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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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18

殺そうとしたのかと問われれば、自信を持って言える。「否」と。
だけど、それなら何をしようとしていたのかと問われれば、返事に窮する。
私はあのとき、母の存在そのものを消そうとしていたのだから。それは、生を奪うこととは少し違う気がしたけれど、上手く説明できない。

「そんなことが言い訳になるとでも思っているのか」

高圧的な父の声を遠くで聞いている。
現実味がないのはいつだって同じだ。ここは夢の中ではないと知っているのに、まるで物語に登場する空想の人物みたいだと思う。生きているという実感が、あまり湧いてこない。

「聞いているのか、イリア」

ベッドに横たわる母は静かに呼吸を繰り返しているが、眠っているわけではなかった。
ただこちらをじっと見つめているだけだ。
私と父はベッドの脇に立っていて、父のすぐ後ろには家令が、部屋の隅には侍女が2人並んで控えていた。その内の1人は、マージだ。

―――――もしもあのとき、マージが部屋に飛び込んでこなければ、私は確実に母の息の根を止めていたと思う。

シルビアの部屋から茶葉の入った小瓶を持ち出した際、その場に居合わせた侍女は、家令に報告すると言っていた。その宣言通り、私が妹の部屋から出た後すぐに、家令の元へ走ったのだろう。そして、事の次第を打ち明けられた家令は、侍女暦の長いマージに、様子を見てくるよう指示を出したのだ。
経験の浅い年若い侍女では対応できないと判断したに違いない。

本来、母の自室へ許可もなく立ち入ることができるのは父だけである。
しかし、不測の事態が起こった場合は、その限りではない。
当主が不在であれば、その権限は家令に移行するのだ。だから、女主人の部屋であろうと、家令の許可があれば立ち入ることができる。
マージが、誰の許可も得ずに母の部屋へ飛び込んできたのには、そういう理由があった。
室内で何が起こっているのか知っているわけではなかったと思うが、その異様な雰囲気を察したのかもしれない。
だからこそ、最悪の事態を防ぐことができたのだと言えた。

「お母様に危害を加えようとしたわけではありません。ただ、少し、混乱してしまって……本当に、申し訳ありません……」

深く頭を下げると、そのまま倒れこんでしまいそうになる。少しだけふらついたけれど、必死に体勢を保った。このままここで意識を失ってしまう事態だけは、避けなければならない。
何もかもをあやふやにしたままでは、自室に軟禁されることになる。
何としてでも、己が正気だということを証明しなければならないのだ。
本当は、どこか壊れているのだと理解していても。

「お前は、本当にそう思っているのか? 母親の首に手をかけておいて。危害を加えるつもりがなかっただと―――――?」

父が腕を大きく振りかぶったのを視界の隅に収める。絨毯に落ちている自分の影が、室内を照らすランプの明かりに揺れた。まるで、父の手から逃れようとしているかのように。
はたかれたのか、殴られたのか、耳鳴りがして。
今度こそ絨毯の上に倒れこんだ。
思わず父の顔を見上げれば、こちらを睨みつけるその目と視線がぶつかる。
獣のような琥珀の瞳だ。獲物を仕留めようとしているかのような獰猛な眼差しに、怯えることしかできない。間違いなくこの人の血を引いているというのに、もはや、他人のようだ。
憎悪の滲んだその目には、娘に対する慈愛など、微塵も感じられなかった。
己の顎を滑った生ぬるい何かが滑っていったので、思わず指で押さえつければ、それが血液だと分かる。
口の中を切ったのだろう。

絨毯の上に倒れこんだまま、ふと、視線を落とせば、袖口も赤く染まっている。
さすがにそれほどの出血量はおかしいと訝しみながら首を傾いでいれば、

「……旦那様、恐れ入ります」

マージが壁際から一歩だけ前に出て、そっと口を挟んでくる。
父は私に視線を落としたまま「何だ」と答えた。その眼差しは、犯罪者を前にした役人のようでもある。
目を離せば、私が何かしでかすとでも思っているのだろうか。
その鋭い視線に、油断もしないし、隙も与えないと言われているようだった。

「お嬢様は、どこか……お怪我を……されているようです」

遠慮がちに示された事実にたじろいだのは私の方だ。
怪我? 一体いつの間にそんなことになったのだろうか。
だけど言われてみれば、腕がじんじんと痛む気がした。いつものごとく、色の濃いドレスを着ているからそうとは気付かなかったけれど、袖が皮膚に纏わりついているような気がするのは、水分を含んでいるからだ。
そういえば母からナイフを奪ったとき……いや、正確には、ナイフを奪おうとしてもみ合った際に、腕を掠めたような気もする。けれどそのときは、痛みなどなかった。それどころではなかったとも言うべきか。

視線を感じて父の様子を窺えば、私の手を見ていた。
その強すぎる眼差しが突き刺さっているかのように、右手の指先から液体がぽつりと流れ落ちる。

「旦那様、室内に、これが」

父の後ろに立っていた年老いた家令が、おずおずと声を掛けた。そして、おもむろに私と父の間に立ち塞がる。私からは家令の背中しか見えないけれど、彼がその手にハンカチを敷いて、そこにナイフを置いているのが分かった。
まるで家宝でも抱いているかのように、恭しく頭を下げながら父の前に差し出した。

「これは何だ」

誰に問うているのか分からない。
地を這うようなその声に身を竦ませたのは、反射というやつだった。
父の声はいつだって私を追い詰めるから。
どくどくと心臓が脈打つ。その音が皆に聞こえてしまうのではないかと怖くなった。
それほど、室内が静まり返っていたのだ。
全員の視線が何となく交差したそのとき、

わたくしのですわ」

凜とした声が響いた。
先ほどから、事の成り行きをただ見守っていただけの母が、言ったのだ。
声を張り上げたわけでもないのに、静寂を破るほどの威力がある。

「……何?」

掠れた父の声を聞きながら立ち上がれば、ぽつぽつと絨毯の上に血が落ちた。かすり傷かと思っていたがそうでもないのだろう。案外、深いのかもしれない。
―――――傷跡が残るくらいには。

右手を押さえれば、「誰か治療ができる者を呼んできて下さらない?」と、母が言う。
彼女自身も半身を起こしたのだが、そのどこか空ろな眼は家令を捉えていた。
母の決して正気とは言えない顔を向けられても動じることなく「かしこまりました」とナイフを懐にしまった家令は、軽く頭を下げて部屋を辞する。
その一連の動作に声を掛ける人間はいなかった。父も黙ってそれを見送る。
再び落ちた沈黙の中を、「イリアは、椅子に座らせた方がいいのではないかしら。血が、たくさん出ているわ」と抑揚のない声が滑っていった。
娘が怪我をしているというのに焦った様子はない。それに、今の今まで話題に上っていたのは己のことだというのに、それさえも関心がないようだった。
少なくとも、誰かに殺されそうになったなら、もう少し何か反応を見せるものではないのか。

「ナイフは、お前のものだといったな?」

父が、母に問う。
その声音は、私に対するものよりもずっと柔らかい。

「はい、そうですわ」
「一体、何に使うつもりだった?」

しかし、普段、父が母に向けて発する言葉よりも幾分、緊張感を孕んでいるような気がした。
まさか、母がそんなものを持っていたとは、ほんの少しも考えていなかったのだろう。
実際、常に温和な雰囲気を保っている母が、ナイフを手にする姿など想像もできなかった。

「ナイフの用途は様々ですわ」

母はふわりと笑う。それは完璧な仮面だったから、これまでの私であれば気付かなかった。
何の穢れもなく、何の苦しみも感じず、ほんの少しの痛みすら与えられなかったかのように、母は微笑を貼り付けるのだ。
これほどに上手く、感情を隠して生きてきたのか。

「―――――お母様は、」

その顔を見ていたら、勝手に、言葉が滑り落ちていた。

「……イリア」

静かな声が、私の名を呼ぶ。思わずそちらに視線を向ければ、母は微笑を浮かべたまま首を振った。
それが何を意味するのか、考えるまでもなく分かる。
優しい顔をして朗らかなに笑いながら、そうやって、私の言葉を潰そうとするのだ。
だから、私も小さく首を振った。
「イリア、」もう1度、名を呼ばれたけれど、今度はその顔を確認することもなく父に向き直る。

「お母様は、」
「……イリア!」

甲高い声が、私の声を掻き消そうと、空気を奮わせた。
けれど、焦燥が滲むその声は室内に反響した後、張り詰めるような沈黙を落とす。

「お母様は、自害しようと、なさったのです」

しっかり伝える必要があったから、普段よりもずっと大きな声で言ったつもりだ。
けれど、己の発した言葉に怯んでしまう。
未だに、母が自ら命を絶とうとしたことが信じられなかった。
実際にその瞬間を目の当たりにしても、血塗れの肉体をこの手に抱いても、その目が光を失う瞬間を目の当たりにしても―――――葬儀に参列しても、全て幻だったと言われれば、それを信じたかもしれない。

「……イリア!!」

母は何度も私の名を呼んだ。まるで助けを求めるかのように。
だけど、その悲鳴のような声音は、私の言葉を肯定しているも同然だったと思う。
だからこそ、父は眉根を寄せて「……どういうことだ」と、私へ向けていた視線を母に移した。
「何てこと、貴女、何てことを……、イリア、」
わざわざ確認する必要などない。母が、責めるような目で私を見ていることが分かる。
その唇は色を失い、紙のように白くなった顔を向けているに違いなかった。

いつもなら……いや、昨日までの私なら、母の望む通りのことをやってのけただろう。
だけど、私にはもう、誰も助けることなどできない。
―――――救ったはずの命を、この手で消そうとしたのだから。
震える指を握り締め、1つだけ瞬きをして、母の顔を見据える。
母はやはり、わなわなと唇を震わせていた。その顔は、悲愴に染め抜かれ、被害者以外の何者でもない。
誰もが手を差し伸べようとするその哀れな姿が、シルビアと重なる。

「お母様、私は、私を守ってもいいでしょう?」

苦しさに喘ぐような息が漏れた。
泣きたくはないと思うのに、―――――できない。
口元が歪んで、癇癪を起こす前の幼子のような顔をしていることだろう。

「……だって、お母様は、私を、愛して……っ、愛しては、いないのでしょう?」

自分の言葉に、心臓を深く抉られるようだ。切り裂かれた胸の中心から血が噴き出して、目に映る全てのものを赤く濡らしていく。その証拠に、目を瞠り、私を食い入るように見つめている母の顔がぼやけて、ゆらゆらと揺れた。
時間が戻った後、母は、私を「愛していない」とは言っていない。
それはもう、失われた過去のことだ。
だけど、もう、聞かなくとも分かる。
私はその事実を、知ってしまったのだから。母が覚えていなくても、私は忘れることなどできない。

そうであるなら、私は私自身を守りぬかなければ。

母の心境を想えば、このまま何もなかったことにして、口を噤むべきだというのは分かっている。
シルビアのお茶に薬物を混ぜていたことだって、胸の内に閉まったまま、なかったことにするのが一番いいのだ。
そんなことをすれば、私は妹から茶葉を盗み出したただの盗人になるけれど。盗みを働いたことを母に叱責されて思わず襲い掛かってしまったと話せば、全員が納得することだろう。
自死しようとした母を止めようとしたのだという事実よりも、ずっと真実味がある。
それに、今回の件を丸く治めるにはそうするしかないと知っていた。
父から、どのような沙汰が下されるか分からないが、もしかしたら母が何か口添えしてくれて、それほど大事にはならないかもしれない。

だけど、それはあくまでも私の願望で。
母が実際にどういう行動をとるのか分からない。
このまま、淑女としての仮面をかぶり続けて、父と一緒になって私を断罪する可能性だってある。

だって母は、私を殴りつけた父を、ただ静観していたのだから。
拳を振り上げた父を止めることも、声を発することさえなかった。

「お母様が、私を、守ってくれないのならば……、私が、私を守らなければ……っ、」

絨毯にぽつぽつと小さな水溜りを作っているのが、腕から落ちた血液なのか、それとも痛む頬を滑り落ちていく涙なのか判断できない。だけど、色の濃い絨毯に、黒く染み込んでいくそれは、間違いなく私のものだった。
幾つもの人生で、清廉さとは無縁のところにいた。
だからもしかしたら、この涙さえ黒く濁っているのかもしれない。

「……イリア、お前は一体何を言っているんだ」

黙り込んでしまった母に代わり、父が、珍しく困惑しているような声で言う。

「……お父様、」
「……何だ」
「お父様は、考えたことがありますか? ご自分が、誰かを苦しめているかもしれないと」
「何?」
「お父様は、お母様が、何に、苦しんでいるのか、ご存知のはずです」
「……一体、何を言っている……?」

聞こえているはずなのに、あえて、意味が分からない振りをしているのか。
険を含んだ目で睨みつけられて、一瞬、言葉に詰まる。

「イリア、やめてちょうだい」

そのとき、母の泣き出しそうな声が響いた。

「貴女は、何も知らないじゃない……!」

そうだ。母は、己が侍女に預けた手紙を私が読んだことを知らない。
当然、そうだろう。私が母の手紙を読んだのは、彼女が亡くなった後なのだから。
自害しようとした母は当たり前のように「姫様」と口にしていたけれど、そんなことにすら気付かないほど、錯乱していたのか。
だけど、この状況ではもはや、そんなことも些事なのだろう。
全員の視線が、頼りなく震える母の元へと集中する。胸の前で両手を組んだその姿が、シルビアに似ていた。
母とシルビアには、血の繋がりがない。
だけど、共に過ごした時間の長さがそうさせるのか、仕草や表情がとても似ている。
そう感じて、また、視界が滲んでいった。
些細な仕草に、はっきりと愛情を感じる。血の繋がりなどなくとも家族になれると、思い知らされるようだった。

「マージ」

呼びかければ、部屋の隅から「は、はい」と明らかに動揺している声が返ってくる。

「お母様から、預かっているものがあるわね?」

マージの顔を見れば、大きく息を呑んで、胸元を押さえた。
母の「手紙」は、いつもそこに隠していたのかもしれない。

「マージ」

急かすように名を呼べば、彼女は素早く母へと視線を移した。口を噤んでいても、それが答えであると示している。
母は少し呆けたような表情で私を見ていた。
なぜ、知っているのかと思っているのだろう。
これは多分、母とマージの2人だけの間で交わされた盟約であるはずだった。
だけど思えば、マージは事情を知らなかったにしろ、2人がこのことを秘匿してしまったからこそ、あの悲劇が起こったのかもしれない。

―――――悲劇。そうだ、あれはまさしく悲劇だった。

今回は、悲劇を回避することができたと言えるかもしれない。
母の命を救い、私もまた、生き抜くことができたのだから。
けれど、次回も同じようにいくとは限らなかった。
何度も重ねてきた人生に、法則があるのなら―――――。
今回のような出来事では、母か、もしくは私やシルビアが、命を落としていてもおかしくなかったと思う。

「お父様、お母様はマージに手紙を預けているのです。そこに全て書かれていますわ」
「……本当か?」

今度は父に厳しい目を向けられて、母の腹心であるだろう侍女は見た目に分かるほど、震えていた。
母が自ら命を絶ったとき、私を庇うような発言をしてくれた彼女だけれど、それはきっと母からの手紙が頭にあったからだ。もしかしたら、その内容全部は知りえなくとも、一部なら、知っていたのかもしれない。
シルビアは、母の言葉通り『正真正銘のお姫様』で、異国の王女の血を引いている王族なのだ。
だからこそ、あれほどシルビアに尽くしていたのだとすれば……何となく、マージの行動原理も理解できる。
それに、そうでなければ、あれほど簡単に、私の侍女を辞めた理由を見つけられない。

もしも、心情的にただ私よりもシルビアの方が可愛いと思っていたなら。
その気持ちを優先させて、マージ自らが、どうしてもあの子を教えたいと母に乞うていたのなら。

形振り構わず、只管に努力するしかなかった「幼い頃の私」が、あまりに救われないではないか。

「……イリア! 一体何だというの! 一体、何の権利があって、そんなことを言うの!!」

ベッドの上で、声を張り上げた母。怒鳴るこなど滅多にない人だから、喉が裂けたのか、語尾が濁って掠れた。

「―――――権利? だって、私は、『貴女』の娘でしょう?」

だけど、お母様は私を助けてくれないのでしょう? と、言いたくて、だけど言葉にならない。

「それとも、私は、お母様の娘では、ないと、そう言うおつもりですか、」

もう、駄目かもしれないと、そんな気がして。
悲しみで人は死んだりしないと知っているけれど、これほどに苦しいのであれば、もしかしたら呼吸が止まるのではないかと考えたりする。
瞼を閉じれば、次から次に、涙が零れ落ちていった。

「私は、貴女の娘です。そして、お父様……、貴女の娘でもあります。それなのに―――――、」

大きく息を吸い込めば、喉の奥が痛む。
しゃくりあげながら、叫んだ。

「どうして……! どうして、愛してくれないの―――――!!」








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