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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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20

私は、全部分かっているから。だから、大丈夫。

シルビアは、私の両手を優しく握り締めて囁いた。
どんな人間にも許しを与えようとするその顔は、半分ほどが赤く染まっている。私の血だ。
「……汚れているわ」と、何の脈絡もなく呟いた私に「分かってる」と肯きながら微笑する妹。
白い頬を染めている穢れを、彼女自身の涙が洗い流していく。その姿は、壮絶なほどに可憐で、それでいて痛ましかった。

「大丈夫、お姉さま。私は全部分かっているから、大丈夫よ」

未だに震えている私の頬に、そっと顔を寄せてくるシルビアは、私と同じように震えている。
柔らかな声音は耳朶をくすぐり、聖母のような慈愛を滲ませているけれど、胸を締め付けるような苦しみを伴っていた。
こういうとき、何が怖いのかと声を掛けて抱きしめるのは、シルビアではなく私の方だ。
私は姉であり、彼女は妹だから。いつだって、そうしてきた。
だから、励ますように肩を撫でられると、ひどく居心地が悪くなる。

守るべき存在であるこの子を、傷つけた。

頭ではきちんと理解しているからこそ、傍に居たくない。そんな無神経な人間ではないはずと、妹から離れようと思うのに。
力の入らない体では身を捩ることすらできなかった。
頬を転がって落ちていく涙がシルビアの肩を濡らし、淡い色のドレスを少しだけ濃く染め抜いていく。
それを視界の隅に収めながら、何度も瞬きを繰り返した。
もう1度「ごめんね」と唇を動かすけれど、言葉にはならない。痙攣するように震えた喉が、呻き声のようなものを漏らしただけだった。
それなのに、シルビアは「分かっているわ」と答える。

―――――一体、何を、分かっているというのか。

その言葉の真意を問い正そうとしたのだけれど、
「そのままでは、命にかかわりますよ」という低い声に遮られた。
弾かれるように顔を上げれば、廊下で待機していたはずの険しい顔をしながら近づいてくる。
そして、両親と私たちの間に割り込み、おもむろに腰を落とした。そして、私とシルビアの顔を覗き込んでくる。

「込み入った話をしていたようですので、廊下におりましたが……」

老医師のかさついた手に肩を押されるようにしてシルビアから引き離された。
貴族に対して何事かと責められるような態度だが、彼にそんなことを言う人間はいない。
彼は、私の祖父の代からもう何十年も我が家に仕えているし、そのことは別としても、医術を扱える人間というのは大切に扱われるものなのだ。なぜなら、その人数に限りがあるから。
それに、「私がついていながら、出血多量で死なせるなんて避けたい事象ですな」と、実におっとりとした口調で窘められれば尚更である。

「早く治療をしなければ大変なことになりますよ」

ある意味、喧騒に満ちていたとも言える室内も、突然の闖入者に気がそがれたのか静まり返っていた。
隅で控えている侍女も、両親すら、医師の動向を見守っている。
誰もが物音をたてないように息を潜めているような気がした。吐息の音さえうるさいと感じるほどに空気が張り詰めている。そんな中に響いた老医師の低い声には妙な迫力があった。
そんな彼に「さぁさぁお早く」と急かされて、ふらつきながら立ち上がれば、私の体を支えるようにしてシルビアが横に並び立つ。

近過ぎるほどの距離感に戸惑いつつも、息遣いが聞こえるほど近くに居る妹の横顔を覗き見た。
すると、淡い光を含んだ紫色の瞳と視線がぶつかる。目が合うとは思っていなかったので、たじろいでしまった。
優しくて柔らかな眼差しを向けられているというのに、そこから得られるのは安心感ではない。
この胸に渦巻くのは言い知れぬ不安であり、足元に広がっているのはガラスの地面だ。
シルビアに悪意がないことはよくよく理解している。
彼女の性質上、そういった謀略ぼうりゃくとは無縁だろう。
だけど、妹の隣が安全地帯ではないこともよく知っていた。
少なくとも、私にとっては、そうなのだ。
だから、どうにも耐え切れなくなって思わず1歩後ろに下がる。そんな私の背を追いかけるようにして柔らかな指先が撫でた。
何の含みも企みもない、見返りすら期待していない仕草だ。
指先が触れた部分に、ふわりと何かが広がるような気がする。

―――――そんな風に与えられるものの名前を、何と呼ぶのか私にはよく分からない。

通常、貴族間においては、何の見返りも期待しない優しさなど存在しないと言われている。
だからこそ優しくすることにも、優しくされることにも意味があるのだと……そう教えられた。

「お姉さま、お部屋に戻りましょう」

距離を置こうとしているのに、そんなことには関心を寄せず、相変わらず手を差し伸べようとするシルビア。
貴女のことを愛せないと言ったのに、はっきりとそう伝えたはずなのに。
あどけない顔をこちらに向けている彼女は、何事もなかったかのような顔をしている。ただ、その長い睫に残っている雫だけが、先ほどの騒乱が嘘じゃなかったことを証明していた。
私から愛されていないことなど、まるで、大したことでもないかのように。そんなことは意にも留めないという顔で、ひたむきな思いやりを捧げようとする。

「シルビア、待ちなさい」

先立って部屋を出ようとしている医師の後に続こうとすれば、背後から声がかかった。
虚ろな眼差しをしている母を抱えるように立っている父が、シルビアだけを見つめている。
けれど、妹は振り返らず「行きましょう、お姉さま」と私を促した。

「シルビア、お前はここに残りなさい。行っても診察の邪魔になる」

心なしか早口でそう述べた父は、ふと、私に視線を移す。
その唇は確かに「シルビア」と妹の名を呼んでいた。それなのに私を見ている理由はただ1つ。
―――――威圧しているのだ。
そうすれば、娘を意のままに操れると知っている。これまでもそうだったから。

「それに、もう十分だろう」

その言葉を聞いて、はっとシルビアが振り向く。名前を呼ばれたから、当然、自分に向けられた言葉だと思ったのだろう。
けれど、そうではない。
妹に「愛していない」と暴言を吐いた、私に対する言葉だと分かる。

もう十分だろう。
もう気は済んだだろう。
これ以上、妹に何を望むのか。

「……シルビア、お父様の言う通りだわ。医師せんせいの邪魔をしては、いけないと思うの」
「……お姉さま?」
「貴女は、お父様と一緒に、お母様についていて」
「……どうして? どうして、そんなこと言うの?」

シルビアの細い指を掴む。向き合った妹は先ほどと同じく「どうして」を繰り返した。
幼さの残る顔は血の気が足りず、健康的とは言えないだろう。昔よりはずっとマシだけれど、身長も体重も、平均からはほど遠い。
小さな体躯に、幼い顔つき。
思えば、この子はずっと屋敷の中で過ごしてきたから、外の世界を知ったのはつい最近のことなのだ。
いつも付き添っている侍女の居ない、学院内での生活はどれ程心細かっただろう。
彼女自身も望んだことではあったけれど、新しい生活は想像していたよりもずっと大変なことだったに違いない。
屋敷の外に一人ぼっちで放り出された上に、友人もおらず、頼りにしていいと言ってくれたはずの姉は寄ってもこない。
右も左も分からず、恐怖心だってあっただろう。

だから、ソレイルに頼ったのだろうか。
知らない人間ばかりの学院内で唯一、知り合いと言える顔を見つけて、心底安堵する妹の姿が見えるような気がした。

「―――――もう、いいの」

そうだ。もう十分だ。
シルビアは、私の味方をしてくれた。それどころか、手を差し出して「大丈夫」と言ってくれた。
それだけで十分なはずだ。

「もう、十分よ。シルビア。私は1人で行けるわ」

私はシルビアと違って、初めから1人きりだったから。

「貴女に頼らなくても、歩けるわ」と、笑う。

すると、シルビアは少しだけ双眸を見開いて。
もう1度「どうして、」と呟いた。
儚く消えるその声に被さるのは、

「こちらにいらっしゃい、シルビア」

母の声だ。
優しいけれど、不安に揺れる心情をそのまま映し出すかのような弱々しい声は、シルビアの意識を逸らすのに十分な役割を果たした。
ちらりと母の方へ視線を向けた妹の横をすり抜ける。
そして、そのまま、既に部屋を出ようとしている医師の後を追いかけた。
膝が震えて、1歩足を踏み出すだけでも全身に力を入れなければならなかったけれど、それでも前に進むことはできる。
数歩進んだ先には、マージが居て、思案げな眼差しを向けてきたから「お願いね」と、呟いた。
それだけできっと、彼女には私の意志が伝わったはずだ。

彼女は、色を失った顔でしっかりと肯き、胸元を握り締めた。

*
*

子供の頃、屋敷の一室を勉強部屋として使っていたことがある。

自室と書庫の往復だけではどうしても気が滅入る。だから、気分を変えたくて、母の育てた薔薇が見える部屋を自由に使えないかと父にお伺いをたてたのだ。
家令を通してのお願いだったけれど、案外あっさりと通った。
長年使われていなかった小部屋が宛がわれ、侍女侍従の手を煩わせないことを条件に、自由に使っても良いという許可を得たのだった。
自立を促す意味合いもあったのだろう。
けれど、1人で過ごすには十分な広さだったし、元々机と椅子くらいしか置かれていなかったその部屋には好きなだけ書物を持ち込むこともできたから不満はなかったと記憶している。
新しい環境というのは、気鬱を吹き飛ばすほどの威力を持っていて。

ソレイルの婚約者となってから、気の休まる時間などなかった私は、久方ぶりに開放感というものを味わっていた。

窓際に机を移動して、隅に花瓶を置き、新しいカーテンを引く。
一階の隅に位置する部屋だったから、窓から外を覗けば、母の手入れした薔薇が見えた。
自分以外の人間が部屋の中に入ってくることはないから、時間を忘れて本を読むことができる。
家庭教師が来るときはさすがに自室へ戻らなければいけなかったけれど、それ以外の時間は、ほとんどをその部屋で過ごした。
いつもであれば人目を気にして読むことのできない、幼児向けの童話をいくつも読んだ。
淑女教育が始まってからは、不要なものとして処分されてしまったから。屋敷の書庫に、あくまでも資料として揃えられているものを持ち出したのだった。
世間一般の子供たちが当たり前に知っている童話を、初めて目にして。読み込んで。その、愉快で不思議な世界に魅了された。
そんな摩訶不思議な世界に生きる主人公たちは、極貧の中に居ても、醜くても、いじめられていても、最後は幸せになる。
そんな話に焦がれたのだ。

―――――だけど、そんな日々も長くは続かなかった。

ある日、本を読んでいると窓ガラスの向こうから話し声が聞こえてきた。顔を上げれば、そこに母とシルビアが居る。滅多に顔を合わせることのない義妹の姿に少し驚きながら、彼らの姿を眺めていた。
母の育てた薔薇の向こう側に居る二人と、私の間には窓ガラスがあったけれど、そんなには離れていない。
耳を澄ませば、会話を聞き取ることもできた。
相変わらず、美しい妹だと。
感嘆するような気分で見つめていれば、ふと、その小さな顔がこちらを向く。

そして、にこりと笑んだ。

咄嗟に、椅子からすべり落ち、机の下に隠れた私は両膝を抱えて蹲る。
誰にも見つかりたくなかったのだ。
だってそこは私の部屋で。「私だけ」の部屋で―――――、秘密の部屋でもあったから。
どくどくと脈打つ心臓を抑えつけ、息を潜めていると、

『どうしたの? シルビア』

母の声が聞こえた。

『いま、そこにだれかいたの』
『……誰か?』
『うん』
『まぁ、そんなはずはないわ。だってあそこは空き部屋よ。誰も居るはずがないわ』
『そうなの?』
『ええ。もう長いこと使っていないのよ』
『ふうん』

「へんなの」と、いかにも唇を尖らせているかのような声が響く。そうね、変ね。と答える母の声は笑みを含んでいた。
私からもう、その姿を確認することはできないというのに。
笑い合う2人の姿が想像できた。

見つからなくて良かったと思った。
だけど、どうして見つけてくれないのだろうとも、思った。
見つかりたくはなかったけれど、見つけてほしかった。

―――――多分、そうだ。


「お加減は、いかがなのですか?」

見上げれば、柳眉を少しだけ歪めたマリアンヌが首を傾げていた。
熱を出して数日寝込んでいたので、体が重い。しかも、右腕を何針か縫っているので、ベッドから上半身を起こすのさえ苦労した。
今も、背中の後ろに幾つか枕を並べているから身を起こすことができるのであって、自分だけの力では、ただ座っているだけでも体力を使う。

「だいぶ、良いのですが……まだ数日はお休みをいただこうかと思っております」

私がそう言うと、ベッド脇に置かれた椅子に腰掛けた彼女は小さく息を吐いた。
憂いを帯びている様子のマリアンヌは、今日も今日とて、豪奢な美貌を惜しげもなくさらしている。
金粉を塗したような髪が、室内の淡い光を反射して、後光が差しているにも見えた。
真っ白な壁紙さえ褪せて見えるのは、彼女の存在そのものが眩しいからかもしれない。

「怪我をなさったとはお聞きしましたが、まさか……こんな状態とは、」

言葉を濁すことで、その心情をはっきりと伝えてくるマリアンヌは根っからの貴族である。
彼女いわく「こんな状態」である私は、

「傷は大したことありませんのよ。ただ、高熱が出てしまったものですから。大事をとっているだけですわ。熱ももう下がっておりますし」と、笑うしかない。
そんな私を、何とも言えない顔で見つめていたマリアンヌは再び息を落とした。
そして、そっと怪我をした右手に触れてくる。
縫合の痛みに絶叫した私ではあるが、深いとも浅いとも言えない程度の傷で暴れる患者も珍しくないらしく、医師せんせいには「よく頑張った」とお褒めの言葉をいただいた。
更に、これほどの傷を負う貴族の子女は珍しいと憐れむように首を振る。痛みに慣れていない人間であれば、とっくの昔に気を失っているだろうとも。
「昔、どこかで大怪我でもしたのですかな?」と、訝しむわけでもなく、心底不思議そうに言われてはうなだれるしかなかった。

今生では一度も、こんな怪我を負ったことはない。

だけど、繰り返してきた人生のどこかでは、怪我を負ったこともある。出産の痛みに耐えたことも。そして、あらゆる痛みを与えられ絶命したこともあった。

「……傷は、残るのですか?」

舌にそっと乗せるように吐き出された言葉は、もしかしたら彼女の一番訊きたいことだったのかもしれない。

「そうですわね……、恐らくそうなるだろうと医師も仰っておりました。傷の深さはともかく、刃物による傷は跡に残ることが多いそうですから」
「……刃物……、ですか?」

質問に対する答えを返したというのに、彼女は、傷跡が残るかどうかよりも「何」によって傷を負ったのかの方にひっかかりを覚えたようだ。

「詳細はあまり……申し上げられないのですが……」

けれど、私がそう言うと、追及するつもりはないのか困ったような顔で微笑を浮かべる。

「イリア様、」
「はい」
「……私が言うことではないと思いますが、刃傷沙汰というのは社交界では忌避される傾向にあります」

私と母の、あの行いが、刃傷沙汰と呼ばれるものだったかどうかは分からない。しかし、実際にどうだったのかということと、他人がどう感じるかは別の問題だ。
争い事とは無縁なはずの貴族女性がそんな傷を負ったとなれば、考えられる要因はそう多くない。
誰もがこう思うだろう。何か、揉め事に巻き込まれたのだと。もしくは、その揉め事の当事者であると。
実際、腕の傷は刃物によるものであるし、事故とは言え、他者に負わされた傷だ。
これを揉め事といわずして、何と呼ぶのか私にも分からない。

「ソレイル様は何と?」

私の沈黙を何と捉えたのかマリアンヌが身を乗り出してきた。

「怪我をしたことはお伝えしております」
「それで、何か仰っているのでしょうか?」
「……手紙で、お伝えしただけですから。お返事はまだ……」
「そうですか」

「けれど、この後、お会いすることになっておりますので」

自分でも馬鹿みたいだと思うけれど、その時を想像すると指が震えるような気がした。
婚約破棄されることは、ないだろうと思う。
それほど簡単に代替のきく立場であれば、これほど複雑な状況には陥っていない。
それに、傷跡は長袖を着れば隠せる程度のものであるし、貴族というのはそもそも肌を露出しないので、例え真夏に長袖を着ていたとしても追及されるようなことはないだろう。舞踏会などの催しものではそうもいかないけれど、手袋をすればいいだけだ。
つまり、隠す方法ならいくらでもある。
また、余計な詮索をしてくる人間にはただ口を噤んで微笑するだけで良い。
私はソレイルの婚約者であり、やがては侯爵家には入る人間だから。それだけである程度に牽制になっているはずだ。

しかし、絶対と言えないのもまた事実である。
ずっとずっと前から、それこそ今生だけでなく、いつの人生でも執着して離さなかった立場であるのに。
たったこれだけのことで、失うことになるかもしれない。
そうだ。「これだけのこと」だ。私が今までやってきたことに比べれば、腕に怪我をしたことなど大したことではない。
それなのに、

「イリア様……、」

マリアンヌは悲しそうな顔をしている。
そっと添えられていただけの彼女の手が慰めるように右へ左へと動いた。包帯の上からなので分かりにくいが、撫でられているのだと悟る。
医師の診療を受けてから、そんなことをしてくれたのは、彼女だけだ。
父も母も、あの日以降、顔を見ていない。
シルビアは何度かこの部屋に来たけれど、何せ高熱で朦朧としていたため、会話らしい会話をした記憶がなかった。熱が下がった後はといえば、遠慮しているのか、もしくは両親に止められているのか、今度は顔を見せなくなったのだった。
差し伸べられた手を払ったのは己だというのに、そんな妹の態度に、どうしてか苦しくなる。

「マリアンヌ様、私は、」平気です。と続けようと思ったのに、言葉が出ない。

彼女の名前を呼んだまま、不自然に止まる声。私たちはしばらくの間、互いの顔を眺めていた。
何か言わなければと思えば思うほど、何も出てこない。だから、何度も口を開いては閉じる。そんな馬鹿みたいな動作を繰り返した。
すると彼女は、つと真剣は顔をして、私の顔に唇を寄せてくる。
「ここには誰もおりませんから、内緒話をするなら今しかありませんわ」と。
吐息の交じる囁き声でそう言った後、今度は己の耳をこちらに傾けてきた。
どんな小さな声さえも聞き逃さないと言っているかのような態度に、すっと肩から力が抜ける。

「……マリアンヌ様、いつの日か、学院の図書室で言ってくださったこと覚えておりますか?」

何1つ、言葉など出てこないと思っていたのに、自分でも意識しない内にするりと零れたのはそんな問いだった。
彼女は金色の睫に縁取られた魅惑的な瞳を1つだけ瞬く。
そして、「もちろんですわ」と深く肯いた。

「あのときの気持ちは今でも変わっておりません。イリア様」
「……、」
「何かできることがあれば、いつでも言ってください。何でもいたしますわ」

にこりと微笑むその姿には何の迷いもない。
伯爵家第一位の家柄である彼女の出自からすれば、よっぽど荒唐無稽な話でもなければ、大抵のことは叶えられるだろう。だからこそ、

「理由は、聞かないのですか? マリアンヌ様の、その手を借りることになるかもしれない理由を、」

確認せずにはいられなかった。
彼女はほんの少しだけ視線を彷徨わせて、逡巡する。けれど、それも一瞬のことだった。私の方に寄せていた体勢を元に戻し、背中を伸ばすと「必要ございませんわ」と言い切る。

「私、こう思っておりますの。人生にただの1度くらいは、友人のために尽くしてみてもいいのではないかと」

さすがに、命までは差し出せませんけれど。と、優雅に破顔した。
その言葉に、はっと息を呑む。
人生を、何度繰り返しても、そんな風に言ってくれる友人は現れなかった。
私はいつだって1人きりで、立ち竦んでいたのだ。

「……そこまで言ってくださるほどの何かをした覚えがございません……」

喜びよりも、嬉しさよりも、戸惑いの方が勝る。はっきりと、困惑していた。

「イリア様。私も友情というものがどういうものかいまいちよく分かっていませんの。……貴族社会に生きてきた身でございますから、そもそもそういうものが存在するのかどうかも疑わしいと思っております」
「……そう、ですね」
「けれど、私、愛についてであれば分かる気がしております」
「……愛?」
「ええ。私は、愛の存在を信じておりますから。友人のために捧げる愛もあると思っておりますのよ。そして、愛に理由など必要ないのですわ」
「……、」
「だから、イリア様。私は貴女に、友愛を、捧げたいと思うのです」

暗い場所なんか、見たことないと言っているかのように。
柔らかな陽射しの中で生きてくただろう彼女の言葉は、輝きを放って、私の胸に落ちてくる。
不覚にも泣き出しそうになって、必死に堪えた。干からびて蒸発しそうになっている精神に、ぽつりと水滴が落ちて広がる。

寂しくて、苦しくて、悲しい。だけど、今は、この刹那だけは、それだけではないような気がした。

滲む視界を払うために強く目を閉じる。
しばらくそうした後に再び目を開ければ、そんな私を可笑しそうに見つめる彼女が居た。そして、

「―――――それでは、私はそろそろおいとまいたします」と、立ち上がる。
「……もう、ですか?」

なるべく何でもないかのように装ったけれどうまくいったかどうか分からない。彼女は少し首を傾いで、微苦笑を浮かべた。

「ソレイル様も、お越しになるということですし。今日は、イリア様のお顔を見に来ただけですので」

そう言いながらも今にも立ち去ろうとしているマリアンヌを見送るために立ち上がろうとしたのだが、左手が頼りなくシーツの上を滑る。それでも体勢を変えようとすれば、彼女は慌てて「どうぞ、そのままで」と、そっと私の肩を押さえた。
本当は上半身を起こしているのも辛い状況だったので、申し訳ないとは思ったが、その言葉に甘えることにする。
私のそんな態度に満足げに肯いた彼女が、私のベッドから離れた。

その様子を見守っていると、背中を向けていた彼女が、ふと、振り返る。

「イリア様。人生には時々、自分の力ではどうしようもないような出来事が起こるものですわね」
「……え、あ、はい……そう、ですね」

何を指しているのか真意が見えない。マリアンヌは、どこかぼんやりとした眼差しをしていた。
遠くを見ているのか、あるいは、遠くに「何か」が見えているのか。とにかく、視線は私の顔に向けられていたけれど、私自身を見ているわけではないようだった。

「運命は変えられると言う人もおりますけれど、変えようとして変えられないもののことを運命と言うのでしょう。変えてしまえるのならば、それは既に運命ではないのですわ。そして、」
「……そして?」
「絶対に回避できないもののことを宿命と、呼ぶのだと、思います」
「……宿命……、」
「いえ、違いますわね。回避できないのではなく、回避しては、ならないのです」

―――――回避してはならない。

「絶対に避けてはならないことだからこその、定めなのかもしれません」

言葉を置くようにゆっくりと話す彼女は、もはや微笑も浮かべてはいない。
感情の見えない顔と、ぴくりとも動かない指先が、人形のように見える。それはまるで、「何か」に操られているかのようだった。
無機質で、無感動で、無気力。
背中に、ぞっと寒気が走る。

「……あら、珍しい」

しかし、そんな私のことなどお構いなしに、マリアンヌは間の抜けたのような声を上げる。今度は、その顔にはっきりと驚きの色を浮かべた。今しがた語っていたことなど、忘れたかのように。
その視線は私を追い越して、部屋の入口から一番遠い場所にある窓に向けられている。

「黒い鳥だわ」

はっと息を呑んだのは、私だったのか、彼女だったのか。
振り返れば、確かに窓の外についている柵に、黒壇で塗り固めたかのような鳥が留まっている。
カラスだと、指を伸ばしそうになって、その目が羽根と同じ色だと気付いた。
鳥を模しているときのカラスは、黄色の目をしていたから、彼とは別物だと分かる。

だけど、だけど。

「……マリアンヌ様は、あの鳥の名前をご存知ですか?」
「いいえ。私、あのような鳥は見たことがございませんわ。真っ黒な鳥なんて……」

私たちがそんな会話をしている間に、黒い鳥は羽ばたいていった。

「いいえ、違いますわね。イリア様、やっぱり私の見間違いかもしれませんわ。黒い鳥なんて存在するはずがありませんもの。きっと、濃い灰色をしていたのでしょう。もしくは、海の底のような深い深い青色だったかもしれませんわ」

ふふ、と笑みを零すマリアンヌの声が遠のいていく。
カラスは初めて会ったとき、こう言っていた。

『僕の名前を知っている?』

『僕はカラス』



―――――凶兆を知らせる鳥だよ。


























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