くて長い時計の針が、一秒ごとにコチコチと動く。電化製品の震える音が、こもった頭にうるさく響く。どこからか吹くすきま風が、わたしのおでこの汗を冷やす。外はいつの間にか、暗くなり始めている。
熱に浮かされて輪郭を失った時間の中に、わたしの意識がぼんやりと漂っていた。
……わたしの身に宿った、愛おしい風邪。
汗で濡れたシーツの上にどうしようもなく横たわりながら、咳が出るたびがんがん痛む頭の中に……何回も何回も――――、いろんなリュウちゃんの顔が浮かんでくる。
――わたしとリュウちゃんは、小さな頃からの友達だった。
リュウちゃんは怒りっぽいけどやさしかったし、いつも面白い冗談を言っては、わたしを笑わせてくれた。
わたしが悲しいときは、無理をしてでも励ましてくれた。友達の少なかったわたしを毎日遊びに誘っては、友達の多いリュウちゃんの仲間の輪に入れてくれた。
リュウちゃんが子どもだった時は、わたしも同じ子どもだった。リュウちゃんが小学校に通うようになって、わたしも小学校に通おうと思えた。リュウちゃんが中学生になると、わたしも一緒に中学生になった。
その間、ずっと同じクラスだった。似たような名字だから、席も近かった。
子どもたちが恥じらいを知って女子と男子に分かれだす頃、周りにうるさく噂されても、わたしとリュウちゃんの関係はずっと変わらなかった。馬鹿にされたりからかわれたりすると、わたしとリュウちゃんは声を合わせて怒った。
それが面白かったみたいで、クラスの皆はますますわたし達をはやし立てた。
変化の少ない学校という社会では、安いゴシップもトップニュースになりうる。そんな中、男女でいつも一緒にいるわたしとリュウちゃんが標的になるのは、ごく自然なことだった。
わたしたち二人に打ち寄せる冷やかしの波は、日を追うごとに強くなっていった。そんなある時、ついに一番腕白で遠慮のない男子に面と向かってこう言われた。
――お前たち、付き合ってんだろう。キスはもうしたか?
その時は死ぬほど恥ずかしかったけど、わたしは、そんな程度のことでリュウちゃんと離れるなんて考えることもできなかった。――リュウちゃんのことが、とても好きだったから。
そしてわたしは、リュウちゃんも同じ気持ちだって信じていた。
わたしは開き直り、リュウちゃんの方に体ごと振り向いて、こう言った。
『リュウちゃん、わたしと付き合ってくれる?』
……たとえ勢いと幼さの力を借りていたとしても、よくあの場でそんなことを言えたものだと思う。その時のリュウちゃんの、顔の赤いことと言ったらなかった。あとで友達から聞いたことだけれど、わたしの顔も負けじと真っ赤だったそうだ。
リュウちゃんは赤い顔をしたまま――ゆっくりと首を縦に振ってくれた。それを確認してうれしくなった後に、わたしはその腕白な男の子に向き直ってこう言ってやった。
『わたしたち、今から付き合うことにする。でも、キスはまだだよ。――応援してね』
それから皆はわたしたちに何も言わなくなったし、わたしたちは、何を言われても大丈夫になった。
わたしとリュウちゃんの関係は今までと何も変わらなかったけれど、意識は大きく変わっていた。
リュウちゃんとわたしは、手を取り合って歩いて帰った。休みの日には一緒に遊び、宿題が出れば一緒にやった。……やってあげたといった方が、本当はいいのかもしれないけど。
その付き合いは中学二年の冬から、高校二年の夏まで続いた。
改めて三年間付き合ってみると、わたしはリュウちゃんのよくない部分にばかり目が行くようになった。
熱中すると周りが見えなくなるところ。ゲームをしすぎて、待ち合わせに一時間も遅れる。
努力がぜんぜん続かないところ。図書館での勉強会も二日で来なくなった。
自分に甘くて、辛くなると理由をつけてなんでもすぐにやめてしまうところ。サッカー部をたったの三か月でやめたくらい。
付き合いが続くうち、わたしはそんなリュウちゃんの存在を負担に感じる様になってきた。だから進路を考え始めた時、リュウちゃんとは違う大学に行くことに決めた。
勉強嫌いなリュウちゃんには絶対に入れない国立の大学。わたしがそこへ行くつもりだと告げると、リュウちゃんは悲しそうに、そうか。と、ぽつりとつぶやいた。
わたし達の住んでいた町から学校のある都会までは、そう遠いわけではない。帰ろうと思えば、すぐにでも帰ってこられる。
それでも、別れの日すら顔を見せないリュウちゃんに対して、わたしは軽い失望を覚えた。きっとリュウちゃんも、わたしに愛想が尽きたのだ。そう思うと、わたしの心は少し乾いた。
――それから一年。わたしは無事志望の大学に入り、リュウちゃんのことは思い出にしようと思って日々勉学に励んでいた。実際、忙しく勉強してもついていけないほど、大学の講義は奥が深かった。相変わらず友達を作るのが下手なわたしだったけど、講義をしっかりと聞く姿勢が、教授には好かれていると思う。
そんなある冬の日のこと、母から思わぬ報せが来た。……リュウちゃんが死んだと。
事故死だった。高校卒業時点で志望校に受かるレベルに達していなかったリュウちゃんは、浪人して予備校に通い、必死に勉強していたらしい。その時聞いた毎日の勉強時間は、わたしの三倍以上だった。
そのうちに、無理が祟ってリュウちゃんは風邪を引いた。それでも予備校は休まなかったらしい。
風邪は悪化して、体調はどんどん悪くなる。それでもリュウちゃんは、勉強を止めようとはしなかった。理解できなかったことを理解できるのが楽しいんだと言い張り、狂ったように予備校に通い続けた。
その果ての事故死だった。模試の当日だったらしい。遺品の中に答案があったと、母が教えてくれた。見るとリュウちゃんは自己採点で、志望校のレベルに到達していた。
わたしはそれを聞いて涙が止まらなくなった。よく覚えのある校名。……わたしの通っている大学の、わたしと同じ学部。
――わたしは、電車に飛び乗った。
駅に着いてからどこをどうやって走ったのかは、まるで思い出せない。でもわたしとリュウちゃんは、その夜のうちに顔を合わせた。
リュウちゃんは白いベッドの上に力なく横たわっていた。
リュウちゃんがわたしと同じ大学を目指していたなんて知らなかった。
ベッドに横たわったリュウちゃんがもう二度と動かないことを、わたしは知っていた。
リュウちゃんのご両親が医師に呼ばれ、最後にお別れをしてね、と言い残して、霊安室を出た。
わたしはリュウちゃんにかかっていた布をめくって、リュウちゃんの顔をみた。
リュウちゃんはまるで、眠っているだけみたいだった。
一年前と人相が違う。当たり前だ。あんなに勉強嫌いだったリュウちゃんが、勉強好きになるほど勉強したのだ。あれほど努力が続かなくて、自分に甘かったはずのリュウちゃんが……歯を食いしばって、机にかじりついたのだ。これはきっと、その証なのだろう。
リュウちゃんの顔に表情はない。怒ったり、笑ったり、恥じらいだり……あんなによく動いた表情が、今では凍り付いたように動かない。わたしの視界が涙で滲む。
すると動かないリュウちゃんの顔が朧げにぼやけて、わたしの中にあるリュウちゃんの多彩な表情がその上に投影されていく。
楽しい時の顔。リュウちゃんは、歌うことが好きだった。
うれしい時の顔。お菓子をあげた時が一番うれしそうだった。
怒った顔。あまりわたしに向けられたことはない。
泣いた顔、泣くとすぐに顔を背けるから、ちゃんと見たことは一度もない。
恥ずかしがってる顔。あの時見た、あの赤い顔。
笑った顔。一番見た回数が多くて、今でも一番好きな顔。
寂しい顔。リュウちゃんを置いていくと告げた時、一瞬だけ見せた顔。
虹のように瞬く幻が終わると、そこに無表情のリュウちゃんが現れた。
――そうか。いままでわたしの目の前で、リュウちゃんの顔から表情が絶えたことなんてなかった。喜怒哀楽の感情を、リュウちゃんはいつもためらうことなく全身で表現した。
初めて見る無表情のリュウちゃんが、わたしが最後に見るリュウちゃんの顔になる。これから先いくら望んでも、リュウちゃんの笑顔は見られないのだ……。
失ったものの大きさに、その時になってようやく気づいた。それと同時に、抑えきれない愛おしさが、わたしの胸を押さえつける。
ふと沸き起こった無邪気な衝動に従い、わたしはそんなリュウちゃんに最後のキスをしてみた。冷たい唇の感触は思った以上に固く乾いていて、これは死体なんだな、と、否応なくわたしを納得させた。
リュウちゃんの死を受け入れないなんてことは嫌だ。別れは辛いけど、どうしても必要なことだ。
――これで、もう少しだけリュウちゃんと一緒に居られる。
わたしはリュウちゃんを唇に残したまま、その足で一人暮らしの部屋に帰った。母から何度も電話がかかってきていたけど、電源を切って全部無視した。
型式ばったお通夜に、お葬式。そんなところに、ほんとのリュウちゃんがいるもんか。……最後の時間は、二人きりで過ごすんだ。
わたしは知っていた。リュウちゃんが風邪を引いていたことを。
キスをすれば、風邪が伝染るんだってことを。
こうしてわたしは一人暮らしの部屋に、リュウちゃんを持って帰ってきた。
熱は高いけど、頭は動く。咳は出るけど、息はしている。気持ちの悪い喉の痛みも、わたしは生きているんだって、つばを飲むたび教えてくれている気がした。
リュウちゃんからもらった、愛おしい、わたしの風邪。
わたしはこの風邪にかかることで、少しでもリュウちゃんと何かを共有したかった。リュウちゃんのがんばりを、少しでもいいから理解したかった。熱に浮かされていることで、何にも邪魔されずリュウちゃんのことを考え続けることが出来た。
リュウちゃんの風邪はとても強い。わたしは改めて、こんな風邪を引いてまで予備校に通い続けたリュウちゃんの努力に思いを馳せる。
こんなに激しい咳をしながら勉強するって、どんなだろう。
こんなに重い体を自転車に乗せて、わたしはリュウちゃんの家から予備校まで通うことができるだろうか。
こんなに揺れる頭で、数学の問題なんか一問だって解ける気がしない。
リュウちゃんはこんなにしてまでわたしと同じ大学に入り、――それからどうするつもりだったんだろう。もしわたしの影を追っていたのだとしたら、あの時あんなことを言った、わたしがいけなかったのか?
でも、後悔してももう遅い。リュウちゃんは確かに死んだ。そのことだけは、受け入れたいから。
今は辛くてもいい。今は悲しくてもいい。
今わたしは生きている。こうして、風邪を引くこともできる。
風邪はいつか治るだろう。リュウちゃんを失ったこの悲しみも、いつか丸く滑らかになって、わたしの大事な思い出になる。
かつて大事なものがあったことを、それを大事にしていたことを、わたしは忘れないだろう。
――なんでだろう。
なんで大事なもののことを、普段忘れていられるんだろう。風邪を引いて初めて健康の大事さを思い出すように、リュウちゃんを失って初めて、わたしの中のリュウちゃんの存在が、どんなに大きかったか気づかされる。
――どうしてだろう。
どうして人は、好きだという気持ちを、ほかのどうでもいいもので覆い隠してしまうのだろう。
わたしはまだ……ずっとリュウちゃんが好きだった。リュウちゃんがいなくなってから、そんな気持ちに気がつくなんて。
わたしの頭が、涙で濡れた枕に沈む。体は重く、熱はまだ高いままだ。でももうしばらくこのままでいたい。愛、健康、いのち……。普段忘れているものの大切さを、こんなわたしにも、身に染みて分からせてやりたいから。
お願い、もう少しだけ治らないで。
わたしは風邪に自分勝手なお願いをしてから、寝返りを打って眠りに入った。