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婚約者は、私の妹に恋をする 作者:はなぶさ

これが、本当の最後なら。

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カツカツと何度か響く乾いた音に、反応を示したのはアルだった。
扉がノックされるよりも前に誰かの気配を感じていたのだろう。
どうするのか、と問われるように見据えられて頷くしかない。誰か分からないが、部屋の中に私が居ると知っていて尋ねてきたのだろうから。
けれど、アルはしばらくその場から動かなかった。
侍女の居ない今、扉を開けるのは彼しかいない。
何か言いたげに歪められた唇は小さな吐息を吐き出して、「続きは後ほど」と声を潜める。
扉の外に声が漏れないように気遣ったのだろう。
そして、ぱたりと本を閉じて私の手にそっと返してきた。
「いいですね?」と念を押す彼に返事をすることができない。その代わり、扉に視線を走らせて客人を招き入れるように促す。
一瞬、視線を尖らせたアルだったけれど、何も言わずに指示に従った。

「お待ちください」と扉の向こうに声を掛ける彼の背中を見送る。

恐らく、この件についての話をすることはもうないだろうと分かっていた。
たった一度だけ勇気を振り絞るなら、この瞬間だったと言える。だけど私は、そうしなかった。
誰かの手を借りるなら、それはきっとアルなのだろう。カラスという絶対的な存在を失ってしまった今、心の底から頼りにできる人間と言えば、それはこの護衛だけなのだ。
だからこそ、大切にしなければならないと知っている。
ぐらぐらと傾く心が、今にも転がりだしてアルの足元に落ちようとしているのを寸でで食い止めた。

「―――――お姉さま……」

思考の波を彷徨う私を、呼び戻したのは愛らしい妹の声だ。
扉を開けたアルの向こう側からおずおずと顔を出す彼女の頬は僅かに赤く染まっている。
熱があるだろうことがすぐに分かった。
ふわふわと頼りなく歩くシルビアは室内に入ると大きく息を吐き出した。
自分の部屋から、私の部屋に来るまでの短い距離で呼吸が上がってしまったのだ。

「シルビア、寝ていなくちゃダメでしょう?」

声を掛けながら立ち上がろうとすれば、「お姉さまこそ、浴室で溺れてしまったんだって……」と言葉を濁したシルビアがちらりとアルを見上げた。
そしてはっとしたように口を噤んだ。
この場でそんな話をしていいものかと逡巡しているようだ。浴室で溺れたのは私の単なる失態であるから、発言する機会を違えば不利益を被ることになる。
こういう部分だけ見れば、この子もきちんと成長しているのだと思えた。
「アルは知っているから大丈夫よ」と私が笑えば、シルビアもほっと息を吐くように笑みを零す。
壊れそうに儚いその顔に、何だか胸が迫る。

本当に私のことを心配しているのだ。
シルビアはとても優しい。体調不良を押して、姉を見舞うほどには。

「あの、これ良かったら……」

私のベッドに辿り着く前にぐらりと体を傾けたシルビアを、アルが支える。
僅かに頬を染めて「ごめんなさい」と俯く妹は、身内の贔屓目なしに愛らしく庇護欲をそそった。
そんな彼女を導くように手を引く護衛の姿は、ごくごく自然で何の違和感もない。
だけど、ただ何となく「違う」と感じて首を傾げる。
この二人ではない、と何かがそう訴えかけてくるのだ。この組み合わせは違うのではないかと。
それは多分、シルビアの隣に居るのがソレイルではないからだろう。
そしてそんなことを思った自分に驚き、思わず詰めていた息を吐き出す。
静けさを取り戻した室内に響いた呼吸音に、自分の吐き出した息だというのにびくりと肩を竦ませた。
苦しいような気がするのは気のせいではない。
「お姉さま、大丈夫?」
いつの間にか手の届く距離まで近づいていた妹が私の手を取った。
その優しい仕草に眩暈さえ覚える。どこまでも臆病な私は、その手を握り返すこともできない。
「大丈夫よ、心配いらないわ」
首を振りながら答えるけれど、自分の声だというのに他人のものみたいに聞こえる。
感情の伴わない声だと思った。
だけど、シルビアは気にした様子もなくふわりと笑みを浮かべる。

「……これ、お母さまが私に煎じてくれたの」

そっと差し出された小瓶を、宝物でも差し出すみたいにもったいぶって私の手に握らせた。
ガラスの瓶に申し訳程度に詰められた茶色の葉っぱ。
「あまり……美味しくないの」
ふふ、といたずらっ子のように笑みを落として「お母さまには内緒よ」と唇に人差し指を立てる。
「体を温める効果があるんですって」と、その効能を説明しながら私の腕を優しくなぞった。
指先で触れるか触れないか、羽でなぞるみたいにそっと。

「シルビア?」

己の指先に視線を落としていた妹がはっと顔を上げる。
「ご、ごめんなさい。何だか寒そうだったから」と弾かれるようにして手を離した。
あまりにも突然に温もりを失ってしまい、ほとんど意識せずその指を追う。
何の打算もなく差し出された優しさを失いたくなかったのかもしれない。
僅かに目を瞠ったシルビアは何の疑いもなく、手を握り返してくれた。

この手が私から全てを奪うのだと知っている。
だけどそれと同時に、かつて、同じ手が私の命を救ってくれたことを覚えている。

―――――それだけ?

カラスが笑っているような気がした。
たったそれだけで、全てを許すのかと。

*
*

翌日、学院の廊下でソレイルと出くわしたのは、何かの予兆だったのだろうか。

「……たまには、一緒に食べないか」

硬い表情を少しも崩すことなく誘われても、周囲の目があるから断ることはできない。
彼は侯爵家の嫡男であるから、婚約者と言えど「否や」はないのだ。
二人きりであるなら彼に恥をかかせることはないが、何せここは学院の廊下である。
偶々通りかかった複数の生徒が、私の言葉に聞き耳をたてていた。
そして何より。ソレイルの少し後ろに立っている男が、じっと私を見ているから、迂闊なことはできなかったのだ。
いつもソレイルと行動を共にしている友人ではない。珍しいこともあると、すれ違いざまに顔を向けたのがいけなかった。
偶々私を見ていたらしいソレイルと目が合ってしまったのだ。
いつもであれば視線を下げて、彼に見つからないように息を潜めているところなのに、今日はなぜか彼を見てしまった。
そしてそんな私に気付いたのはソレイルだけではなかった。

「……彼女が噂の婚約者かい?」

人好きのする笑みを浮かべて一歩前に出てきたのは、サイオンだ。
まるで初対面のような振りをして、あざとく顔を斜めに傾いでいる。
その色の濃い瞳にたくさんの光を取り込んで、興味津々とでも言わんばかりに私たち二人の顔を見比べた。
第三者の目には、私とサイオンの間でどんな会話が交わされたのかなど分からない。ましてや、私たちが既に知り合いであることなど、誰が分かるだろう。
ここで初めて会ったのなら私は貴族の子女なら誰でもするように、笑顔を貼り付けて挨拶をしなければならない。それがどれ程に苦痛でも。
軽く足を折れば、誰にも分からないほどに眉を上げたサイオンが面白そうに口元を歪める。
笑い出そうとしてそれを堪えているような表情だった。

「はじめまして。わたくしは、イリア=イル=マチスと申します。以後お見知りおきを」

侯爵家嫡男であるソレイルの婚約者という立場からは、初対面の人間にあまり下手に出るのは相応しくない。先に名乗ることで下位ということを示しているが、それ以上に遜る必要はないのだ。
ソレイルの家名を侮られないように最新の注意を払う。
たったこれだけのことで、今後の私自身の立ち位置が変わってくる。
サイオンが他国の高位貴族だろうということは既に察しがついているので、特に気をつけたつもりだ。
一方、ソレイルは黙って私のすることを見守っているだけで、サイオンの「婚約者か」という問いに答えることもなく、婚約者だと名乗らなかった私に言葉に補足することもなかった。
婚約者として紹介するつもりはないということだろう。
それとも周知の事実であるから、わざわざここで説明しなくてもいいと思っているのか。

「はじめまして、お嬢さん。僕の名前はサイオン=トピアーシュと言います」

にこりと笑ったその顔に悪意はないが、『お嬢さん』とは無粋な物言いである。
見下していると言ってもいい。
それは壮年の男性が年若い少女に対する言葉遣いで、それはつまり年の近い男女で交わされる挨拶ではないのだ。これが夜会であれば、舐められていると考えるべき事象だった。
けれど、彼は国外の人間である。
まだ言葉の遣い方に不慣れなのかもしれない。……そう考えたほうがいいだろう。
この場でそのことについて触れたわけではないが、それは彼自身が明かした事実だ。
こういう場合、私はどういう態度をとるのが正解なのだろうか。

けれどそのとき、突き刺さるような視線が向けられていることに気付く。

「……ソレイル様?」

思わず呟いてしまってから、はっと息を呑んだ。
サイオンの向こう側からこちらを見ていたソレイルも、きっと私と同じような顔をしている。
互いに驚いているのが何だか滑稽だが、私はきっと、彼の視線に気付いてはならなかったのだ。
サイオンが何事かと振り仰いだけれど、ソレイルは既に平静を取り戻していて、相変わらず感情の読めない顔で首を振った。
その薄氷のような瞳には何も浮かんでいない。
まあ、いいか。とサイオンは軽やかに笑ってから「じゃぁ、行こうか」と自分も同席するつもりなのだろう。先立って歩き出した。
取り残された私とソレイルを、周囲の人間が隠れることもなくじっと見つめている。
何とも心地の悪い視線にさらされながら、並び立とうとするソレイルを見上げた。
すると、やはりこちらを見ていた様子のソレイルが何も言わずにただ視線をすっと逸らす。サイオンを追うような視線に促されるように歩き出したけれど、本当は、着いていくべきなのか迷いもあった。
食事を共にしようと提案してくれたソレイルには、返事さえしていない。

ほんの数歩だけ前を歩く彼の背を見つめる。
彼は、私の返事を待ったりしないのだ。

『ゆっくりでいいから、言ってごらん?』

優しい眼差しで、囁くような声で、妹にソレイルがそう言っていた。それを確かに聞いていたけれど、それがいつのことだったか思い出せない。茶会のときだったかもしれないし、それ以外のときだったかもしれない。けれど、それは多分重要ではなかった。
何か言いたげにして頬を染めるシルビアと、それを優しい眼差しで見つめるソレイル。
妹の控えめな態度がどうしようもなく好ましいのだと、そう言っているようだった。
そんな彼らの視界から外れた場所で、だけど、決して遠くはない距離に居た私はただ息を潜めていた。
二人の邪魔をしてはいけないのだと、そのときにはもう知っていたのだ。

婚約者として引き合わされたその日、庭先で私が追いつくのを待っていたソレイル。
決して急かすようなことはせず、ただ待ってくれていた彼の残像が瞼の裏に甦る。
やっと追いついたときに、そっと目元を緩ませた彼はもう、どこにもいない。

「そういえば、君の姿をあまり見かけたことがないのだけれど、普段はどこで昼食を?」

4人掛けのテーブルを陣取って、私とソレイルは向かい合って座る。サイオンはソレイルの隣だ。
この並びが正しいのかどうか分からない。シルビアだったらどこに座るのだろうと詮無いことを考える。

「……食堂以外で昼食をとるような場所があるのかな?」

分かっているくせにそんな意地の悪い質問をしたサイオンは、心底不思議そうな顔をしている。
これほどまでにあっさりと周囲を欺く人間が、ソレイルの友人なのか。
それは頼もしいことであり、恐ろしいことである気もする。

「いつもは中庭で……」

答えながら曖昧な笑みを浮かべた。察しのいい人間であれば、ここでこの話題は打ち切るはずなのだが、空気を呼んでいるのかそうでないのかサイオンは、「誰かご友人と一緒なのかな?」と話を続ける。
知っているはずのことをわざわざ聞くことに、意味はあるのだろうか。
彼の目的も何も分からないまま、問われるままに答えを返す。
「いいえ、いつもは一人ですわ」
大したことではないのだと、そんなつもりで言ったのに、

「―――――1人なのか?」

反応を示したのはソレイルだった。
「え、ええ、そうです」自分でも分かるほどに面食らっている。両目が乾くほどに瞼を開いた。
ソレイルが私に興味を示しているようだったから。体温が僅かに上昇する。たったこれだけのことで動揺している自分が可笑しかった。
そんな私をサイオンが食い入るように見つめていることも知っていた。
だけど、取り繕うこともできないほどに心が浮き立ってどうしようもない。
馬鹿みたいだと思うのに、自然と笑みが零れた。

「……それなら、時間が合うときは一緒に食べるようにしよう」

ざわざわと話し声の響く食堂に、ソレイルの声がぽつりと落ちる。
聞き間違いかと首を傾げそうになってから、二度は言ってくれないだろうと思い直した。だから、ただじっとソレイルの顔を見るに留まる。
言い間違いだと訂正されるのではないかと思ったのだ。
けれど彼は、その瞳に私の顔を映すだけで他には何も言わなかった。まるで、返事を待っているかのようなそのに、少しだけ唾を飲み込む。
何かとんでもない要求をされたかのように、あるいは、何かの取引を持ちかけられたかのように、背中がぴんと張り詰めた。
そんな雰囲気を、忍ぶつもりもない笑い声で一瞬にして壊したのはサイオンだ。

「君たちは婚約者だというのに、何だか変だね」

そんなに緊張しているなんて変だよ、と続ける。そして、堪え切れなかったようにまた笑った。
「まるで他人みたいだ」
その声だけが笑みを含まずに、淡々と事実だけを告げる。
そして、その言葉を否定することもできずに、思わず肯きそうになった。
私たちの距離感というのは、出会ったその日からちっとも狭まっていないのだろう。
彼の小さな背中を追いかけていたあの日、いつか隣に並んで同じ景色を眺めるのだと信じて疑わなかった。
だけど、現実はそんな甘いものではなく。
同じ方向に顔を向けたこともなければ、同じ景色を見ることも叶わなかった。
彼が、自分以外の女性を見つめる日がくるなんてことを、どうして予想できようか。

「お前は黙っていろ、サイオン」

ちらりと隣に視線を移したソレイルが冷たい声で言い放つ。びくりと肩を揺らしたのは私だけだった。
サイオンは特に気にすることもなく「はいはい」と両手を広げて、降参した振りをする。
友人同士の何でもない会話なのだろう。
慣れていないのは、私だけだ。
「……イリア」
答えを促されるように名を呼ばれれば、「そう、ですわね」と肯くしかない。
あくまでも、「時間が合えば」ではあるが昼食を共にすることに異論はないのだ。
それこそが正しい婚約者同士の姿だと思う。そこに、妹がいなければ。

「じゃあ、シルビアちゃんも誘わなきゃねぇ」

にこにこと笑みを浮かべながら私たちの間に割り込んできたサイオンには邪気など見えない。
……見えないように、装っている。
私とソレイルの間に向かって投げられたようなサイオンの問いかけが宙を彷徨っている気がした。
受け取るのはきっと、ソレイルだろう。
私だって、ここで否を唱えるのが得策ではないことくらい分かっている。
もしも私が、シルビアにとっての「良い姉」であるなら、サイオンの提案を受け入れるべきなのだ。
サイオンの視線を全身に受けながら、それでも何も言えずに居る私を見かねたのかソレイルが小さく息を吐く。そして、「ああ、そうだな」と、実に何でもないことのように受け入れた。
そんな彼の声を他人事のように聞いている私は、周囲の人間にどう映っているのだろうか。
ふと視線を上げた先に、両目を眇めるサイオンがいる。
微笑んでいるように見えるし、何かを見極めようとしているかのようにも見える。
それは社交界ではよく目にする表情だった。
だからこそ、私もただ微笑むだけに留まる。

「……ところでサイオン、少しいいか」

実にさり気無く話題の向きを変えたのはソレイルだ。
僅かに声を落とし、隣のサイオンにぼそぼそと話しかけている。それでも時々、笑みを浮かべるような瞬間もあってさほど深刻な話をしているわけではないようだった。
かろうじて聞こえる単語から推察するに、恐らく騎士科の内情についてだろう。
腹の探りあいをしているかのような昼食でも、彼らが軽口を叩きながら話し合うのは素直に好感が持てる。
爵位の高い二人だからこそ、学院内においても同じ科の人間を従える立場にあるのだ。

注文しなくても席に着けば運ばれてくる食事に目を奪われる。
貴族のための豪勢な食事だ。思えば、ソレイルと食堂で食事を共にするのは初めてのことだった。
何度も重ねてきた人生で、繰り返してきた時間で、食事に誘われたのも次の約束をしたのも何もかも初めてのできごとだったのだ。
背中が震えたのは、きっと悪寒だろう。
こうして、ただ普通に過ごしている間も誰かに追いかけられているような焦燥に駆られる。
幾つもの真っ黒な手が私の背中を掴もうと蠢いている気がした。

逃げて、逃げて、逃げて、それでも逃れられない運命がある。

「……ソレイル様?」

図ったように妹が現れるのも、大きな流れの一つの小さな出来事で。
私はやっぱり、それを見ているしかない。
はっと顔を上げたソレイルの顔がそれまでとは違う色を浮かべる。
その薄い色の瞳が一瞬だけ色を蕩けさせ、強い感情を見せた。
そうだ、いつもそうなのだ。
それを誰かに見られているとは思ってもいない。
一つ瞬きをして再び注視すれば、まるで勘違いだったかのように無感動な表情をしている。

咄嗟に彼の名を呼ぼうとして声を呑み込む。
呼びかけたところで何を言えばいいのか分からなかった。










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