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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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17

ばちん、と何かが千切れる音がした。
それはまさしく、何かをはさみで切断するような音だったと思う。
咄嗟に音の発生源を探そうとするけれど、視界を塞いでいる黒い羽根が暗闇を呼び、何も見えない。
目を閉じているのか、開いているのかも分からなかった。
叫び声を上げそうになったけれど、優しい声に制される。歌っているような、囁いているような声だ。

「あの子は私の大事な大事なお姫様なのよ、イリア」

もしくは、諭すような威厳のある声でもあった。
母の声だと、わざわざ確認するまでもなく分かる。
あのとき、私は鏡越しに母の顔を見ていたはずで、彼女もまた私の顔を見ていたはずだ。
けれど、その表情をはっきりと思い出すことができない。
笑っていた? 憂いを帯びていた? それとも、いつもと同じく慈愛に満ちた顔をしていただろうか。

「おかあさま」

今度は、幼子のように心許ない声が聞こえた。思わず手を伸ばして抱き上げたくなるような切なくて悲しい声だ。
真っ黒に沈む闇の中に伸びる小さな手。
何かを探すように、あるいは何かに別れを告げるように、右へ左へと動いている。もがいているように見えるのは気のせいに違いないが、溺れていると感じたのはあながち間違いではないだろう。
誰かが、その手を掴んでくれることを祈った。
私にできることはそれくらいしかないから。

可哀想なあの子の小さな手を、誰か掴んであげて。

「―――――毒薬ではないわ」

何? 今、何て言ったの? よく聞こえない。
拳で机を殴りつけるような、ガン、ガン、という音が響く。
耳を塞いでしまいたい衝動にかられるけれど、それが、己の内側から聞こえていることに気付いた。
規則正しく響くその音に合わせて、体が震えている。心臓の拍動が響いているのだと、分かった。
このままでは心臓が潰れてしまう。そう思うのに、引き攣れるような痛みに成す術もなく耐えるしかない。
はくはくと喘ぐように唇を動かせば、ごくりと唾液を嚥下する音が響いた。

「だから、死んだりしない。貴女が心配しているのはそういうことでしょう?」

鏡台へ歩み寄る母の後ろ姿が見える。
はっと大きく息を呑んだ音が糸くずの1つも落ちていない絨毯に吸い込まれていった。
鏡に映るのは、母と、その背中を見つめる己の姿だ。その揺れる眼差しには覚えがある。不安そうで寂しそうで、悲しい。自分の顔だというのに、他人のそれを見ている気分だった。
私はこの光景を見たことがある。
あのとき私は鏡越しに母の顔を見ていた。似ているようで、似ていない。だけど、どうしようもなく似ている。そんな気がして。
だから見落としたに違いない。
引き出しをほんの少しだけ引っ張って、指先が入るほどの細い隙間から「何か」取り出したのを。
同じ場面を二度見ているからこそ、その些細な仕草がどれほど重要な意味を示すのかが分かる。
先ほどから強く脈打っている心臓が、一層大きな音をたてた。
ぐらぐらと揺れ続けていた視界が静寂を取り戻し、絨毯を踏み締めている足裏の感覚が戻る。
吐き出した息が、確かに空気を震わせて、自分が今ここに存在していることを実感した。

―――――時間が、戻った。

何か証拠があってそう思うわけではないし、長い夢を見ていたとも考えられるが、決してそうではないと理解できる。だって私は、この感覚を何度も経験してきたのだから。
瞬きを繰り返す度に、己の肉体に五感が宿る。それはまさしく、赤ん坊が母親の胎内から取り出されたときと同じ感覚かもしれなかった。覚えているはずもないのに、そう思う。
風もないのに、皮膚が空気に触れたことが分かった。ぼやけていた視界がはっきりと陰影を刻み、水面から顔を出したその瞬間のように、ふっと聴覚が戻る。

「学院に通い始めてから、あの子は元気になった。そう、前よりもずっと、元気に」

聞き覚えのあるセリフだ。それも当然である。「前」に1度、聞いているのだから。
髪型も服装も、立ち姿すら忘れることができず、この目に焼きついて離れない。傾いた夕日がその役目を終えようとしていたまさにそのとき、彼女は己の首を掻き切った。
その、永遠に失ってしまったはずの人が今、目の前に居る。手が届くほどの距離に立っていた。
1度目の私はこのとき考え事をしていて、禍事への予兆を見逃したのだ。
既に正気を失い、私の顔をぼんやりと見つめている母の右腕が僅かに強張る。ぴくりと震えた肩が、それを証明していた。
それは恐らく、右手に握り締めた「何か」を振り上げる前の予備動作だったのだろう。
今ならそれがよく分かるし、だからこそ、ほんの一瞬でも躊躇うことは許されない。
その「何か」は夕暮れの薄闇にひっそりと浮かぶ、白い月に似ていた。ゆらりと震えるように光を反射し、夜を切り裂く。

「おかあさま」

暗闇の中で聞いた幼い声が、母を呼んだ。
幻聴なのか、それとも己が発した言葉なのか判断はつかなかった。

「だけど駄目なのよ、それでは。それでは、駄目な子なの。そうなっては、いけないのよ」

その言葉が合図だったような気がする。
金縛りが解けるように、硬直していた体が自由になった。
ほとんど体当たりするように母の右腕を掴む。元々華奢だったけれど、そこには弾力がなく、骨をそのまま掴んでいるかのような感触だった。
いつの間に、こんなに痩せていたのか。
すぐ傍でうめき声をあげたのは私か、母か。
とにかく、母が右手で己の首を掻き切るのを防ぐことには成功した。きっと、私がそんなことをするとは思いもしなかったのだろう。案外あっさりとその腕を拘束することができたのだ。

―――――あれほど、凄惨な死を遂げたというのに。

本当は、これほど容易に防ぐことができた。
「……っ、お母様、」
思わずその名を口にしたけれど、何を言葉にすればいいか分からない。
抱え込んだ細い体ともつれ合うようにして絨毯の上に倒れ込んだ。投げ出された母の右手がナイフを落とす。絨毯の上に転がったそれを腕で払い、母の手が触れない所まで遠ざけた。
そして、母の体に乗り上げるようにして、彼女を拘束する。
確かにほんの少しは抵抗されたのだけれど、暴れるほどではなく、やがて母の背中が脱力したのが分かった。その体を強く強く抱きしめながら、嗚咽を零しそうになって唇を噛み締める。

こんなにあっけなく、こんなに何事もなく、こんなに簡単に、止められたのに。
あのとき、私の母は死んでしまったのだ。

「どうして……っ、どうしてなの……?」

震える喉が上手く空気を吸い込めずに、結局しゃくりあげてしまう。
子供みたいな、幼稚な泣き方だ。こんな風に泣きたくはないのに、抑えることができない。
「どうして、」死んだりしたのかと、問いただしそうになる。
今ここに居る母は、生きて、呼吸をしているというのに。

「貴女が、それを言うの?」

先ほど自害を試みた人間とは思えないほど冷静な声が、私に問いかける。
思わず両手を緩めれば、母が私の下で身を捩り「……貴女が……、それを言うの……、」とうわ言のように繰り返した。
頬と頬が触れ合うほどの至近距離で見つめ合う。

「貴女がシルビアをこの家から出したのよ」
「……な、に?」

一体、何を言っているのかと問おうとして失敗する。言葉が上手く吐き出せなかった。

「貴女がそうなるように仕向けたんじゃない。貴女がシルビアのためだと熱弁を奮った日のことを忘れたことはないわ。「あの」旦那様だって感銘を受けていたもの。他の誰にも心を動かされたりしないはずなのに、貴女がそれほど言うのならと、シルビアが学院に通うことを了承した。だけど、貴女は知っていたのよ。旦那様を、どうすれば意のままに操られるのか。
……そう、貴女は誘導したの。旦那様を。そうでしょう?」

私の「どうして、死んだりしたのか」という問いに対する答えを母は、持っていない。
当然だ。彼女は、死んだりしていないのだから。
それは、良い事だ。―――――良い事のはずなのに、拭い去ることのできない不安に喉元を塞がれているような心地になる。

何度も何度も繰り返してきた人生の中で、思い通りにできたことなんて、ほとんどない。
何かを望めば望むほど道は逸れ、折れ曲がり、落下していく。そして軌道修正することなど叶わなくなっていくのだ。
けれど私は今、母を助けるという望みを果たし、己の望むとおりに「過去」を修正することができた。
初めて、何かをやり遂げたと言えるかもしれない。

「貴女は本当に、上手くやったわ」

その言葉だけを切り取れば、褒められていると勘違いしそうになるけれど。
新緑の瞳に浮かんでいるのは、非難の色だ。
私は、また、何かを間違ったのではないだろうか。

「旦那様は……シルビアのことを愛しているの。いいえ、シルビアの母君を。姫様を……。だからいつだって、あの方の望むとおりになさるのよ」

けれど、1つ瞬きをして開かれたその瞳は、陶酔しているような色を浮かべていると、思った。
父が異国の姫君を愛するように、この母もまた、主君である姫君に心酔しているのだ。
そもそもその方の為に故郷を捨てる羽目になったというのに、母はもしかしたら、未だに姫君の侍女であるかもしれない。

「シルビアが学院に通いたいと言ったのです、お母様。だから私は、」
「いいえ、いいえ、違うわ。だってあの子は諦めていたもの。この屋敷から出ることを」

私の顔を見上げる碧の目に、暗い影が差す。
光の滲んだ瞳が朝露を浴びた新緑のようだと、母の友人がそう褒めそやしていたのを聞いたことがあった。
母はいわゆる「社交界の華」ではなかったけれど、そう呼ばれる人の横に立っていても劣るということはなかったと思う。特に秀でていたわけではない。だけど、特別な人なのだ。
その人の瞳が、暗く淀んで、濁っていく。

―――――私、今まで、自分がもう死んでいるような気がしていたの。

いつかの人生で聞いた妹の言葉を思い出した。
翳りを帯びた眼差しで、今にも泣き出しそうな顔をして呟いた。その姿を覚えている。
脆弱なために、何もさせてもらえず、できることと言えば日課の散歩ぐらいで。誰かとお喋りに興じることさえいい顔をされなかったと。
皆が望む通りに「生きてきた」けれど、呼吸すること以外は何1つ許されなかったのだと儚く笑ったその姿が鮮明に呼び起こされた。

「……知っていたのですか? シルビアが、そんな風に思っていると。全てを諦めて、生きているのだと……それを知っていながら、閉じ込めていたのですか?」

言葉を吐き出すたびに気道が狭まり、息苦しくなっていった。喉が絞まっていくような感覚に襲われる。
母は背中を床につけたまま私の顔を見上げ、子供ように無垢な瞳のまま心底不思議そうに顔を傾ける。

「だってそれが一番安全でしょう?」

あの子を守るにはそれしかないでしょう? と秘め事でも口にするかのように囁いた。
「私は誓ったの。あの子を守り抜くと。我が子よりも大事にしてみせると、殿下に約束したのよ」
もはや返事をすることもできずに、どこか狂気じみている母を見つめ続ける。そんな私の心情などお構いなく、彼女は微笑さえ浮かべて、だってあの子は正真正銘お姫様なのだからと告げた。

「……それなのに、紅茶に薬を混ぜたのですか?」
「だってそうするしかないじゃない。あの子をこの屋敷に留め置くには」
「では……、シルビアを外に出さないようにするために……?」

たったそれだけの為に、妹はあんなものを飲まされていたというのか。

「シルビアは元々、表に出してはならない子だったのよ。体が弱いというのは事実だけれど、いい口実でもあったの」
「お母様、だけど、シルビアは……元気になりたいって……、健康な人が羨ましいって……、」

そう言っていたんです。という言葉まで続かなかった。視界がぼやけて、声が出なくなる。
生と死の狭間を生きているような妹。病に冒されて、命を落としてしまったのはいつのことだっただろうか。死の間際、たった一度だけ見舞いに行った私に、枯れ枝のようにやせ細ったあの子が、小さく呟いた。
『お姉さまが、羨ましい。私、もっと元気だったら良かった』
返事はしなかったし、あの子もそんなものは期待していなかったかもしれない。ただの独り言だったはずだ。それなのになぜ、こんなにもはっきりと記憶に残っているのだろう。

「だけど、私はあの子を愛しているの。とても、とても、大切に想っているの」
「……大切?」
「そうよ。あの子はずっと、私の可愛いお姫様なの。この世でたった1人の大事な大事な娘よ。だから、ごめんなさい、イリア」

ああ、待って。その続きは聞きたくない。
干からびた唇が、乾いた呼気を吐き出す。自分が言葉を発したかどうか、それとも声にならなかったのかどうかすら分からなかったけれど、母の細い指が私の頬を優しく撫で上げた。
子供の頃、欲しくてたまらなかった温もりが今ここにあるというのに。
心臓の奥の方に、砂のつぶてを投げつけられているかのようだ。鈍く痛んで、どうしようもない。

「い、言わないで、お母様。お願いよ」
「だから私は、貴女のことを―――――」

咄嗟に、その柔らかな唇を手の平で覆った。それでも、くぐもった声が言葉を紡ごうと抵抗してくる。
だから一層、強い力で、その人の顔を押さえつけた。
信じていたものが全て、なくなっていく。

「言わないで、お母様。言わないで、言わないで、い、いわないで―――――」

私のことを愛していない、なんて、嘘でも言わないで。
ただの1度も愛せなかったなんて。
本当はこの世界の誰にも愛されていなかったなんて、そんなことは知りたくない。
いいえ、本当はもうとっくに分かっていたけれど、それでも知らない振りをしていたかったのだ。

「私の、お母様。私の、私だけの、お母様」

そうだ。本当は、私だけの母であるはずだった。
シルビアがこの世に生まれたその日その瞬間までは。

「一度でいい、一度でいいから、嘘をついて。私を、愛していると……っ、言って、」

手の平に感じる母の吐息とうめき声。それを聞いていたけれど、その場から動くことも両手を離すこともできない。ただ、封じなければと思っただけだ。
私を拒絶するその声が、世界の終わりを告げる合図のように聞こえたから。

「お母様、お母様、私を、愛してる―――――?」

大きく見開かれた緑色の目に、くしゃりと泣き崩れた子供の顔が見える。
灰色の髪に、褪せた落ち葉に似た瞳。ひどく見覚えのあるその顔。泣き続けるその姿が可哀想で、悲しくて、胸が痛む。

「―――――お嬢様!!!!」


だから、誰かあの子を助けて。

この絶望から、誰か、




















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