後編だファック
「貴様は玉砕市民か?」
全身黒ずくめに黒いヘルメット、黒いサングラスと云ったファッションの馬上男は私を見下ろし、高圧的な物言いでもって私に尋ねた。
玉砕市民かと問われれば、そうだ、としか答えようがない。
しかるに、そのような通常なされるべき受け答えの成立を容易なからしむ事情というのはこの場合、確かに在ったわけで、それは何かと申し上げれば、つまり私はこの場を偶然通りがかった一通行人に過ぎぬ訳で、こんな見ず知らずの男にいきなり馬の上から貴様呼ばわりされる筋合いなどはこれっぽっちもない、こんな訳の分からぬ男の尋問に答える義務などはない、という事情である。軍隊じゃあるまいし、腹立つ。なので私は男を相手にする姿勢なんて露とも見せず、毅然と踵を返したのだった。返そうとしたのだった。が、それは叶わなかった。
次の転瞬、嗚呼、私はその場に敢え無く転倒。悶絶昏倒。その男の所持せし角材が私の後頭部をしたたかに打ちのめしたのだ。
……一体、どれだけの間意識を失っていたのだろうか?何時間かも知れぬ。目を覚ますと、周囲の光景はさして変わること無かったものの、陽は私の真上にあった。とすると今は正午ぐらいか?殴られた後頭部はいまだ殴られ続けているかのようにガンガンと痛む。その痛みの激しさ故、なかなか平静をとりもどせない自分がいて、クモ膜下出血とはこんな感覚なんだろうか?くそったれ。なんだってこんな目に。
と、その時、私は自分の出で立ちに最悪の変化が訪れている事を知った。
なんということか、私の出で立ちは先に申し上げた苦力ファッション、つまり例の黒いティーシャツに下半身は素っ裸、といった装いに様変わりしてしまっていたのだ。いやんいやん。そして自分では見えないが、恐らく頭にはリアルな脳味噌帽子が被せられているのだろう。
私は慌てて周囲を見回す。ついぞ先刻まで着用していた自分の服は何者かが持ち去ってしまったようで、どこにも見当たらない。当然の如くバランタインも義母の癒しも。そうして今や私も同様の風体となった苦力達は相も変わらず忙しく立ち働いている。そういえば私を殴った馬上男はどこに行ったのか?
いた。
遥か百メートルほど向こうのステージの下で、相も変わらず苦力をひっぱたいている。こちらには注意を向けていないようだった。
となれば、早くここから逃げねばならぬ。
私は激痛が走る頭を押さえ、よろよろと立ち上がった。そして、出来るだけの冷静さ、何気なさを装って、そろそろと歩き出した。下手に騒いだり走ったりすれば、即座に馬上男に感づかれると思われたからである。心臓が脈打つごとに、頭の中ではまるで鐘が鳴り響くよう。
解体現場からは拍子抜けするほどに難なく脱出することができた。私は行きし通ってきたアーケードには戻らず、それと平行に走る片側一車線の裏通りを社宅に向けて歩いた。なんとなれば、それが駅から社宅までの最短コースだったから。
それにしても、なんたら情けない恰好であることか。つい先刻まで「ほっほっほ。おもろ」などと彼らをせせら笑っていたというのに。剥き出しになった下半身にぶら下がる私の陰茎はすっかり萎みきって一センチ程の長さしかない。肉体労働を普段の生業としていない私の尻肉は他の苦力達とは違ってダラダラと伸びきっている。そして偶然通り掛かった蕎麦屋のガラス戸に映った私の帽子の脳味噌ときたら、なんと右脳しかないのである。左脳がごっつりと欠落。左脳部分は空洞。すっからかん。もしかしたら、私の本当の脳みそもこうなっているのかも知れぬ。しかし、その帽子を脱ぐことは出来なかった。瞬間接着剤でびったりとくっつけられているのか?帽子をとろうとしたらベリベリと髪の毛が一緒にくっついてきて引っ張られ、痛いったらありゃしないのだ。これでは当分脱ぐことは出来ない。まったく、なんということをしてくれるのか。
現場を離れて尚、私は努めて平静を装った。早く帰りたい一心から走ったりはせず、もじもじと自らの下半身を隠したりもせぬように心がけた。裏通りとはいえ、往来には一般の通行人がちらほらと散見され、一方、今、私が行っている行為は立派な猥褻物陳列なのである。これ以上に不自然な行動を採る事は禁物だ。
それが功を奏したか?通行人は私などにこれっぽっちも注意を払っていないようで。ただ一人、ここに至っては最も関わり合いたくない類の相手、官憲を除いては。
通りの反対側に佇立していた官憲と思しき長身の男は私の姿を認めるや、やおら、悠々と通りを渡って向かってきた。私の方を見てはニタニタ笑っている。弱者を嬲るのが愉しくて愉しくて仕方がない、とでも言いたげな目、腹がぼこりと前へ突き出ている割には妙に「すらっ」と長い脚をしてい、口髭を生やし、チューインガムをくっちゃくちゃと噛みつつ右手に握った警棒を左手の平にぱっしんぱっしんいわせている様子、まるでC級アメリカ映画に出てくる悪徳警官だ。
くそ、まずいことになった。よりによって、こんな奴に出くわすとは。しかし、ここで逃げ出したり立ち止まったり、はたまた慌てて下半身を隠匿隠蔽したりすれば自分の罪を自ら認めてしまうようなもの。そういえば白目の老婆も置き去りにしてきてしまった。そこで私は引き続き外面上の平静さを崩さず、それでいて、それとは気付かれないように細心の注意を払いながらもスピードを若干上げ、なおも歩を進めたのだった。そんな私を悪徳警官が追って来るのかどうなのか?気が気ではないのだけれども、さりとて振り返ってそれを確認するような気にはならない。そんな事は出来ぬ。そんな事をしたらば、あからさまに怪しいじゃあないか。
が、振り返るまでもなく奴はついてきていた。それは音で分かった。私は間近に、すぐ背後に聞いたのだ。奴のブーツがじゃりじゃりと砂を踏む音を。くっちゃくちゃとガムを噛む音を。警棒のぱしぱしを。まるで薄氷の上を歩くような感覚。刃の上を歩くような感覚。私は、眉間の中央がストレスできりりと痛むのを感じた。それにも増して後頭部には依然としてぼこぼこと殴打され続けているような激痛。さまざまな感覚、感情がないまぜとなって涙が出そうになる。
そうして百メートル程歩いたろうか?永遠に続くかと思われるような長い長い道のり。もしかして本当に永遠なのではないか?と、しかしそれは杞憂。やがて眼前には築三十五年、五階建ての古ぼけた煤けた社宅が次第に姿を顕し始めたのである。その社宅の手前、片側ニ車線の国道が横切っていて。高速道路へと続く主要幹線道路だけに車の往来、極めて多く。この国道を渡れば我が家は目と鼻の先だ。
「あっ。課長!」
その時、私は国道を渡る横断歩道の手前、信号待ちをしている一人の見慣れたジャバザハットみてぇな体躯の中年の姿を見た。外ならぬ私の直属の上司にして、同じ社宅の住人、屁割賦金策課長だ。
全くと言っていいほど似合っておらぬ派手な橙色のアロハシャツと馬鹿みたいにだぼっとしたベージュの短パンとを間抜けに身につけた課長は、その間抜けた服装と同じく間抜けな腑抜けた呆けた表情でもってぼんやりと信号の下、突っ立ってた。五十手前にして、すでに額は後頭部まで後退している。右脇に抱えられた巨大な信楽焼きの狸。
なにしろ小心者、無能を絵に描いたような課長であった。このような男が管理職に抜擢されたという事実、そのこと自体、我社の人事部の白痴さ加減を如実に示す致命的な人選ミスであると言え、その人事は周囲のみならず、本人自身にとってもこの上ない不幸であったろうと思われる。自らの才覚でもって部下を動かす事、一向にままならず、そのくせ上からの評価ばかりを気にしては点数稼ぎばかりに腐心する憐れな男であった。部下の手柄はあたかも自分の手柄であるかのように部長あるいは次長に報告し、部下の小さな失敗は部下の大きな失敗として報告するような男であった。しかし、彼の上長達とて馬鹿ではない。そんな屁割賦の姑息さなどとうの昔にお見通しであって、よって、屁割賦が策を弄すれば弄するほど、彼は自らの評価を落とし、行く先々の部署からことごとく放逐され、そうしてとうとう半年前、私の所属部署、すなわち別名ダメ社員廃棄場とも呼ばれ、後ろ指を指されるところの鼠害対策部へと回されてきたのである。
とはいえ、なんたって今は追われている。私、官憲に。あらぬ疑いを掛けられて。そこへきて目前の横断歩道は赤信号。アバンギャルドなファッション。つまり、もはや今の私は逃げも隠れも出来ぬ局面にまで追い込まれているのであって、進退窮まっておるのであって、追及を受ければ自分一人だけの弁解では潔白を証明すること実に困難であろうと予想され、要するに、かかる緊急事態に至ってはもうなんというか後先構ってなどおれぬ。よし、ならば屁割賦に有りのままを告げ、そうして庇って貰うこととしよう。私は加害者ではなく、被害者であるという事、見も知らぬ馬上男から突然の暴力を受け、身ぐるみ剥がれ、このような恰好にされた事、そして、私は反社会分子などでは決してなく、寧ろ会社などでは全くもって真面目な社員、有能な鼠駆除員、意外と気さくなナーイスガーイであるという真実を、必要とあらば官憲に対して釈明させるのだ!おお。おお。いくら無能極まりない薄ら小便ハゲ野郎の屁割賦とて、そのぐらいの事なら出来るだろう。
「おお〜い!かちょ〜!へかっぷかちょ〜お〜!」
とうとう私は走り出してしまった。問題ない。見境をなくしたのでは決してない。全て計算ずくのことである。目前には課長。官憲から逃げおおせるために駆けたのであれば問題だろうが、知人のもとに駆け寄るぐらい誰だってすることじゃないか。私は自然と笑みがこぼれるのを禁じ得なかった。むは。むはは。むははは。ところが、
「ぎゃあ〜ああ〜!」
どこまでも運命は苛烈である。屁割賦の餓鬼ときたら駆け寄ってくる部下の姿を認めるなり、恐怖に目をひん剥き、狸を放り投げ、なんとまあ、脱兎のごとく逃げ出しやがったのだ。地面に落ちて粉々に割れる狸。
「ちょ!ちょっと!あの、か、かちょおっ!」
「ぎゃああ〜ばけもの〜!」
ばけもの・・・・・・私はハタと気づいた。確かに、今の私の姿ったら先にも申し上げた通り最悪だ。下半身は剥き出し。一見すれば脳味噌だって剥き出し。更に、先ほど馬上男から殴りつけられた傷口が開いたのだろうか?いつの間にか頭部からは夥しい量の出血すらも見られるようだった。そんな血まみれの変態がむはははと満面の喜悦をたたえて駆け寄ってくるのだから、これでは化け物などと恐れ、逃げられても仕方がない。とまれ、少なくとも言えたのは、私が誰であるか?彼は全くのところ気付いてなんかいないし、そんな事は今の彼にとっては間違いなくどうでもいい、という事で、あっ、まずい、そんな事情にいちいち納得している場合ではなくなってきた。課長の、屁割賦の逃げた先は!
「ああっ!」
そのようにして、事態は半ば約束されていたように最悪の展開を見せたのである。
憐れな子羊、というか豚、すなわち屁割賦は、この私を禍々しい異形の悪魔と認めるや、赤信号にも関わらず横断歩道を駆けた。錯乱し、国道を真直角に、一直線に突っ切って逃げた。そして、そして、道を三分の一ほど渡ったところで、彼の弛みきった肥満体は華麗な曲線を描いて空中に高らかと舞ったのだ!
私がとらわれた感情を言い表すならば絶望だろうか?この光景を見、私の全身からは力という力が抜けてしまった。国道の十五メートル手前で。力が抜けた私はその場にへたりこんで。へなへなと。
背後には官憲。
「あみゅぅ!」
何故か「ぶげっ!」とか「へぶっ!」とか「あがっ!」ではなく、このとき咄嗟に口から出た悲鳴はあみゅぅ、である。左肩をぽんぽんと叩いて振り向かせた私のこめかみを、官憲の警棒はしたたかに、何の前置きもなしに、容赦なく一撃したのだった。その余りの衝撃に目の玉が飛び出た。私の右脳しかない脳は頭中で跳ね回るかのようであった。私の体は九十度の捻り回転を加え、その場にどぅ、と倒れ込んだ。視界はまるで床体操の前転でもしているかのようにぐるぐると目まぐるしく、地面と空とが交錯した。それもそのはず、私の飛び出た目玉はころころと地面を転がったのである。
「ぐぉら!おまはん!なにを勝手にとぼけて逃げさらしてけつかりはりまんねんのんな!国家権力をなめとったらあきまへんえ!おら!どないや!なんとかゆうてみて欲しいわ!おらっ!」
「あひいぃぃ!目っ、目えぇぇ!目ぇだけ戻させてえぇぇ!」
官憲の打擲は倒れた無抵抗の私に対し、尚も執拗であった。しかし私はそれを避けるどころではない。今まさに、私の目ん玉は自らの預かり知らぬところにある。目ん玉がないという状態が、まさかこれほどまでに恐怖を呼び覚ますものであったとは!
私はアスファルトの上を這いつくばり、冷酷極まりない官憲の仕打ちに堪えながらもようよう目玉を捜し当てた。そして、やっとの思いでそれを自分の顔面の本来あるべきところに戻したところで、先刻の馬上男がいつの間にやら官憲の傍らへとやって来、二人揃ってこの私をニヤニヤと見下ろしている現状を知ったのだ。
「へっ。いつもすまねえな。ギャビー」
「ええっちゅうこっちゃ。サミーはん。わてとおままんの仲やおまへんか。それにしてもこやつ、ふざけたおっさんやで。わてが追いかけたらやな、しらっとして逃げまんねんで」
「はっはっはっ。そりゃあ、おめえの顔が怖いからだろう」
「そない失敬なサミーはんよ。こらっ!この困ったちゃん!言われてもたやんけ。どないしてくれまんねん。わての顔が怖いか?怖ないやろ?おおっ?どないやねん?なんぼのもんやねん」
官憲ギャビーはまたしても私を小突き回す。どうやら今の状況を百パーセント楽しんでいるようだ。小突かれるまま、あっちへこっちへころころ横転する満身創痍の私。なんと惨めなことだろう。泣きたい。私がいったい何をしたというのか。
「よし。じゃあ持ち場に戻るとするか。あぁそうそう、ギャビーよ。そこの側道で血ぃ流して倒れてるおっさんがいるがよ、ありゃ一体なんだ?あのまま放っておいたら死んじまうんじゃねえか?」
「さあ、知らん。まぁええのんちゃう?あんなんに関わり合ったらあんた、また話がややこしなりまっせ。ほんなん、それこそ警察か医者の仕事とちゃいまっか?」
「へっへっへっ。そりゃそうだな」
「そや。君子危うきに近寄らず」
えれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれふぉーーーーん、おぅん、ずんずんちゃーら、ずんずんちゃーら、ずんずんちゃーらでーでーでーでー、とは、右のような過程をもってして馬上男サミーに捕えられ、奴の携行せし荒縄によって胴体手足をぐるぐる巻きにされ、そうしてずるずると先刻の会場跡へ力なく引きずり戻される途上に於いてどういうわけか私、私の頭中で始終リフレインされていたジミィヘンドリックスという黒人ギター奏者による楽曲「フォクシーレディー」のイントロの電気ギターノイズならびにリフを口語的に模したものである。
「エンドルフィン」とでも言うのだったか?人間の脳ってやつぁ、ある一定のレベルを超えて極端に辛かったり、非常に痛い事が肉体に起こったりすれば、その痛苦を一時的に和らげるために麻薬と似た物質を分泌したりして精神の安寧に努めるような反応を本能的に示すそうな……と、これはつまり過去に読んだ本からの受け売りなのだけれども、しかるに私の片っぽ欠落脳みそときたらまるで逆。この期に及んで痛苦を和らげるどころか、余計に頭をガンガンさせるような曲を斯くの如く繰り返し自動的に再生しやがるわけであって、なんともちゃらんぽらんな、かてて加えてイヤらしい事この上ないトンチキやくざ脳なのである。ふぉきしー。えい、うるさい。やめろ。自動再生やめろ。なにがふぉきしーだ。
さて、その後、私が強制的に従事せられた労働とはこうだ。大ステージ会場跡にはいつの間にか解体用建機が一台、鎮座ましまして、その建機がどーん、どーんと金玉のようにぶら下げた鉄球をステージに打ちつける解体作業によって発生させるコンクリート、ブロック片等の廃材は一片あたりおよそ二十〜三十キログラム超。その巨大な塊を、私はただひたすら単純に、愚鈍に、街はずれの山をくり抜いた砕石場まで担いで運んだのである。素足で。徒歩で。片道約二十キロメートルの道程。無論、その途上に於いて少しでも休んだり、手を緩めたり、へたばったりする素振を見せようものならば即座にサミーから殴られた。小突かれた。過怠は罪。なにしろ先の脱走の一件がある。なので、今や奴ときたら、私から一瞬たりとも目を離そうとしない。
しかしアレだ。この私が今まで日頃従事していた業務といえば自分が籍を置いているところの超一流商社の本社ビルを鼠害から守るべく鼠駆除業者に引き合い。発注。打ち合わせ。作業立会い。自らの肉体を酷使する機会ったらせいぜいが年に一回、ビル内各フロアーに敷設した鼠捕りを取り替え交換する作業の時ぐらいであり、下水道施設が完備されてなくてペストが蔓延していた中世ヨーロッパでもあるまいし、近代日本の一流商社内に於いて斯かる鼠部署が存在するということ自体、その無意味さ、お荷物的ポジション、窓際っぷりは推して量るべし、といった按配なるも、まぁそれであっても一流商社に勤めていたということはつまり、業務実態はともかくとして、年収が他の同僚の五分の一しかなかったという事実はともかくとして、私はまぎれもなく一流商社マンであったわけだ。ふぉきしー。
斯様なホワイトカラー、肉体労働とはほとんど縁もゆかりもない、紙っペらと屁理屈とをただひたすらこねくり回すしか能力のないような私が或る日突然、こんなピラミッド建設の奴隷のような苦役に従事せられたのだから大変である。大変というか無理。容赦なく照りつける葉月の灼光。コンクリート片が食い込む肩。その皮膚は荷役との摩擦に脆く破れ、ずるずるに剥けに剥け、白い脂肪が体液と脂とを伴って露。陽光にじりじりといたぶられ、焼肉のように焼かれている。遂には靴を履いていない足の裏の皮をも破け、裂け、剥き出しとなった赤・青・黄の神経組織は地面に直になすりつけられて、その砂利の一粒一粒はその神経を、私の痛覚を絶望的に苛んだのだった。その痛さとくれば現実、跳び上がるほどに痛い。笑っちゃうぐらい痛い。そこへ疲労と脱水とが加わって道中、私は幾度となく路傍に倒れ込んだのである。すると途端に飛んでくるサミーの角材。だが、殴られたって突かれたって倒れるものは倒れる。その間隔はみるみる短くなり、遂には一時間半後、私は起き上がるどころか、とうとうピクリとも動けずにいた。無数の限界を超えた究極の限界。
「このっ、たにし野郎!起きゃあがれこの!さぼってんじゃねえ!まだ今日のノルマの半分もいってねえじゃねえか!」
体中のありとあらゆる感覚が麻痺。サミーのそんな怒声、打擲すら次第に遠くなって。霞んだ視界の向こう、勘忍袋の緒がとうとう切れたか、いつの間にやら馬から降り、怒りの形相も露と隠さず角材を大上段に振りかぶった監視人の姿がぼんやりに見えた。
「むっきゃあああああ」
あ、こりゃ殺されるな、と思う。ま、殺されるならそれも致し方ないが、それにしても類人猿みたいな甲高い声をサミーは立てるんだね、と、つくづく感心する。他人事のように。他人事なんだが。奴の顔はなんとなくアウストラトピテクス。サル野郎め。あ、そうそう、せめて死ぬったら、どうせならその前に一目でもいいから愛する妻と娘にまみえたかったものである。今頃二人はどうしているのだろう?私の帰りがあんまり遅いもんだから、心配でもしていてくれるのだろうか?捜索願の一つでも出してくれているのだろうか?三歳の娘は可哀相に、これから片親だ。不憫な事だ。一体全体、これからどんな女に成長してゆくのやら。将来、ラッパー紛いの出で立ちなどをした世の中を舐めきった間抜けた面構えの無職の小僧なんぞに孕ませられたりはしないだろうか?はたまた四十七歳、妻と二人の子持ちの小金持ちITベンチャーバブル社長などに囲われたりはしないだろうか?まかり間違って、その社長が妻子と別れて自分のところにやってきてくれるかも、なんて有り得ない展望を宛てどなく延々と待っちゃったりして、適齢期をみすみす逃してしまったりはしないものか?もしも万一そうなったとして、それはそれ、彼女自身の人生なのだから、私が今まさに直面せんとしている「死」同様、まぁ仕方のない運命なのだとも思うが、そうは言っても私はやはり親。気がかりな事この上ない。あ。意識が。耳鳴りが。いよいよもって死ぬのか?
一年後。
結論から申し上げれば、私はうまくやっている。
あの日、サミーは角材を大上段に構えたが、彼がそれを振り下ろす直前、私は再び気絶をしてしまったようで、結果的にはそれによってとどめの一撃を免れたのである。
さて、次に気がついた時、私は薄暗い、じめっとしたやや広い室内にいた。目の前には大量のデニムの山。なんじゃこれは?
「やっと気がついたか。ばかものめ」
振り返れば、そこにはサミー。こいつ、まだいやがったのか。しつこい奴だ。果たして彼の説明によれば、ここは先程の会場跡とは駅を挟んで反対側に位置する青少年交流センターの一階。私のこれからの仕事は、これら山積するデニムGジャンの袖を裁断し、いわゆるノースリーブの形にすることなのだと。
「ほらよ、これ」
と、サミーはやや錆びかかった裁ちバサミを私に投げて寄越す。
この日から、私の裁断の日々が始まった。来る日も来る日も私はデニムを裁断し続けた。中国製なのか?全くのところノーブランドのデニムを。中にはGパンも紛れていて、それは太腿の根本部分からずばっと裁断し、半ズボンにするのだった。ある時、そうして出来上がったノースリーブGジャンと半ズボンとを私はサミーの目を盗んで面白半分に試着。頭には相変わらずの脳みそ帽。予想通り、何とも恐ろしく格好悪い。こんな情けない格好を一体誰がするというのか?誰が着るために、私は延々とこんなものを生産し続けねばならぬのか?少なくとも、等身大ストリートには何ら関係がないように思われる。
ところが、断てども断てどもデニムは無限に尽きることがない。何しろデニムはフロアに溢れかえって埋め尽くしていて、しかも八階建ての建物内、全フロアが例外なく同様の有様であったのだ。一方で、私にとっては聊か嬉しい出来事もあった。裁断を始めてから一週間ほどは帰宅を一切許されなかったものの、その後は帰宅できるようになり、更に後々には九時〜二十時の定時が定められるまでに至ったのである。著しい労働条件の改善。漸く近代の職場。また、どういう風の吹き回しか?私が勤めていた商社からは首にされることなく、ここへ出向の扱いとされた。新たに与えられた私の肩書きは玉砕等身大ストリート実行委員会デニム裁断部・裁断推進課長である。課長といっても課員は当然いない。私の上長には例のサミーがデニム裁断部長として納まった。しかし奴の役目といえば、相も変わらず私を角材で小突き回し、業務上の過怠を未然に防ぐことぐらいである。
それでも私は思う。
今の仕事、生活こそ、これすなわち私にとって分相応の、等身大のそれではなかったか?と。
嘗ての私、分相応では決してなかった。等身大でないくせに、能力もないくせに、何の間違いか超一流商社なんかに入ってしまい、あっという間に鼠捕り。だがいくら落ちぶれようが、それでも激しい競争の世界の埒内に我が身はあって、鼠捕り器を交換しながら、私は知らずの内に自分自身を削り取り、疲弊させていたようだ。そうだ。私のような男は、こうしてせいぜい脳みそを剥き出しに下半身をぶらぶらさせ、ひねもすデニムでも裁断し続けているのがお似合いなのだ。そこに私は気がついたのだよ。今や私は等身大。それが影響してか?どういうわけか瑠璃江とエイとの仲も今では割りと上手くいっているようである。
さて、等身大ストリートの季節が再びやってくる。つまり屁割賦の一周忌も。それでも私は変わらず、ここでデニムを裁断し続けているのだろう。ピース。 |