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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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33/40

16

いつかの人生で、父の書斎から盗み出した一冊の小説。
それは、父とシルビアの母が題材になっていると思しき物語だった。
あの本の登場人物はさほど多くない。
隣国のお姫様と、彼女の護衛に選ばれた騎士。
―――――そして、お姫様が母国から連れて来た侍女。
当然、三人だけで成立する物語ではないが、私の記憶に強烈な印象を残したのは彼らだけである。
けれど、主役の2人が記憶に残るのは当然のこととして、脇役であり名前も出てこないような侍女のことを忘れることができないのは不思議なことでもあった。
その容姿さえ語られることのなかった、凡庸な侍女である。
物語の中で彼女が成し遂げたことはそう多くも無い。そもそも彼女がどのような役割を担っていたのかもよく分からないのだ。
ただはっきりしているのは、姫君が自ら選んで自国から連れ出した人間だということだけだ。

『あの侍女さんは、可哀想だったけれど……元気でやっているかしらね』

遠くに視線を投げたままそう呟いたのは、この物語の作者である。
作者から聞きだした小説についての真実は、おおかた自分の予想通りだった。そこに書き出されている騎士が父で、隣国の姫君がシルビアの母。本当は「隣国」ではなく、もっと遠い国だったようだけれど。
ともかく彼らは、許されざる恋に身も心も全て捧げたのだ。
それは運命的で、悲劇的であり、感動的でもあった。
そう。だから、彼らの恋愛が物語として成立するのだろう。読者は彼らに夢を見ることができる。
本の中の彼らは紆余曲折を経たものの、結ばれて、永遠を誓う。その先にはきっと幸福しか待っていないだろうと思わせるような結末だった。

――――けれど、物語とは違い、現実世界で父と姫君が結ばれることはなかった。
姫君は、母国に帰ったのだから。

『そもそも母国で起こった内乱から逃げ出してきたわけだから、それがうまく収まったら国に帰るとこは初めから決まっていたの。彼女はただの少女だったけれど、紛れもない王族で、産まれたその瞬間から王家の血を引く者としての責務を負ってる。それからは決して逃れることができない。国に戻れば王族としての公務が待ってる』

騎士と姫君は身分の差故に結ばれることはなかった。端的に言えばそうなのだけれど、事態はきっともっと複雑だったのだろう。
『だけど、それは仕方ないことだしね』と、作者は息を落とす。
問題はその後に起こった出来事なのだと。

『国へ戻ることになったお姫様は、自分の愛した男が他の女と結ばれることを許さなかったのよ』

鼻を鳴らして嘲笑うように吐き捨てた女性は、不審なほどに彼らのことをよく知っていた。そんな私の心情を察したのか、物書きには物書きのための、社交場のようなものがあると言っていたのを覚えている。そこで様々な情報を得るのだと。
本当にそんな場所があるのか知らないし、もしかしたらでまかせなのかもしれないとも思う。
ただの噂話や他人から得た情報を元に書いたにしては、やけに詳細だ。いっそのこと元関係者だと名乗ってくれたほうがすっきりする。
けれど、身元を明かしたくないらしい彼女の意思を尊重することにした。重要なのは彼女が何者なのかではなく、彼女の書き出した物語が一体何を意味するのかということなのだから。

『お姫様はね、こう考えたの。愛する騎士様を、名前も顔も知らないような女に奪われるくらいなら……いっそのこと自分の身代わりと結婚させたほうがいいってね』

彼女は饒舌に語った。これはあくまでも想像の話で、決して真実ではないのだと免責を打って。
けれど、姫君の身代わりとして騎士に嫁いだ女性は、他にも役目を負っていたのかもしれないと続ける。
もしかしたら、そのもう1つの役目のほうが重要だったのかもしれないと。

『監視だったのよ、きっと』

それは、話しの流れから既に想像していた答えだった。
私自身、伊達に貴族の令嬢として生きてきたわけではない。彼らの置かれた立場がどれほどに難しいものであったのか、また、その周囲に居た人間がどのような思惑で動いていたのか理解できないわけではなかったのだ。
小説に書き出されることのなかった姫君と騎士の、真の行く末は、幸福とはほど遠い場所にあった。
ここで耳を伏せてしまえば、夢見たとおりの結末で終えることができる。真実の愛には身分など関係ないのだと大声で叫ぶことだってできただろう。
だけど、現実はいつだってそう甘くはない。

『騎士が道を違えることのないように監視する人間が必要だったのよ。それは多分、お姫様自身が望んだことではないでしょうけれど。彼らの事情をよく知る人間は、騎士が、間違っても国を越えることがないようにしたのね』
『……国を越える?』
『姫君と出奔するために、もしくは姫君を浚うために、彼が国を越えることだって有り得るでしょう? だってそれほどの恋だったのだから』

何もかもを捨ててもいいと思えるほどの、そんな想いを抱いてしまった人間は何をしでかすか分からない。だからこそ、楔が必要だったのだろうと、彼女は言った。
つまり、父が簡単に身動きできないようにするための「何か」が必要だったのだろう。
己の身代わりとして別の女性を差し出すという、姫君の身勝手極まりない願いが叶ったのもそういう理由からだった。
けれどそれは父と姫君の二人にとっても悪い話ではなかったはずだ。
身代わりに選ばれた女性が姫君と縁のある人間であれば、その女性を通して、秘密裏に互いの近況を知ることができる。

そんな風に姫君が自分の身代わりとして騎士に与えた一人の女性。
それこそが姫君の侍女であり、―――――私の母だったのだ。

姫君を愛してしまった騎士の監視人として、たった一人異国の地に残された母。もう二度と故郷の土は踏めないだろうといい含まれての結婚だったようだ。政略結婚という名に相応しく、責任と義務だけを負わされたかわいそうな人。政治的な戦略の駒となってしまったその人は、生涯を姫君と騎士に捧げることとなった。
だけどもしも、話しがそこまでで終わっていたなら。
母にも微かな希望が生まれたかもしれない。
実際、私は今の今まで、父と母は相思相愛だと思っていたくらいだ。
初めは貴族同士によくある政略による結婚だったとしても、長年一緒に過ごす間に、親愛という情が生まれたのだと信じて疑わなかった。それほどに、彼らは仲睦ましい夫婦を演じきっていたのだと言える。
誰もが羨むような、仲の良い夫婦を。
父は母を慈しみ、母は父を敬愛する。恋に始まった関係ではないけれど、愛に終わる2人だと、思い込んでいた。

*

薄い墨を塗りたくったようなどんよりとした暗い空に、鐘の音が響き渡る。
その場に居た、幾人かの人間が従者に持たせていた傘を避けて顔を上げた。音階があるわけでもないのに、目を細めて感じ入っているようだ。
けれど私は、低く持っていた傘をいっそう下げて、顔を伏せる。
彼らのように感慨にふけるようなことはできなかった。

「鎮魂の音ね」

誰かがそっと呟く。
広大な伯爵家の庭の隅に運び出されたのは黒い棺だった。装飾を施した特別な棺を用意してもらうこともできただろうに、父はそうしなかったようだ。
艶のある棺の上を滑るように鐘の音が鳴り続ける。
けれどそれは当然、母のために鳴らした鐘ではない。毎日同じ時間に鳴っている鐘であり、金銭的な問題から時計を持つことのできない人のために鳴らしているものである。
普段は聞き流している音なのに、今日だけは、やけに耳についた。
優しい音だと思っていたそれが、ガラスを叩きつけるような音に聞こえる。
カンカンと音が響くたびに、何度も割れて粉々に砕かれるガラスの様子が目に浮かぶようだった。
尖った破片があちこちに突き刺さっているようだ。腕にも足にも、顔にも。だから私の目には、両手が赤く染まって見えるのだろう。

「……お姉さま」

地面に落ちる雨粒が足元の泥を跳ね上げる。つま先が汚れていくのを一心に眺めていれば、視界に影が落ちた。
顔を上げれば、陽射しもないのに輝いて見える銀色の髪が視界に入り込む。
従者が傾けた傘の下で、妹はじっと私を見つめていた。
私たちの前には、母の納められた棺がある。既にふたは閉ざされ、その上に母の愛した薔薇が飾られていた。その上にも容赦なく雨粒が降り注いでは地面に落ちていく。
その向こう側には父が居て、弔問客の対応をしていた。
公には病による急死となっているので、訪れる人達もそれを信じているようだ。そもそもそれを疑う理由もない。他人による母の評価はつまり、面倒事に巻き込まれて誰かに害されるような人間でもなければ、自ら死を選ぶような人間でもないのだ。
あくまでも静かな葬儀を望んだ父のために限られた人間だけが顔を出している。けれどこれぞ母の人望というのか、少ないとは言えない人数が集まった。入れ替わり立ち替わり父の前に立ち、憐れみと慰めの言葉を掛けている。
雨音に混じった囁き声が耳を掠めたけれど、内容は聞き取れない。すぐ近くに居るというのに不思議なことだと首を傾げつつ、いつの間にか鐘の音が止んでいることに気付く。
けれど多分、そんなことを気にしているのは私だけだ。
朝から小雨が降り続けているので視界がけぶり、白く霞んだ景色のせいで、どこか遠くの出来事のように思える。

「本当なの……? お姉さま」

真っ直ぐに私を見つめるその紫眼を覆う銀の睫に水滴が乗っていた。
つい先ほどまで泣いていたのだろう。今は、目尻を赤く滲ませるだけで、何とか堪えようとしているのが分かる。
はっきりと私を責め立てる眼差しをして、「本当なの?」ともう一度口にした。
普段は、いつまでもその余韻が残るような愛らしい声をしているのに、今日は少し印象が違う。
乾いたような、何か足りないような……、もしもその声に温度があるのなら、きっと冷たいのだろうと思わせた。青褪めた唇が、まさしくそれを証明している。

「私の部屋から、お母様が煎じてくれた茶葉を持ち出したの?」

未だに夢の中で彷徨っているような心地だというのに、シルビアの言葉はきちんと理解できた。
決して覚めることのない悪夢の中に居て、妹の声だけは、現実のものだと認識できる。

「お姉さまは、そんなこと……しないわよね?」

この屋敷ではもはや隠し事すらできないのかと嘆息しそうになった。
父が話したのか、もしくはあの場に居合わせた侍女か侍従が口を滑らせたのか。使用人が、明らかに口外すべきではない一大事をぺらぺらと喋るのは決して許されることではないが、相手がシルビアであればその限りではない。
なぜなら、この家の最優先事項はシルビアだからだ。
きっと良かれと思って、誰かが妹に話したのだろう。
貴女の姉は、盗人なのだと。

「―――――どうして?」

不安げに揺らぐ目で私の顔を見つめているシルビアに問う。
どうして、と。
まさか問い返されるとは思わなかったのだろう。呆気に取られたような顔をした妹は「……え?」と言ったまま固まった。
行き場を失った妹の指が宙を彷徨う。

「どうして、そう思うの? 私がお茶を盗んでいないって。どうして、私を信じられるの?」

誰から聞いたか分からないけれど、その人の言うとおりかもしれないわよ。と続ければ、弾かれたように目を見開いたシルビアがくしゃりとその相貌を歪める。
一流の職人が丹精込めて作り出したような美しい顔。その顔は、彼女の母親にひどく似ている。

「だって、お姉さまはそんなことしないわ。絶対に、絶対に、そんなことしたりしない。お姉さまが、お母様に何かしたかもしれないって、皆、皆、そう言うけど、」

最後は声にならずに潰れて雨音の中に消えた。
やはり、父はともかくとして屋敷中の人間が、私を疑っているのだ。
自室からの軟禁が解かれたのも、母の葬儀が行われる今日一日だけであるし、明日からどうなるのかも分からない。父とは、母の部屋の前で対面したきりで、それ以降顔も見ていなかった。
てっきり家令か、もしくは他の誰かに、母が死んだときの詳細を聞かれると思っていたのに。それすらなかった。
もう既に何らかの結論が出ているのかもしれないと思う。

「お姉さまは、本当は、優しい人だって知ってるもの……っ」

華奢な体躯のシルビアを守る傘は他の人が持つものよりも大きく見える。
そのせいか、シルビアの控えめな泣き声に気付いた人間はあまり多くなかった。目敏い父は愛娘の異変に気付いているが、弔問客を対応している最中なのでこちらに来ることはできない。
ただ、私に鋭い眼差しを向けてくるだけだ。
しかしここは葬儀の場であるから、悲しむシルビアの姿に過剰な反応を示すのはおかしなことである。母の死を嘆き悲しんでいるようなその様子は、むしろ自然なことだと言っていい。
それなのに、シルビアの前に立っているのが「私」だというだけで、父は警戒心を抱くようだ。
私だって、父の娘であることには変わりないのに。
彼の頭の中ではきっと、辛らつな姉にひどいことを言われている妹、という構図が出来上がっているのだろう。
一体いつからこうなってしまったのか。
いや、もしかしたら、初めからこうだったのかもしれない。

私たちは、生まれたそのときから、寄り添って生きることが許されない姉妹だった。

「―――――どうした?」

いつからそこに居たのか、シルビアを覗き込むような体勢で立っているのはソレイルだ。傘を差すこともなく、傍に侍従を置いているわけでもない。少しでもシルビアとの距離を詰めるためなのかもしれないと、寄り添うように立つ2人を見て思う。傘を差していた侍従が気を利かせて、僅かにソレイルの方へ傘を傾けたから彼らは肩が触れるほど近くなる。
先ほどまで弔問客に混じって父と話しをしていたはずの彼がここにいるということは、父から何か言われたのだろう。シルビアの傍にいてほしいと、頼まれたのかもしれない。
こんなときだというのに、母の葬儀だと、分かっているのに。
ソレイルの存在は、私の心臓を緩く締め付ける。

「……イリア?」

名前を呼ばれたけれど、下がってしまった視線を元に戻すことができなかった。
今日、今このときだけは2人の姿を見ていたくなかったのだ。
シルビアを庇うように少しだけ前に出て私を見つめているその視線を受け流すだけの気力がない。

母の死を、悲しみたい。
母の死を、悼み、嘆きたいのに。
そうできない自分がいる。そして、そんな自分を持て余しているからこそ、彼らの前で平静を装う自信がなかった。

『ごめんね、イリア』

唇から血を零しながら、それでも私に謝罪の言葉を述べながら絶命した母。
その声が何度も甦る。
人身御供同然にこの国に嫁いだ母だけれど、貴族の責務を果たすべく父の子を産んだ。そこには当然、選択肢などない。彼女に課せられた義務の1つだったのだろう。
それは貴族に嫁いだ女性なら誰でも果たさなければならない仕事でもある。
敬愛する姫君の身代わりとして父に尽くし、子までなした母の心情は、他の誰にも図りえない。
あの悠然たる笑みの下に、全ての感情をしまいこんでいたのだと簡単に推察できる。かつてカラスが言った通り、全てを諦めた人間に残されたのは笑うことだけなのだと、私にも理解できた。
事実、彼女の残した手紙には短く、こう記されていたのだ。

『子供を身籠ったときの不安と動揺を、どう表現していいのか分からない。喜ぶべきだと分かっているのに、心は既に疲弊していた。けれど、産まないわけにはいかなかったのだ』

生まれ故郷を捨てざるを得なかった母のその孤独や不安が、どうしようもなく理解できる。現実を受け入れるのに精一杯な状況の中で、更に妊娠したとなれば、追い詰められたような心境になるのも当然だ。
私がただの貴族令嬢であればきっと分からなかっただろう。この国で生まれ育ち、家族も傍にいる。故郷を捨てざるを得ない状況に立たされたこともなく、順調にいけば、初恋の男性に嫁ぐことができたはずなのだから。
だけど、何度も同じ時間を繰り返して。
他の誰にも本音を打ち明けることもできずに、助けを求めたはずの手は何も掴めず、呼吸をすることさえできなくなりそうな辛い現実に打ちのめされてきたからこそ。
だから、母がその身に血を分けた子供を宿したときの気持ちが、よく分かる。
純粋に喜びだけを抱くには、現実が、あまりにも過酷で。

『生まれてきた赤ん坊の顔を見て、喜びよりも安堵の方が勝った。けれど、それで良かったのだと思う。私は私なりに、現実を受け止める覚悟を決めたのだから』

母はそう語っている。そして、この子を守って、夫を支えて生きていこうと誓ったのだと。
けれど、運命はどうしようもなく残酷だった。

母の手紙には、小説の作者でさえ知ることのできなかった事実がしたためられていたのだ。
それは多分、母でなくとも受け入れ難い現実だったと思う。
彼女にとってはまさしく青天の霹靂と言ったところだったろう。何せ、表向きには父との決別を誓ったはずの姫君が、再びこの国に足を踏み入れたのだから。
今度は亡命などではない。ただ父に会うためだけに、国を越えてきた。
その後に起こった出来事を想像すると、必然的に己の過去を思い出す。
ソレイルの子供を身籠ったことや、シルビアが妊娠したと告げられたときのこと、産み落とした子供を抱くことができずに息を引き取った瞬間のことや、そういった様々な出来事を。

つまり、姫君がその身に父の子を宿したのだ。
シルビアという至宝を。

「私が盗んだのよ、シルビア。私が貴女から盗んだの」
「……どうしてっ、」

「だって、貴女だって、盗んだじゃない」

嗚咽を漏らしたのは、多分、私だ。
だけど泣いているのはシルビアの方で。私は何もしていないし、お姉さまだってそんなことしない、と言い続ける。

「全部、全部、貴女が盗んでいった」
「いいえっ、お姉さま、私は何も……っ、何も盗んだりしていないわ……!」

たった数ヶ月違いで生まれた私の妹。その誕生を、父がどれだけ喜んだのか想像するまでもない。
現在の献身ぶりからしても、それが手に取るように分かる。妻の子ではないだけに、盛大に祝うことはできなかっただろう。だけどもしかしたら、屋敷の中では違ったのかもしれない。

『市井の女性が身籠ったことにして、姫様はひっそりと旦那様の子を産んだ。けれど、旦那様は決してシルビアの存在を隠すことなどなかったし、その両腕に抱き上げて慈しんでいた。それを見守る姫様の顔も、この世の幸福を全てそこに集めたのではないかと思えるほどに満ち足りた様子で笑う彼らの姿も、よく覚えている』

真っ白な便箋に並ぶ美しい文字が、少しだけ歪んでいた。
母は、父に寄り添う姫君と、その2人が大切に抱く小さな赤ん坊をすぐ傍で見ていたのだ。
その腕にはもしかしたら、生まれたばかりの私が居たのかもしれない。

「シルビア、貴女が、私から全部、何もかも……っ、奪っていったの。盗んだの。そして、これからも……私から全部奪うのよ……!」

長女である私が、初めから外に出されることが決まっていたのは、病弱なシルビアのためだった。
家を継ぐのはシルビアの夫となる男性で、もしもシルビアに何かあった場合は父の弟が家督を譲り受けることになっている。けれど、それが全て建前であることにも気付いていた。
父はただ単に、シルビアを手元に置いておきたかっただけだ。シルビアをこの屋敷に留め置くために、私をどこかへ嫁がせることにしたのだろう。
それは例えばシルビアが今、学院で誰かに見初められたとしても状況が変わるわけではない。
相手の男性が婿としてこの家に入り、家督を継ぐだけだ。
父と母の間に生まれ、貴族の子女として育ち、何不自由なく育ってきたけれど。
そんな風に、誰もが羨むような生活を送ってきたに違いないけれど、本当は、何も持っていなかった。

「イリア……、一体、どうしたんだ……!」

ソレイルの指が伸びる。私の腕を掴もうと、傘を持つ侍従を押し退けてこちらに向かってきた。

「触らないで!!」

そんな手で、触らないで。
そんな美しい手で、母の血を浴びたこの体に触れないで。

「私に、触らないで……!!」

身を翻して、2人から距離をとる。
右手から滑り落ちた傘が地面に転がって、境界線を引くように私とソレイルを隔てた。
僅かに勢いを増した雨の中、ソレイルは未だに私の方へ歩み寄ろうとしている。
けれど、その背後から伸びてきた細い腕がそれを許さない。
涙に濡れた顔でソレイルを制したのは、妹だ。彼が私に近づくのを止めようとしている。
「お兄様、」
地面を打ち付ける雨音の中でも、そう呟いたシルビアの声がはっきりと聞こえた。頼りなくて、甘く、ふわりと纏わりつくような声だ。誰もがきっと、振り返る。
泥に足を取られてよろめいた妹の気配に誰よりも早く気付いたのはやはりソレイルで。
片手で妹を抱きとめる彼の横顔を見つめるしかない。

その手が、私を抱きしめる為にあるわけではないと知っている。
そして、その手が、私を守るためにあるわけではないこともよく分かっていた。
その手はいつか、穢れを知らずに育った私の美しい妹を選ぶのだ。
『この先、ずっと仲良くしていこう』と、いつかのときに約束してくれたその手が、離れていくのを、止める術はないのだから。

「私は、私は、一体、どうすればよかったの……っ、どんな風に生きれば、何をすれば、良かったの……、何で、誰も、傍に居てくれないの……?」

空が一瞬、白く染まって視界がぶれる。
数秒遅れて雷鳴が鳴り響いた。雨足が強くなり、ずぶぬれの棺が視界の隅に映り込む。
もう苦しむことなどないはずの母が、大声で泣き叫んでいるようだった。

おおらかな笑みで、あらゆる感情を飲み込んで生きてきたはずの母は、最期の最期に本音を吐き出した。

『ごめんね、イリア』

『……私、一度も、貴女を、』

苦しくて苦しくて、どうしようもなくて、吐き出してしまわなければ目を閉じることもできないと言っているように。私の顔を一心に見つめて、鉛でも吐き出すかのように咳き込んだ。


『……私、一度も、貴女を愛せなかった―――――』

だから私は、母が息を引き取るその瞬間まで目を離すことができなかったのだ。
もしかしたら、その言葉を訂正してくれるのではないかと、期待してしまったから。最期に一つだけ大きく息を吸い込んだ母が「冗談よ」と笑ってくれるかもしれないと思ったから。
本当はとても愛しているのだと、最期くらいはそう口にしてくれるかもしれないと。
だけど母は、そのまま呼吸を止めた。

「本当は、最初から、何も持ってなかったのに。それでも、全てを持っていると思い込んで、愛されているんだって信じ続けなければいけなかった私の気持ちが、分かる?」
「お姉さま、」
「愛されていないと知っていたのに、愛されているはずだって、そう、言い聞かせて生きてきた……、私の気持ちが、貴女に分かる……?」

両腕で自分の体を抱きしめる。
自分以外に、私を抱きしめてくれる人間はいない。
ソレイルに縋りついたままの格好で私の顔を見つめているシルビアが、いっそう顔を歪めて、わなわなと唇を震わせている。
だけど、その子は、私の婚約者の背に隠れていた。

「―――――イリア!!」

弔問客から離れて、怒鳴り声を上げた父の声が聞こえる。妹を泣かせていると、そう思っているのだろう。
そしてそれは間違いではない。

だけど、私だって、泣いているのに。

足早にこちらへ向かってくる父と、それを追いかけるように走るアルに顔を向けたそのとき、再び空が真っ白に染まった。
地面が震えるほどの轟音が鳴り響く。
空が割れてしまったのかと思えるほどの音に顔を上げれば、ひらりと黒い羽根が落ちてきた。

瞬きもできずに、ひらひらと踊るように舞うその羽根を目で追う。


「……カラス、っ」

その名を呼んだ途端に、いくつもの羽根が落ちてきて、視界を真っ黒に染めていく。
そうだ、それでいい。もう、こんな世界終わってしまえば。

「ねぇ、カラス……っ、どこに、いるの」

閉ざされた視界の向こう側に、声が聞こえる。


『複雑に絡み合って解くこともできそうもない糸を真っ直ぐに伸ばすには、はさみで切って、結びなおすしかないんだよ』











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